編集長の辛口時評 2006年2月 から分離

CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事

2006.02.11(2019.8.21分離)

http://asyura2.com/0601/senkyo19/msg/539.html
CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事

(2006年2月16日)【特別読物】
 CIA裏工作ファイル発見! ポダムと呼ばれた「正力松太郎」

 週刊新潮の記事の筆者は、以下の拙文を読んでから、研究したのであろう。


『放送メディアの歴史と理論』木村愛二
第三章 戦後の放送メディアの歴史をめぐる主要な問題点
●「武器」として建設された日本のテレヴィ放送網

 正力は戦後の一九四五(昭二〇)年一二月一二日、A級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに収容された。二年後に釈放されたが、以後も四年間は公職追放の身であった。公職追放が解除されるとすぐにテレヴィ構想を発表して動き、一九五二(昭二七)年には初の民間テレヴィ放送免許の獲得に成功した。

 正力を中心とする日本テレビ放送網の設立は、NHKと並立する唯一の民間テレヴィ放送の出発だった。その際、注目すべきことには、読売の正力が中心であるにもかかわらず、朝日・毎日・読売の三大新聞の日本テレビ放送網への出資比率は同じであった。このパターンは、ラディオの独占的発足の繰り返しである。大手新聞各社は、この日本テレビ放送網の出発の際には協力して、テレヴィ業界進出の足場を築いた。以後、複雑な経過を経て、逐次、それぞれの大手新聞系列によるテレヴィ・キー局と全国ネットワークの体制が確立される。当局と結託した大手新聞による放送支配は、さらに大規模に全国展開されたのである。

 さらには、正力のテレヴィ構想がアメリカの意向をうけたものであったことは、誰一人として否定しえない歴史的事実である。巣鴨プリズンからの釈放と公職追放解除の裏には、かなり早くからの密約関係があったと考えられる。

 拙著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』では、正力とCIAの関係に関する『ニューヨークタイムズ』(一九七六年四月二日、四四頁)の記事に関する騒動を紹介した。以下は、その抜粋である。

 記事の見出しは、「CIAは一九五〇年代からロッキード汚職を知っていた」である。児玉、岸の名前に続いて、以下のようになっていた。

 《元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵(複数)を受けた人物として挙げられるのは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第二次岸内閣の原子力委員長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである》

 この記事では、松太郎がマツテロになっていたりして、あまり重視はされていない。

 アメリカの古文書館にはかなりの証拠資料が眠っているのではないだろうか。


『週刊新潮』(2006年2月16日号、52-56頁)
【特別読物】CIA裏工作ファイル発見! ポダムと呼ばれた「正力松太郎」

早稲田大学教授 有馬哲夫

〔52頁・記事カバー図版〕讀賣新聞に君臨した「大正力」(上は戦犯時の調書)
〔53頁・記事カバー図版〕CIAに封印されていた「正力松太郎ファイル」

〔太ゴチック体のリード文〕
秋霜烈日の個性で読売新聞に君臨した昭和の傑物、正力松太郎。「プロ野球の父」にして「日本テレビの創設者」「原発の先駆者」等の顔を持つ彼の後半生には、しばしばCIAの影が囁かれた。浮かんでは消える唇気楼のような噂は真実だったのか。早大の有馬哲夫教授が米公文書館で発見したのは、正力を「ポダム」と暗号名で呼ぶCIAファイルだった。

 年度末のこの時期、ワシントンの郊外にある国立公文書館には、連日、多数の日本人研究者が訪れている。その多くが50年という長い時を経て公開されるアメリカの外交機密文書を閲覧し、未発見の文書を見つけだす目的で通ってきているのだ。

 だが、公文書館に備え付けのパソコンの検索システムを駆使して、目当てのファイルや文書を探し出しても、他の研究者の閲覧した痕跡が残っている文書、つまり、コピーした際に付く折り目のある文書がその大半である。

 しかし、筆者が咋年暮れに発見したアメリカ中央情報局(CIA)のファイルには、不思議といつも見慣れたコピーの跡が全く残っていなかった。

 おそらく、昨年秋ごろ公文書館に収蔵されたと思われるそのファイルは、誰一人、研究者の手に渡らず、片隅でひっそりと眠っていたわけだ。

 第二次大戦の日本人戦犯に関する文書を探していた際、偶然に発見したのは、「正力松太郎」(1885年~1969年〉に関する分厚いファイルである。読売新聞社社主にして、日本テレビ放送網を設立し、メディア帝国を打ち立てたばかりでなく、「プロ野球の父」「原子力発電の先駆者」と呼ばれた「大正力」その人のものだった。

 しかも機密性が高いゆえに大部分が墨塗りで公開されるケースの多いCIA文書にしては珍しく、ところどころの単語が削除されている程度で、文書は9割方原型を留めていた。

 そのため、ファイル全体を通読すれば、文脈からおおよそのことを汲み取ることが可能で、研究者の身にとっては願ってもない貴重な文書だったのだ。

 この「正力松太郎」ファイルは、総ページ数が474で、三つのフォルダに分けて保存されていた。

 同じCIAファイルとして公開されていながら、新聞記事の切抜きが数枚ファイルされていた岸信介元首相や重光葵元外相のファイルと比べても、厚みの差は比較にならない。

 しかし、驚かされたのはCIAが徹底的に正力をマークしていたと推察できる文書量だけではなかった。

 そのファイルには、正力が「ポダム」という暗号名を与えられ、さらに、「ポダム」を作戦に使うことをCIA極東支部チーフに許可する文書までが綴じられていたのである。

 その文書の一端をご紹介すると、例えば、正力の身上調査書には、「CIA部外秘」「秘」と、書かれているのみならず、「閲覧後、破棄」を意味するスタンプさえも押されている。そこには、生年月日や国籍、出身地から始まって、微に人り細を穿つような質問項目とその答えが次々と列挙されている。

 実は、これまでに正力とCIAの関係がマスコミで取り沙汰されたことが一度だけあった。

 1976年4月2日のニューヨークタイムズに掲載された記事は、「戦後の早い時期、CIAの好意を受けたのは、読売新聞社社主、正力松太郎氏である」と、報じている。

 この報道に対しては読売新聞が反発したように、CIAとの具体的な関係に言及がない上に、いつ、どこで、だれがという記事の基本的な要素が記されていなかった。さらに、証言が元CIA局員からの伝聞だったため、半ば真偽不明の情報として扱われていた。

 だが、今国発見したファイルは、CIA自身が保管していた公文書である。50年を経て、少なくともCIAが正力を利用して政界裏工作を画策していたことがようやく明らかになったわけだ。

〔見出し〕読売を救ったGHQ

 では、正力とCIAはいつからどのように結びついていたのか。

 1885年(明治18年)に富山県で生まれた正力は、東京帝大を卒業後、警視庁に勤めた。無政府主義者や共産主義者の取り締まりで名を上げたが、1923年(大正12年)、虎ノ門で起こった摂政宮(のちの昭和天皇)暗殺未遂事件の責任を取り、辞職せざるを得なくなった。

 この後、彼は政界の大物から大金を借りて、当時わずか5万部に低迷していた読売新聞を買収し、新聞事業に乗り出した。

 自ら陣頭指揮を執って、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面作りで、見る見るうちに読売新聞を毎日、朝日に次ぐ大新聞へと成長させたのである。

 その過程で、巨入軍設立を初め、「プロ野球の父」と呼ばれる功績を残したのはご存じの通りである。だが、敗戦後の1945年12月に、戦犯容疑者として巣鴨に収監。

 1947年に容疑が晴れて釈放されたものの、収監中に公職追放者に指定されてしまった。

 この措置が解かれたのは4年後だったが、その間、読売新聞社は、2度に亘って戦後最大と言われた労働争議の舞台となって揺れに揺れていた。

 会社の実権があわや労働組合幹部によって握られそうになった読売新聞を救ったのは、GHQの介入だった。GHQは万が一、労働組合側が勝利をした場合、その影響が他の企業に飛び火し、日本全体が共産主義に傾斜していくことを恐れたのである。

 この頃から、正力とアメリカの奇妙な共生関係が始まった。

 アメリカは、正力を好意的に扱い、援助を与えることによって彼のマスコミに対する大きな影響力を利用しようとした。

 日本人の赤化を何より恐れたアメリカにとって、戦前の警察官僚時代は共産主義者の取締りに血道を上げ、戦後も労組に会社を乗っ取られそうになった正力は、絶対に安心できるメディアの経営者といえた。

 一方、正力もアメリカの援助を巧みに引き出すことで新規事業の展開に野心を燃やしたのである。

〔見出し〕「ポダルトン作戦」
 〔54頁、写真キャプション〕「ポダルトン作戦」の見送りを要請した文書

 そして時代は、問題のCIA「正力ファイル」が詳細に物語る1950年代に突入する。

 当時、アメリカは日本にマイクロ波多重通信網を導入しようと試みていた。

 この通信網はテレビ放送のほかレーダー、航空管制、電話、ファクシミリに利用することができた。

 国務省の文書によれば、その目的は、親米メディアによって、日本全国に反共・親米のプロパガンダを流すこと。

 さらにもう一つ、レーダーと航空管制を増強して、ソビエトと中国に対する空と海の守りを固めることだった。この中でも、CIAが分担したのが、親米プロパガンダの流布と通信設備の敷設だとされる。

 CIAファイルを読む限り、その構想の具現者に選ばれたのが正力だった。

 すでに新聞を持つ正力にとっても、マイクロ波通信網は、日本の情報インフラ全てを手に入れることを意味し、利害は完全に一致していた。

 正力は公職追放が解除となった1951年に、アメリカの全面支援を大々的に喧伝して、財界から日本テレビの設立資金をかき集め、その翌年には、吉田茂首相や通信分野の官僚に圧力をかけて、テレビ放送免許を取得した。

 現在の「日本テレビ放送網」という社名は、この時、全国に22の直営局を展開する計画を持っていたことの名残だ。

 さらに1953年、正力は後に日本テレビ専務となる柴田秀利を窓口にして、アメリカと交渉させ、全国縦断マイクロ波通信網建設に充てるための資金、1000万ドルをアメリカ輸出入銀行からの借款によってまかなう工作をさせた。

 実は、この1000万ドルの借款こそがCIAの作戦だったことをファイルは示している。

 まず、柴田の交渉相手となった二人のアメリカ入弁護十はCIAの協力者だった。CIAファイルには、この二入が正力や柴田の動きを逐一、報告している文書が残されている。

 CIA内部でポダムと呼ばれた正力に対して1000万ドルを貸し与える計両は「ポダルトン」と命名された。奇妙な暗号名の由来は不明だが、CIAが詳細な検討を加えたことがわかる。正力の身上調査ファイルには、「現在の協力者をどういう形でコントロールできるか」というCIAらしい質問項目がある。資金や女性問

題から、果ては麻薬によるコントロールに至るまで千差万別の答えが書かれるこの欄に、正力の場合は、「テレビのベンチャーに対するアメリカの資金供与」という趣旨の回答が記載されていた。

〔見出し〕「怪文書」で作戦見直し
 〔55頁、写真キャプション〕正力氏の晴れ舞台だった天覧試合(右は日本テレビの旧社屋)

 実際、柴田が半年に亘る渡米で国防総省などから借款の推薦を得て帰国した直後、CIAは「ポダルトン作戦」を許可する文書を在日極東支部の課長(チーフ)宛てに送付しているのである.

 その日付は、1953年9月29日で、文書の一番上には、「ポダムを使った作戦の実施許可」という内容の一文が削除されずに残っていた。

 つまり、正力のマイクロ波通信網建設をCIAが極秘のうちに援助し、完成ののちは日本テレビと同線のリース契約を結んでアメリカのプロパガンダと軍事日的として使う計画だったのだ。これが、「ポダルトン」にポダムを「使う」という意味である。

 ところが、「ポダルトン作戦」は、成就する一歩手前の段階で破綻し、1000万ドルが正力の手に渡ることはなかった。

 その原因は、実施許可の下りた直後から、突然、マスコミや政界に出所不明の怪文書がばら撒かれたためだった。

 その怪文書は、「正力とアメリカの国防総省が陰謀を巡らし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている」と、書き立てていた。「近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という非難が連綿と綴られ、約ーカ月後の11月6日には、衆議院の電気通信委員会でも、怪文書が読み上げられるという大騒動へと発展してしまった。-

 防戦に回った正力は、12月7日、衆議院で参考入招致されて喚問を受け、弁明に終始せざるを得なかったが、この喚問の20日ほど前、11月17日付けのCIA文書からは、CIAが慌てて作戦の見直しを検討している様子を読み取ることができる。

 こうして正力を主入公にした「ポダルトン作戦」は失敗に終わった。

 その後、CIAは日本テレビに代わって、電電公社に通信網建設を請け負わせて、当初の目的を達したが、しかし、問題は、作戦の実施許可が出たタイミングを見計らったかのように一斉に流された怪文書の出所がどこだったのか、である。

 その絶妙の問といい、怪文書がCIAを慌てふためかせたほど正確だったことから考えても、情報は日本政府のきわめて高いレベルからリークされたものと見て間違いはないだろう。

 CIAの決定を知ることが可能で、その決定に反発する人物を当時の政治状況から推察すると、吉田茂首相しかいないと筆者は睨んでいる。

 それを裏付けるように、あるCIA文書は、ちょうど同じ時期に、吉田政権の打倒を目論んでいた政敵の鳩山一郎派に正力が与していたと分析している。

 また、別の文書は、この年、鳩山が正力に政界入りを勧め、鳩山内閣誕生の暁には国務大臣のボストを密約していたという情報を記している。

 アメリカから要求されていた再軍備に強硬に反対していた吉田は、少なくとも正力にマイクロ波通信網を任せるわけにはいかなかったのだ。

〔見出し〕暗号名「ポジャックポツト」
 〔56頁、写真キャプション〕「原子力発電」導入に傾倒

 こうして正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。

 CIAは正力に関する追跡調査を続け、ファイルは厚みを増していった。

 その接着剤となったのが原子力発電である。

 正力の衆議院参考人招致と同じ1953年12月、アイゼンハワー大統領は、「原子力を平和のために」と唱え、キャンペーンを始めていた。が、その矢先の翌年3月、アメリカの水爆実験が行われたビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びる事件が起きてしまった。

 日本では激しい反核、反米運動が巻き起こり、親米プロパガンダを担当するCIAの頭を悩ませていた。

 一方の正力は、政界出馬に意欲を燃やし、アメリカのキャンペーンに呼応するかのように、原発推進の立場を明らかにしていた。

 おそらくCIAにとって正力の存在は地獄に仏だったに違いない。

 この時、正力の尖兵として、原発導入のロビー活動を行っていたのは、1000万ドルの借款計画で活躍した柴田だったが、彼が接触していた入物は、やはりCIAのある局員で、CIAファイルにはこの局員が書いた多数の報告書が残されている。CIAは、正力が政治家となる最終目標が総理の椅子だということも早くから見抜いていた。

 1955年2月に行われた総選挙で、正力は「原子力平和利用」を訴えて、苦戦の末に当選し、同年11月、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官のポストを得た。

 CIA文書は、この時、鳩山首相が正力に防衛庁長官を打診した際、正力が、「原子力導入を手がけたいので大臣の中でも暇なポストにしてほしい」と希望した内幕まで伝えている。

 この時期から読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。

 正力の目的は、原子炉をアメリカから購入することにあったが、最終的に、CIAはその件で正力に協力することはなかった。

 日本が潜在的原爆保有国になることへの懸念が理由だが、それ以外にも、CIAが正力の政治的野望に利用されては困るという抑制も働いていた。

 そして1956年以降、正力にはポダムに替わって「ポジャックポット」という新たな暗号名が与えられることになった。

 暗号名の変更が総理の椅子を諦めたからなのかどうかは定かではない。(敬称略)