『亜空間通信』355号(2002/08/27) 阿修羅投稿を02.12再録

本勝「南京大虐殺」旗振り「ほら」吹き教授洞富雄は朝鮮戦争も南先攻論旗振り

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『亜空間通信』611号(2003/06/09)
【南京攻略「百人斬り」記事謝罪広告請求事件の第1回口頭弁論は奇しくも7月7日】

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 転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 昨晩(2002/08/26)、他のことを調べていたら、偶然、かねてから気になっていた人物、本多勝一「南京大虐殺」の旗振りとして御輿に乗っていた元早稲田大学教授、今は多分、生きていれば名誉教授かな、洞富雄の名前が出てきた。

 洞と言う名字の読みは、「ほら」だろうが、今まで一度も確かめたことはない。しかし、以下の情報を得るに至っては、一応、軽く調べざるを得ない。104で早稲田大学の代表電話番号を聞き、人事部に聞くと、名誉教授にはなっていなかった。発音は、やはり「ほら」であった。

 かくなる上は、やはり、ついに、稀代の「ほら」吹きという他はなくなった。これまた稀代の言論詐欺師、本多勝一が、天下の朝日新聞社の「調査報道」の機能を生かしたものか、この稀代の「ほら」吹き洞富雄教授を発掘して利用したのも、まさに、むべなるかな、というべきであろう。

 まずは、その最新入手情報を紹介し、その後に、私の裁判記録から、洞富雄に関する部分を、抜粋紹介する。つまりは、電網上での裁判の継続である。

http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/minami_senkouron.htm
続・不思議に思うこと 投稿者:ゴジラズワイフ  投稿日:03月29日
(朝鮮戦争の南先攻論について)
[中略]

朝鮮戦争の時に金日成は南から先に攻めてきたので反撃した(南先攻論)をいい、それに同調して(乗せられて)洞富雄氏は南先攻論の旗振り役となり、一部マスコミはそれを書き立てました。

それで長い間、一般では南先攻論が幅を効かせていました。

昭和30年代後半から40年代にかけて、軍事専門家の佐々木春隆氏が「軍事史学」等に、あの南先攻論では3日目に北朝鮮がソウルを占領するのは軍事的に不可能だと、戦法から兵站から、軍事的に南先攻論のウソを論破されました。それでも洞氏はあいかわらずに南先攻論を言いつづけ、一部メディアもそれに追従していました。

ソ連が崩壊して軍事秘密文書が解除されて、北の方から攻めたことが証明されました。敵側の文書から佐々木氏の論説の裏づけがされました。

さて不思議なことにその南先攻論のウソが決定的になったころから、洞氏はこんどは南京大虐殺20万~30万の旗振り役となりました。

ここに私はなにか非常な不自然さを感じます。

まあそんな感覚はともかくとして、残念ながら私は佐々木氏のように軍事専門家でないので、軍事的に確実に論破するだけのものは持ち合わせていませんが、[中略] 同じ時代に同じ人間が普通のやり方で殺すのにはそんなに殺せる人数に差は出ないと思います。

同じやり方どころが沖縄の米軍の武器や爆弾の使用量といえば、日本軍の比ではなく、また私は外野がくちばしを挟まないために一応沖縄軍の司令部が玉砕した6月23日までの日で計算しましたが、実際は8月15日まで戦いは続いていたので、1日あたりの死者はもっと少なくなります。 

南京の虐殺といわれている問題の期間はせいぜい1週間から1月です。

そのあいだにどうして当時の一般であろう2000人前後以上の膨大な数の人を殺せたのか、具体的に示して欲しいのです。

災害ですが、あの阪神大震災の死亡者でも6000人台、伊勢湾台風でさえ5000人台でした。 [後略]

 以上で引用終わり。

 ふむ、ふむ、そこで、うろ覚えの鍵言葉による以下の検索を行って、わが数年前の電網記事に到達した。以下、抜粋紹介する。前後関係などの詳細は、以下の電網所在で確かめられたい。

全言語のページから洞富雄 本多勝一 日本刀、据え斬りを検索しました。約5件中1 - 2件目
http://www.jca.apc.org/~altmedka/gaseneta.html
ガセネタの決定的証拠

私が訴状で主張した「文藝春秋及び花田紀凱に対する宿年の恨み」の決定的根拠

 さらに重要なのは、この被告・本多勝一の「ガセネタ」報道が、掲載当時すでに記事中の「A少尉」こと、被告・本多勝一の先輩たちの「でっち上げ戦意高揚記事」を唯一の根拠として、戦後の中国における粗雑な戦犯裁判で死刑に処せられた向井敏明少尉(当時)の未亡人と先妻の娘、次女の千恵子を深く傷付け、千恵子の家庭を崩壊に導く導火線となったという事実経過である。[中略]

 右『週刊文春』記事は、『諸君!』(89・1)に掲載された(旧姓)向井千恵子執筆の詳しい記事「『向井中尉の娘』の四十年」(甲第46号証)を、週刊誌向けに編集し直したものであるが、そこには前出の「南京事件調査研究会」の代表である洞富雄(元早稲田大学教授)との、次のような電話による会話の経過が記されていた。

「洞氏が言うには、百人斬り論争をやったのは、山本七平氏から論争を挑まれたからで、自分では百人斬りはなかったと思う、と言ってくれました。

『いろいろ書いて申しわけなかったですね。この電話でおわびできてよかった』

 と謝られ、私も予期せぬことにびっくりしました」

 洞は、[中略]『ペンの陰謀』(甲第44号証)にも長文を寄せており、そこでは「据え斬り」説に傾いていたので、右の経過を確かめるため、私自身も洞に電話をし、私が被告・本多勝一の仕事振りに疑問を抱いていると断った上で、事実関係を質した。

 すると洞は、「老齢のために記憶が確かではないが」、と前置きした上で、やはり、「戦闘中のことではなかったと考えている」という主旨の答えをした。私がさらに、「もしも据え斬りだとしても日本刀では何人も斬れない」と言う疑問を呈すると、「軍事的なことは分からないので、もしも何か記事を書くのなら送ってほしい。反省すべき点があれば反省する」と答えた。右のように千恵子に詫びたことをも事実として認め、さらには、「本多さんは千恵子さんと話し合って解決したと聞いています」と付け加えた。

 この「解決」という話は、初耳かつ非常に重大なことなので、私が、「裁判所の和解ですか」と聞くと、この問いには、「詳しくは知らない」と答えるのみであった。

 右の『週刊文春』及び『諸君!』に記事を見る限りでは、確かに、その後の千恵子の消息が、どこからも聞こえてこないのは不思議なのである。あの思い詰めた雰囲気では、そのまま収まるはずはない。もしも、右のような洞の話が本当ならば、被告・本多勝一には、その「解決」の経過を世間に明らかにする義務がある。

 さて、そこでもう一つ、どうしても確かめたいのは、前出の「南京事件調査研究会」による『週刊金曜日』「座談会」(甲第32号証の1~2)の出席者であり、長老格の藤原彰(元一橋大学教授)の「百人斬り論争」に関する見解である。

 藤原は、陸軍士官学校出身のれっきとした職業軍人として大陸侵略に従軍し、その反省の上に立って『日本軍事史』(上下)などの著作を発表している。洞とは違って、「軍事的なことは分からない」と言える立場ではない。だとすれば、戦闘中は言うに及ばず、据え斬りであっても、「百人斬り」が可能かどうかについて、見解を明らかにせずに、被告・本多勝一と同席することは許されないのである。[後略]

 以上で引用終わり。

 てなことで、はしなくもまた、私が「アカデミー業界の商売人」と呼んできた連中の化けの皮が、またしても、またしても、ぼろぼろと剥げ落ちるのである。ああ。

 と、ここまで書いてから、朝食の時間となり、やれやれと日経朝刊を広げ、いつも最初に見てしまう一面下の欄、春秋」に目をやると、「名誉」の意味が「よい評判」から「不思議なこと、奇特なこと」から転じて、「めいよう、めんよ、めんよう」とも読まれ、「面妖」の当て字ができたとある。「はて、面妖な」と思ったら、そこらじゅうにごろごろいる名誉教授なもるのは、実に「面妖不可思議」な動物なのであるから、この洞富雄、教授どまり、殿の再発見は、「面妖」にも至らぬ化け損ねの「正体見たり!」の極地だったのである。

 なお、念のために細部を確認すると、「南京大虐殺」「論争」のきっかけとなった被告・本多勝一執筆の朝日新聞連載記事(甲第35号証)の「百人斬り競争」が夕刊に掲載されたのは、上記の私の旧稿によって確かめると、「1971年11月5日」である。昭和に直すと46年である。最初に紹介した電網情報によると、昭和30年代後半から40年代にかけて、軍事専門家の佐々木春隆氏が「軍事史学」等に、あの南先攻論では3日目に北朝鮮がソウルを占領するのは軍事的に不可能だと主張していたのである。昭和46年よりも、かなり前のことになる。洞富雄は、自説に対する猛攻撃を受けている最中に、本多勝一の味方に加わったことになる。同じ穴の狢、偕老同穴のちぎり、さぞや薄汚い密約を結んでしまったのであろう。ああ、教授殿!

 以上。


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