『亜空間通信』649号(2003/08/17) 阿修羅投稿を再録

アメリカ兵が恐くて畏縮したまま萎縮症日本人の対米従属と自虐の情けない58年目

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『亜空間通信』649号(2003/08/17)
【アメリカ兵が恐くて畏縮したまま萎縮症日本人の対米従属と自虐の情けない58年目】

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 転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 本日(2003/08/17)から2日前の8.15.を「敗戦」と呼ぶべきか、「終戦」と呼ぶべきか、これだけを取っても、現在の日本人、具体的には敗戦の年の1945年から現在の2003年に至るまでの58年間の日本人は、相互に共通の言語を持たない対立集団に引き裂かれている

 この2つの単語の対立関係は、その他の諸々の「戦争」と「戦後史」の理解、または担ぐ「御輿」の違い、結果としてのまともな研究の遅れ、などなどとして顕在化している。

 たとえば、私は、昨日、以下に抜粋紹介する文章を、阿修羅・戦争38掲示板に投稿した。

---------- 引用ここから ----------
http://asyura.com/0306/war38/msg/475.html
投稿者 木村愛二 日時 2003 年 8 月 16 日 08:03:25:CjMHiEP28ibKM
8.15.午後10時「ニュース10」NHK「裁かれた法律家・BC級戦犯の手記と裁判資料発見」放映せず。

 新聞の番組表に、この日の特集の形式で載っていたから、録画しながら見たのだが、いつかな出てこない。

 終わり際に、アナウンサーが頭を軽く下げ、「後日放送」と、NHK流の実に御丁寧な御挨拶あれど、納得し難し。

 冒頭は確かに、当日の大事件ではあるが、アメリカとカナダの停電で時間を取りすぎたからか、それとも、しめたとばかりに、かねてより上層部からの不満が聞こえていた可能性のある「暗い物語」を後回しにしたものか、実に疑わしいのである。

 なお、私は、TBS制作の芸術祭賞受賞作品、元NHKの岡本愛彦監督、フランク永井主演、BC級戦犯の物語、『私は貝になりたい』を、民放草創期の輝ける一頁として、大事にしている。

 あれは、日本の「敗戦」処理問題を問い直す問題作でもあった。

 なおまた、「玉音放送」死守を誇示し、天皇制を護持し、実は、自己保持した戦犯NHKは、「敗戦」と言わず、「終戦」と言い続けている。
---------- 引用ここまで ----------

 私は、このような「戦争」と「戦後史」の理解、言論上の決定的な問題点として、最近、「恐米萎縮症」という表現を用いている。

 似非紳士、朝日新聞などは、この恐米萎縮症の典型であるが、その紙面(2003/08/17)には、実に情けない囲み記事が出現した。黒地紋に丸型ゴシックの白抜き文字が浮いている。

英首相はプードル
私はしっぽを振る

 実に下らない話だから、これ以上は無視する。小泉首相は、あらゆる場面で、「アメリカのポチ」とか「忠犬ハチ公」とか言われながら、それでも「首相」役に満足して、平気で三枚目を演じ続けるのである。衆愚政治の典型である。ああ、情けない、情けない。

 このような対米従属の「右」の対極には、「自虐史観」と軽蔑される「左」が控えている。こちらは戦後、ソ連とか中国とか朝鮮とか、いわゆる社会主義国の出現に勢いを得て、「反米愛国」などという右翼紛いの呆れ果てる看板を掲げたりした。

 要するに、古典的表現に合わせて左翼用語をも使えば、「虎の威を借る」「主体性の欠如」なのであるが、その分だけ、ソ連亡き後の凋落が激しい

 私自身は、ほんのわずかの戦前と、太平洋戦争にかんしてはすべて期間の戦中、これまでのすべての「敗戦」後を、もっぱら下から見る立場で経験した。だから、すべてを率直に見ているのであり、このような「右」と「左」の情けなさの根底に、「自尊心の欠如」「度胸のなさ」「卑怯未練」を見ている。

 私は、偶々、物心ついた頃から、一貫して、「喧嘩太郎」とか「暴れ者」の異名がつくほど、個人としての戦いを続けてきたから、日本の戦後史の「情けない」状況の根底に横たわる核心的問題点を突き詰めて考え尽くし、そこに「恐米」を見ている。「恐米」を、個体動物としての自分自身に引き付けて具体化すると、「アメリカ兵が恐いか」、否かなのである。

 本日、これも偶々、テレビ朝日『ザ・スクープ』が、「世界初証言!幻の東京原爆投下計画」を放映したようである。阿修羅戦争・38掲示板の関連の投稿があったので、実物を見なくても短時間に、おおよその内容が分かって、時間の無駄が省けた。事前に知って、ヴィデオ録画をしたとしても、早回しは目が疲れるし、ヴィデオをめくって要所要所を見るのは無理だから、放送局が言論機関としての位置を評価されたいのなら、こういう方法で、即座に内容を公開すべきなのである。

 そのような放送の文字記録部化問題は、さておき、この番組に限らず、さらには、「東京原爆投下計画」にも限らず、原爆を実際に投下したのは、大統領ではなくて、「アメリカ兵」なのである。しかも、っどうやら、彼等が、あまり反省もしていないらしいのが、「恐い」のである。およそ、何をやるか、皆目分からない相手は、一番「恐い」のである。

 そこで今回は、かねてから、わが電網宝庫の「自己紹介」に入れる予定をしていた古い文章、それも、58年前の北京での実体験を、なるべく、その当時の印象の即して記した43年前の旧文の一部を、以上のような「アメリカ兵が恐くて」萎縮している日本人に向けて、あえて公開する。

 この「物語」は、1945年8月15日の「敗戦」の直後の実録であり、わが脳裏に鮮やかな記憶として、止められているのである。これこそが、わが「原体験」なのである。私は、以後、自分自身に対して、常に、「お前はアメリカ兵が恐いのか」と、問い続けざるを得なくなったのである。

1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語
(その1)時代の始まり

 “少年A”こと、私、木村愛二は、1937年1月17日の生まれである。1945年8月15日、8歳の夏、北京の国民学校の講堂で、当時の「国民型」ラディオ受信機から聞こえる意味の全く分からない「チン」で始まる奇妙な声を聞いた。その後、「チン」というのが天皇のことであり、日本が無条件降伏したのであり、戦争に負けたので、これは敗戦であると教えられた。

 以後、しばらくの間、わが一家は、セメント工場の技師の父親が働く北支那開発公社の社宅、社員の数家族が一緒に暮らしていた中国人の富豪の宏大な高い塀を巡らせた城郭のような屋敷の中に、閉じ籠もることになった。外出は禁じられた。

 その間の非常に印象的なある日の出来事に始まる自分の戦後史を、私は、15年後、8歳から10歳の頃の子供の文章として綴り、東京大学文学部英文科のタイプ印刷の同人誌、ESPES誌上で発表した。以下は、その冒頭の部分である。

 以下の内、「顔見知りの朝鮮人の子供」を認識できた理由を注記して置くと、「重い鋲打ちの木の扉」には、手で持ち上げて外を見るることができる小さな覗き窓があったのである。

 時代の始まり

 あの日、古びた重い鋲打ちの木の扉をパラパラと叩くつぶての音が、僕にとっての敗戦の知らせであった。その小石を投げていたのが、顔見知りの朝鮮人の子供であったことは僕を悲しい静かな怒りで満たしはしたが、僕はそれを誰に向ければいいのかは知らなかった。彼等の甲高い日本語の罵声、ぼんやりと、しかしなぜか、心の中ではっきりと意味が掴めたと思えるあの奇妙な、そして僕等の喧嘩のルールに外れた言葉、その激しい響きが最初から僕をうちのめしていた。

「お前等、アメリカ兵が恐くて外に出られないんだろう」

 僕はそれまでにアメリカ兵なんて見たこともなかったけど、そう言われて、何も言い返せなかったのだ。僕の手は、手垢で黒光りした鉄の把手をカタリと落としていた。
 (その2)に続く。

 以上。


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