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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』前書き

『時代の始まり』

 “少年A”こと、私、木村愛二は、1937年1月17日の生まれである。1945年8月15日、8歳の夏、北京の国民学校の講堂で、当時の「国民型」ラディオ受信機から聞こえる意味の全く分からない「チン」で始まる奇妙な声を聞いた。その後、「チン」というのが天皇のことであり、日本が無条件降伏したのであり、戦争に負けたので、これは敗戦であると教えられた。

 以後、しばらくの間、わが一家は、セメント工場の技師の父親が働く北支那開発公社 株式会社の社宅、社員の数家族が一緒に暮らしていた中国人の富豪の宏大な高い塀を巡らせた城郭のような屋敷の中に、閉じ籠もることになった。外出は禁じられた。

 その間の非常に印象的なある日の出来事に始まる自分の戦後史を、私は、15年後、8歳から10歳の頃の子供の文章として綴り、東京大学文学部英文科のタイプ印刷の同人誌、SPES誌上で発表した。以下は、その冒頭の部分である。

 以下の内、「顔見知りの朝鮮人の子供」を認識できた理由を注記して置くと、「重い鋲打ちの木の扉」には、手で持ち上げて外を見ることができる小さな覗き窓があったのである。

時代の始まり

 あの日、古びた重い鋲打ちの木の扉をパラパラと叩くつぶての音が、僕にとっての敗戦の知らせであった。その小石を投げていたのが、顔見知りの朝鮮人の子供であったことは僕を悲しい静かな怒りで満たしはしたが、僕はそれを誰に向ければいいのかは知らなかった。彼等の甲高い日本語の罵声、ぼんやりと、しかしなぜか、心の中ではっきりと意味が掴めたと思えるあの奇妙な、そして僕等の喧嘩のルールに外れた言葉、その激しい響きが最初から僕をうちのめしていた。

「お前等、アメリカ兵が恐くて外に出られないんだろう」

 僕はそれまでにアメリカ兵なんて見たこともなかったけど、そう言われて、何も言い返せなかったのだ。僕の手は、手垢で黒光りした鉄の把手をカタリと落としていた。

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