『亜空間通信』1085号(2005/08/23) 阿修羅投稿を再録

百人斬り訴訟で東京地裁は遺族の敗訴だが朝日新聞記事と東京日日新聞記事は違う点を無視の報道

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『亜空間通信』1085号(2005/08/23)
【百人斬り訴訟で東京地裁は遺族の敗訴だが朝日新聞記事と東京日日新聞記事は違う点を無視の報道

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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 この訴訟では被告の朝日新聞社は、以下の電網(インターネット)記事を発表している。

http://www.asahi.com/national/update/0823/TKY200508230181.html
元将校遺族の請求を棄却 「百人斬り」訴訟で東京地裁

2005年08月23日13時10分

 旧日本軍の将校2人が戦時中の1937年に中国で「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、のちにこの問題を扱った書籍をめぐり、遺族が「虚偽の事実を書かれ、名誉を傷つけられた」などとして、朝日、毎日両新聞社と本多勝一・元朝日新聞記者らを相手に出版差し止めや謝罪広告の掲載、計3600万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が23日、東京地裁であった。土肥章大(どい・あきお)裁判長は請求をすべて棄却した。

 当時少尉だった将校2人の遺族が03年4月に提訴。37年当時、両少尉が中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬り競争」をしたと報じた東京日日新聞(現・毎日新聞)の記事と、本多氏が執筆し、朝日新聞社が出版した書籍「中国の旅」と「南京への道」の記述などを問題とした。

 原告側の「死者への敬愛追慕の情を侵害した」との主張について、判決は「表現行為が違法となるのは『一見して明白に虚偽』である場合」との基準を示したうえで、記事は「両少尉が記者に百人斬り競争の話をしたことがきっかけで掲載された」などと認定。「本多氏が論拠とした関係者の著述なども一概に虚偽とは言えない」などとして、書籍の記述が「一見して明白に虚偽だとはいえない」と判断した。

 原告側の「死者や遺族の名誉を棄損した」との主張についても、「死亡によって名誉などの人格権は消滅する」「記述は遺族の生活状況などについて言及していない」などとして退けた。

 〈原告側代理人の話〉 明白に虚偽だとの証明を原告に求める不当な判決。控訴して争いたい。

 〈朝日新聞社広報部の話〉 当社の主張を認めた判決と受け止めています。

 比較的に冷静で公平な報道状況なのは、以下の日経夕刊の印刷物の記事である。

日経2005.08.23.夕刊記事:
「百人斬り」報道訴訟
少尉の遺族の請求棄却
東京地裁「虚偽とまでいえず」

 第二次大戦中に旧日本軍の少尉二人が中国人の「百人斬(ぎ)り」競争をしたと報じられ、名誉を傷付けられたとして、遺族らが朝日、毎日両新聞社などと著者のジャーナリスト、本多勝一氏に損害賠償や謝罪広告掲載などを求めた訴訟の判決で、東京地裁(土肥章大裁判長)は二十三日、請求をすべて棄却した。。

 判決理由で土肥裁判長は、「少尉が競争を認める発言をしたこともうかがえ、記者の創作と見るのは困難」と指摘。百人斬り競争が史実かどうかは「見解が交錯しており、歴史的評価は定まっていない」としたが、記事の主要部分が「一見して明白に虚偽とまでは認められない」と判断した。。

 また毎日新聞に対する訴えは『除斥期間(二十年)が経過しているとして、損害賠償請求権の消滅を確認した。。

 判決によると、東京日日新聞(現毎日新聞)は一九三七年、両少尉が中国・南京に向かう前線で、切り殺した中国兵の数を競い合っているとの記事を4回にわたり掲載。二人は南京軍事裁判で死刑宣告を受け、四八年に処刑された。

 一方、本多氏は七一年、朝日新聞に百人斬りが真実だったとする記事を執筆し、朝日新聞社や柏書房(東京・文京)から出版した「中国の旅」など計三冊の著書にも同様の内容を記載した。

 訴えたのは、旧日本軍片桐部隊の向井敏明、野田毅両少尉の遺族三人。判決後、東京・霞ヶ関の司法記者クラブで記者会見した向井少尉の二女、田所千恵子さん(六四)らは「報道内容に信ぴょう性はないと確信していたので残念」と話し、控訴する意向を明らかにした。(13:00)

 他紙も一斉に報道している。

 しかし、「虚偽とは言えない」との主旨の判決であり、「百人斬り競争」を「事実」と判断したわけではないのである。

 しかも、どの報道を見ても、朝日新聞記事と、その原典であるはずの東京日日新聞記事は、違っていたという点が、完全に無視されている

 実は、この点を、元TBSの『調査情報』編集長、鈴木明が、直後に指摘していたのである。本多勝一は、中国での耳情報のみに基づいて記事を書いていたのだが、この鈴木明の批判には直接答えず、『諸君!』の記事の見出しの「まぼろし」との表現を奇貨として、「右翼」の文藝春秋が、「南京大虐殺」を否定したと誇張し、不勉強な左翼を煽ったのである。

 しかも、かなりの年月の経過の後に、本多勝一は、朝日新聞社の発行の『南京大虐殺』では、何とも麗々しく、東京日日新聞の記事の写真版まで入れて、あたかも最初から、東京日日新聞の記事を読んでいたかのように、装っているのである。

 本多勝一は、実に卑劣な奴である。それを許す朝日新聞のエセ紳士振りも、呆れたものである。

 以下は、『諸君!』一九七二年四月号の記事、『「南京大虐殺」のまぼろし』の冒頭の関係部分の抜粋である。

『諸君!』一九七二年四月号「南京大虐殺」のまぼろし

(●当該部分の原稿欠落?)

 以下は、電網(インターネット)記事である。比較検討されたい。

http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/mabolosi/
【南京大虐殺のまぼろし】

[中略]

 殺人ゲームは平時か戦時か

 ちょっと待てよ、と思った。昭和四十六年十一月五日、「朝日新聞」に掲載された本多勝一氏の「中国の旅」のうち、南京事件における「競う二人の少尉」のくだりである。原文のままを引用する。

「『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような《殺人競争》を紹介した。

 AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう──。

 二人はゲームを開始した。結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった。『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、今度は百五十人が目標だ』

 この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」

 このエピソードは、僕に直ちに洞富雄氏が書いた『南京事件』の中の一節を思い出させた。洞氏の『南京事件』は、僕が読んだ限りでは、日本でかかれた物のうち最も史実に肉薄した真摯な労作で、本多氏も朝日の連載をはじめるに当たっての推薦資料に入れている。


 この中で、大森実氏が南京を訪れた際、同地の中国人民対外文化友好協会からきいた話として、次のようなことが書かれている。孫引きだが、引用させて頂こう。

「南京入城に先立ち──どちらが先に軍刀で百人斬るか争ったのだ。郊外の湯山に着いた時、城門まであと二キロだったが、向井少尉が八十九人、野田少尉が七十八人斬っていた。上官の許しを得て湯山から競技を再開し、二人が中山陵にたどりついたとき、向井は百七人、野田は百五人。しかしこれではどちらが先に百人斬ったか証拠がないというので延長戦をやり、目標を百五十人にエスカレートした。まったくお話にならない暴虐行為だったが、日本人に大虐殺の模様をくわしく話したのは、私たちが初めてのケースだという」(『天安門炎上す』十八~十九頁)

 この二つの記事の微妙な違いは、誰にでも一見してお判りであろう。まず、大森氏が伝える話は、「南京入城に先立ち」とあるように、戦闘中の手柄争いの話である。

 しかし、本多氏の話は、平時とも戦時とも受けとれるような微妙な表現がなされている。「この区間は人口が多く」という言葉は、多分に、平時のことを類推させる表現である。いうまでもなく、平時と戦時とでは、基本的に「残虐」の受けとられ方が違う。「戦場で百人殺せば英雄だが、平時に一人殺したら死刑」というチャップリン映画のテーマではないが、この殺人がもし戦闘中のことならば、少なくとも昭和十二年当時の日本人の心情には「許される」残虐性であろうが、いかに戦時中の日本といえども、戦闘中以外の「殺人ゲーム」を許すという人はいないだろう。では何故、本多氏は敢えてこのような記事の書き方をされたのだろうか?


 本多氏はこの連載の途中、読者へのお断りとして特に一回分を割き、

「かりに、この連載が中国側の《一方的な》報告のように見えても、戦争中の中国で日本がどのように行動し、それを中国人がどう受けとめ、いま、どう感じているかを知ることが、相互理解の第一前提ではないでしょうか」

と書いている。つまり、本多氏としては、姜さんが話したことと、かつて大森氏が伝えたこととのギャップを、文章上どう表現するかで苦心されたに違いない。本多氏の文章をよく読むと、微妙に、戦闘中とも平時ともとれるような苦心のあとがみえる。つまり、姜さんの勘違いを、このような形でしか表現できなかったのであろう。この場合、もとより、姜さんの勘違いを責めることはできない。第一、姜さんは被害者の側である。ただ、同じ南京の中ですら、これほどの話のズレを生ずるとすれば、そのモトの話とは、いったいどんな物なのだろうか。「有名な話」とあるからには、当時の大新聞を見れば直ちにわかることであろう。僕は昭和十二年十二月前後の新聞をしらみつぶしに調べにかかった。

 事実が変貌する過程

 この話は、当時の「東京日日新聞」のマイクロフィルムから、直ちに発見することができた。この記事は、三回にわたって「後日譚」として掲載されており、「東日」の特ダネらしく、他紙にはいっさいみられない。これも、原文を引用させて頂く。


昭和十二年十一月三十日の記事

「(常州にて廿九日、浅海、光本、安田特派員発)常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後、早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ。一人は高山部隊向井敏明少尉(二十六)=山口県玖珂郡神代村出身=。一人は同じ部隊野田毅少尉(二十五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=。柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀『関の孫六』を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

 無錫進発後、向井少尉は鉄道線路廿六・七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、一旦二人は別れ、出発の翌朝、野田少尉は無錫を距る八キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬って先陣の名乗りを上げ、これを聞いた向井少尉は憤然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。

 その後、野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者が駅に行つたとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった。

向井少尉 この分だと、南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って刃こぼれが、たつた一つしかないぞ。

野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます。僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ」


昭和十二年十二月十三日の記事

「(紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発)南京入りまで『百人斬り競争』といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士、向井敏明、野田巌両少尉は、十日の紫金山攻略戦のどさくさに、百六対百五といふレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

 野田『おいおれは百五だが、貴様は?』向井『おれは百六だ!』・・・・・・両少尉《アハハハ》結局いつまでに、いづれが先きに百人斬ったかこれは不問、『ぢやドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうぢや』と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった。十一日昼、中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬りドロンゲーム』の顛末を語つてのち、

『知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや。おれの関の孫六が刃こぼれしたのは、一人を鉄兜もろともに唐竹割りにしたからぢや。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午後三時、友軍の珍戦術、紫金山残敵あぶり出しに、おれもあぶり出されて、弾雨の中を『えい、ままよ』と刀をかついで棒立ちになつてゐたが、一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ』

と飛来する敵弾の中で、百六の生血を吸つた関の孫六を記者に示した」

(昭和十二年十一月三十日及十二月十三日付「東京日日新聞」〈現在の毎日新聞〉から)


 もとより、今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わっていくプロセスで、いくつかの点がデフォルメされていった。第一には、戦闘中の話が平時の殺人ゲームにされていること。第二に原文にはない「上官命令」という形が加えられたこと。第三に、百人斬りが三ラウンドくり返されたように作られてしまっていること、などであろう。そして、これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中はそういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃を構えた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか? 本当にこれを「手柄」と思って一生懸命に書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。

 この記事には「浅海光本両特派員発」というクレジットがついている。この浅海とは、あるいは、毎日新聞の大記者として著名であり、また新中国の理解者として昨年『新中国入門』を書いた浅海一男氏のことではないだろうか?「諸君!」編集部のたしかめたところによると、このクレジットにある「浅海」とは、まさに浅海一男氏のことなのだが、実際これを取材したのは光本氏の方であり、しかも光本氏はすでに死亡しているとのことで、この件についてのこれ以上のことをたしかめる余裕はなかった。

 事の真相はわからないが、かつて日本人を湧かせたに違いない「武勇談」は、いつのまにか「人斬り競争」の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。


 やや皮肉めいていえば、昭和十二年に「毎日新聞」に書かれたまやかしめいた「ネタ」が、三十四年の年月と日本、中国、日本という距離を往復して「朝日新聞」に残虐の神話として登場したのである。いわば、この「百人斬り」の話によって、ある「事実」が、地域を越え、年月を経ることによって、どのように変貌してゆくかという一つのケースを、われわれは眼前に見せつけられたわけである。

[後略]

 以上。


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