論説:大江・岩波「集団自決」裁判全面勝訴判決の意義について
侵略戦争賛美・歴史歪曲の執拗な攻撃に痛打
文科省は、ただちに日本軍強制を削除した検定意見を撤回せよ!

 3月28日、大阪地裁は、原告である座間味島の梅澤元戦隊長と渡嘉敷島の赤松元戦隊長の弟が要求していた「太平洋戦争」(故家永三郎著)と「沖縄ノート」(大江健三郎著)の出版停止、謝罪広告の掲載、慰謝料の請求をいずれも棄却した。さらに梅澤元隊長の陳述書を「信憑性に疑問がある」と否定し、「集団自決」(強制集団死)に「日本軍が深く関わったこと」を認定する判決を行った。被告大江・岩波側の主張をほぼ認める全面的な勝訴判決である。63年前、渡嘉敷島で329名の住民が日本軍の強制によって「集団自決」に追い込まれたその日の判決であった。
 2007年3月文科省が「集団自決」軍強制を削除する検定意見を付けた際、梅澤元戦隊長の証言を根拠としたことから、この裁判の意義は飛躍的に高まった。「日本軍『慰安婦』」「南京大虐殺」と並んで、「集団自決」は歴史歪曲の最大のターゲットとなった。この裁判は、そのような侵略戦争賛美・歴史歪曲勢力の執拗な攻撃に痛打を与えるものである。私たちは、ここで改めて勝利判決の意義について明らかにし、さらなる闘いの構築を訴えたい。

大江・岩波側の全面勝訴判決

(1)日本軍が「深く関わった『集団自決』」と認定

 原告側は「集団自決」が起こった当日の戦隊長命令の有無にだけ論点を絞り、それが立証されてないことを理由に日本軍と戦隊長の責任を逃れようとした。判決はそのような日本軍の責任を矮小化した主張を沖縄戦の研究と証言を踏まえ明確に却けた。判決は「集団自決」について、@座間味島及び渡嘉敷島では、多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること、A沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており,日本軍から離れたり、米軍の捕虜となった住民を処刑したこと、B米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念していたこと、C手榴弾は極めて貴重な武器であり、慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され,食糧や武器の補給が困難であったこと、D沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を確認した上で、「集団自決については日本軍が深く関わったもの」と認定した。その上で「それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」としている。
 梅澤・赤松戦隊長が「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない」としながらも、「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる」とし、「本件各記述が真実であると信じるについても相当の理由があった」と認めたのである。

(2)梅澤元隊長証言、赤松元隊長手記など原告側証拠は「信憑性がない」

 判決は、梅澤・赤松元隊長の軍命を否定する証言や陳述書を、ことごとく「信憑性がない」と却けた。大江・岩波側は、「集団自決」の体験者の証言や沖縄戦研究の蓄積をもとにした準備書面や新たな証言、さらには元戦隊長側証人への反対尋問を通して、原告の主張の矛盾を暴き出してきた。裁判の過程を見れば、裁判所の判断は至極当然のものであった。裁判の中で梅澤元隊長(原告)は、「手榴弾を配ったことも、渡すことも許可していない」とし、「集団自決命令」は村の助役(宮里盛秀)の指示であったと自らの責任を回避する主張を繰り返していた。その証拠として、助役の実弟・宮村幸延さんを泥酔させて書かせた「集団自決は梅澤隊長の命令ではなく、助役の命令であった」との念書まで持ち出した。しかし、裁判の中で、この実弟は当時座間味島にいなかったことが明らかにされ、判決でも「拝信しがたい」とされた。また、助役の妹・宮平春子さんが「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と助役本人から聞かされていたとの新たな証言を行い、原告側の助役命令説を打ち砕いた。驚くべきことに梅澤元隊長は本人尋問の中で、「沖縄ノート」を初めて読んだのは「去年(2006年)」と答え、提訴時点(2005年)で読んでいなかったことも暴露された。判決の中で「戦隊長の了解なしに部下が手榴弾を交付したというのは不自然」「梅澤作成の陳述書と本人尋問の結果は、信用性に疑問がある」と判断したのは、当然のことであった。
 また判決は、赤松元隊長手記については、「自己弁護の傾向が強く・・・全面的に信用することはできない」とした。赤松側の証人である皆本(中隊長)証言についても「赤松大尉のそばに常にいたわけではないことがみとめられ、赤松大尉の言動を把握できる立場になかった」とし「手榴弾に関する陳述書の記載及びその証言には疑問を禁じ得ない」とした。
 他方で、被告側の体験者の証言については、「いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有する」と重視し、「こうした体験談の多くに共通するものとして、日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった場合には自決を促され、そのための手段として手榴弾を渡されたことを認めることができる」とした。
 
(3)援護法適用のための軍命ねつ造説を完全否定

 梅澤・赤松元隊長側は、戦隊長命令説は、「集団自決」した者の遺族が援護法の適用を受けるためにねつ造したものと主張してきた。名乗りでた元日本軍「慰安婦」たちに「金目当て」と誹謗中傷した時と全く同じ論理で、「集団自決」体験者たちを冒涜したのであった。
 しかし、沖縄の体験者の手記や証言のリアリティと重み、そして沖縄で援護法適用が問題になる以前から梅澤・赤松命令説が存在していたという事実によって、原告側の目論見を吹き飛ばした。梅澤元隊長は陳述書の中で、「母の遺したもの」(宮城晴美さんが母・初枝さんの手記を中心にまとめた著作)にある「梅沢戦隊長の自決命令はなかった」との記述を根拠として、「集団自決」の起こった3月25日夜、「自決」のための手榴弾を受け取りに行った村幹部に対し「決して自決するな」と言って手榴弾を渡さずに帰したと主張していた。しかし宮城晴美さんは、母から聞いた話として、3月25日のことについて、「今晩はお帰り下さい」と言われただけであって、「決して自決するではない」と聞いたわけではなく、「自決」に軍の関与がなかったと思われたら困ると言っていたことを法廷で証言した。そして、梅澤元隊長が自分の手記や宮村幸延さんの証言を利用して自らの責任を回避し始めた時、母・初枝さんが「梅澤命令を訂正したことで、軍の命令がなかったことになってはいけない。隊長が3月25日の夜に会ったときに直接命令を下していなくても、住民は軍からの命令だと信じたことは事実だ」と話していたことを明かした。「母の遺したもの」に「あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです」と梅澤元隊長の責任転換を断罪した。
 判決は、「母の遺したもの」や宮城晴美さんの陳述書を詳細に検討し、自からの保身のために事実をねじ曲げていたのは原告側であることを明らかにし、沖縄の人々が援護法適用のために梅澤・赤松命令説をねつ造したかのような原告側主張を完全に却けた。 

判決の大きな意義と今後の闘い

(1)第3次家永裁判を引き継いだ大江岩波裁判
 大江岩波「集団自決」訴訟は、84年提訴し97年に最高裁判決をむかえた第3次家永教科書裁判と深い関係にあり、歴史認識の深まりという点で直接引き継いだものであった。
 1982年文部省は、沖縄戦での「日本軍による住民虐殺」に検定意見を付け、教科書から削除した。県民総ぐるみでの反対運動が起こり、翌年から文部省は日本軍の住民虐殺記述を認めざるを得なくなったが、「犠牲者の最も多かった集団自決の記述を加えなければ、沖縄戦の全貌はわからない」と、新たな修正意見をつけた。家永三郎さんは、「集団自決」を「殉国死」として描くことで、日本軍の住民虐殺=日本軍の加害責任を免責しようとする文部省の新たな狙いを感じ取り、すぐに修正意見の違法性を問う第3次家永訴訟を起こした。この時点で文部省の狙いを見抜いていた学者は多くはなかったのも事実である。沖縄戦研究者である石原昌家さんは、「文部省の修正意見について、当初、何の疑問を抱くこともなかった」(「世界」2007年7月号)と告白している。提訴から97年最高裁判決まで、金城重明さんをはじめとする新たな証言の掘り起こしと沖縄戦研究者の証人尋問、沖縄出張法廷などを通して、「集団自決」が、住民の「崇高な自己犠牲の精神」の発露そしての「殉国死」ではなく、強制された死であり、言葉の本来の意味での「住民の集団自決はなかった」との認識に至った。
 しかし、97年の最高裁判決では、「集団自決」について「崇高な犠牲的精神によるものと美化するものとはあたらない」として原告家永側の主張を一定認めながらも、「集団自決を記載する場合は、県民が自発的に自殺したものとの誤解を避けることも可能」と、文部省の修正意見を合憲とした。「集団自決」は自発的な死ではないことは認定されたが、「原因はどこにあったのか」という本質的な問いへの司法判断は行われなかった。
 2005年に提訴された大江岩波裁判で訴えられたのは大江健三郎さんと岩波書店であったが、攻撃の矛先は「集団自決」での日本軍強制の事実であり、その狙いは日本軍の加害責任を免罪することにあった。それ故この裁判は、「住民を『集団自決』に追い込んだ責任はどこにあるのか」を鋭く問い返す裁判となり、第3次家永訴訟を土台にして日本軍強制の本質に迫る内容となったのである。判決の中で原告側の主張をことごとく退け、日本軍が「深く関わった」ことを認定した意義は極めて大きい。

(2)教科書検定撤回闘争と結合した裁判闘争  
 2007年3月「集団自決」軍強制を削除する文科省の検定意見が発表されて以降、大江岩波裁判の意義は飛躍的に高まった。なぜなら、文科省が軍強制を削除した根拠として、大江岩波裁判に提出した梅澤元隊長の証言を挙げたからである。昨年の「島ぐるみ」闘争と9.29沖縄県民大会の原動力となった新たな証言の数々は、そのまま大江・岩波側の重要な証拠として採用され、裁判そのものを大きく後押しした。大江岩波裁判は、教科書検定撤回闘争と一体のものとして進んだ。
 文科省は、軍強制削除の検定意見の根拠を完全に失った。4月4日、大阪地裁判決を受けて、9.29県民大会実行委員会が再始動し、「判決で検定意見の根拠が崩れた」「今が絶好の機会」との認識で一致し、検定意見撤回と「軍強制」の記述回復を求め、再び政府に要請することを確認した。社会科教科書執筆者たちも、「陳述書の信用性は完全に否定されたといっていい。これに基づき検定意見を言い渡した文科省はこれを深く反省しなければならない」と、7月にも再度の訂正申請を行う方向で調整に入った。大阪地裁判決を武器にして、再度文科省へ検定意見の撤回と軍強制記述復活を求める全国的な運動を強めることが重要になっている。

(3)裁判闘争の成果を生かし、新保守主義・国家主義との闘いを強化しよう
 梅澤・赤松側を強力に後押ししているのは、「つくる会」であり、「靖国応援団」を自称する右派グループである。その背後には、日本会議と日本会議系国会議員たちがいる。判決を傍聴にきていた藤岡信勝「つくる会」会長は、「想定していた中で最悪の判決」とコメントしたように彼らに大きな打撃を与えた。9.29県民大会の成功に続く打撃である。
 他方では、梅澤・赤松側はすぐに控訴し、「つくる会」も「沖縄問題」緊急シンポ(600名 主催者発表)を開催して巻き返しを図ろうとしている。日本会議国会議員懇談会(会長:平沼赳夫)は、文科省に圧力をかけ、新学習指導要領のあちらこちらに「愛国心」を盛り込ませ、「君が代」を「歌えるよう指導する」ことをねじ込ませた。今また、草の根右翼と連携して映画「靖国」を上映中止に追い込む運動を組織している。さらに「つくる会」は、2010年に新学習指導要領に沿った教科書を検定申請する準備として、2008年度自由社から新たな教科書の検定申請を行うことも決めた。
 福田政権の閉塞状況は、相対的に日本会議系グループを活発化させている。大江岩波裁判は、彼らに対して毅然として抗議の声を上げ大衆的な運動をつくることで、打撃を与え押し返すことができることを示した。大江岩波裁判の勝ち取った地歩をさらに固め、新保守主義・国家主義との闘いを強化していかなければならない。

(4)沖縄戦の教訓を、在日米軍再編と自衛隊基地機能強化反対の運動に生かそう
 大江岩波裁判の持つ意義は、教育・教科書問題にとどまらない。今回裁判を仕掛けた「つくる会」などの目的は、日本軍の加害責任を免罪することで、「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の重大な教訓を消し去り、日本軍の名誉回復をさせることにある。そして、在日米軍再編と一体となった自衛隊の基地機能強化と日米軍一体化を進めることである。その象徴的存在である普天間基地の辺野古への移設を進めようとしているのである。
 2月10日には、在日沖縄米軍による中学生暴行事件が起こり、それ以後もフィリピン人女性暴行事件、住居不法侵入事件、米軍車両の学校侵入事件など、沖縄では米軍犯罪が立て続けに起こり、3月23日には、米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会が開催された。「軍隊は住民を守らない」−−−沖縄戦の教訓は、絶えず現在の米軍基地と自衛隊の本質を暴き出す。沖縄戦の実相に迫り日本軍の加害責任を追及とすることを現在の米軍基地と自衛隊強化反対の闘いに結合していくことが求められている。


2008年4月7日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




[参考記事]

[大江・岩波裁判全面勝利判決]沖縄「集団自決」への日本軍の深い関わりを認定

沖縄「集団自決」軍強制の真実と沖縄の怒り

[投稿]沖縄戦と「集団自決」を明らかにする本の紹介