[投稿]裁判員制度に反対する
−−国民を盾とする司法反動への途−−


 裁判員制度の実施が閣議決定され、いよいよ来年5月から実施されることになりました。この制度については、政府の意図とは別に多くの国民や不当裁判に苦しんできた社会運動団体のなかにもさえも、裁判への国民参加の第一歩として歓迎する意見があります。言い換えれば、この賛同は、これまでの裁判の誤審・冤罪・政治判決に対する国民の不信の念がいかに強いか、という事の現われでもあります。しかし、制度の中身をよく調べると、戦後の裁判制度の改悪のみならず、ヨーロッパ啓蒙主義時代以来確認されてきた近代刑法に関する原則からの著しい逸脱が見られ、基本的人権への重大な脅威が秘められていることを強調しなければなりません。これをごく簡単にいえば、次のとおりです。@「国民の裁判への参加」は「国民の治安維持への動員」であり、A公判前整理手続きにいう「迅速な裁判」は「公正な裁判を受ける権利」を犠牲にするものであり、B裁判員の諸義務は裁判員の基本的人権への侵害と重圧であり、C新制度の「被害者参加制度」との組み合わせで裁判の「報復主義」=仇討ち思想と「重罰主義」への回帰である、等です。

裁判員制度の導入の目的−−社会秩序維持に国民の動員

 戦後、刑事訴訟法が全面的に改正されたにもかかわらず、誤審・冤罪・政治的判決が相次ぎ、国民の裁判に対する不信がひろまり深くなっています。そこで小泉内閣の時代、その対策として司法制度改革審議会が設けられ、そこでは参審制度や陪審員制度などが議論されましたが、結局、この二つの制度を足して2で割ったような、日本独特の裁判員制度が成立しました。それは、裁判に対する国民の批判の盾として国民自身を裁判に参加させ、併せて社会秩序維持に国民の動員を計ろうというところに本質があります。この目的をはっきりと述べているのが、「司法制度改革審議会意見書」(2001年6月12日)です。それは、司法改革の目的を「国民的基盤の確立」とし、「国民はこれまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治機構の一翼を担う司法の分野においても、国民が自立性と責任を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形態で参加することが期待される」と述べています。この論理はかつてJ.F.ケネディー米大統領が「国民は国家から何をしてもらうかではなく、国家に対して何が出来るか、ということが重要だ」と述べたことの焼き直しのレトリックに過ぎません。
※司法制度改革審議会意見書
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report/ikensyo/index.html
 国民はいつから統治客体をやめて統治主体となったのでしょうか?代議制民主主義における国民主権とは、国民に選挙権が与えられているだけで、統治主体は選挙された議会・政府であり、国民はあくまでも統治客体であることに変わりはなく、ここに代議制民主主義のごまかしの秘密があるのです。国民が統治客体であるからこそ、憲法によって統治主体=政府の専制を防ぎ、基本的人権によって、統治客体=国民の権利を守らなければならないのです。もとより、地方自治体における直接請求権などのような国民の政治参加形態もありますので、すべての政治参加を否定するものではありませんが、司法制度審議会は統治と被統治の関係を否定し、いきなり統治機構の一翼=裁判に参加せよ、というのですから、まずはその意図をじっくりと吟味しなければならないのです。その意図とは、もし誤審・冤罪や政治判決があっても、裁判員という名の国民がこれに同意したのだから、その責任を国民に転化できるし、さらに、社会秩序維持の責任の一端を国民に担わせ、現行の国家体制の存続に国民を協力させることが出来る、ということです。
 この社会防衛思想の最も極端な考え方は、ヒトラーのナチス諸法であり、悪名高い治安維持法でありました。これらの法の下では、容疑者の権利の擁護は皆無で、ひたすら重罪を武器に社会秩序の維持が追求されました。

裁判員の見せかけの権限

 裁判員が参加する裁判は、「死刑又は無期の懲役若しくは禁固に当たる罪に係わる事件」(殺人、高等致傷、現住建造物放火など重罪)で、平成12年2589件〜平成15年3089件と増加傾向にあります。これを、アマチュアの裁判員6名とプロフェッショナルな裁判官3名とが合議による裁判を行ないます。後で説明する「公判前整理手続」において公訴事実について当事者間で争いのない場合は、裁判官1人、裁判員4人とします。裁判員は、アメリカなどの陪審制度が事実認定だけを行なうのとは異なって、事実の認定に加えて、法令の適用および刑の量定についても判断を行ないます。ただし、法令の解釈に関する判断、訴訟手続きに関する判断は、プロの裁判官のみが構成する「構成裁判官」の合議によって行ないます。この合議の傍聴を裁判員に許可することや裁判員の意見を聞くことが出来るとしても、裁判員は法令解釈や訴訟手続きについては、構成裁判官の合議に従わなければなりません。
 たとえば、最近の渋谷・夫殺人事件で、検察・弁護側双方の精神鑑定人の2人が「犯行当時『心神喪失』の可能性があった」と鑑定しているにもかかわらず、判決は「総合的検討による法的判断」によって刑法第39条1項(「心神喪失者の行為は、罰しない」)の適用を行なわず、通常上の殺人事件として刑法第199条を適用し、懲役15年としました(東京地裁、2008年4月28日)。もし第39条1項の適用があれば無罪だから、この違いは大きいものです。これでは仮に、裁判員の多数や裁判官の1人が刑法第39条1項の適用が正しいと考えていても、「構成裁判官」の合議での法律解釈に基づいて同条を適用しないことを決めておれば、裁判員は別の判断を出来ないことも予測されます。ここに示されているように少し込み入った事件になると、プロの裁判官の法律解釈論の煙に巻かれて、裁判員は、全くお手上げというのが実情となりそうです。
 判決は、構成裁判官と裁判員が参加する評議の過半数によって決定されますが、ただし、その過半数には必ず構成裁判官が入っていなければなりません。言い換えれば、プロの裁判官の意思に反して、裁判員のみの過半数では判決は決まらないのです。
 公判前整理手続は、裁判所・検察・弁護人の三者によって行われ、裁判員は参加しませんので、この過程については裁判員は十分に知ることは出来ません。
 以上のような諸点から見て、裁判員は結局、プロの裁判官の判断の手の内でしか判断できない、ということが明らかとなります。

公正な裁判を妨げる「公判前整理手続」

 裁判員に争点を明示しかつ迅速な裁判を保障するという名目で、「公判前整理手続」が新たに導入されました。「迅速な裁判」と「公正な裁判」を受ける権利は憲法に保障された基本的人権ですが、この制度は、明らかに「迅速な裁判」という名目で、「公正な裁判」を受ける権利を制限するものです。
 公判前整理手続で請求しなかった証拠調べについては、公判中には裁判所が必要と認めるもの以外は請求できません。これは、弁護側にとって著しい不利益となります。なぜなら、検察は捜査権を持ち職権で証拠を収集できますが、弁護人はそのような権限はありませんので、公判前整理手続が集中的に行なわれる期限内に十分な反証を集める時間がありません。また、刑事被告が最初から弁護人に対して率直に事件の核心を明かさない場合も多々あり、弁護人はじっくりと時間をかけて被告人の信頼を得て事件の全貌を聞き出し、初めて争点を設定できることもあります。
 公判前整理手続きにおいて、検察は争点に関するすべての証拠を開示する義務がありますが、弁護人が請求しない証拠については、検察側不利の証拠を開示することはありません。例えば、自白の任意性をめぐって、ビデオテープの開示を求められた場合、警察が仮に取り調べの全過程のビデオを有していたとしても、警察にはこのような全ビデオ収録が法的義務ではありませんので、自白場面のカットだけを示すということになります。これは、公判においても同じことがいえます。
 鑑定については、長時間を必要とするときは、公判前整理手続において、鑑定を行なう手続だけでよいことになっていますが、長時間拘束できない裁判員のためには、現行裁判のような鑑定、再鑑定という過程は省略されることとなります。

現代版「仇討ち」思想=被害者参加制度と裁判員制度

 法制審議会は2007年、裁判員制度とは別に、犯罪被害者の裁判参加制度を答申し、刑事訴訟法が同年6月に改正され、被害者参加制度が2008年終わり頃から実施される予定です。この制度は、刑事被害者(死亡の場合はその親族)が、裁判に参加して直接被告人に質問や被告人側証人に証人尋問を行ない、また検察の求刑の後、意見陳述という形で求刑も表明できることになっています。
 刑事被害者とその関係者の無念は理解できますが、しかし、この制度は現代版の「仇討ち」の精神に等しく、近代刑法の大原則に反するものです。近代刑法の大原則は、被害者の私怨や怨恨を断ち切って、個人の報復権を禁止し、私闘を禁じたのです。それは、現行刑法が緊急不正の権利侵害に対してのみ正当防衛権つまり自力救済を認めているところにもよくあらわされています。EU諸国では、死刑を廃止し報復主義とははっきりと縁をきりましたが、これによって殺人が増えたという話は寡聞にして知りません。罪刑法定主義の父にして死刑廃止論の先駆者である18世紀のベッカリーアが死刑によっては犯罪を防止できないという説が、今日になって証明されたといえるのです。
 近代の刑法の原則は、仇討ちに代わって国家が、公正な手続きや原則つまり罪刑法定主義、被告人の「無罪推定の原則」と「被告人の黙秘権」の保障等に基づいて被告の有罪の有無を決定し、有罪の場合は犯された犯罪との均衡の上で加罰するということにあります。ところが、日本ではこれまでの実情に照らしてみれば、被害者の多くは、被告が法廷に立つだけで、「無罪推定の原則」や「被告の黙秘権」を無視して、頭から有罪で重刑と決め付ける傾向が極めて強く、仇討ち感情を露わにするものです。
 この制度と裁判員制度を組み合わせてみると、裁判員はともすれば、このような感情論に同情し、被告と被害者を平等に見る視点を失いがちになることは明らかです。最近はプロ裁判官自体も重罰主義に傾斜する傾向が強いといえます。例えば、光母子殺害事件死刑判決(広島高裁、2008年4月22日)でも、1,2審とも無期懲役であったにもかかわらず、被害者感情の重視というマスコミに煽られた世論を背景にこれまでの死刑基準を覆して最高裁が差し戻し、広島高裁は死刑判決を下したのです。ここでは被告の自白の変遷や弁護方針の転換の是非を論ずるつもりはありませんが、少なくとも、最高裁と広島高裁差し戻し審は作られた世論に迎合したことだけは間違いありません。プロの裁判官がこのような実態にあるとき、直接に被害者の生の声を聞くアマチュアの裁判員が、予断と偏見なく被告と被害者の主張を対等なものとして判断する事は、極めて困難であると言わざるを得ません。

裁判員の基本的人権の蹂躙と重い負担

 裁判員は有権者の中から抽選で選ばれますが、特定の職業や資格者(国会議員・大臣、高級公務員、裁判官・検察官・弁護士とその経験者、司法書士など法律専門家、大学の法律学教授・准教授、など)は除かれます。これは一般社会人の声を聞くという趣旨からです。この他、特別の事情にある者(70歳以上、学生、重い疾病患者、親族の介助者など)は除かれます。このような除外扱いを受ける人以外は、すべて裁判員に選任されることを拒むことは出来ません。たとえば死刑廃止論者が、それゆえに裁判員候補者が裁判所の呼び出しに応じない場合は10万円以下の罰金に処せられます。これは、明らかに憲法第19条(思想・良心の自由)に対する違反です。
 裁判員候補者は選任に当たって、質問状に答えなければなりませんが、もしこれに虚偽の回答をすると50万円以下の罰金に処せられます。個人の意思に関係なく裁判員候補にならされ、おまけに虚偽記載でこのような罰金を取られることは、やはり憲法第19条違反といわねばなりません。
 裁判員には、在職中はもちろん退職後も一生にわたって、厳しい守秘義務が課せられます。裁判員が評議の秘密漏らした場合、6ヶ月以下の懲役又は50万円下の罰金に処せられます。現在、裁判官が時折、裁判についてのコメントなどを行なっているにかかわらず、裁判員には厳重な守秘義務があるのです。
 裁判員の経済的負担には大きいものがあります。些少の日当・交通費・宿泊費は支給されますが、肝心の職務を休んだ場合の休業補償がないのです。しかも、複雑な裁判になると1週間程度の短期間に終わる保障は何もないので、正に家内経営者や労働者などに対する貧乏人泣かせという他はありません。
 しかし裁判員の最も重い負担は、その心理的ストレスにあるかも知れません。本職の裁判官でさえ、良心的な裁判官は死刑判決による心理的負担を受けたくない、という傾向が見られます。最高裁判所はこのような危惧から、裁判員対象の「心のケアー・プログラム」(仮称)の導入を決めました。裁判員は年間2万人ほど選任され、うち1割ちかくが精神的、身体的不調を訴える可能性がある、と見込まれています。なぜ、このような深刻な弊害が生まれることを、最高裁判所自身が知りながら、裁判員制度の導入を強行しようとしているのでしょうか。

裁判員制度では誤審・冤罪・政治裁判は防げない 

 現在の多くの誤審・冤罪・政治裁判の原因は、国民の裁判参加を欠くからではありません。この根本原因は、相変わらずの自白偏重主義と人権意識の乏しい裁判官の予断と偏見に基づくものです。日本の無罪率は急速に低下しています。民主主義運動や労働運動が未だ力を持っていた1960年代は未だ0.54%ほどあったのですが、1990年代になると0.15%に落ちています。これは、裁判官が「無罪推定の原則」を忘れ、検察側主張に過度の信頼を置く結果に他なりません。少数の良心的裁判官を除いて、多くの裁判官は無罪判決や違憲判決を行なって最高裁に睨まれ、「出世」の妨げになることを恐れているのです。イラク空輸訴訟事件で違憲判決を下した名古屋高裁裁判長は、定年を待たずに判決を書いた後に辞職しました。これは一例に過ぎませんが、辞職覚悟でないと本当のことが言いづらい、というのがこの世界なのです。裁判官は憲法上の手厚い身分保障を受けた上に、「すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職務を行なひ、この憲法及び法律のみに拘束される」(憲法第76条3項)と定められているにもかかわらず、裁判官もまた官僚制によって縛られているのです。
 冤罪の多くは自白主義にあります。憲法では「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(第38条1項)とあるにもかかわらず、警察は密室で脅し・暴力・マインド・コントロールなどあれやこれやの手段で、自白強要を未だに続けていますし、これらを中止するつもりもなさそうです。警察が取り調べ過程の全ビデオ化には頑強に反対しているのはこのためなのです。
 裁判では、このようにして得られた自白調書が証拠として採用されます。たとえ、公判において、被告側がこの自白調書の任意性を否定してもそれを立証することが極めて困難で、裁判所は多くの場合、これを証拠として採用しています。
 このように見てくると、裁判員制度が実施されても、有罪率も冤罪・誤審・政治裁判に何の変化もないことが理解されるでしょう。逆に、最初にも述べましたように、裁判員はこのような不当裁判の隠れ蓑の役割を果たすことになることは間違いありません。
 確かに、裁判制度が今のままでよいはずはありません。陪審制度、裁判官・検察官の公選制などが考えられますが、それらを現在の力関係の下ですぐにでも実現すると考えるのは夢想であるだけではありません。仮にそれらを個々に小手先で導入できたとしても、全般的な政治社会体制の変革の下で、現在の著しく反動化した司法・警察体制を根本的に民主化していく過程でそれらを位置付けるのでなければ、本質的な前進はあり得ないでしょう。まずは、裁判員制度反対、被害者参加制度反対の闘いを行なうことが喫緊の課題となっています。
(奈良太郎、2008.4.30)



[署名事務局参考記事]
<オンライン講演録>近代憲法の意味と日本国憲法の意義(上)
<オンライン講演録>近代憲法の意味と日本国憲法の意義(下)
<オンライン講演録> 国家構造の根本的転換を目論む反動的改憲阻止のために−−「公益」の名による権利の包括的制限