<オンライン講演録>
近代憲法の意味と日本国憲法の意義
岩本勲(大阪産業大学・政治学)


(1)ここに紹介する『近代憲法の意味と日本国憲法の意義』は、昨年4月2日に行われた「憲法改悪、教育基本法改悪に反対する連続講座」第二回での岩本勲氏の講演『日本国憲法の成立過程と天皇制』の講演録に講師自身が大幅に加筆訂正したものである。
 岩本氏は講演録の中で、自民党の改憲案は、「改正」ではなくて「新憲法」制定と言うべき内容であり、革命や戦争などによる政治体制の大変革時に匹敵するような、国家理念の根本的な転換をめざしていると批判する。自民党や財界などからなる支配層の中枢部分が目指すのは、日本国憲法が立脚する、天皇制軍国主義と侵略戦争に対する反省を捨て去り、憲法9条を改悪することで戦争できる国を作り上げることである。しかし、問題は9条だけにとどまらない。とりわけ、いかなる制限をも受けてはならない自然権である基本的人権に対して根本的な制約を加え、「公共の福祉」を「公益」に置き換えることで国益、国策のために国民を強制的に動員することを可能にするなど、憲法を国家を縛る規範から国民の権利を制限する規範へと転換しようとしているのである。岩本氏は、さらにこのような改憲の衝動が、急速に海外進出を推し進め途上国支配を強めるグローバル独占資本の強い要求であることを明らかにする。
 岩本氏の最大の強調点の一つは、日本国憲法を、絶対主義王政の権力を制限することから始まった近代ブルジョア憲法と立憲主義の大きな歴史的な闘いの流れの中に、すなわち世界史的に位置付ることの必要性である。戦後の憲法案作成過程において天皇主権に固執しようとした日本の支配層を問題にし、日本国憲法の成立の意義を近代立憲主義と「反ファシズム闘争」という世界史的な大きな枠組みの中で捉えることによって、改憲論者が主張する形式的な「押しつけ憲法」論を痛烈に批判する。さらに岩本氏は、ブルジョア憲法としての日本国憲法の限界にまで言及して、自然権=基本的人権の思想ををさらに徹底させ「人間的解放」を勝ち取るための闘いの意味も明らかにしている。
 講演録は、@現行憲法の基本理念、近代政治の基本原理を覆す自民党「新草案」の危険、A近代憲法の意味からとらえた日本国憲法の意義に分け、2回にわたって紹介する。
 
(2)安倍政権は、通常国会冒頭から迷走を続け、世論支持率を急落させ、与党内の求心力を失った。安倍政権は弱体化し、危機的状況に陥った。ところが安倍は3月に入って、「開き直り」「破れかぶれ」ともとれるやり方で、本来持つタカ派路線への回帰を鮮明にし、右翼的反動的政治姿勢を前に出し始めた。
 安倍は、院内での圧倒的な数の力を背景に来年度予算の年度内成立にメドをつけた後、国民投票法の今国会成立を強行しようと動いている。5月3日までの国民投票法の成立、3月中の衆院通過にまで言及し、民主党が「対決姿勢」を強め修正協議拒否を鮮明にしたことで、与党修正案による単独採決さえ視野に入れ始めた。しかしそのような強硬路線は早くも手直しを余儀なくされている。与党内、特に4月の統一地方選と夏の参院選を見越して危機感を強める公明党の「抵抗」によって、3月中衆院通過の強硬路線は見送られるのが確実となった。もちろん、しかるべき反撃がなければ、これも4月成立に向けた茶番劇に終わってしまう。
 また、安倍政権の前に、彼が執念をあげて葬り去ろうと躍起になってきた日本の性奴隷制問題が急浮上してきた。彼は、一時は「狭義の強制性はなかった」などと発言し事実上日本軍「慰安婦」の存在の否定へと踏み込もうとしたが、内外からの激しい批判を受けて、改めて「河野談話」の継承に言及せざるを得なくなった。さらに、松岡農水相の事務所・光熱水費疑惑が発覚した。衛藤と落選組の復党問題では党内で不満がくすぶり続けている。等々。−−要するに昨年9月の発足以来安倍政権のアキレス腱となってきたいわば3点セット−−安倍の右翼反動的思想信条・政治基盤と「あいまい戦術」との矛盾、安倍自身を含め閣僚と政府要人の相次ぐスキャンダル、郵政民営化をめぐる造反議員の復党問題−−が、改めて政権を揺さぶり始めたのである。

 今年は「政治決戦」の年である。統一地方選挙から参院選挙に向けて、自民・公明の軍国主義・反動政権を政権の座から引きずり下ろさねば、いよいよ次は、彼ら最大の目標である日本国憲法の改悪に突き進むだろう。安倍政権を追い込み、反動政策をストップさせる決定的な力は、反対運動の力である。私たちの前には、国民投票法成立阻止という課題が立ちはだかっている。反対の世論を喚起していくためには、手続き法の危険性だけでなく、憲法改悪そのものの危険性を明らかにしていかなければならない。すでに国会や各地でこれに反対する闘いが始まっている。私たちは、国民投票法阻止の取り組みを強めると同時に、日本国憲法の意義と憲法改悪の危険性を多くの皆さんに呼びかけていくために、この岩本氏の講演録をオンライン上で掲載することにした。大いに活用していただきたい。

2007年3月17日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局



<「憲法改悪、教育基本法改悪に反対する連続講座」関連リーフ・パンフレットの活用を>

 私たちは、昨年2月に「憲法改悪、教育基本法改悪に反対する連続講座」を開始し、これまで7回の講座を開催してきた。ネオリベラリズムとミリタリズムの結合−−小泉政権の下で本格化した新自由主義「構造改革」が日本軍国主義の新しい段階への移行と密接不可分に結び付いていることを、支配層が目論む憲法及び教育基本法改悪を批判する形で取り上げようという企画であった。長期的な視野に立って憲法改悪に反対する広範な世論を作り出すとともに、私たち自身がこの問題での理解を深め、闘いの理論的武器を獲得していくことを目的としてきた。連続講座は、各戦線でご活躍されている講師の方々を招き、近代憲法についての基本的に捉え方から当面の政治的焦点になる諸課題までを扱ってきた。
 連続講座がこれまで取り上げたテーマは、大きく4つに分かれる。私たちは、連続講座を開催する過程で得られた成果を、講演会の内容の報告、共謀罪に関する講演録の作成、国民投票法を批判する論評とマンガリーフレットの作成、教基法批判の書評と論評シリーズ、靖国違憲訴訟の紹介等々さまざまな形で結実させてきた。皆さんも、ぜひ活用していただきたい。

@日本国憲法の意義。支配層の改憲策と国民投票法の危険
第1回「憲法改悪の本質〜自民党改憲草案と国民投票法を批判する」(講師:西原博史さん)
第2回 「日本国憲法の成立過程と天皇制」(講師:岩本勲さん)
第5回 「国家構造の根本的転換を目論む反動的改憲阻止のために−−「公益」の名による権利の包括的制限」(講師:冠木克彦さん)
★論評「憲法改悪のための『国民投票法案』に反対する」
★マンガリーフレット『本当は恐ろしい国民投票法』
★オンライン講演録「近代憲法の意味と日本国憲法の意義」(1) (2)

A共謀罪の危険
第3回 「共謀罪が危ない!! 差し迫る国会成立の危機」(講師:永嶋靖久さん)
★パンフレット『共謀罪の危険−−自由に議論することが犯罪とされる社会をつくる』

B教育基本法改悪の危険と「教育改革」の意味
第4回 「新自由主義と教育破壊〜教育基本法の理念を否定する「改正」法案に反対する」(講師:大内裕和さん )
★『教育は誰のものか【愛国心編】』
★『教育は誰のものか【格差教育編】』
★シリーズ「安倍の教基法改悪と反動的『教育改革』」
★書評『教育基本法「改正」を問う−−愛国心・格差社会・憲法』(大内裕和・高橋哲也共著)

C日本国憲法を武器とした闘い
第6回「靖国参拝=政教分離原則の形骸化と思想統制への途」(講師:中島光孝さん)
第7回「抵抗への招待〜私が出遭った『平和市民』」(講師:田中伸尚さん)
★書評『還我祖霊−−台湾原住民族と靖国神社』(中島光孝著)等々。





<オンライン講演録>
近代憲法の意味と日本国憲法の意義(上)
岩本勲(大阪産業大学・政治学)


1.「新草案」は憲法改正ではなく「新憲法」制定をめざす−−日本国憲法の理念と近代憲法の原理を覆す

 ただいまご紹介にあずかりました、岩本でございます。私は憲法学者ではなく政治思想研究者ですので、憲法解釈ではなく、17―18世紀以来の近代政治思想の発展の中に日本国憲法を位置づけて、お話することといたします。
 まず始めに、自民党の「新憲法草案」の基本的問題点を指摘しておきたいと思います。この「新草案」自体の詳しい批判は別の機会にゆずるとして、現在、憲法問題で何が問題になっているのか、日本国憲法の何が重要なのかを明らかにするためには、この「新草案」が改悪しようとしている中身を見ればよくわかる、ということです。言い換えれば、「新草案」が改悪しようとしている中身こそが、逆に日本国憲法の真価だ、ともいえるからです。

 今回、自民党が企んでいる憲法改正について、自民党の「新憲法草案」を読まれた方の中には、「今の憲法とあんまり変わってないんじゃないか、第9条は確かにクローズアップされて非常にやかましく言われているけれども、しかし全体として見た時には、チョコチョコとした手直しだけだ」という風な印象を持たれている方もおられるかもしれません。それが、自民党の巧妙な策略の一つでもありますが、しかし、「新草案」の本当の中身は、第9条以外は単なる手直しと言う生易しいものではありません。表向きは改正といっていますが、「新憲法草案」という名前が示すとおり、実は改正ではなくて「新憲法」制定の草案なのです。

 日本の内外を問わず、新しい憲法が制定されるのは、革命や戦争、あるいはそれに匹敵するような大事件をきっかけとして、政治体制が大きな変革されるときなのです。フランスでは、大革命以来、共和国憲法が5回誕生しましたが、それはまさに政治体制の変革に際しての出来事でした。アメリカでは、現憲法が制定された18世紀以来、権利章典に関する修正箇条が加わった以外に、憲法はひとつです。日本では大日本帝国憲法憲法以来、二つの憲法があるに過ぎません。ところが、まさに自民党の「新憲法草案」は内容的には、このような政治体制の大きな変化に際して行われる憲法制定に匹敵するのです。いわば、日本国憲法に代わる第三番目の憲法を制定しようとしているのです。自民党は、「諸外国でも憲法の改正がしばしば行われているので、今回の「新憲法草案」もそれと類似のもので、ある」と主張していますが、それはとんでもない話です。なるほど、諸外国の憲法で、部分的にはしばしば改正され憲法もあります。しかし、平時には憲法の根幹に関する修正はほとんどありません。
 ところで、ここで第三番目の憲法といいますのは、今回の「新草案」が、現行憲法の基本理念とさらにヨーロッパで発展してきた近代政治の原理をともに覆し破壊して、全く別の憲法をつくろうとしている、ということです。我々はまずここに注目しておかなければならないのです。そこで、自民党が何をしたいのかということをざっと見ていこうと思うわけです。


2.「新草案」の主な問題点

 まず前文ですけれども、今度の「新草案」の前文は実にあっさりしたものです。現行憲法は、非常に翻訳調で、日本語としてこなれていないという批判もありますが、しかし、あれは翻訳ではありますけれども内容において格調の高い名文だという風に、私は思っております。何故かと言いますとそこにはやはり、戦後の日本の置かれた状況というもの、戦争に対する反省というものが、はっきりと表れているからです。その上に立って、現行憲法は平和国家と民主主義国家の樹立を高らかに宣言しています。この憲法全体を流れる基調というものが、前文に書かれておる、ということです。そもそも憲法の前文というのは、憲法の全体にかかわる根本理念を表現したものなのです。ところが、「新草案」はそれをバッサリと削ってしまっています。だから、「新草案」は日本国憲法のあれこれの修正ではなく、日本国憲法を根底から変えてしまおうということが、ここにも表明されている、といえるのです。

 自民党にとって何が、耐えがたいかというと、第二次世界大戦に対する反省という視点そのもの、憲法が表現する歴史に対する根本的な見方、平和と民主主義というものです。はっきりいえば、日本の軍国主義とか、侵略主義を全くなかったこととして、すっかり忘れ去ってしまおう、ということです。第二次世界大戦への反省ではなしに、代わりに愛国心をパッと前へ出してくる、ということです。

 次には、象徴天皇制をわざわざ前文で取り上げています。今の憲法前文には、象徴天皇制についての言及はなく、その代わり社会契約論の一つとしての信託論、つまり国家権力というものは国民のトラストに基づくとする信託論が展開されています。この信託論は17世紀イギリス第二革命で活躍したロックという人が初めて言い出した考え方なのです。その意味は、権力というものは国民から信託されておる、預けられたものである、その権力を行使するのは代表者なんだけれども、その成果は国民が享有する、ということです。しかも、このトラストという言葉の中には、もし権力が国民の意志に反した場合は、国民は政府をいつでも取り換えてもいいですよ、という意味が含まれている。これがトラストの重要な意味なのです。
 しかし、自民党にとっては、国民が権力を取り換えますよ、というようなことは、全く気に食わんことです。だからそんな前文は、スパッと切る。このことは、近代ブルジョア大革命、つまり17世紀イギリス革命であるとか、あるいは18世紀のフランス革命であるとか、アメリカ革命、そういう市民革命で得られた人民の歴史的権利という見地をスッパリと捨て去ってしまう、これが自民党の新憲法草案が憲法前文を味も素っ気もない前文に変えてしまう本当の意味なのです。
 「新草案」は天皇制については第1条で、一応は象徴天皇制というものを引き継いでいます。これについては後で詳しく述べます。それから戦争放棄は、ご承知のようにもう縷々申し上げることはございません。正々堂々と軍隊を名乗って、海外派兵をして、攻撃用兵器を持って、アメリカとの集団的自衛権を行使して、場合によっては、徴兵制を実施したら宜しい、ということに変えたい、ということです。

 日本国憲法においては、皆さんが学校で習われていたように基本的人権がもう一つの大きな柱です。基本的人権とは何かと言いますと、その理論的な基礎には、自然権といいまして、人間は生まれながらにして譲り渡すことも侵すこともできない権利を持っているのだ、という考えであります。これも17−18世紀以来、人民が歴史的に勝ち取ってきた権利であります。
 ところが、「新草案」では、基本的人権を「公益、及び公の秩序」によって制限しよう言うのです。今の憲法では、基本的人権は「公共の福祉」に反しない限り、権力はこれを制限してはならない、と定められています。しかし、「公共の福祉」ではなくて、「公益」によって、つまり「公益」や「公の秩序」という場合には、国家とか地方自治体が「公益」や「公の秩序」を代表しているとみなして、政府や自治体の都合によって基本的人権を制限してもよろしい、あるいは押さえつけてもよろしい、ということになるのです。たとえば、デモなんかは典型的な公の秩序を乱すものとなります。現在は、デモは公安条例というものによって一定の制限が加えられています。これをなぜ法律にしてないかと言うと、一つの原因はやはり公安条例が国民の表現の自由を侵すものですから、こういうものを国会で決めるとなるとやはり一大闘争が起こる、ということを当時の政府は恐れたのですね。だから公安条例は、国会で決めないで各地方自治体、都道府県段階で制定させた訳なのです。

 それから、基本的人権についてもう少し個別に入りますと、信教の自由ということについては、これはご承知のように、今の憲法が厳格に、国家権力が宗教にかかわることを禁止しているのをなるべく緩めて、首相の靖国公式参拝もOKにしよう、ということは見え見えであります。「新草案」では、国家と地方公共団体は「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲内において」宗教的活動をしても宜しい。これは最高裁判所の判例をまねたものなのですが、この判例自身が日本国憲法の厳格な適用から少々逸脱しているのです。憲法をこのように変えると、実際の裁判ではもう少し緩い基準になってくるのは分かりきっています。その上、大方の裁判所は上級裁判所になればなるほど、なるべく憲法判断をしたくない、あるいは政府には逆らいたくない、というのが現在の風潮ですから、首相の靖国公式参拝も大手を振って行われる、と言うことになるに違いありません。
 「新草案」には、公益に基づいて財産権を制限することができる、という条項があります。皆さんのうち、これは当たり前だと思われるかも知れません。しかし、ちょっと待って下さい。これには、裏があります。というのは、この条項が目的にしていることは次のことなのです。米軍基地を作る時に一坪地主が土地の私有権によって基地に反対しましたが、このような抵抗をバサッと切れるようにという訳です。
 「新草案」は「公益と公の秩序」という新概念を持ち込んでいるのですが、これは「公共の福祉」という概念とは全く違ったものなのです。「公共の福祉」という概念は、ワイマール憲法によって、初めて憲法の概念になったのですが、これは、20世紀になって独占資本という巨大資本が登場し、人民の民主的な諸権利を圧迫したので、このような資本の横暴を制限する概念として、「公共の福祉」という概念が生まれたのです。ワイマール憲法は次のような事情の下に出来た憲法です。第1次世界大戦が終わった後、カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグが指導するスパルタクス団が社会主義革命に立ち上がったのですが、社会民主党政府はこの指導者たちを虐殺し、革命を圧殺したのです。革命は鎮圧できたけれども、革命の基盤となった人民の反独占資本の意識は屈服させることはできませんでした。そこで政府は憲法に「公共の福祉」という概念を持ち込み、独占資本による資本の横暴を制限する新しい20世紀的概念を創設したのです。
 ところが、今回の「公益及び公の秩序による財産権の制限」という考えは、「公共の福祉」という考えとはまるっきり違うのです。例えば有事法を取り上げてみればすぐ分かります。自衛隊が陣地を作る時には、これが「公益」なんだ、といって個人の所有権を簡単に踏みにじることができるのです。あるいはまた先程いいました沖縄の闘争も、簡単に押しつぶせるのです。木っ端微塵にやることはこれで簡単に出来るということです。
 もちろん、憲法を変えるには少なくとも数年は必要でしょうが、政府は、憲法がまだ変わってもいないのに既に、憲法の内容を法律で変え、憲法違反の既成事実を積み重ねようとしています。たとえば、共謀罪ですが、これについては、別の講師の方が以前に詳しく説明されました。

 労働権については、労働契約法というのが今問題になっています。憲法には労働三権が明記されています。これを具体化した基本法の一つが労働基準法ですが、この法律は、解雇というものをなるべく制限していこう、労働者の労働条件を守ろうというように、労働者の権利を守るために制定されました。また、労働組合法は、労働組合と使用者が結ぶ労働協約に法的効力を持たせ、労働者の待遇に関する基準に関しては、労働者個人と使用者が結ぶ労働契約や使用者の制定する就業規則などよりも強い法的効力を認めてきました。ところが、政府は労働契約法という法律を制定することによって、使用者と労働者の関係を使用者と労働組合の関係から、重点を使用者と個人の個別契約に移して、簡単に首切りや労働条件の改悪をしようとしています。
 ちょっと話がそれますが、フランスでは今、若年労働者の雇用の促進と銘打って、若年労働者を雇用した場合、3年後には使用者は簡単に首を切ることができる法律を作りましたが、大学生や高校生の全国的な大規模デモが波状的に行われ、CGTやCFDTなど既存の大労組もこれに合流する構えを見せたとたん、政府は若年雇用法を撤回しました。フランスでもアメリカでも、労働者の権利に手をつけようとすると、大規模な闘争が起こるものなのですが・・・。日本でも是非、闘争を期待したいものです。

 次に、教育基本法の問題であります。教育基本法は、ご承知のように、戦前の教育を支配し天皇制教育と軍国主義教育の根幹となった教育勅語を否定し、その代わりに戦後新しい憲法と一体のものとして、戦後の平和と民主主義教育の根幹として教育基本法が制定されました。ところで、教育勅語というものはなぜ制定されたかといいますと次のような事情があります。教育勅語は、大日本帝国憲法の発効の1890年(明治23年)にいわば憲法と一体のものとして発布されたものです。この年に帝国議会も初めて開かれるのですが、この時の参政権は直接国税15円以上を払う者のみですから、そのほとんどが大地主と金持もちということになります。それでも、明治政府は国会を開くと反政府や反天皇の代表がそこに進出してくるのではないかと大いに恐れたのです。これを防ぐためには、子供達に小さい時から徹底的な天皇制教育をしておかないといけない、と考えたのです。
 というのは、1880年代(明治20年前後)はまだまだ、天皇制が国民のなかに定着したとはいえない状況だったのです。明治政府ができるまでは、天皇の存在を知っていたのは、武士階級や豪農豪商の知識階級とせいぜい京都の人々ぐらいだったのです。1884年(明示17年)に「秩父騒動」という1〜2万人の農民による反政府武装蜂起が起こりますが、そのときの指導者は「お恐れながら天朝様に刃向かうから加勢せよ」と村中を触れ回ったぐらいなのです。驚愕した明治政府はこれを徹底的に弾圧しましたが、こういう状況の中で、政府は何とか天皇を国民のなかで認知してもらうためにさまざまな手を打ちました。天皇の全国をめぐる巡幸を何十回となく行いましたし、御真影と称して天皇の写真を小中学校に配布いたしました。そこで天皇制教育の決め手として教育勅語が発布されました。その内容は儒教道徳を説き、その核心として、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と、つまり戦争のような非常時が生じたときには、命を投げ出して天皇に尽くしなさい、と国民に命ずることでありました。この教育勅語は平生は学校の「奉安殿」に保管され、登下校の生徒たちは奉安殿には敬礼し、式典の際に校長が教育勅語を恭しく奉戴して読み上げ、もし一字でも読み違えでもしようならば切腹物でした。したがって、戦後は、「基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる」「わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した」として、衆参両院で教育勅語廃止決議が行われました。ところが、政府はまたぞろ、愛国主義や教育の国家統制というものを前へ出して教育基本法を改悪しようとしています(注:本講演は教育基本法改悪以前に行われた)。

 司法でありますけれども、現在、司法はすべて普通裁判所で行われ特別裁判所は認めていないのです。戦前は、行政裁判所と軍事法廷という特別裁判所がありました。ところで、「新草案」は目立たない形で密かに軍事裁判所というのを入れています。軍事裁判所というのは、これは一般法が排除されている特別法廷であります。例えば皆さんがよく知っているのであれば、5.15事件とか2.26事件とかが、ここで秘密のうちに裁かれました。これは、第9条の改悪と密接に連関し、実際に戦争が起こるということを前提としたものです。
 それから財政でありますけれど、これは先程の、信教の自由と連動いたしましてね、知事が神社仏閣にお賽銭や榊をあげたりすることで、違憲判決が出ておりますけれど、このようなものも合憲にしてしまおう、ということです。

 もう一つ地方自治で重要なのは何かと言いますと、「新草案」は地方自治体が国に協力することを定めています。ここで何を狙っているかというと、国による自治体を支配の強化を、「協力」という名目で行おこうと言うことです。現在、国と自治体の方針が違った場合、国が裁判所に訴えることもできませんが、「協力」しなければならない、と言うことになれば、地方自治体は国の言う事を聞かなければならないということになります。例えば、国が或る自治体内に原発設置を決定した場合、自治体はこれに反対できなくなる、と言うことが想定されます。これは、現在の一連の有事法を見れば直ぐわかります。これらの法律では、有事の際は自治体は国に協力しなければなりませんが、これによって首相や防衛庁長官は、実質的に自治体の長を指揮することができることになっているのです。
 地方自治というのは元々、なぜ設けられたかと言うと、これは戦後、天皇主権から国民主権に変わったことの必然的な結果なのです。つまり、地方のことは地方の住民と地方自治体が自ら決定しなさいという原則なのです。つまり、地方自治は内容的には、地方公共団体による団体自治と住民が直接行使する住民自治の両方を含みます。住民自治というのは例えばその首長や地方議会議員を選ぶことやリコールすることです。住民投票もあります。繰り返しますが、地方のことは住民と自治体が国の干渉を受けることなく、独自に決定するのだ、ということが日本国憲法に定められた地方自治の本旨なのです。

 最後に、憲法改正手続き問題であります。政府は、憲法改悪のために国民投票法案を既に準備しています。ご承知のように現行憲法では、憲法改正の発議は衆参両院のそれぞれの総議員の3分の2以上に基づいて行い、国民投票の過半数以上の賛成を得て憲法改正が可能になります。憲法改正は、非常に難しいわけです。こういう改正手続きが難しいやり方を硬性憲法と言います。ところが「新法案」はこれをもう少し変えようということです。憲法改正の発議を衆参両院の過半数の賛成によって行い、これを国民投票にかけようということで、改正のやりやすい軟性憲法化するということです。こうなると、政府の時々の思惑で憲法が改正される、とう事態も定できます。

 以上が、自民党の狙っている憲法改正の幾つかの主要点です。これを一言でいえば、「新草案」は日本国憲法のあれこれの個別的な条項ではなく、すっぽりと憲法を新しいものに取替えよう、というのがその本質だと言えます。自民党案が「憲法改正草案」ではなく「新憲法草案」と銘打っているのはこのような理由なのです。だから本来ならば、特別の選挙による憲法制定議会を召集し、そこで憲法審議を行わなければならないのですが、自民党は、日本国憲法の改正手続きに従って、通常の国会審議によって憲法改悪を行おうとしています。これも、「新草案」の重要なごまかしの一つです。


3.グローバル資本の憲法改悪論

 政府は一体何のために憲法改悪を今の時期におこなうのか、と言う事が問題になります。一言でいえば、これはやはり現在、日本の資本主義、独占資本主義にとって、日本国憲法がどうにも窮屈だ、ということの表れなのです。日本経済団体連合会は時々、トップの政策を発表しております。一番最近のトップ政策は2005年11月8日の「優先政策事項」ですが、それを見てみます、一つは「グローバル競争の激化に即応した通商投資経済協力政策の推進」、もう一つは「内外の情勢に対応した戦略的な外交安全保障政策の推進」です。現在の日本経済の特徴の一つは、海外から入る収益は莫大なものとなったことです。つまりこれは大体70年代から日本は海外投資というものが急速になり、80年代半ばには1000億ドルに達し、この頃からその収益が上がり始め、最近その収益が莫大なものになっている。そのために、カントリーリスクを背負わなければならない。カントリーリスクというのは投資したところの国に革命による騒乱やテロリズムによって、投資した資本が危うくなったりすることが、カントリーリスクですが、これを防ぐ為にはですね、やっぱり軍事力というものがいる、ということになるわけです。

 70年代までは、あまり海外派兵などは問題になりませんでした。けれども80年代になって、これがごろりと変わってくるのです。それは何故かというと、これは日本の海外投資が非常に盛んになった結果です。やはり外に出したものは守りたい。貧乏人は戸締りなんかしないんですよ。何を盗られてもかまわん訳で、「泥棒さん持っていってや、泥棒さん置いていってや」ということになります。ところが、金持ちになりだすと、盗られることが心配になって戸締りをきっちりとするようになります。これがまさに80年代の日本の特徴でした。日本の外交方針がこの頃からすっかり変わります。それまでは、軍事はもっぱらアメリカに任せておけばいい、ということでした。但し、アメリカの支配者たちはこれを日本の「安保タダ乗り論」だと批判していました。しかし、本当はタダ乗り違うのですけどね。最近では、アメリカ軍の駐留費用だけで6000億円前後となります。世界一、アメリカ軍の経済援助をしているのが日本なのです。ドイツの米軍経済負担は、日本の5分の1程度の微々たる負担に過ぎません。

 80年代当時を思い出してみますと、70年代くらいからソビエトの軍事力の増強が急ピッチで進み、ソビエトとアメリカの軍事力がパリティになり始める。そうすると、アメリカがこれまで卓越した軍事力をバックにして全世界に睨みを利かせていたんですけれども、その威力が失せてくる。70年代末ごろ、「80年代半ば危機説」というのがまことしやかに日米両国で流されました。それは@80年代半ばにソ連が核戦力でアメリカに追いつき追い越すAしかし、膨大な軍備に力を入れすぎてソ連にはエネルギー危機がやってくるBそうすると、それは一か八かアメリカに核攻撃を行い危機回避を図る、というものでした。これは一見、荒唐無稽な説のようですが、一時期論壇の主要テーマのひとつにもなりましたし、支配階級の一定の危機感を表明していたことも確かでした。

 日本の支配下級もこれは大変だ、ということになって、日本もアメリカに対して、軍事的にも協力しなければならない、というようなことが声高に言われ始めました。それを最初に言ったのは、大平正芳首相でした。大平の前任首相は福田赳夫でしたが、彼は70年代のデタント時代を反映して、自らの外交方針を「全方位平和外交」と称していました。ところが、大平は80年代の新冷戦時代を迎えて、「西側の一員外交」ということを言い出したのです。つまり、アメリカはスーパー・パワーではなく列強の一員に過ぎない、だから日本はそれまでの外交軍事方針(軽武装・経済重視)を翻して、はっきりと軍事的にもアメリカを支援しなければならない、と言ったのです。これは、もちろん、ソ連がアメリカの軍事力のパリティの状況に追いつき、アメリカの経済力の相対的低下もあるのですけれども、一方では日本の資本自身が今まではアメリカに一方的に頼っていたが、これだけでは不十分だ、これだけでは危ない、と思い出した事の表れでありました。

 また、もう一つの当時の象徴的なできごとを思い出すのですけれども、松下電器の労働組合長さんが、海外派兵とアメリカとの軍事協力強化について強く賛成の主張したことです。そのとき、なぜ労働組合の委員長が率先してそんな事を言うんかなぁ、と不審に思っていました。だが、一つ腑に落ちた事は、当時やっぱり一番東南アジアへ先進的に工場を進出させていたのが松下電器だったのです。だからやっぱり労働組合として海外資産は守らなければいけない、等と言い出すのです。スマートな言葉で言えば、「カントリーリスク」回避、ということです。
 とくに最近は80年代とでも比べ物になりません、この資本のグローバル化の開始という状況のなかで、もちろん日本単独では、今のところは軍事的に海外投資資本を守ることは出来ない、アメリカと一緒にならないといけない、だからアメリカと軍事協力を緊密にする、それと同時に日本自身も軍事強化をする、というわけです。これを実行したのが、80年代前期から後期に至る時期、レーガン米大統領とコンビを組んだ中曽根内閣でありました。




<オンライン講演録>
近代憲法の意味と日本国憲法の意義(下)