<オンライン講演録>
近代憲法の意味と日本国憲法の意義(下)
岩本勲(大阪産業大学・政治学)


4.日本国憲法の矛盾−−天皇制と私有財産

 現憲法は、17世紀以来の近代的な政治原理を代表し、その上にとくに平和憲法として、大きな意義を持つものですが、同時にまたこれは矛盾もあるわけで、今の憲法が万々歳かというと、そうでもありません。何故かというと、象徴であろうが何であろうと天皇制という君主制と基本的人権とは相容れないものだからです。憲法第14条に、国民はみんな法の下に平等だと書いてあるのに、天皇だけは国籍法も適用されない特権者であります。勿論、納税もしていないしね、何の義務も負わない。憲法以外の全ての法律から自由なのです。
 天皇制の問題は話せば長くて、語りつくすことはできません。戦前、「日本資本主義論争」という、日本マルクス主義陣営を二分する講座派と労農派に分かれての烈しい論争がありました。それは日本革命が打倒すべき主敵は天皇制か資本主義かという問題意識を根底にした論争で、その核心は天皇制をいかに規定すべきか、という問題でありました。戦後も60年代から80年代にかけて別の形で論争は復活しますが、この論争は決着がつけられないまま終息してしまいました。これは、日本に限らず世界的にマルクス主義が終息していった過程と軌を一にします。

 戦前は、絶対主義天皇を頂点として軍部・官僚・宮廷貴族の上層部が、国家権力を握って専制政治を敷いてきた、というのが私の考えです。では、絶対主義天皇制の物質的基礎は何かと言うと、ブルジョアジーと地主階級の階級均衡であります。地主階級というのは寄生地主制という半封建的階級(高率の現物納、事実上の経済外強制、等の存在)であり、資本家階級はマニュファクチャー段階からはじまって急速に独占資本に発展する資本です。この二つの大きな階級がどちらも単独で権力を取れないという事情の下で、言い換えれば階級均衡の下で、天皇を頂点とする、軍部・官僚・宮廷貴族の上層部が専制的な権力を握ったわけです。階級均衡論というとすぐにカウツキー主義と非難されますが、カウツキーがこの階級均衡論に基づいて書いた『フランス革命における階級闘争』は、エンゲルスの綿密な指導の下で書かれたものですから、カウツキー主義ではなく、いってみれば「エンゲルス主義」なのです。エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』では、明確に階級均衡論を述べていることは周知にとおりです。この絶対主義天皇制は、1900年ごろからプロレタリアートの出現と資本家階級との階級的均衡という新しい要素が加わり、ボナパルティズムの性格を帯びるようになりますが、さらに1930年代以降ファシズムの機能も併せ持つようになります。もちろん、今述べました私の見解は、講座派でもなく労農派でもなく、ましてや新講座派でもない独自のものです。おそらく、私一人の見解かともいえますが、私としては密かな確信を持っているわけです。

 戦後はどうなったかと申しますと、第一次農地改革、第二次農地改革を経て、寄生地主制というものが払拭され、絶対主義の物質的な根拠というものが払拭される。そしてその天皇制というもののもう一つの支柱であった軍隊もなくなってしまう、ということで、戦前のような絶対主義というものが復活することは有り得ないことです。しかしやはり、今、述べましたように、象徴天皇制は残ったわけであります。もちろん今回の自民党の「新草案」でも、さすがに戦前のような絶対主義天皇制を復活させようという露骨なアナクロニズムは影を潜めています。
 しかし、それにもかかわらず、何故天皇制に固執するのか、ということなのです。基本的には、支配秩序を保つ為には、諸階級、諸政党の対立を超えた聖なる存在というものが統治者にとって必要不可欠であり極めて有効だ、ということです。イギリスには「陛下の野党」という言葉があるのですが、それは、野党は政治的には政府と対立するが、陛下つまりキングの前では諸政党は平等で、野党といえども何も陛下に反対する野党ではなく、陛下のために尽くすもう一方の政党であるにすぎない、ということです。日本でも、国会の開会式の時には、いわゆる革新政党を含めて与野党の議員がすべて頭をたれて天皇陛下の「お言葉」を謹聴している姿を想像してください。

 私の些細な経験から、また別のことをお話しします。私は先日、東京へ行ったのですけれども、まぁ人の多いこと。しかも、皆それぞれが好きな方向を向き、好きなことを考えていますが、政治的にはこのようなてんでバラバラな大衆をどのように統合するのか、ということが最も重要な任務となります。そのとき、天皇制の役割は大切です。このようなバラバラな大衆でも、たとえば昭和天皇の闘病、葬式および喪の期間は、歌舞音曲を自粛することによって、ひとつのまとまりを見せました。同時に、そのようなことに同調しない「不純分子」は社会から指弾を受けました。日本国憲法が、象徴天皇の目的を「日本国民の統合」と明記していますが、その意味はまさにこのことなのです。
 また、天皇に対する批判は、現在では、刑法上「不敬罪」が存在しないので、これを権力によって取り締まることはできません。ところが、天皇制批判に対しては、右翼が直接暴力によって報復活動を行います。中央公論社社長お手伝いさん殺人事件、長崎市長狙撃事件、加藤議員事務所焼き討ち事件、等々、枚挙にいとまがありません。ブッシュ大統領の口移しのようにテロ絶滅と主張してきた小泉首相は、右翼テロに関しては不思議なことにまったく口をつぐんでいました。これらは、基本的人権たる表現の自由に対する暴力による公然たる侵害以外のなにものでもありません。

 日本国憲法の本質的な矛盾について、さらに指摘すれば次のように言えます。ブルジョア憲法のブルジョア憲法たる所以が、第29条の私的所有権の保障なのですが、憲法は法の下における平等を保障しながら、社会生活では本当の平等を保障することはないのです。すでに、フランス大革命時代、この矛盾に気付いた革命家がいました。通称グラッキュス・バブーフといいますが、彼はフランス大革命が自由・平等・博愛を旗印にしながら、自由なのは金持ちだけで、また貧乏人と金持ちの間には平等が実現しなかったと考えて、一種の共産主義革命と人民独裁を目指して、武装蜂起の準備をしました。武装蜂起自体は仲間の裏切りによって失敗しますが、ハラルド・ラスキというイギリスの有名な政治学者は、レーニンは大文字で書かれたバブーフだと評価して、バブーフの先駆的意義を讃えています。
 もちろん、日本国憲法は、現実の不平等を緩和するために、第25条は健康で文化的な最低限度の生活保障をうたっています。これが今日の社会保障の憲法的根拠となっているのですが、しかし、政府はこれをプログラム規定と称して、文字通りの生活保障は行っていないことは周知のとおりです。
 要するに、日本国憲法の最大の矛盾は、象徴天皇制とはいえ君主制の存置であり、私有財産権の保障との矛盾であります。もちろん、繰り返しになるのですが、私有財産制の絶対性は、日本国憲法に限らず、ブルジョア憲法のブルジョア憲法たる所以なのですが、やはり、これについては指摘しておかなければならないのです。


5.近代憲法とは何か−−近代革命の成果

 日本国憲法の矛盾の次に、ではそもそも近代憲法とは何か、ということを問題にいたします。小泉首相が国会質問で、「憲法とは何か」と問われて、キョトンとしておったと言われています。小泉さん何学部出身か知らないですけれども、大学の教養課程で日本国憲法の講義をちゃんと受けてこなかったのかも知れません。
 近代憲法と言うものは、絶対主義王政の権力を制限することから始まったわけであります。絶対主義権力は、中世の君主と違い、諸侯に優越する武力と官僚機構を整備することによって全国支配をなしたわけですが、但し、絶対君主が卓越した武力をもっているという事実だけでは、全国を統治することができませんでした。絶対主義君主は、武力と同時に、絶対主義君主の統治が正当である、という正当性原理を持っていなければなりませんでした。これは、権力一般についても言えることです。だからルソーは、有名な『社会契約論』の中で、支配を維持するためには、支配者はその統治を権利と考え、支配される者が服従を義務と感じるような関係を作らなければならない、といっていますが正にそのとおりなのです。

 君主の正当性を理論づける中世の代表的な考え方に、王権神授説という考え方があります。これはどういう考え方かと申しますと、旧約聖書では、アダムとイブが人類の始祖であり、神様はアダムに地上の支配権を与え、そのアダムの統治権を継承したのが地上の王様たちだ、というのです。
 ところで、ルソーはこの王権神授説をうまく皮肉っています。王権神授説がなぜおかしいかといえば、旧約聖書には人類はすべてアダムの子孫と書いてあるが、そうすればアダムの子孫であるわれわれ庶民にも統治権があるはずではないか、と。もちろん、君主たちは、このようにいわれると困るでしょう。だから中世の君主たちは、どういう風に自分の支配権を正当化したかというと、ローマ法王が認めた君主が本当にアダムから地上の支配権もらったのだ、これ以外の人には正当な統治権がないのだ、と。だから、神聖ローマ皇帝がローマ法王の破門を解いてもらうために雪空の中、三日三晩立ち尽くして許しを請うた「カノッサの屈辱」といわれる中世の事件も生じました。一方、教会は君主の権力によって財政的、政治的にその地位を保障されるという、切っても切り離せない関係だったのです。だから、エンゲルスは、「まず国家権力を倒そうと思えば、まずは教会による後光からはぎ取らなければならない」と、うまいことを言っています。

 天皇制はどういう考えに立っているかといえば、大日本帝国憲法はやはり王権神授説の一種を説いています。ただ、ヨーロッパと違うところはどういう所かというと、権力は天照大神から神武天皇へ、そして歴代天皇へと承継され、しかも天皇は現人神であるから政治と宗教は分離されていない、という祭政一致であります。言い換えれば、ヨーロッパの王権のように、地上の君主と宗教上の王様とは別人格で、前者の正当性は後者によって保障してもらう、というシステムとは異なるのが日本の天皇制です。だからまた、日本の天皇制は、ヨーロッパの君主制と異なってより神秘性のヴェールにくるまれているのです。

 王権神授説に対抗して、17、18世紀の革命はどういう原理に基づいてその正当性を主張したのかということを見てみましょう。革命勢力は王権に対する新しい権威を創出しなければならないのですが、では、王権に対して何を打ち出したのか、ここが重要なのです。王権を保障する神様の権威に対して、人間の権利を打ち出したわけです。人間が生まれながらにして、権利を持っており、神様の権威より偉いんだ、我々はその権利に基づいて革命を起こすんだ、と主張したのです。これは17、18世紀の新しい考え方であります。これを自然権(natural right, right of nature)といいます。およそ人間である限り、王様でも侵すことのできない権利つまり自然権を持っているのだ、と主張したのです。今の言葉では、基本的人権と言い換えてもよろしい。人間性のことをhuman natureと言いますが、ここにいうnatureは本質という意味もあるし、自然という意味もあります。Right of nature のnatureとhuman nature のnature は共通しています。 およそ人間として生まれたからには、生きる権利を持っているんだ、と言って自然権論の始祖となったのが17世紀イギリスのホッブズです。ところが、各人が各人の生きる権利を主張すると権利同士が衝突して戦争になる。そこで、人々の間で権力を作って秩序を保とう、ということになり、理性の法である自然法(実は人間の理性のことなのですが)の導きによって約束=契約して権力を作った、というのが社会契約論の考え方です。ホッブズの時代は、社会的、政治的混乱が激しく、秩序樹立が第一義的課題であったので、ホッブズ自身は、秩序優先ですから、一旦樹立した国家に対する抵抗権を認めなかったのです。その後、ロックやルソーが出てきました。17世紀後半に活躍したロックは社会契約論者なのですが、もし政府が人民の意図に反する政治を行った場合、人民は政府に抵抗してもよろしいと唱えました。いわゆるイギリス第二革命擁護論を展開したのです。ただし、この革命後に成立した「権利章典」は、市民の諸権利を保障したのですが、それは自然権論に基づく権利保障ではなく、王権と臣民との約束という、封建契約の形式を取っています。つまり、君主は臣民による忠誠を代償として臣民に保護を与える、という考え方です。ブルジョアジーが、自分の権利として諸権利を打ち出すほどにはまだ歴史的に成熟していなかった、ともいえます。

 なお、ヨーロッパ中世には、封建契約の考え方に基づいて暴君放伐論(モナルコマキ)という考え方もありました。もし、君主が臣民に対して暴政を強いる場合には、臣民は暴君に従う必要はなく、これを放伐してもよい、という考え方です。余談ですが、日本でも江戸時代にはこれによく似た考え方もあり、「君主押し込め」といって暴君を家臣が懲らしめたこともあったそうです。しかし、「君、君たらずとも、臣、臣たらずべからず」といって、君主に対する絶対的服従を強いたのが官学たる朱子学でしたが、これが江戸時代を支配した考え方でした。日本では、ブルジョア階級の成熟が遅れたため、自生的な形ではなかなか自然権論は生まれなかったのです。
 18世紀半ばのフランスにルソーが登場し、社会契約論は一新されます。ホッブズの社会契約論が絶対主義王政やクロムウエルのごとき独裁者を正当化したのに対して、ルソーは人民の構成する人民集会に主権を譲り渡し、この主権はオールマイティーの権力を持っているとする人民主権論を展開しました。この人民主権論こそフランス大革命を生み出した思想的源泉である、といってさしつかえはありません。
 世界で最初の近代憲法と言われるものは、ヴァージニア権利宣言やフランス人権宣言だといえます。これらは、人民革命の成果として、初めて自然権論に基づく、人権保障を高らかにうたいあげたのです。フランス人権宣言は、勝利したブルジョアジーが国王ルイ16世にその履行の約束をさせたものであり、ヴァージニア権利宣言は急進派人民が保守派のブルジョアジーの反対を押し切って定めたものです。いずれにしても、近代憲法は、政府が守るべき規範として出発したのです。

 近代憲法はブルジョア革命の成果であり、ブルジョアジーは自らの権利を最高法規としての憲法に書き込み、これを守ろうとしたのです。ところが、19世紀に労働者階級が大量に登場してくると、支配階級に上ったブルジョアジーにとって困ったことが生じてきたのです。労働者の組合活動や政治活動です。ご承知のとおり、イギリスでは18世紀の終わり頃に産業革命が起こります。フランスでは少し遅れて1830年代です。しかし、いずれにしても、この結果、急速に労働者階級が大量に登場してくることになります。労働者階級は最初、きわめて厳しい搾取の下におかれました。エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』において、またフランスではゾラが『ジェルミナール』で活写しているとおりです。日本でも細井和喜蔵の『女工哀史』が有名です。機械生産の導入によって、子供や女性の工場進出が可能になり、その分だけ賃金は下がり、労働時間は14時間前後で、およそ非人間的な生活を強いられました。その結果、労働者は最初、機械の導入が悪の根源だと考え、ラッダイト運動(イギリス)やサボタージュ(フランス、現代の怠業という意味ではなく暴力的な)など機械打ちこわし運動を行ったのですが、これらは、いたずらに警察や軍隊によって弾圧されるだけでした。そこで、組合運動が始まります。しかし、組合運動だけでは、労働者の生活の改善は不十分だということとなり、労働者の政治運動が起こります。その最初の目的は普通選挙権獲得運動でした。イギリスでは1830年代半ばから1840年代半ばまでチャ―ティスト運動が大規模に展開されました。これが最初の労働者階級独自の政治運動となりました。フランスでは、普通選挙権獲得運動は、1830年七月革命や1848年二月革命に発展しました。

 ところが困ったのは、権力を握る大ブルジョアジーとか大地主階級でした。選挙権というのはそもそもブルジョアジーが封建階級から勝ち取ったブルジョア的権利であり、デモや集会の権利は人権として憲法に登録した自分たちの権利だったのです。このような権利を今度は労働者階級が要求し始めたのです。つまり、ブルジョアジーが封建階級から勝ち取った権利を労働者階級がブルジョアジーに反抗する権利や手段として使い始めたのです。だから労働者階級の選挙権よこせという運動が非常に盛んになりまして、そして、フランスでは19世紀の中頃、イギリスでは19世紀後半に、労働者階級は男子普通選挙件を獲得します。
 労働者階級はブルジョア政府と闘うために、もともとはブルジョアジーが勝ち取った権利を、今度は労働者階級の権利として押し出していく。だから、ブルジョアジー達がせっかく封建勢力と闘うときに勝ち取った自分たちの権利が非常に危ないものになっていくわけです。攻守逆転してしまうということです。かつて17世紀から18世紀には、ブルジョア階級が基本的人権、当時の言葉で言えば自然権というものを獲得するために闘った。今度は逆に19世紀以降は労働者階級が、基本的人権を獲得し、これを使って、ブルジョア政府と闘う、そういう逆転です。これが、今日までも続いているわけです。だから我々はブルジョア政府と戦う武器として、日本国憲法に定められている諸権利を守ろう、という当然の要求が出てきます。

 ここで少し、込み入った話になるのですが、自然権=基本的人権にも矛盾があることを認識しておかなければならない、ということです。19世紀ドイツにおいて、ユダヤ人解放をどのように成し遂げるのか、というのが一つの重要な政治的課題でした。一つの考え方(バウアー)はユダヤ教を放棄して公民として解放されなければならない、というものでした。これに対してマルクスは、公民としての解放、つまり市民的諸権利=自然権を獲得することは政治的解放にとどまり、真の解放とは人間的解放なのだ、と主張しました(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。マルクスはまだここでは社会主義という言葉を使わずに人間的解放といっていますが、その意味は社会主義的解放なのです。では、なぜ公民としての解放に限界があるかといえば、公民の基礎たる自然権は、私有財産制を基礎とする権利だからだ、と主張しました。つまり、あらゆる自由権の本質は、「私的財産権の自由な行使」にあるのだ、と喝破したのです。マルクスの言いたかったことは、もちろん自然権がつまらぬものだということではなく、さらに前に進んで、自然権の歴史的基礎たる私有財産制の転覆こそが人間解放につながるのだ、ということです。


6.閑話休題

 マッカーサー憲法草案にも面白いことが書いてあるのですよ。簡単にいえば、土地とか天然資源の最終の所有権を国家に認めよう、ということです。今頃国有になっていたら土地バブルもなかったでしょう。もちろん、日本政府はこれに猛烈に反対しました。押しつけ憲法、押しつけ憲法とよく言いますが、これは押しつけられなかったのです。日本政府は跳ね返しました。敢然として、これは認められない、と。まあマッカーサーの方もそんなに重要視していませんでした。あっさりとこの条項は引っ込めてしまいました。このような条項が草案に現れたのは、憲法草案作成時に、ニューデイラーといって、アメリカの左翼の人たちが憲法策定に参加していたのですが、彼らが社会主義憲法も一生懸命勉強したことに原因があるのだろう、と私は推測しています。

憲法制定過程

 もう30分しかありません。標題のようなことを話すには膨大すぎて時間が足りません(笑い)。ちょっと端折りますけれど。政治研究者として、一番関心のあるのは、憲法制定の政治的過程における、天皇制、戦争放棄、国民主権の問題です。簡単に言えば、大日本帝国憲法と日本国憲法の違いは何かというと、もちろんその第一は主権の所在です。それに関連して天皇の地位です。ただし、日本国憲法と大日本帝国憲法が全く断絶しているのかというとそうではない。なぜかというと、日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正の手続きに従って行われている。一つの形式的連続性があるというわけです。一般にいいますと、君主が制定するのが欽定憲法、人民が制定するのが民定憲法なのです。日本国憲法批判の重要な論点の一つは押し付け憲法論ですが、大日本帝国憲法こそ押しつけ憲法なのです。なぜかと言うと、大日本帝国憲法は秘密のうちに枢密院で草案を練って、別に国会で審議もなしに国民投票したのでもなしに突然、天皇の名よって公布されたものです。これこそ、国民に一方的に押しつけた憲法に他ありません。
 日本国憲法はご承知のように、議会で、これはまだ帝国議会だったのですけれども、最後の帝国議会で審議して成立しました。一応は、普通選挙に基づいて成立した議会で審議したことで民定憲法に近いんです。そこで、私は、このような言葉は無いのですけども、半民定憲法といっています。

 次に、国家形態ですが、これは政治的な見方と法律的な見方を少しだけ区別します。というのは、戦前の憲法は法律的には立憲君主制なのです。立憲君主制とは憲法によって君主の権限を抑制すると言う意味なのですけれども、戦前の憲法には一応は第4条で天皇は憲法の条規に従うと書いてあり、そういう意味では立憲君主制の体裁とっています。美濃部達吉はこれに注目して、天皇機関説を唱えたことは周知のとおりです。だが、同時に憲法は天皇主権制をとり、天皇に無制限に近い権力を与えているので、政治的には、天皇制絶対主義といえます。絶対主義とは専制と理解してもらって結構です。
 日本国憲法も法律的体裁としては立憲君主制を採用しています。しかし、主権が国民主権に転換し天皇は内閣の助言と承認の下に国事行為のみを行うことになっており、議会が国権の最高機関と位置づけられ、実際の政治権力は独占ブルジョアジーが握っている、という意味で政治的にはブルジョア君主制=ブルジョア議会制といえます。
 だだし、国民主権の問題で言っておかなければならない重要なことは、日本政府が、マッカーサー草案にあった国民主権意思(sovereign will of the people)を国民至高意思(supreme will of the people)に置き換えようとしたことです。マッカーサー司令部は一旦はこれを認めましたが、ソ連そのほか連合軍が加わる極東委員会の強い助言によって、国民主権意思という文言が蘇りました。

 では、日本国憲法では、主権についてどのように規定されているかをも見ましょう。これは前文と第1条にあります。前文では「主権が国民に存することを宣言する」とあり、第1条では、天皇の地位を規定するにあたり、天皇の地位は「主権の存する国民の総意に基づく」とあります。だが、重要なことは、これは国民主権規定が独立の条項として規定されていない、ということです。ちなみに、戦後、王政を廃して成立したイタリア憲法では、「イタリアは労働に基礎を置く民主共和国である」と明記しています。
 ところで、日本政府は本音では、大日本帝国憲法を変えたくなかったのです。日本政府は、ポツダム宣言を受け入れた以上、憲法改正はやむを得ないと考えたのですが、最小限度の改正でお茶を濁したかったのです。日本政府は憲法改正草案として「松本案」というものを準備したのですが、これは大日本帝国憲法のテニオハを変えただけの、反動的な草案でした。これが、1946年2月1日の「毎日新聞」によってスクープされてしまったのです。国民も驚き憤ったのですが、マッカーサー司令部も驚きました。こんな草案では、2月26日に発足する極東委員会の承認を得られないことは分かりきっていたからです。
 極東委員会というのは、ソ連がアメリカの単独対日占領にブレーキをかけるべく設置を要求した委員会であり、この委員会が日本の憲法問題に関する最高決定権を持つことになっていました。だが、マッカーサー司令部は、アメリカ独占的な対日占領政策を守るために、極東委員会が憲法問題に介入する前に、自らのイニシアティブの下に日本国憲法を仕上げたかったのです。したがって、マッカーサー司令部は、昼夜を問わない突貫作業で日本国憲法草案を仕上げたのです。

 マッカーサー司令部は、日本国憲法草案を作成するに当たっては、まず、帝国主義ライバルとしての日本帝国主義の弱体化を第一目標としましたが、その方法としてブルジョア民主主義化を推し進めました。これはちょうど、アジア・太平洋戦争の世界史的性格を反映したものです。アメリカ帝国主義と日本帝国主義の戦争は中国の植民地的利権を、続いて東南アジアの植民地的支配をめぐる帝国主義戦争でした。この限りにおいて、日米いずれの側においても正義なき帝国主義戦争でした。ただし、アメリカ帝国主義が、対日解放戦争を戦う中国政府と民衆を援助する形で戦争を行った結果、アメリカ帝国主義の戦争は反ファシズムの性格を持ちました。さらに、戦争は日米戦争だけではなかったのです。日本帝国主義は、アジアの民衆とも戦いました。ベトナム、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシアの当時ゲリラと呼びましたけれど、アジア民衆の民族解放闘争との戦争でもありました。ソビエトも、ヤルタ協定に従って対日戦争に参加しました。スターリンの思惑とは別に、ソ連の参戦は客観的には反ファシズムの国際戦争の重要な一環でもありました。したがって、アジア・太平洋戦争は全体として見た場合には、反ファシズム戦争とファシズム戦争であり、反ファシズムが勝利した戦争でした。
 そこで、マッカーサーは次の3原則の下に憲法草案作成を命じました。@天皇制を維持する、ただし天皇制を維持すると言うことになれば極東委員会も日本に痛めつけられた諸国も絶対に承伏しない。A日本による今後の脅威を取り除く担保として、戦争放棄を明記する。B軍国主義が復活しないために、封建制の遺物を一掃する。なぜ日本に天皇を残したかったのか? それは、アメリカが日本占領をスムーズに行うため、また社会主義革命を防ぐためには天皇の権威を利用する必要があったからです。但し、絶対主義的天皇では極東委員の承認を得られるはずもありませんから、形態としては象徴天皇制としました。天皇制は天皇制は残すが、しかし、日本を再び軍国主義国家にしないために戦争は放棄させる、この二つの抱き合わせでマッカーサーは日本国憲法問題を乗り切ろうとしました。
 ところで、当時の幣原内閣はマッカーサーの案に猛抵抗しました。マッカーサーの原案は今の日本国憲法にほぼ近いと思ってください。その時にマッカーサーには脅し文句がありました、「そんなことと言っておれば、天皇制は国際的に承認を得られないぞ。」ということでした。今度はね、アメリカが天皇制をテコにして日本政府に今の日本国憲法の原案を飲ませたのです。押し付けた、といってもよろしい。

 最後に極東委員会の役割を一言述べて、話を終わらせていただきます。一般に、憲法制定過程における極東委員会の役割については高い評価が与えられていません。確かに、ソ連の他、中国も入っていたのでありますが、中国代表は蒋介石政府が代表し、アジア全体としても真に民衆を代表する勢力は参加していませんでした。しかも、極東委員会発足以前に、憲法草案の骨格は決められていました。だが、ここで見落としてはならないことは、極東委員会の存在そのものが、マッカーサー司令部を強く牽制していたことです。マッカーサー草案そのものが急遽作成され、しかも極東委員会の強い反対を受けないように細心の注意が払われており、また、日本政府にマッカーサー草案を飲ませるために極東委員会の存在が強く示唆された諸事実などに、それがよく示されています。さらに、日本政府が、マッカーサー草案にあった国民主権意思をこっそりと国民至高意思の変えたことをマッカーサー司令部は看過したのですが、先に紹介しましたとおり、極東委員会の指摘によって、国民主権意思が蘇ったことは極東委員会の最も重要な功績といえるでしょう。


2007年3月21日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




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