2004年8月:“ナジャフの戦い”の政治的・軍事的意味
◎ファルージャに続きナジャフでも米軍は敗北。
◎米・傀儡政権主導の総選挙シナリオが破綻の危機に。
◎軍事力でイラク民衆を屈服させることはもはや不可能。
◎米・多国籍軍は占領をやめ撤退する以外に道はない。


[1]はじめに−−「ナジャフ」は全体の一部。最近のイラク情勢を見る幾つかのポイント。

 イラクのナジャフを中心に8月5日から3週間にわたって戦われた米軍とシーア派のサドル師・マハディ軍との戦闘は、8月26日の「停戦合意」で一旦は小康状態に入った。しかし9月に入って8〜9日頃から再びイラク全土で戦闘が激化し始めている。

 「ナジャフの戦い」と8月のかつてない激しい戦闘は、イラク政治の中で一体どんな政治的・軍事的意味を持っているのであろうか。最新のイラク情勢を捉える幾つかのポイントを見てみたい。
 第一に、ナジャフの戦闘は確かに“天王山”ではあるが全てではないということである。新聞やテレビなど日本のマス・メディア、そして私たちも、ナジャフの緊迫した情勢に釘付けになったが、ナジャフを孤立した現象として捉えてはならない。実際にはイラク全土で今年4月に匹敵するか、あるいはそれを上回る激しい戦闘が繰り広げられ、幾つかの地域では4月に起こった大衆蜂起のような状況を呈した。米軍と武装勢力との激戦が、地理的にイラク全土に広範に拡散(wide geographic dispersion)しているのである。幾つかの数字を見てみよう。

−−ニューヨークタイムズ(9月8日付)の記事に掲載された米軍への襲撃件数のグラフを見て欲しい。今年3月の700件から、4月、5月の1700〜1800件へ、そして8月には一気に2700件へ何と3月の4倍に跳ね上がったことが分かる。


米軍への攻撃の急増
(「ニューヨークタイムス」truthout.orgより)


−−グローバル・セキュリティによれば、8月の米兵の死亡者数は、昨年5月の戦争終結宣言以降で4番目に高い66人が犠牲になった。しかしここで特筆すべきことは負傷者が1112人にのぼったことである。開戦以来最も高い数字であり、4月の876人を3割も上回る。戦闘の激しさを物語るものだ。
※「U.S. Conceding Rebels Control Regions of Iraq」By ERIC SCHMITT and STEVEN R. WEISMAN The New York Times September 8, 2004 http://www.truthout.org/docs_04/090904Z.shtml
※「GlobalSecurity.org Casualties in Iraq」http://www.globalsecurity.org/military/ops/iraq_casualties.htm


米兵の死亡者数の月別推移(「グローバル・セキュリティ」より)


米兵の負傷者数の月別推移(「グローバル・セキュリティ」より)


−−ワシントン・ポスト(9月9日付)によれば、8月の米軍死者の3分の1以上は、イラクの西部アンバル州の戦闘でのものだ。そこには海兵隊が駐屯していたが、海兵隊だけで8月の死者は32人にのぼった。この数字は海兵隊にとって開戦以来2番目に高い数字だという。

−−また同紙によれば、戦闘の性格も様変わりしたという。従来の道路爆弾や地雷などによる死亡ではなく、都市部でのゲリラ戦、接近戦、自爆攻撃、つまりイラク武装勢力との直接戦闘による死亡がほとんどである。
※「U.S. Troops' Death Rate Rising in Iraq」By Thomas E. Ricks Washington Post Staff Writer Thursday, September 9, 2004
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A6756-2004Sep8.html?nav=rss_nation%5C%22
http://www.uruknet.info/?colonna=m&p=5468

−−以上を総合すれば、8月のイラク全土での衝突は、反米武装勢力が1日当たり100件もの襲撃をイラク全土で同時に、しかも連続して組織する力を持っていることを示している。後方支援、情報提供、武器の製造と流通等々、相当規模の組織力がなければできないはずだ。米軍と反米武装勢力との熾烈なつばぜり合いの中で、武装勢力側が反転攻勢に出ていることを窺わせるものである。私たちの予想を超える事態が起こっているのだ。

 第二に、米軍が突入できない「ノー・ゴーゾーン」(No-Go Zones)、武装勢力の「解放区」のような地域がイラク中部、南部を中心に拡散していることである。ファルージャ、ラマディ、バクバ、サマラなどスンニ派三角地帯、シリア国境のタル・アファル等々。米軍や傀儡政権の軍事力と権力の及ばない部分が、4月の「ファルージャの戦い」以降、急速に広がっている。今回の停戦で双方が撤退したナジャフやクーファ、バグダッドのサドル・シティも「準解放区」の様相を呈している。米と暫定政権にとってこれは、来年1月に予定している総選挙が、少なくともこの地域では困難あるいは不可能であることを示すものである。
※「Rebels Begin to Control More Areas in Iraq」by Peyman Pejman September 10, 2004 by Inter Press Service http://www.commondreams.org/headlines04/0910-24.htm
※「One by One, Iraqi Cities Become No-Go Zones」by Dexter Filkins, New York Times September 5th, 2004 http://www.occupationwatch.org/article.php?id=6637

 第三に、米軍や暫定傀儡政権の思惑、シスタニ師とシーア派多数派の思惑、そしてサドル師の思惑をも越えて、イラク人民大衆の反米感情と反米意識、反米闘争への強い意志はイラク情勢を根底から規定しているということである。圧倒的軍事的優位にある米軍がアリ廟に突入できなかったのも、米軍のナジャフ突入から停戦合意に至る過程でのシスタニ師の複雑な動きも、これを根本的に規定したのはイラク民衆の意識と運動の反米主義的民族主義的高揚である。

 第四に、米軍は完全に治安維持のコントロールを失っているということである。制空権を掌握し軍事力で圧倒的優位に立つ米軍が、“イラク人民の海”の中でのゲリラ戦、都市型接近戦、陣地戦を強いられ、苦戦している。4月のファルージャに続き、8月のナジャフでも米軍は敗北した。米軍にとっての軍事的優勢と政治的劣勢−−この“特異な情勢”の下で米軍は疲弊・疲労困憊し、士気を低下させ、攻撃と破壊をすることでかろうじて戦意を保っている。イラク民衆は一歩一歩米軍と多国籍軍を追い詰めている。

 そして最後に第五に、4月のファルージャでの米軍の敗北がスムーズな「主権委譲」を困難にせしめたものであるとすれば、今回のナジャフでの米軍の敗北は、来年1月の米・暫定政権主導の総選挙、新しい親米傀儡政権樹立の展望を挫折させるだろうということである。親米政権の下で米軍が居座る「出口」シナリオは完全にふさがれた形になった。米英軍、多国籍軍が撤退する以外に道はなくなったのである。
 先のワシントンポストの記事で軍事専門家が指摘するところでは、来年1月の総選挙に向かって衝突は更に激しくなる、現在のイラクは「永続戦争」(protracted war)への道に踏み込みつつある、あるいはイスラエルが最後的に武装勢力によって叩き出された南部レバノンの占領支配の末路に似ていると言う。文字通り「泥沼化」と言うにふさわしい状況が現出している。
※イラクの抵抗運動終わらなくても選挙は延期せず=米国務長官(ロイター)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040913-00000948-reu-int
 パウエルとライスは9月12日、ラムズフェルドは10日、これらブッシュ政権主要閣僚が揃って、イラクでの武装抵抗運動が来年1月の総選挙までに終息する見込みがないとのの認識を示す一方、あくまでも選挙を強行する姿勢を示した。彼らはイラクを更なる混乱の淵に投げ込むつもりだ。

 米軍はもはや治安維持のコントロールを完全に失い、攻撃が自己目的になり虐殺のための虐殺をするしかない存在になっている。ナジャフでの「停戦合意」は破棄寸前の状況である。9月12日、バグダッド中心部や近郊で戦闘や爆発が相次ぎ、イラク人ら計59人が死亡、約200人が負傷、子供や取材中の記者も犠牲となった。また、タル・アファルの戦闘でも51人が死亡。ラマディでもイラク人10人が死亡、40人が負傷した。
 国連のアナン事務総長は9日、治安状況が改善するまで国連イラク支援団(UNAMI)の外国人要員を35人に制限する方針を明らかにした。今のままでは国連職員の警護に五百数十人の要員が必要だとし、増員要請を断った形だ。また、バグダッドで非政府組織(NGO)のイタリア人女性2人が拉致された事件を受け、イラクで活動を続ける国際的NGOが撤退する動きが広がっている。
 欧米の経済界に影響力のある企業エリートの新聞フィナンシャル・タイムズは遂に9月10日、その長い社説において「イラクから撤退する時だ−−米軍は解決の一部というより問題の一部である」と開戦以来、初めて明確な態度を示した。
※「Time to Consider Iraq Withdrawl」Editorial September 10, 2004 by the Financial Times/UK
http://www.commondreams.org/views04/0911-26.htm

 「ナジャフの戦い」は以上のようなイラク情勢の全体の流れの中で、その集中点として勃発したものである。以下具体的に検討してみよう。



[2]米・暫定政府の“1月総選挙シナリオ”が破綻の危機に瀕する。

(1)ファルージャに続きナジャフでも米軍は敗北し撤退を余儀なくされた。
 8月5日から始まった、サドル師の殺害とマハディ軍の壊滅を目的とした米軍のナジャフ掃討作戦は完全に失敗した。20日以上に及ぶ激しい空爆と砲撃、激しい銃撃戦、掃討作戦によっても、米軍はナジャフを落とすことが出来なかった。米軍は、サドル師とシスタニ師の間で8月26日に確認された、ナジャフ及びクーファからの外国軍の撤退を趣旨とする「停戦合意」に従わざるを得なくなった。米軍は圧倒的に優位な軍事力を投入しながらマハディ軍とイラク市民の抵抗の前に政治的に大敗北を喫したのである。ファルージャに続いて、ナジャフからも米軍は叩き出されたのだ。


     
ナジャフの戦闘 / 米軍によるナジャフへの空爆 (AFP; BBC NEWSより)

 ファルージャとナジャフでは、もちろんその戦闘の性格も「停戦」に至る過程も、政治的意味も全く異なる。ファルージャでは米軍は2000人の海兵隊で包囲し、空爆と戦車による侵攻、狙撃によって無差別殺戮を行い、700人とも1000人とも言われる無防備の一般市民を文字通り大虐殺した。しかし米軍は、ジュラン地区やハイナザール地区での米軍の侵攻に対する市民の総反撃によって大損害をを被り、停戦交渉を受け入れ撤退を余儀なくされた。その中心を担ったのは民衆に支持されたスンニ派の反米武装勢力である。海兵隊はかつてない犠牲者を出しながら、市街戦で敗北し叩き出されたのだ。いわば“軍事的敗北”である。
※「ファルージャの大虐殺を今すぐ中止せよ!」(署名事務局)
※『米軍はイラクで何をしたか』(土井敏邦 岩波ブックレット)
※『ファル−ジャ 2004年4月』(益岡賢+いけだよしこ=編訳 現代企画室)
    (署名事務局書評

 一方ナジャフでは、聖地アリ廟に籠城しそこを中心に反米武装闘争を闘うシーア派民兵、それを支持し「人間の盾」となって集結した数千人〜1万人の群衆、そして最後にシスタニ師によって動員された数万の群衆の力によって、政治的に後退を余儀なくされ撤退を押しつけられた。いわば“政治的敗北”である。米軍は最終的にアリ廟に突入し軍事的に壊滅作戦を強行してイラク人民の反米感情に火をつけることを恐れたのである。スンニ派が多数派を占めるファルージャだけでなく、宗教的多数派であるシーア派の拠点ナジャフでも敗北した意味は決定的に重要である。


(2)メドが立たなくなった「1月総選挙」シナリオ。
 ブッシュ政権は、前倒しし大慌てで強行した6月末の「主権委譲」に続いて、延期を余儀なくされた国民大会議を8月に実施し、来年1月の総選挙に広範な政治・宗教諸勢力を取り込んで成功させるというシナリオを描いていた。

サドル派はナジャフから撤退せよと要求するアラウィ首相 (IslamOnline.netより)
 イラク問題はブッシュ再選にとっての最大のネックである。治安情勢の安定、国民大会議の招集は万難を排しても8月30日〜9月2日にかけての米共和党大会に間に合わせなければならなかった。そのために、目下の最大の抵抗勢力であるマハディ軍の壊滅とサドル師の逮捕・殺害を行い、治安安定と国民大会議の成功を印象付けなければならなかった。選挙終盤に向かって追い風を作り出そうとしたのだ。

 一方イラク現地の米軍にとっては、すでにファルージャが米軍のコントロール不能な地域になっており、米兵の士気を維持するためにも、ナジャフで戦果を挙げるとともに米軍への脅威を取り除く必要に迫られた。アラウィ首相にとっては、国民大会議のボイコットを明言するサドル師を逮捕・殺害しマハディ軍を壊滅できれば、国民大会議を諸勢力の参加の下での開催の体裁をとることが出来、自己の政権基盤を安定化させることが出来ると踏んでいた。

ところがこのシナリオはことごとく崩れた。米軍はナジャフ掃討に失敗し、国民大会議は紛糾、米兵の犠牲者は開戦以降1000人に達し、アラウィ暫定政権は崩壊と分裂の危機に陥ったのである。
※「Tomgram: Schwartz on Americans rolling the dice in Najaf」
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=1677
※「ナジャフ攻撃はブッシュ再選への賭け!?」星川淳@屋久島発インナーネットソース」の番外ウェブログ 2004年08月12日 http://blog.melma.com/00067106/20040812233023


(3)撤退か泥沼か−−2004年8月は「主権委譲」後イラクの“ターニング・ポイント”に。
 「停戦合意」後、米軍がファルージャやナジャフに対していかなる対応を取るのか、サドル派とイラク民衆が反米・反占領の闘いをどのような形で構築していくのか、米国の傀儡であることを露呈したアラウィ暫定政権がどうなるのか、シスタニ師のイラク政権との距離感はどうなっていくのか、今のところ不透明である。

 しかし、米軍がナジャフから叩き出されたこの2004年8月は、「主権委譲」後のイラクにとって大きな“転換点”になるのは間違いない。すでにファルージャとアブグレイブが、イラク民衆の意識を大きく変える転換点になった。8月のナジャフは、形の上では「停戦合意」という痛み分けであるが、実際には米軍・傀儡政府の敗北とサドル師・マハディ軍の勝利を意味する。米による自分勝手なシナリオ、つまり米軍占領下での米主導の「1月総選挙のでっち上げ→親米政権(新たな傀儡政権)樹立」コースが完全に崩れ、イラク植民地化に何の展望も持てなくなったことを示している。ファルージャとスンニ派三角地帯でも、ナジャフとイラク南部・中部でも、広範囲の地域で米軍もアラウィ政権も反米武装闘争を軍事的に叩きつぶすことも、政治的に取り込むこともできなかったのだ。

 こうなれば後に残された道は、長期にわたっていつ終わるとも分からない戦争の泥沼化の中で大量の出血を余儀なくされながら、反米武装勢力と何の展望もないまま戦い続けるのか。それとも潔く米英軍・多国籍軍がイラクから全面的無条件に撤退する道か。二つに一つしかないのである。
※「Standoff bolstered Sadr's support」http://www.christiansciencemonitor.com/2004/0830/p04s01-woiq.html
 米クリスチャン・サイエンスモニター8月30日付のこの記事は、現状は米軍の「終わりの始まり」であり、暫定政府にとっての「ターニング・ポイント」であると述べ、シーア派の諸政党だけでなくスンニ派さえもが米軍の撤退のために共闘していることことを示唆している。イラク暫定政権の正当化にとっての大きなステップとなるべきであったナジャフ攻撃が、全く逆効果になってしまった。2003年の5月より「今こそ米軍の撤退を」をスローガンとしてサドル師が進めてきた運動が、2004年8月に、イラク政治全体の中心に躍り出た、と言う。しかしそれ故、今後の数週間が重大な攻防になることも付け加えている。



[3]巻き返しと局面転換を狙い周到に準備されたナジャフ攻撃と1000人に及ぶ大虐殺。

(1)サドル派のナジャフ、サドルシティへの支配強化=「解放区」化と米軍の危機感。
 今回の米軍によるナジャフ攻撃は、すでに述べたように米軍と反米武装勢力との間でここ数ヶ月激化している一連の衝突の一部である。突然起こったのではない。マハディ軍は今年4月、5月以降サドルシティ、ナジャフ、アマラに対する自治的な管理を強化・統合し、米軍との目前に迫った衝突を予期して“再軍備”していたと伝えられている。アメリカはサドル派民兵とサドル師の影響力拡大を恐れた。危機感を抱いた米軍がそれに大打撃を与えようとして無差別攻撃に踏み切った。起死回生、巻き返しと局面転換を狙って勝負に出たのだ。
※「Sadr army owns city's streets」By Dan Murphy | Staff writer of The Christian Science Monitor August 04, 2004http://www.csmonitor.com/2004/0804/p01s01-woiq.html?s=ent

サドルシティのマハディ軍民兵
(「english.aljazeera.net」より)
米がナジャフに攻撃をかける前日に出されたこの記事では、サドルシティおよびナジャフでマハディ軍が影響力を拡大していることをレポートしている。サドルシティではマハディ軍が、バグダッドにおいてイラク警察が行っているのと同等の治安システムを構築していたという。街角の要所にマハディ軍が立ち米兵を見ることはまれである。麻薬の取り締まりや誘拐への徹底した対応などで治安を維持し、また、サドル派事務所が医療、教育、仕事などを求める人々の住民サービスを受け入れていることを伝えている。また、ナジャフでは、5月の武装蜂起以降サドル師への支持が急増していることを伝えている。


 ファルージャの敗北以降、「解放区」化したファルージャに米軍が介入できない状況が出現している。この間続いているように「解放区」に対して米軍は空爆で破壊することしかできないのだ。そしてファルージャ型「解放区」は、ラマディ、サマラ、バクバなどスンニ派三角地帯全域に拡大しつつある。この「解放区」が中部・南部のシーア派地域に広がればどうなるのか。米・暫定政府は、シーア派居住地域に第二、第三のファルージャ、第二、第三の「解放区」が拡大することを何よりも恐れた。そこでサドル派が影響力をもつナジャフをはじめとした諸都市への攻撃とそこでのサドル派の徹底的な殲滅を計画したのである。
※「Fearing Big Battle, Residents Flee U.S. Weighs Move on Samarra, Now Controlled by Factions」By Doug StruckWashingtonPost July22, 2004 http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A4196-2004Jul21?language=printer
 この米軍の恐怖は次の将校の言葉が物語っている。すなわち、「ファルージャ・モデル」なるものにサマラを続かせない、「ファルージャがサマラに自身を輸出し、サマラがそれを次の場所に輸出する」というスイレンの葉論を持ち出し、その阻止のために攻撃準備を始めるというのである。


(2)サドル師支持派の壊滅を目的とした米軍の用意周到な計画的大虐殺。暫定政権がお膳立て。
 米軍は、ナジャフの戦闘に先立つ7月初めより、まずはサドル師が影響力をもつサマラを自らのコントロール下に取り戻そうと計画していた。米軍はスペイン軍の撤退後にナジャフを管轄していたポーランド軍にその統制を放棄させ指揮権を奪った。なぜなら、中部の多国籍軍を指揮していたポーランド軍はナジャフでの戦闘を認めないとの命令を出しおり、その下では米軍はナジャフに手を出すことはできなかったからである。
※「Poland yields to US in Iraq zone」BBC10 August, 2004
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/3549842.stm

 そしてナジャフ突入の5日前には、4月のファルージャでの衝突以降ナジャフに駐留していた部隊から「突撃部隊」である第11海兵隊遠征部隊への交替を終え、戦闘準備を整えていた。米軍は用意周到な計画に従って当初から一方的に大規模な攻撃を行うつもりだったのだ。
※「U.S. Says Its Grip on Iraqi Militia in Najaf Is Tight」by Alex Berenson and John F. Burns, New York Times
August 10th, 2004 http://www.occupationwatch.org/article.php?id=6245
※「8-Day Battle for Najaf: From Attack to Stalemate」by Alex Berenson and John F. Burns, New York Times
August 17th, 2004 http://www.occupationwatch.org/article.php?id=6382

 米軍はナジャフでの戦闘の発端が、警察署に対するマハディ軍の襲撃だと大々的に宣伝した。しかしこれは見え透いたウソである。ファルージャの発端がブラック・ウォーター社の社員(傭兵)の殺害だとして米軍が極悪非道な攻撃を開始したのと全く同様の口実に過ぎない。米軍が7月初めからシーア派強硬派の壊滅を狙って軍事作戦を準備していたことは明らかである。

 米軍は今回の墓地や寺院への攻撃がシーア派民衆の怒りを買うことを十分承知していた。だから形の上では、米軍が攻撃するのではない、墓地や寺院への攻撃を許可したのはアラウィ首相であり、攻撃はイラク治安部隊が主体となって行う、米軍はその支援をするだけだ等々、言い訳を取り繕った。しかしそんなウソ・デタラメを信じる者は誰もいない。現地の目撃者らの証言によれば、もちろん攻撃は米軍が中心であり、イラク治安部隊はただ後ろからついて行っているだけだ。アラウィはナジャフでの攻撃と並行して、バグダッドではサドル派が優勢なサドル・シティにも夜間外出禁止令を発布し、米軍の攻撃を支援した。元CIAエージェントであるアラウィは暫定政権自らが米国の傀儡であることを誰の目にも明らかになる形で暴露した。
※「In Western Iraq, Fundamentalists Hold U.S. at Bay」by John F. Burns and Erik Eckholm, The New York Times
August 29th, 2004 http://www.occupationwatch.org/article.php?id=6530
 この記事によれば、ナジャフへの攻撃と並行して、ファルージャでも米軍はスンニ派武装勢力の支配を覆す新しい策謀を進めていた。すなわち、イラク防衛軍の司令官が、民兵支配に対する武装蜂起を8月20日にするという計画であった。米軍が入ることさえ出来ないファルージャでイラク軍司令官を使って暴動を起こし内部から崩壊させようとしたのである。しかし、そのイラク防衛軍の司令官が殺されるという事件が8月13日に発生し、失敗に終わったという。


(3)サドル派の政治的・軍事的・社会的力を過小評価した米軍。
 米軍敗北の裏には、サドル派・マハディ軍に対する政治的、軍事的能力の過小評価がある。米は、旧フセイン政権の軍・警察の関係者が多い手強いスンニ派武装勢力と比べ、また戦車や装甲車などの破壊も含めて大規模な市街戦で撤退を余儀なくされたファルージャと比べて、ナジャフとサドル派を明らかに見くびっていた。5月のナジャフでの大攻勢でマハディ軍を追い詰め「武装解除」まで至ったため、もはや弱体化している、と彼らの抵抗を過小評価したのだ。

米軍撤退まで抵抗すると宣言するサドル師
(「english.aljazeera.net」より)

 そして更にその根底にはイラク民衆に対する人種差別、民族差別と蔑視、“戦争レイシズム”がある。

シーア派にとっての聖地アリ廟の意義、そこに立て籠もりそこを拠点に抵抗するマハディ軍の政治的計算、シーア派教徒の大衆的決起、急速に高まる反米強硬派サドル師へのイラク民衆の支持の拡大等々を、全体として軽くみていた。圧倒的軍事力で一撃を食らわせればすぐに降伏し,抵抗をやめると見くびっていたのである。降伏しない場合どう対応するのか何も考えていなかった。

 もちろんマハディ軍の軍事力だけでは、重装備の米軍に対して天と地ほどの差がある。まともに衝突すれば一溜まりもない。サドル師側のこの決定的弱点をカバーしたのが、聖地アリ廟の掌握と籠城、大衆的決起、“抵抗の象徴”となることによるイラク民衆の支持拡大、つまり政治情勢を自己に有利に利用することであった。

 最近の全国世論調査では、サドル師人気の劇的な増加が示された。6月に発表された調査の1つでは、81パーセントが、3か月前よりサドル師に対する彼らの見方が「よりよかった」「はるかによかった」となり、サドル師が反米の象徴となっていることを示した。墓穴を掘るとはこのことだ。米はその攻撃によってサドル師を反米の象徴に押し上げ、人気が高まったそのサドル師を抹殺しようとして更に彼の権威と名声を高める役割を果たしたのである。
※「Najaf Peace Deal Shows Why US Troops Must Leave Iraq」August 31, 2004 by the San Francisco Chronicle
http://www.commondreams.org/views04/0831-01.htm
 前出の記事同様この記事では、米がサドル師の影響力を過小評価した点について、昨年のイラク侵略と占領支配以降サドル派が、荒廃した貧困街において果たしてきた役割を問題にしている。それによれば、米はサドル師をシーア派の穏健派から孤立したごく一部の「過激派」、「テロリスト」と見なし、完全に甘く見ていた。ちょっと挑発して叩けばマハディ軍などすぐに壊滅できると踏んだのだ。サドル派の新聞を閉鎖しチーフアドバイザーを逮捕し、「聖職者」の殺害の罪でサドル師の逮捕状をとり、一気に追い詰めようとした。
 しかし、サドル師に対する支持はより深いところにあるという。米がサドル師を政治犯扱いする遙か以前から、サドル師の支持者達はイラクの多くの貧しい街やナジャフのような小さな街に根を張り、選挙活動を組織してきた。筆者はそれを「ハリバートンやベクテルのような巨大米企業が送電網や通信システムを構築するのを失敗する中で、サドルの組織は社会機能を構築するために全力を挙げてきたのだ」という。
 昨年9月に出たICGの或るレポートでは、フセイン政権崩壊以降バグダッドの最貧困の街においてサドル派の組織は様々な形で市民の中に入り、治安維持・民生安定のために寄与してきたという。政権崩壊後の数週間で廃品の収集や、病院の食事、交通管制のために東部バグダッドに50000人のボランティアを雇用し、宗教学校を増設した。単なる軍事組織ではなく、住民の中に根を張って支持を取り付けてきたのである。サドル派は「雇用」という、フセイン政権崩壊以降最大の問題で民衆の信頼を勝ち取ってきたことになる。


(4)わずか2週間で700〜1000人の犠牲者が出た可能性。しかし米・傀儡政府の報道管制で被害の実態は隠蔽されたまま。
 ナジャフの戦闘で一体どれだけの犠牲者が出たのか、全く明らかにされていない。米軍・暫定政府がナジャフ突入前に強力な報道管制を敷き、徹底的に情報を封じ込めたからである。アルジャジーラへの退去命令、ジャーナリストらの拘束が相次ぎ、米軍の意を受けたナジャフ警察はホテルに滞在するジャーナリストらに向かって、退去しなければ発砲を始めると脅迫した。米軍の狙撃兵がビルの屋上に陣取り、ナジャフの居住者やジャーナリストらに狙いを付け威嚇した。私たちも、多くのNGOも、これら一連の報道管制と情報封殺は米軍による大虐殺の前触れだと危機感を募らせた。

 犠牲者が相当数出たことは、その戦闘の激しさから類推するすることができる。米軍はナジャフ市街を戦車で包囲して砲撃し、戦闘機やヘリコプターから激しい爆撃を加えた。サドル派はクラスター爆弾が使われたとも主張している。そして今回、墓地に進攻し徹底的な殲滅作戦を行ったのである。ナジャフ市街の墓地は4月のファルージャ以降に結ばれた停戦協定によって米軍の立ち入り禁止区域とされていた。またアリ廟はジュネーブ条約で保護下におかれている。米軍は今回、なりふり構わずサドル師支持者らを一掃しようと、自ら結んだ協定も国際条約も踏みにじって攻撃を開始したのだ。
 戦闘に参加した米兵自身が「ほんの2、3フィートの距離での接近戦となった・・・こんなひどい戦いは初めてだ」というほどの市街戦が行われた。
 武装した民兵と言っても、その多くは米の占領支配に怒り、家族や親族が米軍に殺された、経験も無く戦闘訓練も受けず戦闘に参加してきた若者達である。また市街地が戦場となったことで多数の市民が犠牲になっていることは間違いない。

ナジャフ突入による犠牲と被害の全責任は、突入した米軍とその軍事行動を認めた暫定政権にある。米軍・暫定政府は一体何人の市民・民兵を虐殺したのか、その実態を明らかにすべきである。アリ廟、墓地にどれだけの損害を与えたのか、どれだけの住居や建物を破壊したのか、明らかにすべきである。そして補償すべきである。今回の「停戦合意」では、犠牲者・負傷者に対する補償の責は暫定政権が負うことになっている。当然だ。この点でも暫定政権は大きな譲歩と後退を余儀なくされた。
※「Iraqi police officer seized」09 August 2004,english.aljazeera.net
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/E6B05C12-7C13-476C-B7E7-A873A61634B1.htm=
※「City of defiance」By Donald Macintyre in Najaf 17 August 2004 Independent Digital (UK)
http://www.uslaboragainstwar.org/article.php?id=6101
※「‘Absence Of Witnesses’ In Najaf Battle Slammed」 August 16 IslamOnline.net
http://www.islamonline.net/English/News/2004-08/16/article05.shtml
※「All is quiet in Najaf - for now」BBC20 August, 2004,
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3583524.stm

 ナジャフだけではない。今回の8月のイラク全土での戦闘で一体どれだけの数の市民が犠牲になり、どれだけの数の民兵が死傷したのか、ほとんど明らかになっていない。しかし8月の衝突の犠牲者は、マスコミに登場する数を簡単に集計するだけでも600人から1000人、あるいは1700人にのぼる。連日、数十人から百数十人規模の死者が出ているのだ。
 8月26日、クーファとナジャフで76人が死亡。21〜22日、米軍の空爆で49人がナジャフで死亡。クーファでの戦闘で40人が死亡。19〜20日、77人がナジャフで死亡。20日、50人がバグダッドで死亡。18日、29人が死傷。14日、8人がファルージャで死亡。43人がヒッラで死亡。50人がサマラで死亡。(サマラ、ラマディで150人との報道もあり。)11〜12日、全土で172人死亡(内クートでは75人が死亡)。10〜11日、30人がナジャフ以外で死亡。10日までに100人が死亡(保健省)、米軍は360人の民兵殺害と発表。サドル派は民兵36人死亡と発表。等々。



[4]シスタニ師の二面的で謎めいた動き。結局は同師に泣きついた米・暫定政府。根底で規定するイラク民衆の急進化する反米・反占領感情。

(1)ナジャフの戦闘の局面転換をもたらしたアラウィ辞任を求める大規模大衆行動とアリ廟防衛に結集した「人間の盾」の大群衆。

アリ廟を防衛するため集結した「人間の盾」の大群衆
english.aljazeera.netより)
 米軍は8月5日にナジャフに対する大規模な攻撃を開始し、直後に民兵340人殺害の大本営発表をおこなった。米軍は連日数十人単位で市民を殺害し、8月13日の段階でナジャフの8割を制圧したと発表した。ナジャフの陥落は時間の問題と思われた。すでに米軍は、8月12日に海兵隊の増援部隊を派遣し、アリ廟突入へ更なる大攻勢の準備を進めていた。

 ところが8月13日、バグダッド、サマワなど5都市でアラウィ首相の辞任を要求する大規模なデモが発生した。サマワではアラウィの政党事務所をデモ隊が襲撃し、民衆の怒りの矛先はアラウィ首相に向かった。米軍による聖地アリ廟への攻撃、ナジャフ制圧とマハディ軍のせん滅を目前に控えてイラク各地で民衆の怒りが爆発したのだ。さらにシーア派のみならずスンニ派指導者が米軍の残虐行為を中止させるよう国際社会にアピール、ナジャフ副知事や地元評議会メンバーが抗議して辞任を表明するなどの事態に陥った。一方アリ廟には2,000人のイラク市民が「人間の盾」として集結し米軍の攻撃を阻止しようとしていた。
※「Iraqi 'human shields' flock to Najaf」16 August 2004 english.aljazeera.net
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/01277CBF-0075-4BD2-86D6-F772FFC50E82.htm


(2)国民大会議の大混乱と暫定政府崩壊の危機。
 このような中で8月15日に国民大会議が始まった。国民大会議は冒頭から紛糾し、「空爆がおこなわれている時に会議を開催できない」「ナジャフ作戦が中止されないなら会議をボイコットする」などナジャフ問題を最優先するよう発言が出る中、参加者が次々と退席した。

 国民大会議は17日に交渉団をナジャフに派遣しサドル師との停戦交渉に臨んだが、サドル師はこれを拒否した。もともと国民大会議をボイコットしているサドル師にとっては当然の結果であった。同じ日、バグダッドの会議場では諮問評議会のメンバー選出を巡って、およそ450人が「主要政党が会議を独占し選出の主導権を握っている」「大半のメンバーがすでに秘密裏に選ばれている」と反発、選出手続きを変えない限り投票をボイコットする構えを見せて紛糾した。国民大会議は1日延長されたが、その18日の評議会選出時点でほとんどの代議員が席を蹴り開場から退出した。私たちはテレビでその様子を見ていたがまるで流れ解散のような状況に陥ったのだ。こうして、暫定政権を権威付け浮揚させようとした国民大会議は、逆にその無能ぶり、傀儡ぶりを明らかにした挙げ句、正式に何かが決定されたかどうかも分からないまま事実上破綻に追い込まれたのである。


(3)シスタニ師の謎の出国と対米対応の二面性・動揺。
 国民大会議の紛糾とナジャフ情勢の緊迫のもとで、暫定政権の中に深刻な亀裂が生じた。アリ廟への強行突入を主張する部分と和平交渉を主張する部分が対立し、サドル師が交渉を拒否した8月18日以降、強硬派が力を持ち始めたのである。ナジャフ攻撃当初から強硬姿勢をとり米軍への支援を惜しまなかったアラウィ首相が動揺し始めた。
 アラウィ首相は、自らの政権を維持するために、アリ廟への突入を回避する方向に舵を切り始めた。アリ廟への突入が現実になれば、政権崩壊が日程に上ることは必至だった。アラウィ首相は23日にシスタニ師に帰国を要請し26日に大急ぎで帰国させ、ギリギリのところで、サドル師との和平合意に持ち込んだのだ。

 シスタニ師とその側近は二面的・動揺的である。一方で米・暫定政府に「協力的」でありながら、他方で「協力的」ではない(昨年、憲法制定を巡って土壇場でシスタニ師は異を唱えた)。暫定政府そのもの、国民大会議、来年の総選挙等々、全てに曖昧な態度を貫いている。
 今回の「ナジャフの戦い」に際しても、裏切りと謎めいた動きを示した。米軍のナジャフ突入と同時に8月6日にシスタニ師は図ったようにナジャフを離れたのだ。そして何と侵略軍であるイギリスの計らいで「心臓病治療」の名目で渡英したのである。誰がこのような筋書きを書いたのかは分からない。しかしこの時点では客観的にはシスタニ師とシーア派右派と米軍・暫定政府との間に何らかの“共謀”が存在していたことは想像に難くない。両者の邪魔者となったサドル師・サドル派を壊滅させ、ナジャフをシーア派左派から奪還することが当初のシナリオであったのではないか。
※「The Sistani Puzzle:Did The Grand Ayatollah Collude With The US Assault On Najaf? 」September 01, 2004 by Milan Rai http://www.zmag.org/content/showarticle.cfm?SectionID=15&ItemID=6139
 この論説「シスタニの謎:シスタニ師はナジャフ攻撃で米と共謀したのか?」は、シスタニ師の動きの不可解さを克明に調べたものである。そしてその中には米軍の突入と同時にナジャフから逃れたシスタニ師への非難の声が欧米の企業メディアの中からの集められている。「シスタニはナジャフから逃げた。」「臆病者の終わりだ。」「なぜイランではなく、レバノンではなく、イギリスなのか。」等々。

 8月13日まではこのシナリオがリアリティをもっていたのかも知れない。ところが、3週間にわたる米軍の残虐な攻撃、殺戮の数々、アリ廟と墓地の破壊、何よりもサドル師支持の大衆的決起、何も動かずむしろ対米・対暫定政府への協調姿勢を露わにしたシスタニ師とシーア派右派への批判と反発、アラウィ政権内部の権力闘争の危機で、サドル派壊滅シナリオは行き詰まり局面に入り、暫定政権崩壊の危機に立ち至った。米軍とアラウィはシスタニ師に泣きつき、仲介役を懇願し、何とか「停戦合意」を取り付けることができた。
※「アラウィー政権の反乱がシスターニの帰国を急がせる」http://www.geocities.jp/voiceofarab/04082718.htm
 サミール・オベイド氏がバスラ・ネットに8月26日に投稿した記事を紹介している。これによれば、サドル派への対応をめぐって、暫定政権内で、ルバイイー国家治安局顧問やイラク国民会議のグループら対話・交渉を重視する部分とシャーラーン国防相やナジャフ県知事ら強行突破を主張する部分との深刻な対立が生まれ、会議中につかみ合いのけんかになるまで事態は悪化した。その中でサドル師による交渉拒否を受けて、強硬派であるシャラン国防省が最後通告を出し、単独で「アリ廟への侵攻と麻酔ガスの使用」の決定を下すに至った。アラウィ首相は、これに驚きシャランの暴走を阻止するために、急遽イギリス、クウェートなどに連絡を取り、シスタニ師の帰国を急がせた。アラウィ自身の保身にとっても、「ナジャフの解決」は決定的な問題であった。−−この見方がどこまで真実かは分からない。しかしアラウィ政権がサドル師への対応を巡って分裂し崩壊の危機に陥ったことだけは間違いない。


(4)シーア派内部の「左傾化」。「停戦合意」で自軍の温存と政治的力の強化を勝ち取ったサドル師。
 8月26日サドル師とシスタニ師が和平交渉を行い、「停戦合意」を双方が受け入れた。この「合意」内容を見れば一目瞭然だが、これそのものに暫定政権の弱さが表れている。
 合意内容は、以下の通りである。
@サドル派民兵は27日午前10時までにアリ廟から退去し、武装解除する。
A応じた者に恩赦を与える。
Bすべての外国軍部隊、すなわち米軍のナジャフからの撤退。
Cサドル師に移動の自由を与える。
Dナジャフと近隣のクーファを非武装地帯として宣言。
Eイラク警察と国家警備隊がナジャフと隣のクーファの治安維持を担う。
F戦闘により被害を受けた市民への暫定政権の補償。

 しかし第1項目の「武装解除」は形だけのものであった。マハディ軍はアリ聖廟からの撤退を始めたが、事実上武装解除もないまま、シスタニ師・サドル師の呼びかけに応じた数万人のシーア派教徒の大群衆に守られるようにして民兵達は散って行った。テレビ報道を見て私たちも唖然としたものだ。あれよあれよという間に、文字通り“人民の海”とともに武装民兵達は消え去ったのだ。米軍の包囲の中での見事な「救出劇」であった。その間、米軍も暫定政府も全く手出しは出来なかった。
 こうしてサドル派が武装勢力として存在し続けることについては一切制約を受けなかった。事実上の勝利である。サドル派は反米の象徴として生き残り、格段に増したその政治的影響力を今も急速に拡大している。
※「Sadr army becoming potent political force」(September 03, 2004 csmonitor.com Scott Baldauf)
http://www.csmonitor.com/2004/0903/p06s01-woiq.html この記事は、サドル師がナジャフの戦闘後、大きく影響力を拡大し有力な政治勢力になった、としている。

 一方シスタニ師は、一転して米軍・暫定政府と距離を置き始めたかに見える。胸くそが悪くなるような変わり身の早さだ。これこそがシスタニ師、シーア派右派の本質なのかも知れない。8月29日、自分が反米レジスタンスに対して反対しているかのような報道に対して、わざわざそれを否定する会見を開いた。「交渉」自身が反米武装闘争の是非を問題にしていなかったことを改めて表明し、マハディ軍の闘いを遠回しに「擁護」したのである。シーア派内の最左派を自らの勢力の中に取り込みながら、米国に対して、また暫定政権に対して影響力を行使しようという意図の現れである。

 しかしシスタニ師の変身の根底で作用しているのは、イラク民衆の反米・反暫定政府の民族主義的高揚である。シーア派の「穏健派」が急進化し、サドル師とシーア派左派への共感を急速に強めつつあるのだ。サドル派も一様ではない。繰り返し武装解除と政治勢力への転換をにおわす「穏健派」と反米武装闘争を貫こうとするマハディ軍との確執が存在する。この確執がどう展開していくかもまた、人民大衆の動向抜きには理解できない。
※「Standoff bolstered Sadr's support」http://www.christiansciencemonitor.com/2004/0830/p04s01-woiq.html
 6ヶ月前には穏健派と目されたシーア派聖職者のアル・カラサイ師は、イラク政府による数千人の民衆への攻撃によって考えを変えたと語った。記事は言う。「シーア派のモデレット(穏健派)はますますラディカル(急進派)になり、ラディカル(急進派)はますます自爆派になりつつある。」3週間にわたるナジャフでの膠着状態からサドル師がより強くなり、広範な支持者を集めていることを指摘している。サドル運動はその支持者の数を上回る政治的影響力を持ちつつあるという。「小さな組織された少数派は組織されない多数派よりもっと効果的である。」
 更に興味深いことに、この記事に出たマハディ軍の将校の一人は言う。「もしモクタヴァ・サドルが我々に武器をおいて降伏せよと要求しても、我々はそれを拒否するであろう。」と。マハディ軍の司令官は「サドル師の許可なしにも米軍と戦うだろう」と言い切るのだ。このことは、シスタニ師だけではなく、サドル師もまた、急進化した反米・反占領闘争の大衆的高揚の中で、彼ら大衆の声を無視できない状況にあることを示している。

 暫定政権は、サドル師の罪を問わないことを一早く表明した。「戦闘により被害を受けた市民への暫定政権の補償」は、事実上被害の責任の一端がアラウィ政権にあることを認めている。これによって政権への批判が強まることを回避しようとしているのだ。



[5]「8月のナジャフ」は武力でイラク民衆を屈服させられないことを証明した。米軍は撤退するしかない。自衛隊も撤退するしかない。

(1)治安悪化の下で浮き足立つ多国籍軍。相次ぐイラクからの撤退。
 すでに述べたように、9月8〜9日以降、再び米軍はイラク全土で大規模な攻撃を開始している。宗教指導者間の合意によってナジャフでの戦闘の中止と撤退を余儀なくされた米軍は、まるでその腹いせのように、全土で攻撃を加えている。米は、イラク戦争・占領の「大義」を失い、何の展望も出口も見い出せないまま、ただ闇雲に攻撃を続けているだけだ。米軍が今行っているのは、もはや殺戮のための殺戮、破壊のための破壊でしかない。
※「No space for the dead in Sadr City」31 August 2004,english.aljazeera.net
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/85E14081-E08B-4625-9EF6-4F6661A56286.htm
※「At least 17 die in Falluja raid」BBC 2 September, 2004,
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/3619858.stm


米軍は9月1日ファルージャを空爆し住民17人を殺した(AP; BBC NEWSより)
 現在米軍が直面しているのは文字通りの“泥沼”である。4月のファルージャ、今回の8月のナジャフが示したのは、米の圧倒的な軍事力をもってしてもイラク民衆を屈服させることはできないということだ。もはや特定の組織、特定の人物を押さえ込み抹殺すれば治安が回復し安定するというような状況ではない。ナジャフへの冒険主義的な攻撃によって、米・暫定政権は、自ら権威を失墜させ、総選挙への展望を摘み取ってしまった。自業自得である。
 米軍の存在自体がもはや最大の障害になっているにもかかわらず、ブッシュの方針は米軍の居座りである。米軍が際限なく虐殺と破壊を繰り返すことである。それは米軍の増派を必要とし、さらに長期にわたって大量の米兵の犠牲と出血を強いることになる。すでに開戦以来米兵の戦死者は1000人を越え、負傷者も7000人を越えた。財政負担も膨らみ続けている。この負担に米といえどもいつまでも耐えられるわけがない。力づくで押さえ込むことができない以上、甚大な人的・経済的犠牲をとことん出した後、結局は軍事力で支配することを諦めて自らイラクから撤退するか、あるいはイラク民衆に叩き出されるか、それ以外に道はない。

 先のスペイン・ショックでガタが来た有志連合軍を引き継いだ多国籍軍は、更に浮き足立っている。イラク中部のカルバラに駐留してきたタイ軍が9月8日撤退を開始、10日までに全部隊450人が撤退する。コスタリカは派兵や支援はしていないが、米の要請でパチャコ政府が一方的に「有志連合国」に参加。ところが違憲訴訟が起こされた結果、9月8日最高裁判所憲法法廷で違憲判決が言い渡された。これを受けてトバル外相は9日、「有志連合国」リストからコスタリカを外すよう米国に求めた。今や中南米で唯一の派兵国になったエルサルバドルでは8月28日、派兵に反対する大規模な行動が野党ファラブンドマルチ民族解放戦線の呼びかけで行われ、撤退の国内世論が広がっている。ウクライナのヤヌコビッチ首相は9月2日イラクを訪問し、予定されている来年1月のイラク総選挙後に撤退させる可能性を改めて示した。

 オーストラリアでは、10月9日に総選挙が繰り上げ実施されることが決まった。イラク派兵が最大の争点の一つである。ブレア英首相とともにブッシュのイラク戦争に参戦したハワード首相が、時間が経てば経つほどイラク情勢は悪化する、ブッシュが敗北すれば自らの政権は持たないと判断し、議会下院の解散を強行したのだ。与野党の接戦が伝えられているが、仮に野党労働党が勝利すれば、間違いなくイラク撤退が日程に上るだろう。


8月29日ニューヨークでの50万人デモ
United for Peace & Justiceより)

(2)ケリー候補が「就任1年以内の撤退開始」を公約に掲げる。−−米大統領選で再びイラク戦争の「泥沼化」が政治争点に。
 8月29〜9月2日にかけての米の共和党大会後、支持率でブッシュに差を付けられたケリーは陣営建て直しの一環としてイラク政策の軌道修正を始めた。ブッシュと変わらぬイラク政策で迷走してきたが、イラク政策でもブッシュを批判する方向に転換したのだ。ケリーは就任1年以内に米軍の撤退を開始する考えを示した。イラク撤退が政治的争点になる可能性が出てきた。

 米共和党大会には、イラク帰還兵、イラク戦犠牲者家族、9.11犠牲者家族らも含め50万人もの市民が反戦の声を結集した。大統領選挙の2週間前の10月17日には、「戦争ではなく雇用を!100万人行動」が予定されている。
※「500,000 Say No to the Bush Agenda!」(UPJ)August 29 http://www.unitedforpeace.org/

 サマワでは明らかに自衛隊の宿営地を狙った迫撃砲弾が飛び交う回数が増えている。8月31日にはサドル師派のガジ・ザルガニ師が、陸自が占領に協力すれば攻撃すると警告した。また9月9日にはサマワで警察本部長の自宅が襲撃された。11日には機動隊長が暗殺され、中心部でパトロール中のオランダ軍の車両に手りゅう弾を投げ付ける事件が発生した。先月20日には銃撃戦をやるまでになっている。米・多国籍軍へのイラク市民の憎悪感情は益々高まっている。
 オランダのカンプ国防相は8月25日、これ以上の駐留継続は議会が許さないだろうと述べ、改めて来年3月で軍を撤退させる意向を表明、日本側の駐留継続要請を断った。来年1月の総選挙に向けて治安は激化するばかりだろう。オランダ軍に代わり独力で「治安維持」まで引き受けるというのか。一体自衛隊はどうするのか。日本はこれ以上米のイラク占領に加担すべきではない。自衛隊もまた撤退すべき時である。

2004年9月13日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




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