わたしの雑記帳

2004/8/11 富士市のいじめ裁判。控訴審第一回目。傍聴報告と思うこと。


8月9日(月)東京高裁(東京・霞ヶ関)810号法廷にて、10時30分より、静岡県富士市でおきた小学校でのいじめ裁判の控訴審、第一回弁論が行われた。(情報が錯綜しており、この日、判決と聞いていたのは誤りでした)原告側は児玉勇二弁護士を中心とする3人の弁護団

2001年5月18日に、小学校長と小学校の設置者である富士市、いじめを行っていた同級生女子児童の3人の両親を提訴。2004年5月12日に出された静岡地方裁判所沼津支部での一審判決は、全面敗訴だった。

原告(少女側)の控訴理由書の骨子は以下の通り。
1.本件は、学校側が漫然といじめを放置したばかりか、かえって誤った対応をしていじめ行為を拡大し、しかも被害者をいじめの自作自演者として扱うことにより、控訴人の名誉を侵害し、二重三重の苦痛を与えた事件である。
2.原判決は、いじめの現代的構造を理解することなく、学校側が単に何らかの措置を取っただけで、それが教育配慮にかなった合理的なものかを検討することなく、安全配慮義務を尽くしたと認定した点で誤りがある。
3.原判決の、いじめが自作自演であることを認定したみちすじも、証拠の精査がされておらず誤りである。

「教師がいじめの現場を見ていなかったから、いじめはなかった」、証拠の品さえ、「自分で傷つけた」「自分でイタズラ書きした」と言われる。被害を綴ったノートの記載も、「後で書いたものだろう」と言われる。
そうでなくとも、いじめは隠されるもの。被害者がいじめられていることを立証するのは難しい。加害者や周辺の子どもたちに事情を聞いたところで、「知らない」「やっていない」と言うだろう。

それをおざなりな調査だけで、「やったという証拠が見つからないのだから、最初から、いじめはなかったに違いない」と学校の教師が決めつけてしまったとしたら、いじめは当然エスカレートする。

教師に見つからないように、教師の目を盗んで攻撃を加えることが、まるで万引きのように、スリルを味わえる楽しい行為になりはしなかっただろうか。

学校側の対応を聞いてすぐに思い出したのが、鹿児島県出水市立米ノ津中学校舩島洋一くん(中3・14)のいじめ自殺事件(941029)だった。担任は、洋一くんの訴えに、いじめがあったかどうかをクラスでアンケートをとったが、何も出てこなかったため、みんなの前で洋一くんに謝らせた。その結果、洋一くんは自殺した。
そして、洋一くんの死後も校長は「怪我をさせた子はわからない、学校ではいっさい何もなかった」といじめを認めず、謝罪もしなかった。クラスでとったアンケートも何もなかったからと、遺族に見せることもなく処分してしまった。洋一くんがいじめを受けていたという生徒の証言も無視した。

文部科学省は、大河内清輝くんのいじめ自殺(941127)をきっかけに、「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断は、表面的、形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うことを留意する必要がある」とし、いじめは「あくまでもいじめられている子どもの認識の問題」であることを通達に明記している。
なぜ、そのような内容をわざわざ通達にして、出さなければならなかったのか。現場の教師たちが、圧倒的多数であるいじめる側の言い分に耳を傾けやすく、絶対的少数であるいじめられる側の訴えを軽視したり、無視したりすることが横行していたからに他ならない。そして、その結果が多くの子どもたちの自殺だった。

いじめられて死ぬほど苦しい思いをして、勇気をふりしぼって教師に相談したのに、まともにとりあってもらえない。
学校現場で最大の権限と権力を持つ教師に見放されたら、いじめの解決は絶望的だ。親や教師に告げたことで、報復的な意味あいを込めて、いじめはエスカレートするだろう。そして、エスカレートしても、今度は助けを求める相手さえ思い浮かばない。追いつめられて死を選ぶ子どももいる。不登校を選択できた子どもはまだ幸せかもしれない。

万が一、子どもの訴えが自作自演であったとしても、そこには必ず理由があるだろう。言葉や態度による、証拠だてしにくいいじめがあるかもしれない。「誰か私を見て!」という心の叫びだったかもしれない。そんな背景さえ思いやることない教師たちは、いじめが事実で、それを自作自演だと決めつけられた場合の心の傷を考えたことがあるだろうか。

そして、ふつうに考えてみれば、児童がいじめを自作自演してまで、教師に訴える必要性がどこにあるだろう。児童にとって何の得があるだろう。一方で、うそだとバレたときのリスクなど、小学校の低学年でもわかることだ。
現在はどこの学校にもいじめがある。いじめがまん延している社会だ。私の実感としては、今の子どもたちが成人するまでに、いじめの加害者、被害者、傍観者として、いじめに直接かかわる確率はほぼ100%ではないかと思う。1回どころか、何度も経験しなければならないのではないか。まるで、いじめを見たこともかかわったこともないという子どもがいたとしたら、よほどラッキーなのか、身近にいじめがあっても認識できていない、あるいはいじめていても自覚していないだけなのだと思う。

そして裁判官は、原告がなぜ、裁判まで起こさなければならなかったのかを考えたことがあるだろうか。
多くの親たちが言う。「何度、学校や教育委員会に足を運んでも門前払いされて、まともに話を聞いてもらうことさえできず、裁判を起こす以外に対話する方法さえなかったのです」と。子どもと親に裁判を起こさせた、他の解決策を提示することができなかった、それ自体、教育委員会と学校側の大きな過失であると私は思う。
どんなに議論好き、闘争好きなひとであっても、自ら裁判を起こしたいと思うひとはほとんどいないだろう。まして、わが子を巻き込んでまで、好きで裁判を起こす親の存在など、私は一人として知らない。
裁判を起こしてもいいことなどほとんどない。弁護士費用は高くつく。裁判所に提出する印紙代だけで何十万、何百万もする。その割には、学校相手の裁判で勝てる見込みは少ない。よくて和解。多くは賠償金さえ手にしていない。そして周囲からはトラブルメーカー扱いされ村八分にされる。
それでも、裁判を起こすのは、裁判以外にわが子の名誉を回復し、その心と命を救う方法が見つからないと思うからだろう。

「いじめはウソだ」と教師に決めつけられた子どもに、いったい何ができるだろう。
大人たちに決めつけをされた生徒が自分の言葉を立証するために、教師や自分の父親の目の前で校舎2階から飛び降りた事件もある(930707)。幸い死なずにはすんだが。
どんなに立証したくても、子どもの力では限界がある。死ぬことでしか、大人たちにわかってもらえない、信じてもらえないという絶望感。原告少女の場合、親が子どもを全面的に信じて、全身全霊で闘っていることが、唯一、救いになっているのだろう。そして、大人たちが関わってさえ、いじめを立証することの難しさは、多くのいじめ裁判が物語っている。

そして、地方裁判所のとった対応は、学校、教師と同じだった。
最初に結論ありきではなかったのかとさえ疑いたくなる。原告側が必死にかき集めてきた「いじめの証拠」もそれを検証するための筆跡鑑定も、様々な証言も、十分な証拠とはいえないとされた。
いじめの現場は学校であり、証人をも含めて、ほとんどすべての証拠は、学校側が握っている。裁判所が提出命令を出すなどの協力をしてくれなかったら、原告側にはほとんど術がない。

いじめ自殺があるたびに大人たちは言う。死ぬくらいなら、生きて訴えてくれればよかったのにと。
民事裁判の判決にさえ、生きて解決する方法があったにもかかわらず、それをしなかったとして、亡くなった被害者に過失を科している。
一方で、生きている子どもたちの必死のSOSの声に耳を傾けようとはしない。SOSの声をあげることがどれほど勇気のいることか。その叫びをも無理やり封じてしまう。
こんな状況で、それでも、いじめられている子どもたちに死ぬなと言う権利が大人たちにあるだろうか。

児童・生徒のいじめの訴えに対する学校・教師の対応と一審敗訴。この結果を多くの子どもたちが知ったらどう思うだろう。いじめる側はますます増長し、証拠さえ残さなければ何をやってもいいと思うだろう。大人たちに真実など見ぬく力はないとなめてしまうだろう。被害者たちは、「ほら、大人たちに言っても無駄だ。言えば、かえってひどい目にあう」として、口をつぐんでしまうだろう。

次回、9月27日(月)は、東京高裁(東京・霞ヶ関)810号法廷にて10時30分より。控訴審2回目にして早くも証人調べとなる。原告の少女が再度、証言台にたつ。あきらめることのなく、再び挑戦しようとする16歳の少女の勇気をたたえたい。
彼女が何より納得がいかなかったのは、一審では裁判官が3人も変わり、自分が法廷で証言したときの裁判官と、判決を書いた裁判官が別だったことだという。
法廷での証言は、裁判官の心証を形成するために行われる。裁判官が変わってしまったら、最初から書類で提出するのと大して変わらない。
大人でも、慣れない場所、容赦のない被告側の追及に緊張もするし、大きな負担となる。一審では、14歳の少女の証言に際して、その心理的圧迫に対する配慮を何らすることはなかったという。そして、判決は、必死な思いを無惨にも踏みにじるものだった。

今回、高裁の根本眞裁判長は、学校での現場検証とビデオ撮影については、被告である学校側と原告側で話し合うようにと突き放したが、少女の証言に対して、公開でよいのかを聞き、時間的にも長時間は負担ではないかと配慮していた。

いじめ被害の訴えを大人たちは真摯に受けとめなければならない。自作自演と決めつけるようなことは絶対にあってはならない。それは、教師がいじめに加担したも同じことだと、しっかりと判決に残さなければならない。でなければ、今の学校の隠ぺい体質は何一つ変わらず、さらに強化されるだろう。生きている子どもたちのために、これ以上、子どもたちを死に追いやらないために、この裁判は絶対に勝たなければならない。

なお、事件の詳細については、被害者への様々な影響を考えたうえで、許可をいただけたら、サイトにUPしたいと考えています。



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