児玉勇二(全国空襲連運営副委員長、原水爆禁止せたがや市民会議共同代表)
第一 はじめに
一
私は浅草の入谷に生まれ育ち、1歳半の時、3月10日の東京大空襲に遭いました。近くの防空壕に入ろうとしたところ断られ、母は私をおぶり、兄を連れて、死体を踏みつけながら逃げ回りました。その防空壕は全滅しました。もしあの防空壕に入っていたら、私たちは生き延びていませんでした。
小学校時代の同級生で親友だったY君はかけっこが速く、中学校1年生の時には台東区全体の中学校陸上大会で精悍な姿を見せていました。彼は2年の夏休みに山口県の青海島から、「今、山口の田舎で体を鍛えています」との手紙を送ってきました。しかし、その夏が終わった秋、彼は12歳で急死してしまいました。赤ん坊の時、母親におぶられて広島で原爆に遭い、黒い雨を浴びたことが原因で、白血病が死因だったと聞かされました。精悍で健康そうだった彼が亡くなったことが、まったく信じられませんでした。
私はそれ以来、広島の平和公園へ行くたびに、有名な佐々木禎子さんの千羽鶴を見て、彼のことを忘れないようにしてきました。Y君は禎子さんとまったく同い年で、亡くなったのも同じ年でした。黒い雨を浴びた放射能の怖さを痛感し、大きなショックを受けました。私はこの頃から、戦争や原爆に関する様々な写真や資料を学校の図書館で読みあさるようになりました。
二(被団協のノーベル平和賞受賞に寄せて)
12月10日の朝刊各紙に、被団協の2024年ノーベル平和賞受賞のニュースが掲載されました。
「核なき世界へ前進 夢が本物になった 廃絶実現へ今度こそ」
「被団協ノーベル平和賞、核なき世界実現へ努力、被爆の実相訴え続け68年」
「核廃絶へ政府姿勢改める時」
私たち全国空襲被害者連絡協議会も、空襲被害者救済の法律実現に向けて頑張っています。同じように原爆被害救済補償の実現を目指してきた田中照巳さんは、12月10日、ノルウェー・オスロの授賞式で講演し、結びの言葉で「人類が核兵器で自滅することのないように」「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と呼びかけました。
この呼びかけが世界中に広がり、とりわけ最後の「戦争もない世界」の実現に応える意味で、私も担当した空襲裁判で考えてきたこととの共通の問題を考えてみたいと思います。
第二 空襲
一
私たちは、平成19年3月9日、東京大空襲の民間被害者112名が、東京地方裁判所に被告国に対する謝罪と損害賠償を求めて提訴しました。全国で130人の代理人弁護士がつき、第一次、第二次を合わせて総額14億5200万円の裁判となりました。
以下は、私が担当した原告の方の陳述書です。田中さんの言う「戦争もない世界」の人間社会を求めて、まず空襲被害者の方々の声を聞いてください。
空襲での被害体験 渡辺HKさん(生年月日 昭和8年3月13日)
「お母ちゃんの手を離すんじゃないよ」。3月10日未明、私が弟を、母が妹をおぶい、父に見守られ家を後にしました。それが父との最後の別れとなりました。
燃え狂う火のなか、大きな看板のようなものが風にあおられて飛んでくるなかを、私は母に手を引かれて歩きました。母は防空壕のなかに残されたお位牌を見つけ、防空壕の入り口に並べ、「どうかこの子たちをお守りください」と、入り込む火の粉を振り払いながら手を合わせ、「南無妙法蓮華経……」と必死にお題目を唱え続けていました。
私は、あまりの怖さと熱さに、防空壕のなかで弟を背負ったまま縮こまっていました。機銃掃射が私たちに向かって一斉に放たれ、何の遮蔽物もない海岸で大勢の人が右往左往し、弾の嵐のなかを逃げ回りました。私の右手先にぴりっとする鋭い痛みが走り、あまりの痛さに手先を見ると、血がだらだらと流れていて、思わず母にすがりました。私が背負っていた弟は、機銃掃射の直撃を頭に受けて死んでいました。弟は頭も顔もわからず、まるでザクロのようになっていました。泣き声一つあげることもできず、小さな身体いっぱいの血を私の背中に残して死んでいました。無我夢中で弟をはんてんで包み、他の人に踏まれないよう周りを囲み、その上に弟を寝かせ、襲ってくる恐怖のなかをまた逃げました。
母も私も、どこへも逃げずにこの家で死ぬことを思っていました。その時、母は何かを感じて自分の腰の方に手を回したところ、妹は母の背中で静かになっていました。母は血だらけの妹を畳に寝かし、砂場に置いてきた弟を取り戻しに、裸足のまま家を飛び出していきました。妹は、まるで母を待っていたかのように「ちゃあちゃん、ぽんぽんがいたいよ」と言いました。苦しい息のなかからのつぶやきが最後の言葉でした。妹はお腹に貫通弾を受け、また太ももにも2か所、かすり傷が残っていました。「こんなになってしまって」と言って、いつまでも妹を抱いていた母の姿を、私は生涯忘れることができません。
この二人の声は、いまも耳と心に焼き付いて私を離してくれません。3月と7月になると、あの空襲の恐ろしい事実を思い出します。機銃掃射でやられたこの指が嫌でも目に触れるので、なおさらです。人前で字を書くのが嫌で隠す習慣が、いつの間にか身についてしまいました。妹、弟のことを思うと、あの声が聞こえてきて、もう涙で書けません。このような戦争でのつらい体験は、死ぬまで背負っていかなければならない現実として残っています。父、妹、弟の死が無駄死にではなかったと、国の偉い方に言ってほしいと思います。
今も痴ほう症の寝床で、この時のことは明瞭に覚えていて、早い空襲援護法案の成立を願っているのです。
二
私たちは裁判提起にあたり、さまざまな論文資料や判例を調べ、考えました。
1 1980年代の名古屋空襲裁判でも、名古屋地裁は、軍人軍属が補償され、空襲被害者が補償されていないことの不平等性を指摘し、戦後30年にわたって空襲被害者に補償がなされていなかったことは問題であると述べました。そして付言として、「30年以上もたって国会政府に対し、早く国家補償の立場で援護立法を制定すべき」と判示しました。私たちの東京大空襲裁判では、これが武器となり、運動の確信となっていったのです。
名古屋訴訟で1987年に最高裁の敗訴判決が出た後も、原爆被害者への補償は拡大し、残留孤児やシベリア抑留者にも補償が及ぶようになりました。また、国会の立法不作為に対し、ハンセン病問題や従軍慰安婦訴訟などで勝訴判決も出ていました。したがって、この裁判も決して負けるものではないと考えました。
むしろ受忍論については、平和憲法から見れば、「戦争はすべて等しく受忍せよ」という考え方は反人権的、反平和的であり、許されるものではないという確信を深めていきました。しかも「等しく受忍せよ」と言いながら、軍人軍属には年間1兆円、これまで60兆円以上もの補償がなされ、しかも死後も数代にわたる親族にまで手厚い補償が続いているのです。この格差から見ても、「等しく受忍せよ」という論理はおかしく、憲法14条違反が勝てる根拠の一つとして存在するようになっていることに気づいていきました。
2 また、東京大空襲は、アメリカが日本に対して民間無差別爆撃を行ったものであり、これは巣鴨で行われた東京裁判でも問われなかった国際法違反に当たることも重要な柱でした。さらに、中国が一時首都を北京から南京、南京から重慶へと移すなかで、日本が先に重慶に対して戦略爆撃を行い、その重慶爆撃をアメリカが学び、日本への戦略爆撃を行ったという歴史もありました。そこから、「種をまいた者は、その原因について責任がある」という法理も考えました。
私たちは東京大空襲裁判の前に、原告の皆さんとともに重慶を訪れ、空襲被害者の人々と交流しました。私たちは大歓迎され、1000人もの犠牲者が出た大防空壕にも案内され、その交流は翌日、現地の中国の新聞にも大きく報道されました。
3 東京大空襲裁判の訴状の骨子としては、日本のアジア・太平洋戦争がアジアの人々2000万人、国内で310万人の死者をもたらしたことについて、戦争開始責任を問いました。また、1945年初期に早く戦争を終結していれば、東京大空襲も、原爆も、沖縄地上戦も防ぐことができたとして、これらも法的責任の大きな柱の一部としました。
4 東京大空襲裁判の結果、第一審は平成21年12月14日、東京地方裁判所において請求棄却、すなわち敗訴となりました。しかし、深刻な被害の実態と、立法による解決の必要性など、今後の裁判運動のみならず援護法の立法運動においても前進する内容がありました。
(1)第一審は判決理由の中で、まず「被害者の心情を理解」し、その深刻な被害を認めました。「原告らの受けた苦痛や労苦には計り知れないものがあったことは明らかである」と認定した上で、「一般戦争被害者に対しても、軍人軍属等と同様に救済や援護を与えることが被告国の義務であるとした原告らの主張も、心情的には理解できないわけではない」としました。
(2)さらに国家の道義的責務も認めました。原告は被告国に対し、①被災者の実態調査、②遺体の確認と埋葬を行政不作為の責任として求めました。判決は、被害者の実態調査や死亡者の埋葬、顕彰等は重要であり、それらにできるだけ配慮することは国家の道義的義務である余地が十分にあるとしました。
(3)また、この問題は国会が様々な政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべき問題であるとし、立法を促しました。
(4)さらに、民間無差別戦略爆撃禁止の国際慣習法化も認めました。
第二審も、平成24年4月25日、東京高等裁判所において控訴棄却となりましたが、第一審同様、前進すべき点がありました。地裁判決より詳細に被害事実を認定し、「被害者の心情を理解」したものでした。また、第一審と同様に、国会が解決すべき問題であること、国家の道義的責務があることを認めました。
私たちはこれに対して最高裁に上告しましたが、平成25年5月8日、「本件上告を棄却する。本件を上告審として受理しない」との決定がなされました。これに対し、東京大空襲訴訟弁護団は「最高裁第一小法廷の不当決定に抗議する」との声明を発表しました。
三(全国空襲連の結成と立法運動)
1 2007年3月9日の提訴から6年2か月あまり、東京大空襲裁判は上告棄却決定により敗訴が確定し、司法救済の道は閉ざされました。しかし、棄却決定を受けた記者会見で、星野弘原告団長は「心の底から怒りがこみあげる。孤児や傷を負った私たちは苦しい生活の中で必死に闘ってきた。原告の心からの訴えに対し、あまりにも冷酷な判断だ。しかしここで引き下がるわけにはいかない。くじけることなく、援護法制定に向けて頑張りたい」と決意を表明しました。原告団、弁護団は解散せず、援護法制定の実現を目指して活動を継続していきました。
その中で、2010年8月14日、早乙女勝元氏(作家)、中山武敏氏(弁護士)、荒井信一氏(歴史学者)、前田哲男氏(ジャーナリスト)、斎藤貴男氏(ジャーナリスト)を共同代表とする全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)が結成されました。全国空襲連は、民間空襲被害者(被爆者を含む)を救済・補償する「空襲被害者援護法」の制定、空襲死者の調査、氏名記録、空襲の実相の記録と継承などを通じて、空襲被害者の人間回復と、再び戦争の惨禍を繰り返させないこと、さらに核兵器廃絶などの平和運動と連帯することを目的に設立されました。
2 最初は民主党政権下の2011年6月15日、超党派の議員連盟が結成され、「空襲等による被害者などに対する援護に関する法律案要綱素案」が発表されました。そこでは、死者への弔慰金、孤児への特別給付金、障害のある人への障害給付金、医療費の支給などが盛り込まれていました。
その後、2015年8月6日に自民党政権下で再スタートし、会長も鳩山邦夫議員、河村建夫議員、北村誠吾議員、そして現在の平沢勝栄議員へと引き継がれていきました。安倍晋三首相、岸田文雄首相、高市早苗首相も、それぞれ国会答弁で、一般戦災者への対応について国会や議員連盟での議論を注視し、政府として何ができるか考える旨を述べるまでに至っています。
3 昨年6月19日の超党派空襲議連総会では、「特定空襲等被害者に対する一時金の支給等に関する法律案」最終稿が確認されました。これは、心身に障害のある者への一時金支給と、政府が空襲等の被害実態を明らかにし、その犠牲者への追悼を表明することを内容としています。前文では、「戦争という非常事態の下で生じた被害は国民が等しく受忍しなければならないやむを得ない犠牲であるとして、国会及び政府においてこれを救済するための取り組みをしてこなかった」と、受忍論の問題を率直に振り返っています。また、沖縄地上戦や艦砲射撃等の被害者も対象に含まれています。
ほとんどの野党では党内手続きを終え、国会提出への道筋が見えてきていますが、なお自民党の賛成を得るには至っていません。地方自治体でも、名古屋市に続き、世田谷区でも支援が検討され、世田谷区議会では世田谷区民間空襲等被害者見舞金支給条例が昨年12月に制定されました。東京都でも支援請願が趣旨採択されています。
被害者の方々は、原爆被害者と同じように高齢化し、亡くなる方が相次いでいます。「生存中の法案成立」は、空襲被害者の方々の切実な願いです。
第三 原爆と空襲
一 受忍論に抗う
なぜ田中さんが授賞式で「受忍論」の廃止を訴えたのか。前にも述べたように、原爆、空襲、沖縄地上戦などの対内的戦後補償の問題では、シベリア抑留者や残留孤児などには補償が進んだ一方で、東京大空襲被害者などは取り残されてきました。もはや「等しく受忍せよ」ではなく、「等しく補償せよ」の時代に来ているのであり、この反人権的・反平和的な論理は根拠を失っていると主張してきました。東京の裁判でも、受忍論の排斥が大きな意義を持ちました。
そのような経過もあって、現在、超党派議員連盟で検討中の「特定空襲等被害者に対する一時金の支給等に関する法律案」も、まだ案の段階ではありますが、前文で受忍論を排斥しています。原爆被害者の方々が受忍論に抗って闘ってきたこと、そして戦後80年の今、ノーベル平和賞受賞を通じて世界にこの受忍論批判を広げたことの意義は、日本の戦後補償の歴史を振り返る上でも歴史的意義があるといえます。空襲に関する法律案もまた、同様の歴史的意義を持っています。
二 国家補償
1 日本被団協の田中熙巳代表委員は、ノーベル平和賞受賞スピーチで、原爆による数十万人の死者に対し、日本政府は一貫して国家補償を拒んできたと訴えました。1968年に「原子爆弾被爆者に対する法律」が制定され、各種手当が給付されるようにはなりましたが、それは社会保障制度であって、国家補償は頑なに拒まれたままでした。特に死者に対する国家補償は、今なお全く認められていません。
国家補償とは、戦争を遂行して被害をもたらした国が、原因供与者としての責任、すなわち戦争責任に基づいて被害を償うことです。1957年の戦傷病者戦没者遺族等援護法では、軍人軍属に対して国家補償の規定がありますが、それは雇用関係に基づく使用者責任の性格も持っています。他方、民間人については、生活保護法、身体障害者福祉法、児童福祉法などの社会保障の枠内でしか保障されてこなかったのです。空襲など民間の戦後国家補償は、拒まれ続けてきました。
第二次世界大戦の民間空襲被害者について、ドイツやイタリアは不正義の違法な戦争への国家賠償論で広く救済し、アメリカやイギリスは正義の戦争による犠牲者救済という損失補償の考え方で救済しています。それに対し日本は、戦後、天皇の国家責任を否定してきたこともあり、民間人被害者には国家補償規定を設けず、裁判や立法運動を通じて準軍属的な準用拡大や一時金支給などで対応してきました。
2 私たちの東京大空襲裁判では、1973年の第一審判決が「30年以上もたって国会政府に対して早く国家補償の立場で援護立法を制定すべき」と述べ、国家補償の視点から戦後30年間補償してこなかったことを批判しました。今回の東京の裁判でも、被害の実態を大きく捉え、軍人軍属と同様に救済や援護を与えることも心情的には理解できる、被害者への実態調査や死亡者の埋葬・顕彰は重要であり、これらに配慮することは国家の道義的義務である余地が十分あると判示しました。これは単なる社会保障ではなく、国家補償に近い意味を含むものと私は理解しています。
だからこそ、今、超党派議員連盟が進めている「特定空襲等被害者に対する一時金の支給等に関する法律案」は、臨時国会に提出し成立させるべきです。田中さんの言う国家補償という言葉は、私たち空襲被害者にとっても大きな意義を持っています。私たちは裁判で国家賠償責任の勝訴判決までは到達できませんでしたが、多くの重要な成果を獲得しました。にもかかわらず、空襲被害者救済立法の成立はあまりにも遅く、被害者の方々に対して不誠実すぎると考えています。
大阪の裁判では、防空法の防火義務によって避難が遅れ、多くの死者が出たことが指摘され、沖縄・南洋戦地上戦裁判では、被害事実とトラウマが丁寧に認定されました。こうした成果も大きなものがあります。私たちは、空襲の救済立法においても、田中さんの言う「受忍論否定」「国家補償肯定論」を踏まえ、救済立法に反対し続けている自公政権や厚生官僚に対しても迫り、議員立法の早期成立を願うものです。田中さんの授賞式での発言は、空襲裁判と立法運動にもつながる大きな意味を持っています。
第四 憲法9条と核兵器禁止条約
一
田中さんの言う核兵器廃絶と、戦争のない人間社会の実現のために、最後に憲法9条と核兵器禁止条約について考えてみたいと思います。
核兵器の非人道性を体験を通じて訴えてきた被団協のノーベル平和賞受賞は、世界の反核・平和運動をさらに発展させるものです。当面の軸は、日本政府に核兵器禁止条約への参加を求め、世界へと広げる活動になることは明らかです。同時に、被爆後に作られた平和憲法(前文・9条)を持つ日本の平和思想と運動は、核戦争だけでなく戦争そのもの、戦力そのものを放棄する運動への道を開くことを求めています。
核兵器の違法性は核廃絶へ、核廃絶は戦争の違法性へ、さらにその手段である戦略爆撃や空爆の違法性へとつながっていくものです。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻の中で核兵器使用が示唆され、またアメリカ・トランプ政権やイスラエルによるイラン核施設への武力攻撃など、現在はまさに「人類と核は共存できない」というべき危機的状況にあります。だからこそ、核兵器禁止条約の核廃絶と、ヒロシマ・ナガサキ後の平和憲法前文・9条の非武装・非軍事の平和思想は一体のものであり、今回の空襲補償立法化も、原爆と空爆を一体的に考える現代的平和運動として捉えなければならないのです。
二
変えてはならない日本国憲法前文・9条を、改めてこれらの視点で読み返してみましょう。
私は数年前、『戦争裁判と平和憲法』(明石書店)という本を出しました。そこでは、世界における戦争違法化の歴史、民間無差別戦略爆撃が国際法違反として問題化されてきた歴史を書きました。重慶爆撃が東京大空襲の原因の一つとなっていること、1944年10月の沖縄「10・10空襲」が国際法違反であったことに対して抗議文がアメリカに送られたことも取り上げました。しかしその時、アメリカは、米軍を危機に陥れるという理由でその反論を封じました。この「沈黙の構造」が、第二次世界大戦後もアメリカによる他国への空爆や原爆使用、さらには現代における米軍の戦略爆撃を許してしまっていることにつながっているのです。
三
日本への広島・長崎の原爆も、東京大空襲も、アメリカによる日本への戦略爆撃の違法性を改めて問わなければなりません。まさしく核兵器禁止条約は、過去のアメリカによる原爆投下を問い直しており、空爆や戦略爆撃も同様に問われるべきです。
米ニューヨークの国連本部では、昨年3月3日から7日の日程で、核兵器禁止条約第3回締約国会議が開かれました。日本被団協の事務局長代行・濱住治郎氏は、「原爆は本人の未来を奪い、家族をも苦しめる悪魔の兵器だ」と訴え、核兵器の速やかな廃絶を求めました。被害者・渡辺さんの陳述書にあるように、戦略爆撃もまた同じではないでしょうか。
国連軍縮担当上級代表の中満泉氏は、日本被団協のノーベル平和賞受賞に言及し、核兵器が壊滅的な人道的結果をもたらすという世界的認識が高まっていることを強調しました。会議を傍聴したカナダ在住のサーロー節子さんは、日本政府がオブザーバー参加さえしなかったことに強い怒りを表明し、核保有国や核抑止論に固執する日本政府に対して、「みんなで知恵を出し合って動かしましょう」と呼びかけました。
ICAN主催の「国会議員会議」では、日本政府が核兵器の人道性を語りながら条約参加を拒み、米国の核の傘に依存して大軍拡と核抑止強化に踏み出していることへの批判が相次ぎました。そして、対立と緊張を強めるのではなく、東アジアにおいて包摂と対話によって平和を構築し、戦争の心配をなくすことで核抑止の根拠もなくしていくべきだという議論が続きました。
これらの根本に流れているのは、被害者の方々の被爆体験です。私は、空襲被害者の方々の戦争被害体験も本質的には同じだと考えています。違うのは放射線被害の有無だけです。空襲被害者の方々の声を皆さんに聞いていただき、人間であることを改めて確認していただきたい。そして、空襲被害者への救済と核廃絶を結びつけ、非武装中立の憲法9条のもとで、人間として戦争を絶対に許さない大きな市民のうねりをつくっていきたい。その思いをもって、私の意見表明を終わります。
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