現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1998年の発言

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◆目と心が腐るような右派言論から、一瞬遠く離れて

◆第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!

◆時評「この国は危ない」と歌う中島みゆきを聞きながら

◆自称現実主義者たちの現実追随

◆伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判

◆98年度上半期読書アンケート

◆書評:市村弘正著『敗北の二十世紀』

◆「自由主義史観」を批判する〈場所〉

◆民族・植民地問題への覚醒

◆国策に奉仕する「〈知〉の技法」

◆「後方支援」は「武力の行使」にほかならない

◆ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか

◆個別と総体――いまの時代の特徴について

◆植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術

◆政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争

◆朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産

◆書評:ガルシア=マルケス著『誘拐』(角川春樹事務所刊)

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ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか
「週刊金曜日」第215号(98年4月17日)
太田昌国 


 ある出来事についてメディアの上で大量の情報が流れているからといって、読者・視聴者である私たちが事態の本質を把握できるわけではない。ペルシャ湾岸戦争、阪神大震災、オウム真理教事件、神戸少年A事件などをめぐる驚くべき量の報道と、それを受け取り続けた私たちの関係を思い起してみる。

ひたすら扇情的で表面的な、圧倒的な量の情報に襲われた後の私たちに残ったのは、事態の本質が見えないがゆえの索漠たる思いだけだった。それと同じ思いは、ペルーの日本大使公邸占拠事件報道の洪水を、一年後のいまふりかえる時にも蘇る。

ふだんは日本からの特派員がひとりいるかいないかのペルーの首都リマから、四ヵ月間で延べ二千人ものジャーナリストが情報を送り続けてくれたが、私たちの脳髄に刻まれたのは、貧相なまでにきれぎれで断片的な、しかも画一的な映像と言葉だけだった。

 にもかかわらず、『「ペルー人質事件」解読のための21章』(現代企画室、一九八七年八月発行)のあとがきの中で、私はこの事件が「永く続く影響力を私たちの社会に対してもってしまうのではないか」と記した。とりわけテレビのように一方通行的な性格をもつメディアの上で、人びとを内省に導くのではなく、もっぱら情緒的な感動に誘うだけの物語の作り方は、それ相応の果実を実らせるからだ。

この場合で言えば、この種の事件には必ずある政治的・社会的背景を、@ペルー固有の歴史と現実に即して、Aペルーと日本の関係のあり方において、B世界規模の南北問題という視野で捉えるーーという三つの分野にわたる内省的な方法をとって考えぬくには、時間がかかる。出来合いの、安手の感動に身を委ねてしまうわけにはいかない。

逆にフジモリ大統領は絶対善でありトゥパク・アマルは絶対悪であるという構図の中で、視聴者みずからが日本人・日系人人質の運命に(唯一これにのみ)自己同一化さえするならば、マスメディアの報道の水準に見合った喜怒哀楽の表出(すなわち、情緒的な感動)に終始することはできる。ひとはその時、問題の本質を見極める地点からは限りなく遠ざかりながら、まるでみずからが事態の渦中にいたかのような錯覚すらもつことができる。

 感情的な興奮がもちうる力は、それ自体として否定すべきものではないのだろう。そこから出発しつつ、しかしそこに留まることなく、分析と自己省察へと至る道はありうるだろう。

だがペルー事件報道は、概して、視聴者が自分自身の欲求不満を償うために、「登場人物」であるフジモリや人質に乗り移って自己満足する結果をつくりだすことに寄与したと言える。もう一方の「登場人物」であったMRTA(トゥパク・アマル革命運動)の存在と意見は徹底的に無視したうえで。情報操作は、こうして支配者側から見てかなりの成功をおさめたのである。なぜそう言うのか、以下にいくつかの観点から検討してみる。

 ペルーの歴史と現実が固有に孕む問題が事件の背景にはあったとして、局外者である私たちは、それを解決できる当事者ではない。ここでは冷静で客観的な観察者に撤するしかない。ところで、観察者であることは、この場合卑下すべきことではない。それには独自の意義がある。

他者を理解するという行為は、それを媒介にしてみずからを知ることにも繋がるという意味で重要であることは、私たちの経験知のうちにあるからだ。だが、その道はマスメディアとそこで踊る評論家たちがとるものでは、またしても、なかった。ペルーについて無知であった彼(女)らの多くは、最低四ヵ月間の研鑽期間があったにもかかわらず、歴史の奥行きについても深部の現実についても何も知ろうとしないまま大使公邸を遠望する地点のみでの「取材」を続け、占有するメディア上に無意味な言葉と映像を流し続けた。

したがって、この不幸な事件を機にペルー社会を知ることを怠った日本社会は、当然にも総体として、己れを新たに識る機会をも失したのである。それは、いまから十年前、自然死を迎えるべき時期にきていたに過ぎないひとりの特権的な男の生死をめぐる「情報」が(ただそれのみが)、日本現代史およびアジア諸地域と日本の関係史における彼の役割についての捉え返しも検証もなされないままに、微に入り細にわたって垂れ流されていた時の、あのおぞましい状況に似ていた。

 そのことは、さらに具体的にいくつかの形をとって現われた。事態を、ある外国での「日本人の生命・財産の安全保障」に関わる問題だと捉えた者たちは、湾岸戦争→国連PKO(平和維持作戦)への自衛隊の参加→震災→地下鉄サリン事件に際しても主張したことの延長上で、日本社会には「危機管理」意識が欠如していると大声をあげた。彼らが口にする対処策は、重要施設の警備強化、防壁の要塞化、警察の特殊部隊の増強および海外派遣、邦人救出のための自衛隊機・艦船の派遣、テロ制圧のための国際協力体制の推進……などであった。

これらはいずれも、原因を問わず結果にのみ相対そうとする態度である。世界の貧しい地域で「テロ」行為が行なわれ、飢餓や内戦が起こっているとすれば、そこには必ず「よってきたる〈政治的・経済的・社会的〉由縁」が存在する。国内的な要因と世界規模の要因を腑分けしたうえで、私たちにも応分の責任分担ができる後者に関わって根本的な治療を施そうとするのではなく、逆にそれを隠蔽して、目に見える傷口のみに応急処置を施すことで済ませようとする態度がそこには貫いている。

 彼らは、フジモリ大統領が最終的に選択し十七名の死者をもたらした武力「解決」をも歓迎した。優柔不断の日本の政治家に比べて、フジモリ大統領のこの決断力はどうだ、真のサムライではないか、とまで言いつのる者も続出した。

「テロ」行為に対して、それに倍する規模の「国家テロ」をもって応戦した時に、矛盾は何ら解決されないまま内攻し、最悪の場合には際限なきテロの応酬にいきつくことは見えやすい道理である。だが、私たちはこの論点に関わっての日本の現実政治における攻防において、(いまのところは)負けた。

ペルー事件の武力「解決」から三ヵ月と経たぬ九七年六月、カンボジア情勢の不安定化を理由に日本国首相は「自国民救出のために」自衛隊機二機をタイに派遣するという「決断ぶり」を見せた。

彼らは、ペルー事件の教訓をいち早く生かしたのだ。少なからぬマスメディアにおいてさえ、首相は自衛隊機の海外派遣の「実績」をつくりたかったのだろうとの分析がなされた。


 そして一年後のいま、事態はいっそう進んだ。日米両国の外務・防衛官僚レベルで策定された防衛協力の新指針は、米国が今後行なうかもしれない戦争行為に、自衛隊はおろか日本社会が全体として自動的に協力する体制を固めるものだった。

それは、法律条文の強引な拡大解釈を得意とする政府ですら、現行法規では充分に対処できない範囲を含むものだとの判断から「周辺事態法案」(仮称)のとりまとめや自衛隊法の改定などを策する段階に至っている。

東西冷戦構造が崩壊して新しいアジアと世界の情勢が目前にある時に、平和を積極的に作りだすためにではなく、いまはその理由すら見当らない新たな戦争に対処しようとする日米両政府のあり方は異様である。

これはペルー事件に際してのペルー政府や日本政府の態度に見られたと同じように、「テロ」の要因が存在するとすればそれをこそ根本から除去するために努力する方向ではない。

 否、この言い方では、世界の二つの超大国・日米両国政府の態度を表現する言葉としては不十分なのだろう(両国の間には、無視できないほどの大きな力量の差があることは別な領域の問題である)。

東西冷戦体制が消滅した直後に米国大統領が言い始めた「新世界秩序」なるものが、「南北対立」の激化を意識したものであることは、私たちが繰り返し主張してきた点だ。共産主義への勝利を謳歌する資本主義は、「北側」の優位性を前提としたグローバルな
(地球規模の)単一の経済秩序を樹立しようとしている。

NAFTA(北米自由貿易協定)の発効から一年足らずのうちに起こった一九九四年以降のメキシコの経済危機や、九七年二月のタイ通貨バーツ売りに始まるアジア新興諸国の全般的な金融危機は、経済グローバル化の過程で起こった「南側」の軋みである。

経済グローバル化によって生まれた「南側」の企業倒産、失業の増大、福祉支出の抑制、外資の浸透、農地の減少などの現実は、農民、都市労働者や貧困層、女性、先住民など、いわば「経済的弱者」に多くの矛盾を皺寄せしている。

 現在のアジア経済危機の中で、スカルノ独裁体制に反対する集会やデモが活発化しているインドネシア情勢を見て、沖縄に駐留する米国の第三十一海兵遠征軍は一月下旬からおよそ一ヵ月の間、インドネシア沖に派遣されて軍事訓練を行なった。二〇世紀を貫く米国の外交政策を顧みるなら、社会不安が米国の「許容範囲」を越えた時に、米海兵隊はより一歩踏み込んだ軍事作戦をインドネシアにおいても展開するに至るのであろう。

日米防衛協力の新指針は、米国が発動する戦争には日本は一も二もなく協力・参加することを定めているのだから、この場合、インドネシアにおける「周辺事態」に際して日本が、自衛隊による米軍への補給・輸送、米兵など戦闘員の捜索救援活動などに加えて、民間空港・港湾の提供、兵員・物資の輸送や積降ろし、米航空機・艦船への燃料提供、米軍装備の修理・整備、負傷兵の診療、汚水処理、給電・給水などの協力活動を、地方自治体職員と民間企業労働者を総動員して行なうことを意味する。

 経済のグローバル化が大きな要因になってある地域が社会的な混乱状態に陥ると、日米の共同作戦で軍事介入が行なわれる。

この近未来のイメージは、言い換えるならば、「南側」の世界における貧困や社会不安の原因を取り除くために日米両国が努力するどころか、逆にその原因を作り出した挙げ句に、それに対する抗議・反対の動きが大きくなればこれを軍事的に鎮圧するということを意味している。

 ペルー事件に際して声高に主張された「危機管理」強化論と「武力解決」肯定論は、わずか一年後のいま、このように不気味なまでに現実化した。

私たちの社会は、こんな論理と行動をこのままずるずると内面化することを許すのか。「ペルー事件から一年」をふりかえる時、私はこんな問いを自他に向けるところから始めざるを得ない。

(98年4月13日記)

 
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