フィールドワーク報告 海上ヘリ基地建設反対座り込み行動

しなやかに・したたかに・粘りつよく
新基地建設を食い止める人々


とにかく「座り込み」に行こう!
辺野古漁港前にさいていた
アカバナ(ブーゲンビリア)

 97年の夏と2000年の夏に沖縄県名護市辺野古(へのこ)に行った。現地では、海上ヘリ新基地建設に反対してオバア・オジイを先頭に市民が粘り強い闘いを行っていた。

 日米政府が打ち出した「海上ヘリポート基地」計画は、老朽化した既存の米軍基地を整理・統合して強化するために米軍がもともと計画していたものである。沖縄県民による基地撤去の運動の大きな高揚のなかで、その運動の高まりを逆手にとって「普天間基地返還」の交換条件として提案するというあくどいやり方の基地強化の提案であった。

 現地での粘り強い闘い、沖縄県民と名護市民の「もうこれ以上基地はいらない」という強い要求が建設計画を8年間も阻止し続けてきた。その建設予定地である辺野古漁港に4月19日未明に、防衛施設局と建設業者がボーリング調査と称して大挙して押し寄せ、それを直前に察知した人々が身を挺してその作業を阻止したというニュースを聞いたとき、いても立ってもいられない気持ちになった。とにかく一緒に座り込みに参加したいと思った。あの素晴らしい海と自然を破壊したらもう取り返しのつかないことになる。また新たに戦争のための基地を沖縄に建てさせることなど決して許してはいけない。


辺野古の沖合いの美しい海
ジュゴンが住んでいる
 休みをとってわずか数日座り込みに参加したところで、どれだけの力になるだろう。きっと何も力にはなりはしない。それどころか現地で生活をかけて闘っている人々に逆に叱咤激励されハッパを掛けられることになるだろう。それでも良いと思った。現地での闘いをこの目で見て、話を聞いて、肌で感じて、それを首都圏で伝えることができれば。沖縄と本土との落差はあまりにも大きい。せめて沖縄の現実を自分自身で掴んで、少しでも伝えることが自分のできることではないか・・と。

粘り強い闘い

 辺野古は、さんご礁のリーフに囲まれた入り江にある本当に小さな漁港である。その漁港の一角に数人が座り込んでいるのだろうと想像した。

 辺野古漁港に車で近づいて行くと、真新しく舗装された道路の脇に三張りの大きなテントが掛けてある。「まさか、あれが座り込み現場なのだろうか・・」。近づいていくと、まさにそこは座り込み現場であった。

 想像以上に大きな座り込み現場であった。93日間で何と延べ7200人の人が座り込んだと言う。単純計算すれば、毎日約80人が座り込んでいる計算になる。

 毎日、朝から夕方まで座りつづける人、午前とか午後とか時間を決めてとにかく毎日座りこみを続けている人は、そんなに多くはない。現地で、仕事や生活をやりくりしてほとんど毎日座り込む人々を核にして、労働組合や様々な団体からの入れ替わりの応援でこの座り込みは続けられている。

辺野古漁港

 中心になる人々は4月19日から、土日はもちろんのこと、台風の時も欠かさず座りつづけているのである。3ヶ月以上も毎日欠かさず、仕事や生活をやりくりして座りこむことは並大抵のことではない。皆、本当に疲れているのだろう。しかし、粘り強く、そして明るく闘いは続けられている。

 「ここでの闘いはじっと耐えることです」。ヘリ基地反対協の大西さんが最初に言った言葉が印象に残る。

整然とした座り込み


朝のミーティング
阿波根さんの大きな写真パネル


 挨拶をして、現場に座り込むとすぐに注意書きを渡された。非暴力の行動であること、「座り込むこと」そのことが闘いであること、漁港内は生活の場であり神聖な場であるのでむやみに立ち入り歩き回らないこと、等々。

 毎朝、7時にはテントの設営を始め8時には座り込みを始める。朝のミーティングでも非暴力の行動であること、「座り込むこと」そのものが闘いであることが強調される。テント内には阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんの大きな写真パネルが掛けてある。戦後、沖縄の土地が米軍により「銃剣とブルドーザ」で強引に奪われていった時に「耳より上に手を上げるな」と徹底して非暴力で闘った沖縄の反戦反基地運動の象徴的存在だ。この精神がここに、そのまま生きていることに沖縄の運動の強さ改めて感ずる。



何としても阻止する!

 座り込んでいる人々は皆、本当におだやかで優しい人々である。「今日は」と言ってテントの中に入ってそこに座りこめば、すぐに仲間として迎えいれてくれる。皆が、初めて参加する人に気を配り緊張しないように配慮してくれる。

 しかし、そこは闘いの場である。防衛施設局は何時やってくるかわからない。その気になれば、警察や機動隊を引き連れて強引に強行突破をしてくる可能性も十分ある。

 漁港から一番離れたところ、つまり漁港へのアプローチの一番手前側のテントは、監視役および交渉責任者のテントである。奥のテントは座りこみ部隊のテントである。防衛施設局が来た時に備え、役割分担をきっちりと行っている。防衛施設局に対して交渉する部隊とその間に座り込みで阻止線を張る役割をきちんと決めておくことは、相手側の混乱を狙った挑発に載らず整然と合法的に抵抗し阻止するために絶対に必要なことである。そしてそのことをきちんと参加者にミーティングで確認している。


辺野古漁港の道路前
座り込みのテント

 手の内を曝すことになるから詳細を書くことは控えるが、更にいろいろと合法的に抵抗し阻止するための準備をしっかり整え、それがテント内で話し合われている。

 座り込みの主役に残念ながら若者は少ない(もちろん若者もいるが主体ではない)。はっきり言って、中年というよりは壮年世代が座り込んでいるのである。この人々が最悪の場合も想定してウエットスーツまで用意して座り込み、防衛施設局や警察の突破に備えピケットラインの練習までしている。

 私はこうした現場の緊張感と身を挺しても阻止するというその真剣さに、改めて自らが自分の生活に戻った時に何ができるか、何をすべきかを考えざるを得なかった。

わきあいあい


 朝から夕方まで、テントの日除けがあるとはいえ、沖縄の夏の強烈な日差しの中で毎日毎日、道路脇に座り込むことは大変辛いことである。皆、それぞれの仕事や生活をかかえながら、そのやりくりをしながら、それぞれの出来る形での協力をして闘争を続けている。

 数人の女性グループは毎日「団結弁当」と称して、手作りの弁当を作って座り込みの人々に配っている。3ヶ月以上、1日も休まず、あきないように毎日メニューを変えながらおいしい弁当が出てくる。座り込み参加者にとっても楽しみになっている。

 座っているのが辛ければ、横になって昼寝をしたり、本を読んだり、瞑想したり、世間話をしたり、いつ防衛施設局がきても対応できる状態を保ちながらも、テント内ではリラックスした時間が流れている。そうしたなかで、何かのきっかけで、話の輪が出来、沖縄の反戦平和運動の歴史や基地と共存させられている沖縄の生活の話が始まる。


座り込みテントの中
話の輪が広がる


すわり込みは
3ヶ月以上続いている
 基地返還を確信して基地返還後の将来を見越して、集落からは離れた米軍パラシュート降下訓練場のサトウキビ畑の真中に村役場を建設した元読谷村長の英断の話。全国的に有名になった国体ソフトボール会場での「日の丸」掲揚と焼き捨て事件。それに至るいきさつと知花さんのそのときの様子。23日(沖縄戦慰霊の日)に太陽光が屋上の階段を一直線に通るように設計した佐喜眞美術館設計者の真喜志さんの建築中の苦労話。沖縄を出て仕事で四日市や横浜で勤め、定年後故郷に戻っての生活を始めてからヘリ基地建設反対運動に関わり始めた方の生活や思いの変化のこと。少ない休みを利用して、那覇から50ccのバイクで片道2時間半掛けて駆けつけた板前さんが熱っぽく語った、自然を一旦壊したらもとに戻せないという話。座り込みのためにパートの時間を半分に減らし、防衛施設局が突破してくる可能性の高い午前中だけ毎日座り込んでいる人の話。等々等々。

 座り込んでいる何人かの人から「着工を遅らせれば遅らせるだけ私たちが有利になる」という声を聞いた。本当にそうだと思う。そしてそのためには、とにかく座り込みを続けることが大事だ。わずか2日間の座り込みで、私が何かをできたとは思わない。しかしここで実際に見て、聞いて学んだことは予想したよりも何倍も大きかった。一人でも多くの人にこの事実を伝え、本土からの支援の輪を広めてゆこう。それが私ができることだとの思いを強くした。

 そして、一人でも多くの人が一日か二日じっくりと座り込むために沖縄を訪れることを薦めたい。

座り込みテント前に咲いていた
ピンクのアカバナ

辺野古漁港のとなりは
キャンプシュワブという海兵隊基地
岬の広大な部分と海域をを占拠している