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エドワード・W・サィードを偲んで

H.H    

 先月9月25日、エドワード・W・サイードがニューヨークで67歳の生涯を閉じた。

 サィードについては、これまでピース・ニュースの本の紹介の中で「イスラム報道」「戦争とプロパガンダ」の二冊を取り上げ紹介してきたが、その彼が亡くなってしまった。

 アメリカ合衆国ブッシュ政権のアフガニスタンに続くイラクへの侵略戦争という、人が人を正義の名の下に殺しあう事が二十一世紀になっても続く「この世界」、
アメリカ帝国主義、植民地主義の現実を世界の人々のテレビの画面に映し出してみせ、平和を望む民衆の激しい怒りと深い悲しみをもたらした非道の「この世界」、
パレスチナ人でアメリカ合衆国市民であるエドワード・W・サィードの死は、彼の存在によって、そして又、彼の力強いメッセージによって、「この世界」に立ち向かう勇気を得ていた多くの人々に大きなショックを与えている。
NHKのBS放送で見た、対談している時の穏やかで静かな話し方と聴衆を前に耳に響くような力強い口調で聴衆に深い感動を与えた彼はもういない。

 「イスラム報道」を読んで私が学んだ事は、この本のサブタイトルにも使われた「メディアと専門家が私達の世界観を決定している!」という「現実」であった。このことは、アフガニスタンやイラクへの侵略戦争に対して、まったく無批判になって、結果的にアメリカ政府や日本政府の広報誌になっている米国や日本のテレビ、大新聞メディアに対して強い憤りを禁じえなかった私にとって、それは、権力者にとって都合の良い「現実」を見ているものに認識させるに充分なものであった。

 すなわち、「人間社会に関するあらゆる知識は、自然界に関する知識とは異なって歴史的な知識であり、したがって人間の判断と解釈に基づくものである。それは、事実やデータが存在しないからでなく、事実は解釈が加わる事によって重要性が備わるからである。」というサィードの言葉通りになっているのであった。

 ここでは、サィードの精神的自叙伝ともいえる1993年BBC放送講演の収録作品「知識人とは何か」を読みながら、彼の言葉にもう一度耳を傾けてみよう。


サイード著 知識人とは何か

 この作品でサィードが言っていることは、「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」ということである。それは、またサィード自身がそのような知識人たらんとして最後まで生き抜いた彼自身を語ることでもあった。

 現代における知識人はいったいどのような状況にあるのかといえば、現状肯定と大勢順応にはしるだけで、批判精神というかつての知識人の責務を放棄してしまった、専門家、資格保持者、エキスパートが増えるという専門分化現象によって、私たちは、全体を見失い、仕事の円滑な推進と効率のみを重視して、現状維持を至上命令としているのではないか。

これは、まさに、私たちのことではあるまいか。

そういう現実を踏まえ サィードは、いう。

 迎合する前に批判せよが、簡にして要を得た回答になる。知識人にはどんな場合でも、ふたつの選択しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力を持つ側につくか。

 この基本的な考えは、この「知識人とは何か」を読み進めるうちに繰り返し繰り返し出てくるサィードの基本的考えである。

 その繰り返し出てくる、サィードの言葉を拾い上げてみよう。

1、知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときは、断固是に反対の声を上げるべきであって、それに伴う犠牲を恐れてはいけないのである。

2、知識人とは、きわめて偏った権力にこびへつらうことで堕落した専門家として終わるべきでなく権力に対して真実を語ることが出来るような、別の選択肢を念頭に置き、もっと原則を尊重するような立場に立つ、まさに「知識人」たるべきではないか。

3、知識人の役割とは、国際社会全体によってすでに集団的に容認された文書である世界人権宣言に記されている行動基準と規範を、すべての事例にひとしく適用することなのである。

4、知識人にとって、情熱を燃やして関与することが、リスクを引き受けることが、真実を暴露することが、主義や原則に忠実であることが、論争において硬直化しないことが、世俗の様々な運動に加担することが、とにかく重要である。

このような理想に向かう激しい情熱を、私たちもまた共有する事は出来るのであろうか。

「人間の現実は、普遍的なものと特殊的なもの、外在的なものと内在的なもの、観察者の目の前にあってみえる世界と背後にあってみえない世界、世界の一部分(人間)と世界の全体、の間に成り立つ弁証法的な関係の全体としか現れない」といった加藤周一は、現代の知識人ののみならず人間の存在そのものを表現しつつ、知的技術者から真の知識人への条件を述べている。 
まさにエドワード・W・サィードの人生は、真の知識人としての行き方を示した生涯であったと思う。