Parallels and Paradoxes



音楽と社会







Music and Society
バレンボイム/サイード対談集

Chapter 2-3
New York、1998年10月8日
過去の作品を解釈すること現代の作品を取り上げることディテールへのこだわり、作品への密着
一定の内容には一定の時間が必要中東和平プロセスが破綻した理由

サイード: 君が演奏し、指揮するものと、僕が執筆し、講義するもののあいだには、もう一つ別の相似がある。僕らのすることの多くは、十九世紀に根があるが、僕ら自身は二〇世紀から二十一世紀にかけての人間だ。過去の作品について書いたり講義したりするとき、僕のおもな関心は、できるかぎりそれらが作られた時代のものとして、説明し、提示することだ。僕にとっては、ジェイン・オースティンの小説もヴェルディの『アイーダ』も、それぞれの時代にきわめて深く根ざしたものだ。オースティンの場合は十九世紀のはじめ、ヴェルディは十九世紀末だが、彼らの作品を読むときには、できるだけその背景に即して読解するというのが僕のやり方だ。逆にいえば、ジェイン・オースティンがプルーストのようであることを期待するなんてできない。むろん、彼女にはできたが、プルーストにはおよそ想像もできず、できるはずもないことだってある。ヴェルディの『アイーダ』についても同じことが言える。彼の時代に特有の、オペラや聴衆に期待される一定の性格がある。

ただ、よく気にかかるのは、もしかすると、僕は昔のことに興味のある人間なので、過去についてとらわれすぎているのかもしれないということだ。君が指揮したり、演奏したりするとき、同時代の作品をとりあげるということに、それほど大きくこだわることはないだろう。もちろん君が作品を依頼し、上演するのは現代の作曲家だ。けれども君がふだん取り上げているものの多くは、僕の場合と同じように、過去の傑作だ。ここで持ち上がってくるのが、妥当性という問題だ。過去の作品を上演するとき、たとえば君がシカゴ交響楽団のような二〇世紀後半の素晴らしいオーケストラの置かれた状況でそれを行なうことによって、どれほどのゆがみをもたらしていると感じるのだろう。たとえば、ベートーヴェンの交響曲のように、特定の条件を想定している──オーケストラも空間ももっと小さい──作品を君がとり上げて、二十世紀の環境に合わせてそれを変形させるとき、そこには何かしら過去を侵害するものがある。過去において要求された条件と、現在における妥当性という問題のあいだで、つねに行きつ戻りつしているような感じを僕は持っているのだけれど、君にはそういうことはないのだろうか?

バレンボイム:
もちろん、あるとも。でも偉大な芸術作品はみな、二つの顔を持っていると僕は思っている。一つはそれが属する時代に向けての顔、もう一つは永遠に向けての顔。もちろんモーツァルトの交響曲やモーツァルトの歌劇には、明らかにその時代に結びついた側面、今日の状況にはまったく関係のない側面がある。『フィガロ』に登場する伯爵のもつ大きな特権は、完全に時代がかったものだ。けれども、この音楽にはまた、なにか時を超えたものもあって、その側面については、発見するという気持ちで演奏しなければならない。

サイード: なぜそれを、時を超えたものtimelessと呼ぶのだろう。君だって一つの時の中にいる。時の外にいるわけではない。作品を今日にひき寄せることはできる──君が言っているのはそれだろう。

バレンボイム: 時を超えてというのは、それが固有の時代にだけ限定されてはいないという意味だ。永遠に現代的なのさ。でもどんな作品についても、それが言えるわけじゃない。『アイーダ』は永遠に現代的であるとは、僕には思えない。でもベートーヴェンの後期の作品は、まちがいなくそうだ。ドビュッシーの作品の多くもそうだ。ただし、このあたりからは個人的な趣味や主観の問題になってくるだろう。それに加えて、僕がいつも演奏してきた三人の作曲家の名前を挙げてもいいだろう──シカゴ交響楽団の常連にとっては、ちょっと警戒させるくらいに定番になっているかもしれないくらいだ──ピエール・ブーレーズ、ハリソン・バートウィスル、エリオット・カーターという三人の現代の作曲家だ。

サイード: むずかしい作曲家たちだね。

バレンボイム: 難解だ。そして、さっき言ったように、僕は警戒させるくらい定期的に彼らの作品を取り上げている。その理由はね、むずかしい状況やむずかしい音楽、およそむずかしいものはなんでも、なれ親しむことによって理解すべきだと思っているからなのさ。この場合、なれ親しむことが軽蔑を生むことはない、それは理解につながるのだ。

サイード: そうすることで、興が冷めてしまうとは思わないの?

バレンボイム: ちっとも。モーツァルトやベートーヴェンの演奏では、大きな発見という感覚、予想外だったという感覚をひきだすことができるはずだと思う。つまり、聴き手をぐっと曲にひきずり込んで、何が起こるかはすでに知っているのだけれども、ついついのせられてしまう、というようにさせなければいけない。聴き手に、曲を知っていることを忘れさせることができねばならないのだ。

サイード: なんだか名優が役を演じるのに似ているね。『ハムレット』を観る人は、そこで何が起こるかは知っているのだけれど、実際には、もう一度それを体験する。そうだろう?

バレンボイム: それと同じことで、いや逆説的にというべきかもしれないが、ハイドンやモーツァルトの交響曲を演奏するときと同じような「おのずとわかる」という気持ちでもって、ブーレーズやカーターやバートウィスルを演奏するのさ。これは可能なことだと思う。でも新しい音楽を演奏するとき、はじめに要求されるのは明快さだ。おもしろく聴けて、テクスチュアに透明性があり、強弱の関係がじゅうぶんに解決されていること──ここでは和声は問題にならず、音楽の中にあるすべての表現要素が問題となるからだ。どうして短い音が表現するものは、長い音とはちがっているのか。これもまた、サウンドと沈黙の関係をつうじて説明できると思う。短い音は、ある意味で早死だ。きわめて単純で比喩的な言いかただけどね。そして長い音は、死に対する抵抗だ。そこには永遠に対するあこがれのようなもの、生命や自然と呼ばれるものの移ろいやすさに対する闘いがある。けれども、そういう透明感に到達することは、初演のときや難解な曲のパフォーマンスでは、めったにないことだ。

この点からは、ピエール・ブーレーズは二〇世紀後半においてつねに重要な人物だったと思う。彼が新ウィーン楽派の業績を、できるかぎり明晰で、聴いて楽しめるものにしたからだ。これは、知性的で冷静な分析的姿勢とはなんの関係もないものだ。シェーンベルクやバーグの作品の、こういう明晰さをそなえた優秀なパフォーマンスを経験した後で、ごく一般的なやり方のパフォーマンスと比較してみれば、理解することが不可能だとわかるだろう。上演する音楽家のすばらしさは、ディテールへの本人のこだわりに直結していると思う。むずかしいのは、それぞれのディテールをいちばん重要な要素であるかのように扱い、それでいながら作品全体を見失うことがないようにすることだ。どちらか一方をやるのは簡単だが、両者をほんとうに結合させるのはやさしいことではない。カーターのような複雑な作品については、とくにこれが難しい。またオーケストラの演奏家たちも、それを理解するのにてこずりがちだ。

これを達成する唯一の方法は、一シーズンに同じ曲をくり返すことだ。一定の作品を定期的にくり返していけば、七度目か八度目には聴き手にもそれが聴こえるようになる。オーケストラは毎回違う演奏をする。僕たちはシカゴでハリソン・バートウィスルによる『エクソディ』を上演した。これは非常に長い、複雑な作品だ。観客の中には、あまりに難解で困惑させられて、去ってしまう者もいた。だがオーケストラは、じつに上手く演奏していたのだ。じゅうぶんにリハーサルがなされ、一九九八年一月には、それを三、四回も演奏した。それから、しばらく休ませた。ふたたび取り上げたのは九月にロンドンのプロムナード・コンサートだった。もちろん、一月にやったところから、そのまま再開した。つまり、僕らにはすでに蓄積があったのだ。九月の公演が以前よりよかったかどうかはわからないが、すでになじみはあった。比較することができるような、一通りやった経験を持っていたのだ。そこでオーケストラは、それを異なったかたちで二度目、三度目と演奏する。これはとても大事なことだ。つまり僕の考えでは、モーツアルトやベートーヴェンはあたかもはじめて演奏するかのように演奏すべきだし、ブーレーズやカーターの作品はすでに百年も経験を積んだかのように演奏すべきだということだ。

サイード: それらにも歴史はあるが、実際には新しい作品で、現代のものだ。文学の読み手や書き手についても、似たような経験を指摘することはできる。難解な作品──たとえば、ジェラード・マンリー・ホプキンスの詩や、ジョーゼフ・コンラッドの小説──は、読むことはできる。けれどもつねになにかしらとらえ難いところがある。それはけっして完全にはつきとめられない。でも僕には、それを読んだり披露したりすることの目的は、最終的には著者がそれを書いているときの位置に自分を置くことだと思う。言い換えれば、ただそこに作品があってそれを読んだというのではなく、これまでとは違った読み方をすることによって、その作品にあたらしい形式を与えることなのだ。そういう感覚を持つことによって、その作品に親しみを持つことができるようになり、自分はその作品の原点に存在し、作品の展開とともに一緒に進んでいくのだと感じるようになるということだ。

そういうわけで、ある種の同一化がおこなわれるのだけれど、それは音楽にも起こりうることだろう。指揮したり、演奏したりするときには、単にそこにあるものを指揮し、演奏するというだけではないはずだ。そのことは、演奏を聴けばすぐにわかる。外から何かがなされていればすぐに気がつくものだ。「作品に密着している」という、うまい表現がある。つまり、作品が展開し、開示されていくのとぴったり並んで、演奏者も展開し、開示されていくのだ。もちろん、そこには一定量の技術的な準備もつまれている。リハーサルも、演奏者として、音楽家として、解釈者としての経験の一部だ。けれども必要なのは、そういうものを超えたところに到達し、作品を自分のものとして提示するのと同時に、作品そのものとしても体験できるようになることだ。

そうすると問題は、どれほどの変形が許されるのか、どれほどの自由が許されているのかということだろう──それはある意味で常に忠誠の問題なのだと思う。何かをはじめて演奏するときや、自分のものではないものを演奏するときには、その作品に対して忠誠心らしいものを感じるものだ。だが同時に、解釈者としての自分自身に対しても、忠誠心を持たなくてはならない。すなわち、それを遂行するにあたっての自分固有のやりかたであり、それが正しいやり方だと他の人たちに納得させたいと自分が思っているものだ。そして自分のすることにどれほど説得力があるかを測るきめ手は、まさにその瞬間に作曲され演奏されたものであるかのようにそれが響くかどうかということだ。

バレンボイム: そのとおりだ。

サイード: ある意味で、パフォーマーとしてカーターの作品を演奏する君は、同時にまたベートーヴェンやバッハやワーグナーを演奏したダニエル・バレンボイムでもあるわけで、あたかも一つの作品の演奏のなかにすべての過去が凝縮されたかのようなことになる。それと似たように、僕が読み手として、書き手として、教師として、評論家として感じるのは、自分が現代の作品、例えばベケットの戯曲を読んでいるとき、自分はまたシェイクスピアをはじめそれまでの他の戯曲をいろいろ読んできているのだけれども、なにかしらそういう作品に対して、いま聴き手の前でこれがはじめてであるかのように演じられている現代作品に奉仕することを強要しているように感じる。

バレンボイム: もちろんさ。でもカーターにだって彼のワーグナーやモーツァルトやドビュッシーが存在しており、その知識なしでは彼の音楽も成立しなかっただろうということも忘れてはならないよ。とはいえ結局、演奏家が、「自分は音楽のしもべである。忠誠にしか興味がない。譜面にあることを忠実に再生することだけが望みだ」などと言うのは、偽りの謙遜だろう。おそろしい傲慢であるか、さもなければ見せかけの謙遜だ。だって、そういうのは客観的にありえない事柄だからね。楽譜は作品ではない。

サイード: 違うとも。でも僕が言おうとしているのは、傲慢さがなければ「これは彼の作品だけれど、いま演奏しているのは僕だ」と言うことができないということだ。わかるだろう、個人の主権というものがある。
バレンボイム: だが、たとえ不完全はであっても、自分の一部だと感じられるほどに作品が消化できているのでなければ、それを上演すべきではないと思う。上演するときには、自分と作品が分かちがたく感じられるようでなければならない。問題は、今日の批評の世界で自由が語られるとき、それがあてはまるのは、速度の自由とテンポの自由にほとんど限定されていることだ。パフォーマンスに対して「彼のテンポは柔軟だった」とか、「彼はとても厳格だった」という批評がなされるとき、それが暗示するのは、「彼は厳格だった。それゆえ彼は分析的で、妥協がない」、あるいは「彼のテンポは柔軟だった。それゆえ彼はロマンティックで、感情的だ」ということだ。

サイード: ばかげている。

バレンボイム:
もちろんさ。でもこれが当世ふうの考え方なのだ──すべてがコンパクト化され、象徴やスローガンへと分解される。矛盾しているのは、僕らの時代は批判精神に満ちているはずなのに、ひとりひとりが批判の手段をもつことは要求しないところだ。

サイード: 文化もそうだね。それは大きな努力と忍耐を要求するから。

バレンボイム: 以前どこかで読んだのだけど、チョムスキーはテレビで発言するのを拒絶している。テレビでは一つの概念を最後まで説明する時間が与えられないと知っているからだ。これは大いに尊敬すべき態度だと思う。

サイード: まったくそうだ。僕もそれはやめている。昔はずいぶんとメディアに出演したものだ。そういうときには「サウンドバイト」と彼らが呼ぶ形式に合わせねばならない。それにはまったく賛成できない。時間の浪費だと思う。だから表現手段として、執筆するか講演するかのどちらかを選ぶようになった。そこでは聴衆の前で考えを発展させる時間が与えられるからね。

ゲリラ的な介入の魅力はわかるよ──さっと入って、ひっかきまわす。それは結構なんだが、それだけではだめだ。討論にちょいと口をはさむだけというのではなく、実際にわり込んでいかなくてはならない。音楽家は聴衆の生活にわり込んでいく。聴衆は他のすべてを放り出し、生活を中断して、君の演奏を聞きに駆けつける。同じように、僕の書いたものを読もうとする人も、それを読む時間をつくるために他のことをわきに置いておかねばならない。このわり込みが効果的であるためには、こちらの側が修行をつむことが要求される。何かを知っていること、特定の文化を身につけ、特定の訓練をつんでいることが必要だ。それはものすごく大事なことだと思う。僕の場合は、文献学的な修養と呼ばれるようなもので、テクストを歴史的な文脈において読解し、言語の規則、形式や話法などを理解しようとすることだ。君の場合は、古典音楽の研究、ソナタや変奏曲やシンフォニーなどの形式を理解することだ。こうした訓練は、現代の若い音楽家たちのあいだでは姿を消し始めている。それに代わって浸透しているのは、僕にいわせれば拠り所のない折衷主義のようなものだ。「ああ、ベートーヴェンね。ダ、ダ、ダ、ダーン」、あるいは「ベートーヴェンは、○○や××をやる作曲家だ」、こういうような文句にあらわえれているものだ。

バレンボイム: それはスローガンだね。僕は、スローガンや、テレビ言語に対して、はっきりと哲学的な批判を持っている。そういうものは、内容と時間の関係を考慮していないからだ。つまり、ある一定の内容には、一定の長さの時間が必要であり、それを圧縮したり、短縮したりすることはできないのだ。それはまるで、「ベートーヴェンの楽譜のエッセンスを、二分間で教えてくれ」と要求するようなものだ。

サイード: あるいは、昔よくあったような「世界名曲集」なんてタイトルの安っぽいレコード。いろいろな曲の抜粋を収録して、凝縮された作品の要約のようなものをつくろうとする。そんなものは、完全な裏切りだと思う。『アマデウス』のサウンドトラックをモーツァルトの不足のない編集とふれ込むのが、モーツァルトへの裏切りであるのと同じことだ。

バレンボイム: まったくだ。思うに、どんなプロセスにも、それが文化的なものであれ、政治的なものであれ、その内容と、それが要求する時間とのあいだに、絶対的にきまった関係がある。そして、ある種のものは、時間を十分に与えなかったり、与えすぎたりすると、消え失せてしまう。オスロ合意が格好の例だろう。合意そのものに賛成だったか、反対だったかということは、置くとしてだ。君があの合意に反対していたことは知っている。僕はうまくいくことを期待していた。あれがうまくいかなかったおもな理由は、僕の考えでは、プロセスの勢いが──つまり、速度やテンポが──内容と同調していなかったからだ。たぶんこれは、あの和平プロセスに対する君の拒絶を、哲学的に確認するようなものだ。つまり何かがまちがっていたために、あれは自らのテンポを持つことができなかったのだ。でもそれは、僕にすれば音楽の演奏とまったく相似したことだ。そこでは内容によって特定の速度が要求されており、もし誤った速度で演奏するならば、つまりのろすぎたり速すぎたりするならば、全体がばらばらに壊れてしまう。オスロ合意に起こったのはそれだ。

サイード: だが僕の考え方によれば、オスロ合意の問題点は、あの表記が──あれは書かれたテクストだからね──現実の状況にじゅうぶんに適合していなかったことにある。つまり山脈を見ていながら、小さな紙切れに一つだけ山を描き込んで、それをもって山脈全体を表現することができると考えたようなものだ。オスロ合意の問題点は、そういうような恐ろしいズレだ。現実は、パレスチナ人にとっての現実は、挫折感、帰るところがない、追放され、剥奪されたという感覚であり、それは償いを要求する。けれど文書にかかれているのは「いやいや、そういうことは話し合いの議題ではない、ここでは君たちの着ている服についてだけ話すのだ」ということなのだから。この合意を損なっているのは、こういうような現実とテクストの大きな落差だ。おまけに君の言ったようなこともある。もしもこれが、ゆっくりと山脈の方に導いていくような展開をみせていたのであれば、話はまたちがったかもしれない。けれども実際に起きたことは、このたった一つの山によって代表された山脈は、誤ったテンポによって、まったく違った方向に進んでしまい、修復しようとした状況に対してはどんどん不十分なものになっていることが、しだいに露呈したということだった。

バレンボイム: でもこの種の対立は、ある意味で政治的な手段によっては解決できないものじゃないだろうか。僕はよく考えるんだが、政治家と芸術家のあいだの違いって、いったいなんだろう。政治家は妥協する技を身につけてはじめてよい仕事をすることができる。いろいろな陣営がすすんで譲歩できるような領域を見つけだし、彼らをできるだけ一つに近づける努力をして、適切な勢いと時間をあたえれば、つぎ目はやがて消滅するだろうと期待するのが、彼らの仕事だ。これに対して、芸術家の表現が成立するのは、なにごとにも妥協することをいっさい拒むことによってのみだ。それゆえ、このような性格の紛争は、政治的な手段を通してのみでは、経済的な手段や取り決めを通してのみでは、解決されることがないような気がする。だれもが、いわば芸術家的な解決手法をとる勇気を求められている。

サイード: それはわかるよ。それにしても、なぜ僕らは心の奥底で──これは自分のことだが──政治家というものを信用せず、嫌っているのだろう?それは彼らが調停役であるという、まさにそのためだ。彼らが興味を持つのは目先の目標ばかりで、ひと回り大きなプロセスではない。彼らが望んでいるのは、一つ先の段階に到達して、「私はこんな業績をあげた」と言うことだ。だが、知識人や芸術家にとっては、肝心なのは理想であり、妥協をしないことだ。自分には何かやりたいことがあり、裏で小細工をして自分のために一定の安堵を確保することには、あんまり興味がない。それは政治家が望むものだ。問題は、いったいこのギャップをうめる方法は、あるのだろうかということだ。これは難しい問題だ。いったい政治家の手法が、芸術家や知識人の手法に開かれるようなことがありえるのだろうか?

バレンボイム: ある意味で、それは政治屋と政治家の相違でもあるよね。政治家は、ヴィジョンを持った存在だ。

サイード: ネルーやマンデラのように、ヴィジョンを持ち、同時にまた、それを実行する能力を持った人間だ。そのことが、たとえ何を要求しようと。

バレンボイム: そういう人たちは、いま存在するものと、これから存在しうるもの、あるいはすべきものの違いを区別する能力がある。そして、それをするためには、なによりもまず現実を理解しなければならない。「ポリティカリー・コレクト」という文句は、すでにもうそれだけで、哲学的には正しくないということを意味している。なぜなら、それは妥協を意味するからだ。

サイード: 妥協と順応だ。それはまるで、音楽家が、「ベートーヴェンを発見するためには、楽譜を研究し、自分でそれを解き明かそうとするのではなく、レコードを何度もくり返し聞くべきだ」と言うようなものだ。つまり、先例にならって、それをただコピーしようとしている。

バレンボイム: 勇気という要素は、もっとも重要だ。勇気というのは、違った方法で演奏することだけを意味するのではなく、いっさいの妥協を拒むという勇気も意味する。その一方で、大政治家のように、現実を理解し、テクストを理解し、実行することの難しさも理解しており、その上で、最大限の勇気をもって、ほんとうに全力を出しきれるヴィジョンを持っていることだ。言い換えれば、ベートーヴェンの曲で、最後まで続くクレッシェンドが記されており、そこにスービト・ピアノ(すぐに弱く)が来て、絶壁のような錯覚を作り出すというのであれば、それはそのとおりに実行しなればならない。その絶壁まで、最後のところまで行かねばならない。そこにいくまで落としてはならないし、クレッシェンドを中途半端にしてはいけない。

サイード: 臆病者はどんなふうにするの?

バレンボイム: クレッシェンドをあるところまでしかやらない。だから絶壁に到達することはなく、その数メートル手前までしか行かない。それからピアノへと落とす。つまり、ベートーヴェンがクレッシェンドからスービト・ピアノへと記すとき、スービト・ピアノの一つ前の音はクレッシェンドの最大の音でなければならないのだ。それを実行するのは、かなりの勇気を必要とする。そこからスービト・ピアノに転換するのは、物理的に難しいことだし、音の制御にしても、なにもかもが難しいからだ。そこでクレッシェンドを一定のところまでしかやらず、そこから落として、気持ちよく次のピアノに導いていけるようにする。だがそうすると、絶壁の効果はなくなってしまう。これが僕の言おうとしたことだ。何を演奏するかや、どこで演奏するかではなく、音楽を演奏するという行為における勇気だ。こういう種類の勇気が、ほんとうに深遠な人道上の問題を解決するときに必要とされると僕は思う。

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『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みずず書房 2004)からの抜粋 All Rights Reserved


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Posted on 19 July, 20041