Parallels and Paradoxes



音楽と社会







一年以上も抱え込んでいたバレンボイムとサイードの対談集ですが、このほどようやく出版の運びとなりました。ロックばかり聞いていた(=^o^=)/には、ずいぶんとお勉強になりました。これも部分的に中身を紹介したいと思います。でも一度に整理するのは大変なので、ぼちぼち気が向いたところからはじめます。とりあえずは、インデックスを兼ねた「もくじ」をアップしておきます。 
amazon.comでは、編集者のグゼリミアンが「著者」になっているので見つかりにくいですが、ぜひ買ってください

Music and Society
バレンボイム/サイード対談集

Introduction

「エドワード・サイードについてまず思い出されるのは、彼の関心の幅がきわめて広い領域におよんでいたことでしょう。音楽、文学、哲学に精通し、政治にも深い理解を示していたばかりでなく、異なる専門領域のあいだに関連性や相似性を見出すことができるという珍しい資質の人でした。それができたのは、彼が人間の精神や人間の存在についての並外れた理解力を持っていたからであり、相似と相反がけっして矛盾するものではないということを認識していたからでした。・・・彼はどのような思考や行為についてもそこに異なる側面を見ることができ、そればかりか、その必然的な帰結を見通すことも、そのような思考や行為の背後にある人間的、心理的、場合によっては歴史的な「先史」の絡み合いを見通すことができたのです。情報は理解のための最初の一歩にすぎないということを、つねに意識している数少ない人たちのひとりでした。いつも観念の先にあるものを探し求め、目では見えないもの、耳ではきこえないものを探し求めていました。・・・パレスチナ人は自分たちの願いをこのうえなく雄弁に擁護してくれる人物を失いました。イスラエル人は公正できわめて人間らしい相手を失いました。わたしは心の友を失いました」

二〇〇三年九月二十五日、白血病との長い闘いの末にサイードが亡くなったときバレンボイムはこう書きました。ロンドンのホテルでの偶然の出会いからはじまったという一〇年におよぶ二人の友情は、ウエストイースタン・ディヴァン・オーケストラという大きな成果を生み出しましたが、それに加えて一冊のたぐいまれな本も遺したのです。

Parallels and Paradoxes(相似と相反)という本書の原題は、それそれの分野で傑出した業績を築いた第一人者でありながら際立ってユニークなこの二人の、微妙にねじれて重なるシンメトリカルな関係をみごとに言い表しています。バレンボイムはロシア系ユダヤ人の子孫としてアルゼンチンに生まれ、一九五二年、十歳のときに両親とともにイスラエルに移民しました。ちょうどその一年まえ、十五歳のサイードは生まれ育った中東世界を離れ合衆国に移住しました。しかしこうした大きな移転の体験も、完全に根を下ろすような再定住につながったわけではなく、むしろ常に境界をまたいで移動しつづけるというその後の二人の生活のプロローグに過ぎなかったようです。

二人ともヨーロッパ文化にどっぷりつかって成長し、その最良の伝統を継承し、その真髄の体現者となりましがが、その出身の文化的な背景からはよそ者です。そのことは、内部にいてはけっして見えない特権的な視点を与えてくれますが、同時にまたアイデンティティについて常に問われつづける、のっぴきならない状況もつくりだします。それは西洋文学や思想の伝統におけるサイードの位置についてもいえることですが、問題がより鮮明に突きつけられているのは、バレンボイムの場合でしょう。

ワーグナーを中心にオーストリア・ドイツ系のレパートリーを得意とし、八〇年代にはバイロイト音楽祭の常連指揮者となり、九二年以降はベルリン国立歌劇場管弦楽団というこのうえなく由緒ただしい(ホーエンツォレルン家の宮廷歌劇場だった)ドイツ・オーケストラの音楽監督をつとめるバレンボイムは、まさに西洋クラッシック音楽の遺産管財人のような立場にあるのですが、イスラエル人としてのアイデンティティはそこに大きな問題をなげかけます、ナチ時代というドイツ人にとってもユダヤ人にとってもいまだに克服しきれていない過去、多くの人々にとって直視することが難しい過酷な記憶をめぐる感情的な軋轢の矢面に立たされるからです。この問題については、ワーグナーに焦点をあてた本書の第四章および末尾のサイードの論文が、さまざまな角度から考察することを可能にしてくれます。

さらにもう半回転させれば、イスラエル人とパレスチナ人の関係においてもこの問題は影を落としています。ことに、反ユダヤ主義《アンチセミティズム》は「ぼくらの両方への攻撃だ」というバレンボイムの発言にあるように、その根底に「セム語族」というオリエントの民に対する西洋の伝統的な優越意識があることを考えると、みずからを中東における西洋文明の砦とみなしてアラブ人を同等のものと認めないイスラエル国家のアイデンティティにも大きな矛盾とアイロニーが感じられます。

このような二人の対話には、分野を超えて思いがけず重なり合う表現が微妙に角度をずらして交錯しています。たとえば、演奏家としてバレンボイムがしきりに強調するのは、音はなにもしなければ沈黙に向かうものであり、生かしつづけるためには不断の努力が必要であり、音楽の本質は時間とともに変化する「移行」の技術につきるということです。

これはサイードが繰り返し告白する移動性への執着、旅することへの脅迫的な衝動と呼応します。さまざまな境界をまたぐことで、境界の内部にとどまっていては決して獲得できない豊穣性と多元的な視点を獲得したという彼の言葉は、中東における帝国主義支配の落とし子ともいえるその特異な経歴を背景としたものです。ひとところに属さず、積極的に複数のアイデンティティを受け入れ、堅牢な固体としての自己を信じず、つねに変化し、混ざり合い、流動しつづけるものとしてとらえたいということは、裏をかえせばホーム(家、本拠地、祖国、植民地においては支配者の本国)を固定することに対する警戒心や抵抗感の表現です。そこで、出発→冒険→帰郷という古典的な物語のパターンに代わって、帰るべきところのないホームレスの物語がつむがれていく。
ふたたび音楽に話を戻せば、このようなホームの喪失という感覚は、調性音楽の時代が終わり無調音楽へと移行したところに見出されます。本拠となる「調」を確立し、その上でそこを外れて異質の領域へと進み、やがてはもとの調に復帰するという調性音楽の心理に代わって、帰るべきホームのない無調音楽の荒涼とした時代がやってくる。そこにあるのは帰還のない永遠の追放の物語であり、新ウィーン楽派は難民音楽ということになります。

こういう調子で、いくつもの面白いトピックをめぐる刺激的なやりとりが、文学や政治や社会などあらゆる領域をまたいで、さまざまに角度を変えながら何度もくりかえし登場します。それらは整理・要約してみてもあまり意味はなく、この二人の稀有な資質の相似と相反の関係によって生み出された他に類のない会話を、各人がその場に同席したような気持ちで堪能すべきものでしょう。

この重層的にシンメトリカルな二人の関係を象徴するような企画が「ウエスト・イースタン・ディヴァン」、すなわちイスラエルとアラブの若い音楽家たちが一緒に音楽を学び、音楽から派生するさまざまな問題を学ぶことのできるというフォーラムです。二年の準備期間をへて一九九九年に開始されたワークショップは、ワイマールという西洋文化の中心地において、イスラエルとアラブの音楽家たちがドイツ人音楽家も交えて一緒に西洋古典音楽をつくっていくというプロジェクトでした。ウエスト・イースタン・ディヴァンという名前は、「西東詩篇集」(West-oestlicher Divan)という、ゲーテのペルシャ・イスラム文化への強いあこがれと関心から生まれた作品からきています。一緒に一つの音楽を作ることを通じてこの若い音楽家たちが獲得する一体感は、直接の政治的な効果を生むものではありませんが、それよりずっと深いところで将来の共生に向けた道を用意するものとなるでしょう。音楽ほどすぐれた人間教育の手段はないと強調するバレンボイムも、自分は思想家よりも作家よりもまず教師であると述べるサイードも、どちらも根っからの教師であり、このような試みの有効性を信じるという宣言のように思えます。

ワークショップはその後もワイマール、シカゴ、スペインと毎年夏に開かれており、二〇〇三年にはヨーロッパ、中東、アメリカでコンサートを行ないました。この活動により、バレンボイムとエドワード・サイードは、二〇〇二年九月にスペイン皇太子賞を受賞しました。この縁もあって、最終的にはスペインのセビリヤに本拠を置くことになったようです。この都市はかつてイスラムとユダヤの両共同体が平和に共存して優れた文化を生み出したアンダルシアの中心都市であり、その後ユダヤ人迫害の歴史という陰影もあり、ワイマールにおとらずディヴァンの本拠地にはふさわしい場所でしょう。

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Posted on 19 July, 20041