「核時代に生きる神学」をつくる会
ニュースレター 1
  
「核時代に生きる神学」をつくる会 ニュースレター 1
 2000年5月27日発行   
 事務局 名古屋市 金城学院大学 藤井研究室

原子力と天皇制
 ─豊かな海づくり大会から見えてくる天皇制と原子力政策─
藤井 創              

はじめに
「ハレルヤ、主の僕らよ、主を賛美せよ…主は天よりも高い方であるにもかかわらず、地を顧みられるために、ご自身を投げ捨てられる。」(詩編113編6節、私訳)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。(フィリピ2章6〜8節) 

日本の教会は、天皇制の問題をキリスト教の信仰との関わりで問い続けてきました。天皇制と大平洋戦争、天皇制と沖縄、天皇制と被差別部落、天皇制と在日韓国人・朝鮮人、天皇制と君が代・日の丸…天皇制は日本のすべての事柄と深く関わっており、この問題を避けて日本社会を考えることはできないし、キリスト者として日本を生きることはできないでしょう。

しかし、沖縄、在日韓国人・朝鮮人、被差別部落などの問題に較べて、天皇制と原子力の関係はあまり注目されてこなかったように思います。ここでは自分の体験として、原子力政策に深く関わる天皇制の問題にふれ、日本に生きるキリスト者としての原子力に対する一つに態度を示したいと思います。これは単なる天皇制批判に留まらず、私たちが渾身の思いを込めて聖書に啓示されている神を礼拝する生き方と深く結びつくものであると信じます。

1 青森県民として体験した「豊かな海づくり大会」 
1990年から二年間、私は弘前教会の副牧師として青森県におりました。その年の7月、三沢市三沢漁港を会場にして「第10回全国豊かな海づくり大会」が開催されました。この大会の会場は三沢市、核燃料サイクル施設が誘致されようとしていた六ヶ所村の目と鼻の先でした。

またこれはその核燃料サイクル施設を誘致、推進しようとする現職の北村知事とそれに反対し、核燃料サイクル施設白紙撤回を訴える革新候補者の知事選をまじかに控えた青森県の最も熱い時期のことでした。 

豊かな海作り大会──そこにやってきたのが明仁天皇と皇后でした。天皇を迎えて歓迎行事としてアトラクション、式典、稚魚の放流などが行われました。この大会には、青森県と三沢市が数億円の予算を計上、県、市職員合わせて五百名以上の動員、たった一日のセレモニーのために地域ぐるみの歓迎準備と動員、それも学童の半強制的な大会への参加、そのための練習が半年も前から強要されました。民衆動員、日の丸、君が代、派手なアトラクション、過剰な警備体制──それが海づくり大会の中で繰り広げられたことでした。 

1980年に始まったこの大会の目的は「国民の自然環境の保全に対する意識の高揚と、水産資源の保護培養を積極的に推進し、我が国水産業の振興と豊かで活力ある地域産業の発展に資する」と謳われていました。三沢での大会のテーマも「限りない夢を育てる海づくり」というもので、式典の中で北村知事は「活力に満ちた豊かな海を後世に伝えていきたい」と挨拶しました。
また天皇は「四方を海で囲まれているわが国は、豊かな海の幸に恵まれ、古くからこの恵みを享受してきました。我が国にとって海洋汚染や水産資源の減少は極めて重要な問題であります。今日、各地で海の環境を良くし、水産資源を豊かにするよう人々が力を合わせていることは、わが国の将来を考える時、非常に心強く感じられます」と語りました。そして、稚魚を放流して、漁場の豊かな将来を祈ったのです。

2「豊かな海づくり大会」の背後にあるもの 
これまでの豊かな海づくり大会は、決まって原子力発電所の所在地か予定地の近く、または基地や公害発生地の近くで開催されてきました。最近では石川県と徳島県鳴門で行われましたが、それぞれ原子力発電所建設、河川堰問題で議論が起きている地域でした。
つまり、国の推進する政策が反対を受け、政府にとって好ましくない状況が生じている地域ばかりです。 

あの時期、青森には核燃料サイクル施設が建設されようとしていました。核燃料サイクル施設とは、ウラン濃縮工場、高レベル放射性廃棄物貯蔵施設、再処理工場などの集中立地する世界最大規模の原子力集中地計画です。
例えば、核燃料サイクル施設の一つである再処理工場では、もしこれが完成し、稼動すれば、毎年広島の原爆の千発分にも相当する放射能の量を扱います。仮に大事故が起こらないとしても、その過程で必ず放射能が漏れます。その99.9%が遮蔽されたとしても、残りの0.01%が外に漏れるだけで、毎年、広島型原爆の数発分に相当する放射性物質が大気や海や野原に放出されていきます。核燃料サイクル施設が集中立地する下北半島で、その核燃料サイクル施設を推進したら、その結果として漁場が放射性物質で「底なしの汚染地帯」に変わってしまうことになるのに、「限り無い夢を育てる海作り」と称して、天皇が稚魚の放流を演じてみせたのでした。
原発は東京など大都市を避けて作られ、そこから出る電気は中央に供給され、その放射能のゴミは中央を避けて青森に埋められる。これが国策というものです。開発とは英語では「食いものにする」とも訳せます。
青森県では、その国策による「開発」として核燃料サイクル施設建設が着工されようとしていたのです。そしてそこに現れたのが、他でもない天皇だったのです。天皇の地方巡幸の目的が、国民の統合にあることを思う時、この海作り大会へ来訪は、地域ぐるみの住民の動員、統合を通して、核燃料サイクル施設問題から目をそらせ、その反対の声を封じ込めようとする働きに他ならなかったことがわかります。核燃料サイクル施設推進という国策がなかったら、天皇が青森県に来ることはおそらくなかったでしょう。 

核燃料サイクル施設を主軸とする国の原子力政策と天皇制は背後で深く結びついているのです。核燃料サイクル施設の問題を見つめる時、天皇制の何たるかが見えてきます。新聞には「歓迎行事に笑顔でおこたえ」「陛下、栽培漁業にお心配り」「老人ホームで一人一人にお声」と記事が躍りました。しかし、海作り大会は三沢市で開催されたのに、実際には天皇を真近かで見ることのできた市民はほとんどいませんでした。天皇はセレモニーの後、青森県民の不安と恐れをよそに、笑顔で東京へと帰っていきました。 

高木仁三郎さんの話しによると、当時、彼と一緒に東大で原子力を学び、原子力関連の重要ポストについていた人たちは選挙前に3度は青森に足を運び、北村知事支持に回るよう各種業者に圧力をかけたようです。そして、天皇の来訪が決定打となり、知事選は現職の北村知事の勝利に終りました。私たちは深い絶望にうちひしがれました。
天皇が去っていった後、青森に残ったものは核燃料サイクル施設でした。そして青森県民の不安と絶望感でした。核燃料サイクル施設をサポートする天皇は、核燃料サイクル施設という怪物を青森県民に押し付けておきながら、その苦しみや不安の中にある人々に指一本ふれようとしませんでした。核燃料サイクル施設によって海を泥沼の汚染地帯にすることに一役買っているのに、「海の環境を良くするために、人々が力を合わせていることを心強く思う」などといって稚魚を放流して青森県の人々を愚弄したのです。
私が一人の青森県民として感じたことは「天皇は青森県民のことなど何とも思っていない、青森の人は人間扱いされていない」という思いでした。これは長年にわたって基地を押し付けられてきた沖縄の人々の思いとも重なり合うものです。青森の人々のこのような思いにどれだけの人々がふれてきたでしょうか。

3 天皇と聖書の神──その方向性 
天皇をカミのように尊敬する人があります。そういう人があってもかまわないと思います。しかし、青森に現れた天皇が行ったことは、人々を食いものにした上に君臨するカミとしての振舞でした。「カミ」という言葉は「お上」を語源の一つにもっているように、核燃料サイクル施設と海作り大会に見られた天皇は、人々を踏みつけにした上に立つ存在であり、天皇制社会はそれを堅持し、普及していこうとする社会でした。ある人は昭和天皇は、おそらく、自分のことを最後までカミだと思っていたのではないかといっています。人がカミになることは簡単だが、ひとたびカミになった者が人間になるのは大変難しいというのです。天皇はその高いところから降りないことによって、カミとしての自分の存在を保つのです。 

しかし、私たちの信じる神は、神であることを固執すべきこととはされない神なのです。詩編の詩人は、天よりも高い方であるにもかかわらず、貧しい、名もない者のためにご自身を投げ捨てられる神をほめたたえるといっています。
天皇が、強い、崇高な存在として弱い者を踏みつけにした上に君臨している存在であるのに対峙するように、聖書の神は、高きところから私たちの苦難の中に飛び込み、自ら傷を負って私たちの重荷を担ってくださり、いつまでも貧しい人々と共にいてくださる神なのです。神の本当の値打ちは、その方がどこまで低くなるかによって決まるのです。これが私たちが日本という天皇制社会を生き抜いて
いくための拠り所です。 

「主のしもべたちよ、主をほめたたえよ」。 
教会は神を礼拝する者たちの群れです。しかし、それはただ現実の世界の状況に関係なく礼拝するのではありません。人々を踏み付けにしているカミが崇められ、力をふるっている、そのような現実の中で聖書の神をほめたたえるのです。そうせざるをえない。今、私たちがなすべき使命は、身を投げ捨てて地上の人々を顧みられる神、貧しい者を塵から上げてくださる神、子を生まない女、つまり当時人間として価値のない者とみなされていたような人々を哀れんでくださる神、この低き、謙遜なる神を渾身の思いをこめてほめたたえていくことであります。
人々を引き裂き、豊かな者と貧しい者に人間を分断していく天皇制とその天皇制の縮図である原発社会、その中で中央と地方を結び付け、問題を共有し、豊かな者が貧しい者の立場から原発社会を見直し、これを造り変えていくことが今切に求められています。そしてそのことのためには、神が身を投げ出しておられるところに、私たちもまた踏みとどまっていくような自己変革が何よりも求められるでしょう。

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「原発を問うキリスト者の視点  ─被爆者を心にとめることから」              
 東海林 勤

都市の住民として 
1. 過疎地で 
原子力関連施設は「過疎地」に建てられる。企業と政府は住民の貧困につけこんで金と脅迫で分断支配し、原子力施設を押し付ける。地元自治体への交付金は、財政上の麻薬となって自治体と住民を縛る。政府と社会を、非民主性、秘密主義、目に見えない暴力性が覆う。重大事故の時の「防災」では、パニックと放射能汚染の拡大を抑えるために、住民を見捨てることになろう。「国策」としての原子力政策は、棄民政策である。 

この国で原発が稼働し始めてから32年、すでに35万人が原子力施設の被爆作業に従事した。その9割に及ぶ短期労働者は、他県からかき集められた人たちで、安全教育も健康管理も無きに等しい扱いを受けてきた。まさに使い捨てである。原発は人間を死に追いやることが折り込み済みなのだ。施設の老朽化、延命政策のための大改修、コスト削減圧力等によって、今後被爆の度合も人数も急増の憂いがある。 
「土建国家」日本の差別構造は、原発労働者の位置からはっきり見える。この国の政治は農民を追い詰めて工場労働者、建設労働者、最下層の労働者をつくり、季節出稼ぎ労働者、「寄せ場」の日雇労働者、ホームレスの人々の中から、人間を被爆作業へと送り込む。 
地元住民は、労働者被爆の問題が放置されるのと同様に、計測しがたい自分の日常の被爆が無視されており、重大事故時には自分も放射能の中に閉じ込められ、見捨てられるのではないかと恐れている。

2. 都市で 
原発の電力が総電力の50%に達する東京の住民は、照明、暖房、通信、調理等すべての面で原発の受益者である。しかし原発の現地とはただ送電線だけでつながっていて、現地の人たちを見ないで済む構造になっている。さらに政府・企業の宣伝によって、現地を見えなくされている。都市住民は原発の脅威を地元住民に押し付けたまま、地元住民の苦しみを見ないようにして電気を使い、快適な「文明生活」をイタダキである。 
自分と同じ人間である人々をこのような状態において自分は「快適に」暮らすのが、私たち都会住民である。脱原発に取り組まないかぎり、私たちは政府・企業と共に、この人々に苦痛を押しつけていることになる。

しかし地元の人たちはただ恐れ、悩んでいるのではない。安全のため、脱原発のために、日夜懸命に取り組んでいる。仮にそのような取り組みがなかったらどうか。この国に、ひじょうに恐ろしいことが起こっていたかもしれない。と考えてみるだけでも、私たちは地元で取り組んでおられる方々に、二重の意味で、大きな負い目があることが分かる。 

もう一つ現地と都会の関係については、放射性廃棄物の問題がある。これは初めから分かっていたのに、差し迫った状態になってようやく政府・企業が慌てだした問題である。原発サイト内に一時貯蔵されている使用済み核燃料(高レベル放射性廃棄物)は、ほぼ満杯の状態になり始めたのに、その処分方法は未だに決まっていない。地元の人々は「一時」貯蔵が長期に変わることを恐れている。他方、一時貯蔵といって六ヶ所村核燃料施設への搬入、つまり押しつけが始まっている。六ヶ所村への低レベル廃棄物の搬入は以前からである。このほか、中間貯蔵地や深地層処分の案もあるが、立地はいずれも過疎地である。道理からいえば、これは全く転倒している。廃棄物を引き受けるのは、今まで原発で苦労させられてきた人たちではなく、原発の益を受けた都会の者でなければならない。放射能廃棄物の問題は、都市住民自身の問題である。

しかし、私たち都市住民も被爆の脅威を身近に感じたのが、昨年9月30日の東海JOC臨界事故の時であった。あの時は町の住民が多数被爆した。政府の対策はひどいもので、ただご安心下さいと、パニック防止につとめ、起こり得る晩発性疾患に備えるために欠かせない被爆調査も、しようとしない。もしも原発でこの種の事故があれば、ウランの量にして300万倍だから、日本には安全に住むところはない。災害の時間と程度にずれはあっても、地元と都市の区別はない。 

そのような事故がなくても、都市住民はすでに十分、原子力産業とこれを推進する国策の被害者である。原発は過剰な電力を生産し、使わせて、人間を競争へ、開発へ、過剰な生産と消費へと追い立てる。そして働きすぎという貧困、環境破壊、人心の荒廃……。 
都市住民は地元住民に連帯し、みずから脱・原子力文明に向かって歩まねばならない。

キリスト者として
1. 正義 平和 被造物の保全 
これら三つの言葉の組み合わせは、1980年代から90年代にかけて世界教会協議会(WCC)の活動の中心テーマであった。今これを用いて私たちの課題をまとめてみたい。これらはことさら「キリスト者」の課題と言わなくてよいものだが、キリスト者としての私たちの責任であることをはっきり捉えるために、あえてこのようにした。

正義 
上記に述べたことはほとんどすべて正義に関わる問題であるが、とくに原発が他者──人間とすべての生きもの、現在と未来の世代──を犠牲にしなければ成り立たないこと、過疎地と最下層の人々に最大の犠牲をしいることが、不正の中心である。これらの不正が故意に隠蔽されるということも、不正である。正義は、まず犠牲にされている人々の生活、とくに被爆とその脅威の実態を知ること、つまり不正を把握することから始まる。低められた人々の尊厳と権利が回復されること、これが旧約預言者の言う正義の核心である。

平和 
ウラン、プルトニウム核分裂の巨大エネルギー利用は、軍事用として始まった。「平和利用」もこれと一続きである。制御の困難、毒性の永続、巨大技術と政治経済複合の反民主的性格、大量の被爆・被爆、これらを無視した国策の強行……。 

日本の新国家主義の動きと、「戦争できる国」への変容(周辺事態法等)の中で、RETF(「リサイクル機器試験施設」──高速増殖炉の使用済みプルトニウム燃料から高純度のプルトニウムを作り出す再処理工場)の建設が着々と進んでいる。高純度のプルトニウムは核戦略上不可欠のものだから、ではないか。核兵器は集団殺戮と徹底破壊を目的とする。原発も「平和利用」と言いつつ、ウラン採鉱から廃棄物まで、広範で永久的な生命の破壊をもたらす。原子力の利用は、聖書に言うシャロームとは相容れない。原子力から自然エネルギーへの転換こそ、平和の道である。

被造物の保全 
原発は大量の資源ー生産と消費ー廃棄という「成長」経済構造の頂点に立つ。人は権力と富を求め、自然と人間を征服し、支配する。環境破壊、貧富差・都市農村格差の拡大、地域社会分断、人心の荒廃。取り返しのつかない汚染。これが核文明の問題である。 
ウランの人工的核分裂とプルトニウムの製造・利用は、自然の秩序に反する。人間も他の生命もこれらのものとは共存し得ない。しかも、一度できたこのきわめて危険な物質を、自然の循環の中に戻す方法はない。それを軍事・産業のために使い、増やし続けるのは、20世紀人間の欲望の暴走の最たるものであり、被造世界への暴挙、神への反逆である。

世界を被造物と捉えるとは、世界を神からの授かりものとして、畏敬と信頼をもって受け取ることである。したがってこれを用いる場合も、神の定めた限界の中で、神の栄えを表わす仕方で活かし用いなければならない。原子力から自然エネルギーへの転換は、環境と人間生活に適した質と規模のエネルギーを可能にする。それは「成長」ではなく充実、征服でなく共生に道を開く。

2. 神学の組み変え悔い改めからの出発
キリスト者・教会は、他の人を犠牲にして成り立つ経済構造の中で、受益者であることにとどまっていた。
Aキリスト者・教会は、人間以外のものを一段低い存在と見なし、これを自分の利益のために用いてよいと考えてきた。
 @については、日本の教会がかつてアジア侵略の国策に協力して、生命の破壊に加担したことを、思い起こす必要があろう。今日、国策としての原子力の受益者に止まるなら、私たちはこの過ちを継続することになる。この反省を抜きして、いま「命を大切にする」ということはできないであろう。
 Aは、近代の科学技術文明が人間以外のものを単なる物質と見なし、これを処理し利用する対象として扱う文明であるということにキリスト者も疑問を抱かなかった、という問題である。このような文明は技術を用いることによって欲望をますます肥大させ、人間がみずから「神のようになる」アダムの罪の様相を呈してきた。にもかかわらずキリスト者・教会は、この文明を問うよりはむしろこれを勤勉に支えてきた。神どのように考えるか このような反省は、私たちに神理解の捉え直しを促す。 

キリスト教の伝統は長い間、霊と肉、人間と自然、精神と身体、男と女、キリスト教徒と異教徒、教会と社会、信仰と行為、聖と俗、清さと汚れ、の二分法を保持してきた。これらの組み合わせの前者と後者の関係は、優ー劣、支配ー被支配の関係であり、位階的である。そして位階の頂点に、神が在す。
神は絶対の超越者・全能者、主人、王的支配者であって、万物の上に君臨する。この神の下では、男ー女ー動物ー植物ー無機物というピラミッドが、被造物の秩序となる。 
人間が被造世界に対してこのような支配ー被支配の秩序を押しつける時、自然破壊を免れない。自然を手段視し、征服の対象にするからである。人間は自然をそれ自体では意味ないもの、人間のための単なる〈資源〉と見なし、これを所有し、技術を用いてこれを利用する。あとに〈廃棄物〉を残す。このことが最も大規模に起こっているのが、戦争であり、核利用であり、おそらく地球温暖化であろう。 

このような神に対して、私たちは関係性あるいは愛の神を対置すべきであろう。神は絶対的超越者として他の存在から隔絶しているのではなく、愛ゆえに他者を求め、世界を創造し、これを保全する。神が世界を造られた時、「それは極めて良かった」のは、ただ愛ゆえに造られたからである。 
このことは、私たちに被造物に対する畏敬と信頼の感情を呼び起こす。被造物が偉大で美しいのは、それが神の創造によって存在し、神の愛と慈しみを現しているからである。この意味において、創造者なる神は被造物に内在し、働き、命を与え、育む。被造物はこの神の内にあり、神に属し、神から命をいただいている。人間も同様である。人間も被造物として、この世界の一部として造られている。このことが、人間が他のすべての生き物と共に生きることの、あるいは連帯の、最も深い根拠である。 

ただし、神は創造者として被造物を超越しており、いかなる被造物も神ではない。創造者と被造物のこの区別は重要である。この区別があって、神と被造物は相互に他者としての関係が成り立つからであり、被造物は被造性にとどまることにおいてだけ、本来の在り方を完うするからである。人間がこの限界を踏み越えて神のように振る舞うなら、必ず自分と他の存在に禍をもたらす。人間の罪とは、自分と共に存在し、自分のなかに在す、命の源なる神から自分を引きはなし、神を捨てて神ならぬ神々ー偶像ーに走ること、偶像に自分を同一化して神のように振る舞うことである。神の具体的な姿は、自分と同じく神の慈しみを受けている人間と生きものに対して慈しみを欠き、苦しみを与えること、その苦しみに対して無感覚であることに現われる。 
人間が神のように振る舞うことは、神を超越的絶対者として強調すれば免れるとは限らない。
いやむしろ、神の絶対性の一方的強調は、かえって人間の自己絶対化を引き起こしやすい。というのは、神ー人間ー自然の位階的理解ゆえに、神と人間の隔絶という考えは人間と自然の本質的差異という考えを生み、人間が自然に対して自分を神の位置に置き、自然を征服し、その力を乱用して人間の限界を超えるということが起こるからである。
イエスは…… 神を絶対的な王的支配者としてではなく、愛の神、慈しみ深い霊として現したのは、イエスその方である。イエスは神に「わたしの子」と呼ばれた大いなる経験を通して、神に「abba」お父さんと呼びかけ、祈った。イエスにとって神は霊において最も近くにいまし、子を慈しんで養う母また父なる存在であった。イエスはこの霊に包まれ、浸透され、動かされて、「神の国」つまり神の慈しみの働きが今や芥子種が大木に成長する勢いで働いていることを、人々に伝えた。 

イエスは「神の国」を、とくに貧しい人々、「罪人」(律法を守れないもの)、徴税人、病人等、汚れているとされて、当時のユダヤ教社会の交わりから隔てられている人たちに、祝福や譬えを通し、共同の食事を通し、病の癒しを通して、集中的に、直接に伝えた。 

1世紀ユダヤの社会の最も支配的なエートスは「聖潔」であった。「聖潔律法」における「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)が示すように、絶対に聖である神を頂点とする浄ー不浄の二分法が、人間と生活環境から動植物にいたるまで、すべてを支配していた。イエスは、レビ記のこの言葉を意図的に、「あなたがたの父が憐れみ深い(慈悲深い)ように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)と言い換えて、人々をこの支配秩序の呪縛から解放した。 イエスの慈しみの理解は自然にも及んだ。イエスにとって、命を養う神の慈しみを代表的に現しているのは、レビ記では汚れたとりとされる烏である(ルカ12:24)。イエスはまた、誰にも顧みられず、草といっしょに炉にくべられる野の花に、ソロモンの栄華に優る装いをみた(同27節)。ソロモンの栄華への言及は、野の花を踏みしだく征服と開発に対する批判を含んでいる。
征服と開発によって得られる栄華も、神の慈しみを現す野の花の一つにも及ばないというのである。イエスは「ソロモンの栄華」によって、ローマの繁栄とこれにつながるエルサレムの権力を暗示している。 
イエスが律法と神殿を通さずに、直接に神の慈しみを伝えたことは、ユダヤ当局の怒りを買った。イエスはユダヤ当局の訴えにより、ローマ当局に謀叛人とされ、十字架にかけられた。しかしイエスの弟子たちは、この処刑もイエスの「神の国」を絶ち滅ぼすことはできなかったばかりか、「神の国」はイエスの「復活」により、悪と死に打ち勝って継続すると確信した。「復活」とは、イエスが十字架上で人々の苦しみに共に与かることにおいて、慈しみが極限に達し、こうしてイエスにおいて神の栄光が、まさに超越が、あらわれたことを意味する。
「復活」のイエスの力は、自らを分け与え、人々を分かち合いへと参加させる力、分配することによって小さくなるのではなく大きくなる力である。そこで私たちは…… すべての被造物は霊の中に生き、動き、存在していると考えるとき、私たちはもはや人間と人間以外のものを本質的に優劣で分けることはできない。すべての存在がひとしく霊のつながり、命のつながりにおいて、産みの苦しみに呻きながら、イエス・キリストを通して贖われること、あの「極めて良い」被造物性へと立ち帰ることを待ち望んでいるのである(ローマ書8:18以下)。 

しかし人間は神の似姿として、神のあがないのわざに主体的に参加する責任を委ねられている。ローマ書8章でも、「神の子らの出現」が神のあがないの鍵として待望されている。人間の主体性は、創世記1:28の「支配せよ」が誤用されてきたように、人間以外の存在を支配するためではない。人間は霊なる神の創造の働きに共働者として参加し、被造物の神讃美に学びながら共に讃美し、共に呻いて、被造物に仕えるよう、招かれている。人間の在りようは自然に対しても相互主体的であり、支配ではなく共感、慈しみ、共働である。 
自然は聖性に与かっているとはいえ、傷つきやすい存在である。微妙に、複雑に保たれている諸生命、諸物の均衡は、人間の暴力によって容易に破壊される。私たちは「一なる地球共同体」「生命共同体」の構成員として、「汝殺す勿れ」の戒めを全地球規模で、遠い先の世代に対して、厳粛に受け取り、人間および全被造物の最も弱い部分への連帯を深めなければならない。 
私たちの課題は多い。被爆労働者の実態と地元住民の現実を知ること、政府・企業にこれらの人々の安全と健康管理を求めること、再処理とプルトニウム利用計画の廃止を求めること、さらにはライフスタイルの転換・省エネルギー推進・自然エネルギー促進を含め、個人と社会のあらゆる面で脱原発を目指すこと、とくに、放射能廃棄物のより安全な管理のために政治的、技術的に力を尽くすよう関係方面に求めること。このような行動の中で、神学的にも核依存文明を克服する道を探りたい。

「神をどのように考えるか」以下の部分の詳細と参考文献は、『反原発の中で神を問う』(農村伝道神学校紀要「福音と社会」1998. 153〜168頁)にあります。 

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「核時代に生きる神学」をつくる会の 発足と課題
  岩橋 常久  
          
1・発足までの経過
1)臨界事故と「神学的事件」 
1999年9月30日、茨城県東海村で臨界事故がおきました。その秋、仙台で日本基督教学会が開催されました。その学会には組織神学者ラングンドン・ギルキー博士が講演をする予定でした。彼の著作は日本語に翻訳されていませんが、現代アメリカを代表する神学者の一人です。ところが、その彼が、あの臨界事故を理由に来日をとりやめ、滞日中のすべての予定をキャンセルしたというニュースが学会後に筆者に入ってきたのです。 

筆者は、彼の来日中止の詳細な理由がなんであれ、臨界事故が基本的な理由であるかぎり、これは「一つの神学的事件」であると思い、その思いを伝えるために加入しているインターネットのグループに発信しました。

2)「共同研究」の思いとメンバー集め 
これに藤井創さんが、「ヒロシマ」を見据えながら核兵器と核の「平和」利用に抗するための「共同研究」をやりたい、とすぐに応答してくれたのです。筆者はそれにすぐに賛同しました。そこで、一堂に会しやすい人たちで会を立ち上げることで合意しました。筆者はまず金子啓一さんに参加を呼びかけ、さらに彼の呼びかけで岩田雅一さん、東海林勤さんが共に会を立ちあげてくださることになったのです。この時点で、この共同研究は「現場」重視を共通の基本認識としました。
岩田さんは、このあと、出張のおりに大阪の筆者を訪ねてくださり、じかにこの会の主旨を共有してくださった。また藤井さんが大阪来訪の機会に筆者と今後の具体的な進め方を相談したりしました。また5名が全部男性であるところから、女性に加入していただくことになり、のちに藤井さんの紹介で飯田瑞穂さんが参加されることになりました。

3)「おおくの人たちから広く学ぶ共同研究」
電話やEメールあるいは手紙を通じてお互いの意志の疎通を図りながら、ふだんはこのメンバーで共同研究をすすめ、必要に応じて関連する事柄で現場を活動したり、研究を進めている方たちにご協力をお願いすることになります。この意味で、この共同研究会は閉鎖的なものではありません。核問題は、あとに記しますように多角的な学習・研究を必要とするのだから、そのつどそのつどエキスパートのご協力を必要とすることは言うまでもありません。

4)第1回会合(東京・富坂キリスト教センター) 
とにかく第1回の会合を3月9日、10日に東京の富坂キリストセンターでもつことにしました。せっかく集まることですから、岩田さんと東海林さんに発題をしていただくことになり、さらに公開の勉強会にすることにし、それぞれメンバーから呼びかけてもらうことにしました。同時、藤井さんと筆者はくだんのインターネットのメンバーにも案内をながしました。その講演内容と参加者のお名前は別に掲載されているとおりです。二日目にはメンバーだけでこの時点ででてきたいくつか課題を出し合いました。それらは次にあげてあるとおりです。 

第2回の会合は7月1日、日本キリスト教団名古屋教会で、岩田雅一さんに六ヶ所村からの報告をしていただく予定です。もちろん、これも公開です。 

2 課題 
第1回会合で会のメンバーのあいだで、あるいは公開講演会に参加されたかたがたから提起されて浮き上がった課題は次のようなものがありました。それは二つに分けることができると思います。二群に分けられた課題は関連しあっているのですが、ここでは便宜上、分けたいと思います。

1)わたしたちの神学の課題
<1>牧会的配慮と神学の脱構築の関係 
今回の発題のなかで、具体的に直面した課題の一つとして提起されたのは、電力会社関係者が教会員にいる場合の配慮に関するものでした。この人たちのあいだにも個人的には信仰上は反原発という立場を認めていても、電力会社に属する立場上声をあげられない人もいれば、教会が反原発などの学習会をもつことに反発する電力会社勤務のキリスト者もいます。そのような人たちにたいして聖書的表現を尊重する神学で向かい合う必要があり、さらに教会学校の子たちにわかる説教をうみだせる神学をうみだす必要がある反面、反原発の神学は聖書的表現や伝統的神学の根本となるパラダイム(神と人・世界関係の階層性や中心と周縁意識を前提とした二分法的発想と意識構造)を脱構築するほどまでにラディカルに進まざるをえません。
この二面性をどのようにとらえるのか、たとえば矛盾として捉えて一方の面を切り捨てるのか、あるいは多面的あるいは重層的な神学を生みだす努力をするのか、という課題があるようにおもわれます。

<2>「現場」と神学をタイアップ 
「現場」と神学をタイアップさせた核兵器や原子力「平和」利用をなくすための神学を構築したいという、これもまたわたしたちの会の課題です。「現場」こそが神学の土壌であり、その「現場」からの思いの「ことば化」を誰がいかにして行うかということ、さらにその「ことば」から「現場」へと派遣され、そこで神学が変革・更新されてさらなる「ことば化」へとむかう、つまり神学が「現場」の火をくぐって焼き直されるという「神学の循環」を徹底することが求められます。 
「現場」とは「どこか」という問いが出てきます。この会には、理論と実践を両立させてこられた東海林勤さんやその可能性を十分に発揮しはじめている藤井創さん、「現場の神学」を提唱してきている金子啓一さん、文字どおり六ヶ所村やチェリノブイリという現場にかかわっておられる岩田雅一さんや飯田瑞穂さんらがいてくださるので、この問いに対してもきちんとした考えをかためていくことができるはずです。  

2 わたしたちの会が内部で向き合う必要のある課題
<1>二分法的思考や態度は、この会においてもひとりびとりが激しく自己検討しながらあらためていく必要のある態度であることが、今回の会合の第二日目の話し合いで確認されました。それは具体的には、構成員のマジョリティ教派に属する者やいわゆる情報強者(インターネット・ユーザー)とそうでない者などの二分法としてあらわれました。またパソコンやインターネットは、近代化の質を問題にせざるをえないこの会がその問題点もきちんと検討しておかなければならない課題であることも確認されました。 

その他、この会の研究成果の発表の場をどこに求め、作り上げていくか、そして会の運営のためにもっとも現実的なことである資金集めの方法なども考えなければならないことですが、省略いたします。

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第一回「核時代に生きる神学」をつくる会記録 
2000.3.9〜10 於富坂キリスト教センター

◯出席者 17名

◯公開講演
「原発を問うキリスト者の視点」 東海林勤
「原子力と天皇制」 藤井創 (岩田雅一さん欠席のため)

◯名称仮称「反核・反原子力の神学」共同研究会、を改め「核時代に生きる神学」をつくる会(Forum: Doing Theology in a Nuclear Age)と正式に決定。 

◯運営形態世話人会を組織し、事務局をおく。現在の主催者以下5名に女性2名を加えて当面の世話人会とする。岩橋常久(教団大阪淡路教会牧師)岩田雅一(教団八戸北教会牧師)金子啓一(立教大学・日本聖書神学校教員)東海林勤(教団稲城教会牧師)藤井 創(金城学院大学教員)飯田瑞穂(日本キリスト教団昭島教会員)女性の方未定(東海林さんが東京YWCAの方に交渉中)

(事務局)488-0881 名古屋市守山区大森2-1723  金城学院大学 W8-211藤井研究室 ph.052-798-0180(代表)  fax 052-798-4465(短大事務室) e-mail : fujii@kinjo-u.ac.jp

郵便振替 口座番号 00850-3-130888 
口座名称「核時代に生きる神学」をつくる会加入者払込/払出局 名古屋大森郵便局

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核時代に生きる神学」をつくる会 第2回公開講演会のご案内    
 日時 7月1日(土)午後2時〜5時   
 場所 日本キリスト教団名古屋教会           
     JR名古屋駅から地下鉄乗り換え  「市役所」駅下車徒歩5分   
 講演 岩田雅一牧師(八戸北伝道所) 「六ヶ所村からの報告」    
 参加費 500円 講演後、自由懇談 どなたでもお気軽にご出席ください。 

岩田さんの1998年、学生YMCA夏期ゼミでの聖研の講演録は
→こちらにあります


このページの作成者:竹佐古真希
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