1998年学生YMCA夏期ゼミ
岩田雅一さん 聖研
  
● 講師紹介 ●
 1942年大阪市に生まれる。農村伝道神学校卒業後、猪苗代、藤崎八戸柏崎の諸教会を経て、現在、日本キリスト教団八戸北伝道所牧師。
 「原発・核燃」問題に関して教区・教団の責任を担って来た(1990年から現在まで教区核燃問題委員・委員長、91年から教団社会委員を4 期8 年)。
また「百万人署名運動」青森県連絡会共同代表の一人として、戦争法案である新ガイドライン関連の法制化に反対し行動している。
 1984年から、六ケ所村の核燃料サイクル基地反対闘争に参加し、六ケ所村の闘う民衆像に触れ共感し、彼らの記録をまとめ評論・ルポルタ−ジュを書くことを「ライフワ−ク」とする。数年前から「写真」を自覚的に撮り始め、1998年最初の写真展を行った。                                  

 以下の原稿は、「聖書研究」で語ったそのままでなく、夏期ゼミを振り返っての「回想的まとめ」として記す。
   
序.導入

 これまで多くの団体・個人を現地に道案内したが、東北教区社会委員会一行のT氏の目に映った「岩田の印象」がおもしろい。
「岩田牧師は一見穏やかな人、いつも静かに微笑んでいる。そして新聞記者のように丁寧な取材をして相手(六ケ所村の人々)の生きて来た歴史や現在の重荷・痛みに共感している様子が強く伝わってくる。しかし彼は、問題の核心に触れるとき、急に鋭い目つきになり、声が大きくなる人です」。
 竹佐古真希さんも「岩田先生の第一印象は 共同通信の記者 という感じなのです」とWork Book に書いている。期せずして二つの印象が符合した。

 さて、今回の全体テ−マ「踏み出そう、希望を信じて」に関して−−−
 講師依頼のお手紙の中で、本行さんは〈対話〉がキ−ワ−ドといい、「構造の中にありながらどのように立場、背景の異なる人たちとの向かい合いが可能となるか、が論点となる」と書き、朝比奈さんは、「聖書のメッセ−ジの中に〈希望〉を見いだし、〈ふみ出す〉勇気やパワ−を仲間たちと探ることができれば、」と、聖書研究の時間への期待を書いている。

また、近くで講師(岩田)について個性も限界性も知っている竹迫牧師は、「こと核燃料サイクル問題に関しては〈国家〉という圧倒的な勢力の組織と戦う覚悟と、気合と、何より希望をもたらす堅い信仰が必要」「岩田先生の語る警告と招きに耳を傾けるひとときを通じ、〈祈り〉の内実が新たにされることを願って」いると書いている。

 やはり「私自身の問題、経験から」テ−マを解くほかにない。
 とすれば、「六ケ所村」「預言者エレミヤ」から、テ−マ《ふみだそう 希望を信じて》に「どうアプロ−チしうるか」といった内容になるだろうか。


T.自分史によるテ−マ解題

 ひじょうに長い自分史を語った。自分史を概観することで「講師のテ−マ解題」となり得ると考えた。
 父の事業の倒産により10歳の夏一家で故郷喪失し、大阪市から福井市に転居した。
 高校時代に肺結核を患い、左肺浸潤・右肋膜炎と診断された。労働・体育の禁止、安静を強いられ暗い思春期を送る。中根式速記を習得し新聞記者になりたいと考えるがハ−ドであり能力的にも無理であった。病気により静養を兼ねて父の会社で働き、教会に再び通い始め、20歳のクリスマスに福井神明教会で受洗した。この教会で6歳年上の畏友Wと出会い、彼によって「思想」に開眼した。無教会のキリスト者の預言者的信仰に深く学ぶ中で、戦時下に矢内原忠雄が国家の軍国主義化に強く抵抗して権力に睨まれ大学から追放された事件(矢内原事件)を知って強い衝撃を受けた。以来、矢内原の戦時下の講演や論文を編集した『時論』は私の第一の啓発書であり、思想の骨になった。

 病気で進学が5年遅れたことが後年「団塊の世代」に属すことになり、嵐のような時代に学生として過ごすことになった。農村伝道神学校に1966年〜71年在学。
この間、69年に教授会により「休学措置」され、都内で働いた時期、京都丸太町教会礼拝ボイコット事件が起きて新聞・週刊誌で騒がれた(この事件を論じた高橋和巳の晩年のエッセイ「宗教・平和・革命」から現在もこの事件を通して「教会の理念と存在理由」のことを考えている)。

次いで東京神学大学教授会が機動隊を導入しバリ派学生を排除する事態が起きた。学生の中に自殺者も出た。また、大阪万博キリスト教館出展問題が発生した。当時のNCCや教団のトップ(古い世代)が「大阪万博にキリスト教館を出展し万博で伝道しよう」としたことに対し、当時学生や青年牧師達が、戦争責任告白を表明した教団がアジア諸国にむけて大国日本の繁栄を謳歌するような民族の祭典=バアルの祭典=に乗っかって伝道することの犯罪性・欺瞞性を根底から問うた。ここから「宣教論」をめぐり20余年におよぶ教団紛争に突入した。私は71年に卒業、無資格の伝道者として「出発」(紛争で教団の教師試験が行われなかった)した。

 岩田の「人間を読み解く」(テ−マ解題の前に講師解題??)には、70年前後の時代的空気と「団塊の世代」と呼ばれた70年安保闘争世代のことを知らなければならない。学生達が集団で国家・社会・大学総体に対し異議申し立てをし、デモ・討論集会に明け暮れ、大学構内をバリケ−ド封鎖し、「総括」とか「自己批判」を自分にも仲間にも強いた。そうした70年安保闘争の嵐吹き荒れる中、青春の後半を過ごしたことが大きかった。

 最初の任地は東北の会津だった。教会の人達は皆善良な人達だったが、私がこれまで真剣に悩み自分の問題として来たことがストレ−トに伝わらない。ひじょうに大きく意識の落差があった。72年に結婚し、猪苗代で新婚生活を送った。テレビは連合赤軍浅間山荘事件(学生と機動隊の銃撃戦)を連日のように報道していた。団塊世代の終焉を確認させられた。ある事情で猪苗代を1年で離れ、神学校の世話で津軽の藤崎教会(林檎の町の歴史ある由緒正しき?教会)へ転任した。幼稚園を経営する教会で生活には困らなかったが、しだいに「自分はこれで良いのか」と深刻に悩み、悶々とした日々が続いた。そのころ弘前学院大学学Yから呼ばれてキリスト教週間で話をした。

 「神の言葉の逆説性」ということが農村の善良な信徒達に通じなかつたのだ、と今にして知る。しかしそんなことは通じなくていいのだと今は思う。私は教会の人達と向き合うことが日々苦痛となり、眼鏡をかけ、髭をはやし、そうしたカムフラ−ジュの助けがなければまともに信徒と接することができなくなった。話そうとして口は開くが声が出ない。その時の心境を学Y機関紙‘joy’に書いた(「どうしてなのか」)。※自著『岐路に立つ』176f参照。

「語る言葉が相手に通じない」「私の言葉は日本語でない・・・・どこの国の言語でもない・・・ 翻訳不能」、「人間と状況は、車窓の風景のように遠ざかる」と書いている。最後に「どうして現代人はイエスという人の存在が、気にならないのだろう」と問いかけている。 牧師は説教が仕事だけど、まだ未熟で思想形成途上にあり、何を語るかが自分の中で明確にならず言葉を模索し苦しんでいた。あれは自分の中に預言者的自覚が胎動していた時期だったかも知れない。問題意識が人一倍強いだけ、自分の「居場所」が問題・状況から遠い現実の中で観念が空回りした。そうした精神的飢餓状況が数年続いた。

 当時私の読書は、フランス共産党思想担当幹部をつとめたロジェ・ガロ−ディ、戦後シベリア抑留生活から帰還し現代詩に独自な世界を開いた詩人石原吉郎の『望郷と海』など「海シリ−ズ」を読んでいた。

 転機が到来した。八戸柏崎教会の牧師が東京に転ずることになって後任に強く要請されて赴任した。1982年のこと。八戸は県内随一の工業都市。雪深い津軽と異なり日照時間も長く過ごしやすい所。

そしてこの八戸市で金大中氏ら韓国の政治犯(良心の囚人)への救出運動や反核運動に参加し、元社会党衆議院議員で上北の義人と言われた農民政治家にして思想家・米内山(よないやま)義一郎の晩年に触れ、「むつ小川原巨大開発」の問題と出会い、そこから84年、国策として六ケ所村に立地計画された「核燃料サイクル基地建設」に対抗して、「死の灰を拒否する会」の結成に加わった。頻繁に六ケ所村に通うことになり、70年代巨大開発反対闘争の残党寺下力三郎元六ケ所村長・新納屋地区農民小泉金吾ら闘う民衆と出会ったことで、思想的にも人間の生き方としても大いに傾倒し、私の後半生のテ−マ・生きる方向が決定した。六ケ所村の問題を通して種々の貴重な出会いや経験をしたことは、私の生涯の財産となった。

しかし反面、1993年「再処理工場着工」の際、再処理工場のゲ−トで警察権力と衝突し排除される牧師の姿がテレビ・新聞で報じられ、次いで、八戸の繁華街で大道芸をしていた運動の仲間に警察が介入し逮捕したことに抗議し、八戸警察署前広場でドラム缶を叩いたことが教会で問題化し、牧師解任要求が出された。

要求には「思想家・社会運動家であって牧師ではない」とか「このような牧師を更迭し教会を取り戻すことが神に対する最後の奉仕だ」と書いてあった。また「牧師の素姓も知らないで招いたことが間違いだった」と、大変差別的な言辞も弄されていた。問題提起者は臨時総会を招集し短期間で決着したい考えだったが、教区議長の問安を要請し教会としての解決を求める中で2年に及び、結局、真理問題を深めるに至らずに、「分離独立・伝道所開設をもって辞任」ということで政治決着するほかなかった。

しかし八戸柏崎教会の苦難の中で、「教会が教会としてあることは何か」と、真の教会像と今日の宣教のあり方を共に模索しつつ信仰的闘いを担った人たちによって新しい伝道所が開設され、岩田牧師・厚子伝道師(妻)を招聘し、六ケ所村の反核燃の闘いを継続する道(可能性)が確保された。この人たち(三人の信徒)、その信仰共同体の存在を抜きにしては、今日、岩田牧師の闘いについて語ることができないものとなっている。

 最後に、思想家で社会運動家であって牧師でないというなら、なぜ牧師がそうなったか、なぜ自分達はそうならなかったかを考えただろうか。問題に対しどれほどに誠実であろうとしただろうか。私はあの事件の中で、教会が警察以上に警察化し、世間に見られないような差別体質をむき出しにして、真理契機とそれを担っている部分を切ることで組織を守ろうとするか、またその成員が組織の一員にとどまろうとするものかを学習した。

 再処理工場着工当日、現地で、私自身「運動と教会の狭間で身を裂かれ、骨の軋む音を聞いている」と書いた極限状況に立った。決して得意になっていたのでなく、売名行為と揶揄されるようなことは微塵もなく、ただ六ケ所村を含む地域と教会に神から召された牧師として、黙っておれなかったのであり、現地で闘うことで全体教会に仕えているという思いが強かった。


U.聖書研究によるテ−マ解題

 いささか冗長な自分史を語ったが、ようやく本題に入る。
 講師に与えられた課題は、この「聖書研究による」テ−マ解題だと思う。
 私は、全体テ−マ「踏み出そう−希望を信じて」を旧約聖書の預言者から考えたい。預言者は、希望がない時代に希望を見ようとして歩んだ人だ。私達は今、暗く閉塞感に閉ざされた中にいるが、「預言者と希望」の関係を考えることがテ−マ解題の糸口になるのではないだろうか。
 次に、《ふみだそう》ということは「優しさ」からくるのではないだろうか。優しさは両義牲を持つ(消極性と積極性)が、「踏み出す」方向性・脱出口がどのようにして与えられるのだろうか。

【「預言者」とは?】

 聖書研究「分団」に入るに当たって、各自が「エレミヤ書」を読み・考え・互いにシェア−するための留意点というか、アウトラインを話すことになった。私は聖書辞典の「預言者」「エレミヤ」を参考にして語った。

 まず、一般の日本人が頭に描く「予言者」は宗教的で、オドロオドロシイ存在だが、イスラエル預言者は宗教者の限定した枠ではとてもとらえ切れない。
 「イスラエルにおける預言者」は、古代オリエント世界の預言の背景から起こり、イスラエルにおいて独特の発達を遂げ、イスラエルの精神文化に偉大な役割を果した。「神の言葉」の信仰を打ち立てたのは預言者であった。預言者は「神の代言者」(エレミヤ1:9 )であり、たとえ苦難を伴うとも、内なる力に迫られて神の言葉を語らざるを得なくされた。預言者は神の言葉に臨まれ(とらえられ)、神の言葉を時代・人間に語らざるをえなくされた実存である。預言者は国家・民族の存亡の危機に多く現れ、国家の政策に介入し影響力を持った。その言辞は批判的だったので歓迎されず、むしろ苦難を受ける。「偽りの預言者」(多くは職業預言者で、体制に癒着したお抱え宗教家・御用学者のたぐい)とも厳しく対決した。

 預言者達は、「社会的不義」を激しく糾弾し、倫理的行いから遊離した宗教の形骸化に対し、神に立ち帰るべく人々に呼びかけた。
 私達が「六ケ所村」の現実や「新ガイドライン・有事立法法制化」がもたらす、この国の危険な方向性に対する時、イスラエル預言者の位置から、「対決的」に、しかし真に「連帯的」に、語り、行動することが重要と思う。


【預言者エレミヤとは?】

 さて、エレミヤはどのような預言者だったか。彼に顕著な特徴・思想の核は何か。 「エレミヤ」は、上述の預言者の自己理解を人一倍強く持った預言者だったと思う。
 ユダ王国衰亡期に活動(前626 〜586 年) し、預言者中、最も「近代的」な感覚をもち、人間性の洞察が鋭く、〈心情の預言者〉と呼ばれる。

 エルサレムの北5km 、アナトトの出身で祭司の家系に生まれ、一生妻帯しなかった。
 彼は「若き日」に召命を受けて預言者となるが、和平派と主戦派とが抗争する複雑な政治情勢の中にあって、徹底的な降伏主義による国家の保持を唱え、時の権力から売国奴として過酷な弾圧を受けた。

 彼は歴史の大きな転換期(アッシリア帝国の衰退期から新バビロン帝国の興隆期にかけて)に生き、ユダ王国の滅亡、捕囚という過酷な運命に遭遇した人だった。
 彼は捕囚の同胞に送った手紙の中に、「絶望して自棄の態度に陥ることなく、将来に希望を託し、住んでいる町の平安を求めて生きるよう」、勧めている。

 彼は五つの『告白録』を残している。
神に召された預言者でありながら、神の与えた使命と自己自身の現実との間に悩み苦しみ、神と格闘した預言者であり、このような葛藤的な預言者はイスラエルにおいて他に例を見ない。彼は人間の心を問題にし自分自身の心を問題にし、人間の原罪・根本悪の癒し難さを知らされ、人間の実存・内面の理解に深刻な認識を得た。彼は自分に対しても決して真実を認めなかった。
 彼は律法宗教の偏狭さと厳しく対決し、律法と民族の枠組み・伝統を越えて宗教の内面化を求め、新約のイエスの宗教へ至る道を切り開く人物となった。

 さて今回、聖書テキストとして以下の箇所をあげた。

エレミヤ書
 1: 1〜13 (時代背景、預言者としての「召命」)、
 4:19〜26 (「北からの敵」)、
 6:13〜17 (エルサレム その構造的悪)、
ロ−マの信徒への手紙8:18〜25 (被造物の呻き)

 エレミヤは「希望」に対しむしろ「抑制」的である。
 彼は亡国と捕囚という破滅の淵にやがて生きざるをえない、そういう予感の中に生きた。「北から災いが来る」という、ひじょうに切迫した感情が突き上げる日々、破滅の予感の中に生きたその「初期のエレミヤ」(1 〜6 章)を聖書テキストに選びたいと考えた。
 とりわけ、4章19節以下を中心にすることにした。

【「六ケ所村」でエレミヤを読む】 

19わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
わたしは黙していられない。
わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。」

21いつまで、わたしは旗を見
    角笛の響きを聞かねばならないのか。

 エレミヤはひじょうに切迫した状況、危機の予感に感情が突きあげる。危機の実体ははっきり形を現していない。しかしひじょうに恐ろしい事態に自分達は真に直面しなければならなくなる。もはや逃れられない。

 そして6章13節以下
13「身分の低い者から高い者に至るまで
    皆、利をむさぼり
    預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
14彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
   平和がないのに、『平和、平和』と言う。

 北から「敵」が来襲する、戦争という危機の到来、そして内部的には病み難く露呈した腐食、腐食の構造、責任の不在・・・・。     
   
【私達の現状】

 戦後高度経済成長の矛盾がバブル崩壊をもたらし、さらに阪神大震災の直撃をくらって、戦後50年という年に日本という国の破綻がまさに露呈した。経済的破綻のみならず理性の破綻が大きく、この国の現状に責任が不在であることが明かになった。大衆のレベルで「身の丈に合った暮らし」への反省・問い直しが出始めた。

しかし金融恐慌、未曾有の不況と失業によって閉塞感が急速に増し、声も出ず何も考えられない、ひたすら保身という守勢に回るほかない、そんな国民ひとりひとりの心の隙間に攻撃を仕掛けるように、戦前への回帰現象が高まった。アジアに対して正しい歴史認識を持つことを拒み、戦後補償問題に対し国家の賠償責任を認めず、歴史教科書問題では自虐的歴史観として退け、おおよそこの国の歴史への態度・隣人への態度に責任性と真摯な態度を見ることが出来ない。今、日米軍事同盟を強化して「新ガイドライン・有事立法法制化」という戦争法案、戦前のような国民総動員体制が再現されつつある。不況になると外に侵略的に活路を求めようとすることは戦前と同じだ。

 権力の強権が大衆の間に停滞と退廃をつくり出すというが、この度は権力の強権ではない、深刻な金融恐慌をタテに経済がすべてに優先し、日米アジア戦略を軸とした国益と企業の権益を守ることを第一義(国是)とする体制へと、この国は止めようなく動き出している・・・・。
 思えば、ソ連崩壊とそれに続いて湾岸戦争が勃発し、そのことを発火点に、「国際貢献」ということで戦後平和憲法下に自衛隊派兵を強行した。そしてプルトニウム政策も全面展開を見せた。

 1992年、私は、時代の不気味な変化について予感していた。
 私は、八戸の教会の庭で焚き火を起こして、三里塚の成田新国際空港反対同盟の農家が送って来た芋を焼き芋にして食べながら、つい先だってニュ−スだか風聞だったか、宮沢喜一総理が言ったという言葉を反芻し、危機感を募らせた。

「このままだと日本は、憲法改正・徴兵制・核武装に、行き着かざるをえない」
 それまで、宮沢さんは自民党の知性派で鳩派の政治家だと思っていたが、総理になった途端にこういう物騒なことを言い出す、そんなこの国の危うさに強い危機感をもった。そして92年秋開催される教団総会に「日本のプルトニウム政策に反対する決議」を提起すべく準備に集中した。この建議案は採択され、「教団、原発、核燃問題連絡会」がこれを契機に発足され、教団内の反原発運動は展開した。

【基地】

 要するに、国家の危険な動向がもっとも顕在化している場所、構造的矛盾が覆えぬほど露呈している場所、その場所が提起する問題を、そこに関わり、自分も一緒になって考えることが、今、必要と考えられる。そうして同時代を生きる者の責任を自覚的に育てていくほかない。問題は「基地」と呼ばれる、日本の政治経済戦略上の拠点とされた地域とその現状に顕著に現れ、深刻な破壊をもたらしている。成田、沖縄、そして六ケ所村・・・・。
 辺境・少数者への構造的な差別・暴力としてそれは進行している。


【原子力発電所】

 原子力発電所(以下、原発)とはどのような問題か。
 日本の反原発運動の草分け、高木仁三郎氏はこう記す。
 「(原発は)核分裂反応によって生ずる熱を利用した発電システム・・・・、石油に対する代替エネルギ−として多くの国で建設が進められ」ている。そして「原発の基本的な問題は、その運転に伴って生じるぼう大な放射能(死の灰)にあるが、その日常放出による環境汚染、巨大事故による被害、労働者の被曝といった生命と環境にかかわる問題に加えて、巨大開発に伴う地域社会の破壊、核物質防護のための厳しい管理など、すぐれて社会的な問題も提起している。原発問題は、現代の巨大科学技術と人間の間に生じる不可避的緊張を尖鋭な形で示している。」
 (『社会学事典』弘文堂,1988) 

 原発問題を考えるとき、日本の場合、国の政策としてエネルギ−の基軸に原子力発電を位置付けている。「資源小国・エネルギ−消費大国」と「ウラン資源の有効利用」とを表向きの理由にしている。世界の唯一の被爆国日本が戦後原子力を国是とするのに、「原子力の平和利用」を掲げて来たが、原子力はもともと軍事のため開発され、一時的に平和利用という商業利用しているに過ぎず、いつ軍事転用されるか知れない。平和利用はむしろ一時的なことで軍事利用が究極の目的にある。そこに不気味な本質が隠されている。

 原発は権力と差別の構造であり、日本という国家の「利潤」(国益)・「核保有」を達成するという国家目的を中心に「原発で儲ける」強固な利権構造を構築し、原発を推進している。今日、あいつぐ深刻な事故により論理的破綻を来している。技術面では安全性が確立していないし、経済的効率も悪く経済合理性から考えて成り立たず、弊害の方がむしろ大きい。しかし原発から容易に転換できないのは、国の政策と利権構造のゆえである。

 原発は危険なものだから、ほとんど辺鄙な漁村に建設される。原発産業は過疎と後進性というか開発の期待感の強いところに進出し、巨大資本によって地域ぐるみ買収し、最初に土地・漁業権を放棄させ、その地域の農漁業を基軸とした産業構造が大きく変動し、地場産業が失われる。
開発される側の住民は生活水準が向上すると単純に考えるが、それは数十年の単位でしかない。産業構造は時代とともに変化し、その時の主要産業は時代が変わると他地域に移り、開発された場は空洞化し、切り捨てられ、再生不能の状態に放置される。

【中央に追随した青森県】

 青森県も「核燃料サイクル基地」を選択したことで中央(政府・省庁)と電力資本に追随してしまった。原子力開発は現地にそうした支配・被支配関係を固定化し、原発がなければやっていけない状態にする。電源三法交付金が財政の大部分を占め、さらなる原発の増設が必要になる。
 原発はまず「土地の収奪」から始まり、地域にカネを落とすが、高圧線で電力を大量消費する大都市圏に引っ張っていく、つまり電力を収奪して弊害だけを現地に残すものだ。
 こう考えると、原発は国が過疎を棄民とする政策であり、とても国是と言える実体でなく、むしろ国家犯罪に抵触するような問題だ。

 1970年代の六ケ所村の巨大開発も、「国家的プロジエクト」として計画され、閣議決定・全省庁参加で進められながら、オイルショック(1973年) で開発計画が頓挫し、現地に開発難民を創っただけで農民の土地は膨大な遊休地として放置され、けっきょく開発会社の救済と政治責任を隠蔽する形で、80年代に「核サイクル」を割り込ませ、全国各地で現地の反対にあって建設計画がつぶされた危険な「使用済み燃料再処理工場」と膨大な核廃棄場へと六ケ所村は大きく変貌している。

 日本の原発産業は、電力の大量生産・大量消費の結果として、どこにも捨て場がない高レベル放射性廃棄物の処理問題を抱えている。また原発の老朽化に伴って炉心の隔壁(シュラウド)を交換して持たせようとし、世界でまだ行われたことのない「炉心に人間が入って作業する」という、大変な被曝労働を始めている。対外的には、官民一体化して原発をアジアに輸出し、戦前の大東亜共栄圏を原子力で再現しようとしている。

 このように原発は、権力構造とその必然としての差別に帰因する現象と言わなければならない。
 そして今、「新ガイドライン・有事立法法制化」が進み、時代が大きく転換しつつあるが、米国のアジア戦略に組み込まれ、危険な戦争へ突き進もうとする中で、原子力も有事との関連を警戒し、深刻に問題として行かなければならない。
 今一度 「いつまで、わたしは旗を見角笛の響きを聞かねばならないのか。」


 「北からの災い」。初期エレミヤの著しい特色である「激情の吐露」が現れる。
「はらわた」の悶え、「心臓」の呻き。
北からの災いの予感は彼に「衝撃」を与えた。創造の世界が「混沌」に帰してしまうほどの破壊、「角笛の音と鬨(とき)の声」は世界の深層から混乱が沸き上がってくる現れであって、そこに置かれた「人間の責任」として受け止めるべき。しかし、「世界史を根底から揺り動かしている力」について、「何の感受性も持たない人間」、それは「愚かで、分別がない」(22節)(新共同訳注解(木田献一)参照)
 私達は、そうしたエレミヤの時代状況と実存との葛藤を私達自身の時代的危機の中で、「しっかり危機意識として育」てなければならない、と思う。エレミヤが「いつまで、・・・・」と、絶句した時代の危機に私達もやはり、向き合わなければならない。彼の言葉を呻きを執拗な促しとして聞き続けなければならない、と思う。

 そして、想えば93年4 月のあの「再処理工場着工」の日、現地六ケ所村で、私自身、警察権力と対峙し、「教会と運動の狭間で身を裂かれ、骨が軋む音を聞」いたことは、私の「エレミヤ体験」だったことを知らされる。私自身、すでに既成教会から出て「社会問題を課題とする開拓伝道所」に身を置いていることも、日本という国家の動向と無関係ではないし、時代の巨大なうねりに末端で連なった体験だったのではないか。

V.主題の考察によるテ−マ解題
   −「希望」について 

【希望の定義】

 〈希望〉とは何か。希望は「人間の最も基本的な感情」のひとつであり、単なる夢・空想と区別された「未来へ向かう行動的な姿勢」と言える。
 エレミヤが「希望」や「救い」についてひじょうに抑制して生きたことはすでに述べた。彼は現実を決してごまかさず、希望的観測を述べず、自己に真実を認めず、徹底して希望なき現実に呻吟し、破滅の淵に生きた。「平和がないにもかかわらず、平和・平和」ということは虚言であり、傷を手軽に治療することであって、事態を更に深刻化するばかり。私達も、時代の危機と社会の矛盾の相に誠実に向き合わなければ、希望は見出せないし開かれない、深刻な閉塞状況の中にある。

 ロ−マの信徒への手紙8:18〜25からエレミヤを再解釈すれば、希望は「突破口」として用意されている。「見ないことを望む」という。人間とは常に見えないものに眼を向け、見えないものの声に耳を傾ける。人間は本来、皆、預言者なのである。
 希望は苦難と絶望に満ちた現在が「孕」んでいるのだ。

 ユダヤ系ドイツの哲学者ブロッホ(Bloch,Ernst)は、主著『希望の原理』(1959)において、「まだ意識されない」もの、「まだ・ない」ものを認識論の対象とした。希望の本質をそう表現した。
「まだ」は「未来」(希望)を暗示させる。ブロッホの影響を受けた「希望の神学者」モルトマン(Jurgen,Moltmann)が誕生するが、彼はキリスト教を「希望の宗教」として新しく理解した。彼にとって信仰は「希望の姿勢」にほかならない。
 神は希望の神であり、希望の不動の基礎である。


【希望とは青年である?】

 私はUの冒頭、「優しさ」ということを提示した。
 栗原彬氏『やさしさのゆくえ−現代青年論』(1977年) から私は多く示唆を与えられた。彼は70年代の青年論を《やさしさ》の世代として把握したことは注目に値する洞察だ。
 栗原は、70年代青年の《やさしさ》は「高度産業社会自体が逆説的に生み出したもの」、「高度産業社会が要求する達成価値・生産価値に原理的に対立するもの」と言う。しかし大人にとって脅威であった「危険な青年」が去った後に、「無気力」で「しらけた」青年が現れた。もはや社会の大勢に異を唱えて《やさしさ》価値を貫く強さを持ちえず、保守化し、「社会」に順応し、周囲に同調していった青年。
70年代の「問題としての青年」から、80年代の「消費の英雄」、無為と自閉を特徴とする青年へと大きく青年像は変容した。青年は、もはや「問題」ではなくなった・・・・。

『毎日新聞』('95.9.30)の対談記事に栗原とは別の若い社会学者が、90年代の「十代」について《脱力世代》と言ったこともハッとした。「今後、社会の活力がなくなるのではと不安だ」という問いに、「それでいいと思う」「全員が熱くなって社会の未来を考える時代は終わった」「熱くなれ・前向きに生きろ と押しつけるのではない、各人の生き方を尊重するような社会になればいい」と答えている。

 今一度《やさしさ》とは、「役に立つか立たないか」で差別し序列化することに対し、存在する命すべてに等しく価値を認め、平等の関係に立って他者と「共生」を志向する。《やさしさ》が「厳しい現実からの逃避」でなく、「社会の組織化の原理」にまで高めていくなら、産業優先経済至上のハ−ドな社会の歪み・矛盾を克服する、国家の論理・企業の論理と対抗する価値となる・・・・。

 以上のことから、私は大胆に、《希望とは青年であり、青年とは希望である》と言いたい。
 六ケ所村にフランスから高レベル放射性廃棄物が返還・搬入された日、海外から現地抗議集会に参加した女性が「未来なき子供達・子供達なき未来・・・・、とても言葉の矛盾で悲しい。六ケ所村は環境と未来世代と民主主義の破壊そのものだ」と語った。その言葉から啓発されたことも、「希望」と「青年」の関係性を考える導きとなった。
 しかし、希望とは青年であり・・・・という時、同時に、心が痛まないわけに行かない複雑な心境でもある。


【希望とは教会である??】

 前述したモルトマンは、教会を「希望の共同体」と呼んだ。
 以前(1980 年) 、『教会に未来はあるか』という大変刺激的な題名の本が出た。その書物は「現代の課題をめぐる対話」という副題が付いていた。教会が現代社会が当面する諸問題を自らの課題とすることが重要だ。しかしそれらに対し自らを閉ざす教会は、自己を未来に対して閉ざす。
(以下、「自分史」の続き: 私が農村伝道神学校に入って2年目、外来講師の伊藤之雄から教義学を受講した。伊藤は、隅田川伝道所という山谷のドヤ街にある畳三畳の小さな教会で牧師をし、神学校へ来て教えていた。1980年に脳腫瘍のため55歳で死んだ=私は今、彼の年齢に達した=。私は伊藤にひじょうに影響を受けた。

彼の信仰は思想性が深く難解だけれど、彼をテ−マに評論を1本書かなければ、彼の追悼が終わらないと思っている。逆説が真理であること、信仰は有神論でなく無神論の上に成り立つことを彼から学んだように思う。伊藤の「追悼・遺稿文集」が死後満1年に出た。)
 いま開くと、《エクソダス》と《教会》という2つの断章が並んでいる。
「・・・・既成キリスト者が自らを〈ある力〉の前に消滅させられるという道以外にない。信仰というもの、教えというもの、神というもの、これらすべてのものの呪縛から、我々が解放され、我々をして人間の未来を信ぜしめる力が残るとき、神はそこに在す。」「教会自体がその正統性を主張できない。死ななければ生きない」「教会はその社会的行動の死の中からキリストと共に甦えるとは私の実験教会の確信である。」「問いは教会の中から生まれぬ、他者なき所に己れの生存理由を新鮮に問うことはできぬ。」

 また韓国・事件の神学の安炳茂によれば「《新しい共同体としての教会》は、自己を徹底的に捨てることによって、空間的敗北(十字架)を、時間的希望でもって勝利した(復活)キリストから出発した。これは、イスラエルの預言者らを通じて、間断なく古きものから(所有・既得権に安住することから)脱出させ、未来を指向させた神の究極的意志であり、かつ命令である。」「神は、必ずわれわれを通じて、空間性の奴隷となって、無力となった教会、そして世界を、歴史的究極目的に向けて・・・・、われわれは前へ進むのでなければならない」と書いている。
 伊藤と安が書いていることは凄まじく難解だ。が、重要だ。これが理解できたら、私達の中で大きな変化が生まれるだろう。

 要は教会とは何か、その「理念と存在理由」が問われている。
 教会は、自らが宣べ伝えている神に対し、自分自身はどういう関係にあるのか、今もなお神の教会、信じるものの教会であるのか。それとも真の教会は今日、制度的教会の「外」に存在するのか。「教会は一旦獲得した知識に安住」できない、与えられた状況の中で常に新しく問い直す事を求められている。「常識的判断や自分の利益をその行動の基準にすることも許されない。個々の場面で、「何が神の意志に則した行動か」を、絶えず吟味して生きなければならない。真の預言者には「公認せられた神学」はなかった。彼らには信仰の固定化は起こりえない。既存のいかなる教義も神学も彼らにとって絶対的ではない。

 東京神学大学「某」若手教授の講演が『学報』に《信仰告白と伝道》と題して掲載され、「教会の存在理由について」と副題が付されている。教会の存在理由を、従来の信仰告白と伝道という制度・組織面の強化でしか発想できないことは、悲しくもあり、同時に悪意を感じるが、かつて問題提起する学生を警察権力に売り渡し、少しも裁かれず何も失わなかった教授会の後塵を拝する人にすれば、こんなものかと変に納得する。しかし、98年6月神学校等人権教育懇談会で他から「神学校教育機関としての過ち・致命的挫折として認め、克服しないままでは、神学教育のビジョンを打ち出せない」と指摘されたようだ。しごくもっともだ。

 教会は神学は新しく出発しなければならない。既成の枠から脱出し自由にされなければ問題に真に出会えない。「六ケ所村」の問題も、それをもとに新しい神学をつくろう、反核の神学とか環境の神学とか、そんな対象にすべきでない。余りに簡単にキリスト教的解釈や意味づけをし、それで問題が分かったと考えることは欺瞞だし、本末転倒だ。神学の対象にすることは問題からの収奪ともなる。事実を事実として見ること、事実の持つ構造をしっかりと捉えることが大事。私達は人間中心主義の考えを、自然との共生の方向へ思想を修正し、生き方を転換しなければならない。

また、キリスト教が絶対と言う考えや発想の元にあるものを出て、グロ−バル化している事態に対しグロ−バルな枠組みを新しく作っていかなければ、事態に対応していけないだろう。キリスト教の中から自己批判が起こってくることが誠実さの現れであって、自らの伝統や教義の枠に閉鎖的に閉じこもり、硬直化した議論をすることからは、本当のものは生まれてこない。

最後に、
「わたしは、このやさしさということばが好きです。やさしさとは漢字で書きますと、人を憂えると書きます。人の世の創造的ですばらしい関係は、なによりもまず、人が人を憂えることからはじまるといえるでしょう。」

  (高史明『ある少年のおいたち− 生きることの意味』)
 

 果たして教会は、農の反乱という状況の中で、何を語り、どう連帯していくべきであろうか。( 中略 )
 米内山義一郎は、農協大会前に農業団体に長い書簡を書き送って
「夜明けの前は暗いのです。しかし、どんなに鶏の首を締めても朝は来るのです」
と結んでいる。無神論者の米内山が、きわめてキリスト教的な”希望”のメッセージを語り、一方、N教会監事であり、六ヶ所村議で酪農家の土田浩は、鶏の首をしめて朝が近いことを告げさせまいとする、日本社会の支配構造の担い手となっている。核燃で揺れ動く青森県・六ヶ所村において、『教会とは何であり、信仰とは何であるか』が問われている。

 真実が失われ、虚偽が蔓延する現代、その虚偽に抗うとは、どのような生きる姿勢をとることなのか。それは事件に連座し、社会の中で具体的な闘いを通して、その虚偽や悪の輪郭なり実態をこの手で捕まえるほかにない。
 『岐路に立つ 〜六ヶ所村の人々と共に〜』
   岩田雅一著 より抜粋(1990年 新教出版社)

        (いわた まさかず)

このページの作成者:竹佐古真希
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