有事法制・改憲論を考える
〜その分析と問題点〜

はじめに

 「戦争の世紀」と言われた二〇世紀が終わってみると、二一世紀も「戦争の世紀」として開幕してしまった。この最も責められるべき人物・国家はテロ攻撃を受ける原因をつくり、テロ攻撃後に自らの「正義」を疑わずに戦争を続けるブッシュ大統領とアメリカである。
 それに対して、平和憲法の立場からこの「テロリスト国家の親玉」(ノーム・チョムスキー)であるアメリカをいさめるべき日本は、昨年の「アメリカ軍支援・参戦の特別措置法(一般に称されている「テロ対策特措法」)の制定によりアメリカの戦争支援に乗り出し、実質的に集団的自衛権の行使に踏み出した。さらに政府は、今国会で有事立法の成立を目指し、その後は憲法改定が現実の政治日程に上がってこようとしている。
 ところで、今回の有事法制論は、昨年の対米テロや奄美大島沖での「不審船」問題が議論の引き金ではない(そもそもこれらの問題は、既存の法体系の中で警察および海上保安庁が対処すべき問題であるし、今回の法案でも対象から除外されるようである)。戦後の国際政治が東西冷戦から地域紛争介入・テロ対策へと変わってきたとはいえ、一貫して政府が検討してきた課題であった。先に本誌で検討したように(拙稿「新ガイドライン(実施法)と憲法」マスコミ市民三六一号・一九九九年)、戦後のアメリカがその資本主義体制の維持・発展のために軍事戦略を展開し、日本はアメリカに従属しつつ、一方で日本の資本のために安全保障戦略を構築してきた。
 本稿では、有事法制に関する細部にわたる解説ではなく、まず今回の有事法制論が戦後どのような形で具体化されてきたのかを明らかにし、有事法制が憲法に与える影響を見たうえで「改憲論」を検討したい。

一 戦後の有事法制論の展開

(1) 六〇年代・七〇年代の展開
 戦後の日本で支配層の有事法制論が初めて公になったのは、一九六五年に国会で暴露された「昭和三八年度統合防衛図上演習」(三矢研究)である。これは幹部自衛官による朝鮮半島の有事の際の極秘研究であった。その後、七七年からは福田内閣の下で、今度は公然と防衛庁が有事法制研究を開始する。そして、対外的問題として七八年に日米安全保障条約の事実上の改定に相当する日米防衛協力のための指針(ガイドライン)が締結される。また、次の大平内閣では国内問題として、二度のオイル・ショックの経験から「総合安全保障」論が唱え始められる。

(2) 八〇年代の展開
 これらを受けて八〇年代にはいると、その具体化に向けての動きが出てくる。八〇年に鈴木内閣は総合安全保障関係閣僚会議を設置するのである。総合安全保障論とは、激動の世界情勢のなかで、国家がその「危機」を乗り越えるために軍事面だけでなく、政治・経済・教育・文化などすべての領域の総合的な政策により、国の安全保障を確保しようとするものである。
 また、「危機」についても軍事的危機だけでなく、経済的危機、人為的事故、自然災害、社会的事件など総合的に捉えている。そしてこの「危機」をできるだけ事前に予測し、予防することと、発生した場合には迅速に対処できる体制を確立しようとするものである。このようななかで、福田内閣のときに始まった有事法制研究については、防衛庁所管の法令に関する第一分類の中間報告が八一年に、その他の省庁所管の法令に関する第二分類の中間報告が八四年に出される。
 さらに、実際の制度整備に取り組みだしたのが八〇年代半ばからの動きである。中曽根政権下の八五年に、臨時行政改革推進審議会(行革審)の答申が出される。そのなかの「内閣の総合調整機能の在り方」の部分で、緊急事態に対処するために安全保障会議の設置を求めた。この答申のなかで緊急事態が何を指すかは、必ずしも明確に定義されていない。これまで政府が重大緊急事態の例として挙げたのは、ミグ25事件、大韓航空機撃墜事件、ダッカ・ハイジャック事件、関東大震災の四つである。
 前の二つは現行法で十分対処できたことを考えれば、安全保障会議の設置によりその恣意的運用を招く危険性が出てくる。また、後の二つは超法規的措置と戒厳令による解決が図られたことから、日本国憲法には規定のない国家緊急権を政府に認める危険性が出てくる。
 そのような危惧をよそに、八六年の安全保障会議設置法により安全保障会議が設置される。この任務は、国防会議の廃止によるその任務の継承と、新たに国防関係以外の重大緊急事態への対処に関する重要事項について決定することであった。そしてこの構成員は、議長としての首相の他、外相、防衛庁長官、経済企画庁長官(現在は財務相および経済財政担当相)、内閣官房長官および国家公安委員長から構成されるとし、必要な時は関係大臣、統合幕僚会議議長等の出席も認めるとした。
 政府が設置法案をまとめた当初、アメリカにならって名称を「国家安全保障会議」としていたように、この機関は国民の安全よりも国家の安全のために設置されたものである。そして内閣のなかに少数の閣僚から構成されるもう一つの内閣をつくり、国会の形骸化・首相への権限集中を実現するのが狙いであった。

(3) 九〇年代の展開
 さらに九〇年代に入ると、この流れは臨時行政改革推進審議会(第三次行革審)に引き継がれる。九〇年に発足した第三次行革審は、九一年に第一次答申を提出した。このなかの「緊急事態への対処」と題する提案のなかで、「緊急事態への対処については、……今般の湾岸危機への対応について十分でなかったとの指摘もあるので、更に緊急事態対処体制の在り方について見直しを行う必要がある」と始まる部分がある。そしてこのなかの「緊急時に対応する法制の整備」と題する部分で、「重大緊急事態が発生した場合で、政府における措置のみでは十分な対応が困難であると予測されるときに、閣議決定等に基づいて関係行政機関の長等が、……民間企業等に対して協力の要請を行うことができる等の規定を内容とする、緊急時における諸手続を定める法制の整備を検討する」と述べている。
 実際に、これと同様の考えは、答申が出される前の「湾岸戦争」時に政府も考えていたと思われる。戦争勃発の九一年一月一七日、安全保障会議は湾岸危機対策本部の設置を決定する。これを受けて同日、自治省は、自治体向けに「『湾岸危機対策本部』及び『自治省湾岸危機対策本部』の設置等について」という通達を出した。このなかで、「今後、湾岸危機対策本部等においてとられる措置等について逐次連絡する予定であるので、貴団体におかれては、必要に応じて適切な対応のとれるよう配意されたい」と述べている。
 この「湾岸戦争」の経験と第三次行革審答申を受けて、九二年に制定された「PKO法」では、第二六条でPKO活動に対する「国以外の者への協力」規定が盛り込まれた。これによりまず、国民に反発の少ないと思われるPKO活動で自治体および民間に協力を求める法体制ができあがったのである。実際に、同年一〇月のPKO本隊の輸送は日本航空機で行われた。
 一方、制度面では、八六年の安全保障会議の設置に合わせて内閣官房に設置された内閣安全保障室は、九八年に内閣安全保障・危機管理室に改組された。さらに同年の中央省庁等改革基本法および九九年の同関連法の成立により、新設された内閣府に災害・治安・防衛など国の安全確保もその任務とされることとなり、警察庁と防衛庁が内閣府の外局となるのである。
 また、九九年制定の周辺事態措置法では、第九条で地方自治体および国以外の者への協力を要求している。アメリカが勝手に始めた戦争に際して、補給、輸送、修理および整備、医療、通信、空港および港湾業務などに従事する地方公務員や民間業者は協力を求められることになるのである。軍事活動に対する国民動員体制は、PKO活動からさらに周辺事態に際しての対米協力に拡大されたのである。

(4) 強制化に向けての近年の展開
 とはいえ、「PKO法」も周辺事態措置法も協力規定にすぎなかった。したがって、地方自治体や民間人のなかから、当然協力を拒む動きが出てくるであろう。しかし、それでは有事に円滑に戦争のできる国家体制が構築できない。
 そこで、九九年の地方分権一括法のなかの地方自治法改定で、各大臣による自治体の自治事務・法定受託事務に対する技術的助言・勧告、資料提出要求、是正要求規定などを置き、さらに法定受託事務に対する代執行規定も盛り込む。また、駐留軍用地特別措置法改定で、自治体による代理署名を国の直接執行事務に変え、沖縄のような自治体の抵抗を封じ込んでしまった。
 今回の有事法制では、強制的に国民をも幅広く戦争一般に動員しようともくろんでいるのである(ただし、住民保護、船舶・航空機統制、電波統制、捕虜の待遇などの第三分類は、次期国会以降の提出となりそうであるが)。昨今の自治体統合論で自治体の数が減れば、中央政府による自治体統制がよりたやすくなるであろう。
 さらに、今回の有事法制では、単に「我が国に対する武力攻撃の事態」のみならず、「武力攻撃に至らない段階」から適切な措置をとるとしている。これによりアメリカが勝手に認定した周辺事態(今懸念されるのは、ブッシュによる朝鮮攻撃である)により、自衛隊のみならず国民も強制的にアメリカの戦争に協力する体制が立ち現れるのである。長年積み重ねてきた内閣の機能強化と国民総動員体制づくりが、公然と体系的に完備するのである。

二 有事法制と憲法

 ではもし有事立法が成立した場合、憲法との関係でどのような問題が生じるのであろうか。戦前の教訓と各国との比較から、憲法の人権規定と統治規定に分けて考えてみたい。

(1) 有事と憲法の人権規定
 人権規定については、まずなによりも有事には国家が優先されることから、個人の尊重(第一三条)が脅かされ、民事より軍事を優先することは法の下の平等(第一四条)に反することになる。そして有事に国民を強制的に徴用することは奴隷的拘束・苦役からの自由(第一八条)に反し、その先に徴兵制も考えられなくもない。その場合、思想・良心の自由(第一九条)についていえば、ドイツなど良心的兵役拒否を保障している国もあるが、日本はそもそも国家が軍事を拒否した点でそれらの国々の先を行くのに、「普通の国」になってしまう可能性がある。
 戦前の神道の実質国教化の反省から信教の自由・政教分離(第二〇条)が保障されたが、靖国神社参拝問題から考えれば、靖国神社が将来の戦死者を祭るための場とされ、同規定が無視されることになる。表現の自由・知る権利(第二一条)に関しては、九・一一後のアメリカにおける表現規制でも明らかなように、戦時には自由な言論が脅かされ、日本でも昨年自衛隊法改定により防衛秘密規定が盛り込まれたように、情報公開の流れに逆行し始めた。第二三条は学問の自由を保障するが、徴用・徴兵は若者を学問の場から遠ざけ、研究者の戦争批判的な研究・発表が制約されるおそれがある。
 ただでさえ生存権(第二五条)は十分に保障されていないのに、有事には社会保障予算が削減され、最大の環境破壊である戦争を肯定することになってしまう。戦前の軍国主義の反省の下、教育を受ける権利(第二六条)とこれに基づく教育基本法が制定されたが、今またこの基本法を改定する動きが出てきている。これに関連して、森内閣での教育改革国民会議の中間報告(二〇〇〇年)で、奉仕活動の義務化が提案されたが、これは戦前の勤労奉仕に通じるものがあり、勤労の権利規定(第二七条)と相いれない。
 財産権の保障規定(第二九条)には、たしかに公共の福祉による制限があるが、平和憲法の下では戦争=公共ではないのに、有事に際しての徴発はこの規定に反することになる。
 第三一〜四〇条で手厚い人身の自由規定があるが、この制定の背景にはもちろ戦前の特高警察など警察国家の反省がある。しかし、昨今の公安調査庁による諸団体・在日朝鮮人の監視活動や、盗聴法制定、住民基本台帳法改定、少年法改定、警察官の銃使用基準改定など一連の治安強化策は、戦前の警察国家化につながらないだろうか。

(2) 有事と憲法の統治規定
 次に統治規定については、戦前は天皇の緊急命令・独立命令が認められていたが、今後緊急時を理由に政令事項などを増やせば、唯一の立法機関としての国会規定(第四一条)が無に帰する。国会議員については、軍事・独裁国家等にみられる野党への政治的弾圧を防ぐために議員の不逮捕特権(第五〇条)が保障され、戦前は議員の軍拡・戦争批判が制約を受けたから議員の免責特権(第五一条)が保障されているが、これらも同様である。
 非常時の国会の権能規制と内閣の機能強化につながれば、それらの規定がない国会・内閣規定(第四、五章)の精神を否定することになる。戦前の軍人内閣を否定し、シビリアン・コントロールを実現しようとした首相と大臣の文民規定(第六六条)に関しても、今や防衛庁長官は元自衛官である。
 第七六条は特別裁判所の設置を禁止しているが、今後は軍法会議設置の議論も出てくるかもしれない。同条はまた、暴力など他者の干渉による裁判を禁止するために裁判官の独立を保障するが、盗聴法について発言しようとした裁判官を処分(九八年の寺西事件)する今の最高裁支配の下で、裁判官個人の独立は本当に守られるのであろうか。第九八条の憲法の最高法規規定と、これを担保する違憲立法審査権(第八一条)についても、既に現在でさえ十分機能していないなか、違憲の法律が制定されても今後も野放しにされる可能性がある。
 第八章は地方自治を保障するが、戦争遂行に適合的なのは中央集権国家体制であり、既にみたようにますます自治体の抵抗はむずかしくなる。
 以上、見てきてわかることは、有事・非常時においては徹底的に憲法の諸規定がないがしろにされてしまい、絶対的平和主義の立場から有事・非常時を想定していない日本国憲法と有事法制とは全く相いれないのである。したがって憲法の最高法規規定から違憲の法律は無効となるはずである。
 しかし、軍事の論理から法律(有事立法)を優位に立たせなくてはならない。この矛盾の解消のために、支配層は最終的に憲法の全面改定を狙ってくるであろう。

三 昨今の改憲論

(1) 改憲論の内容
 九〇年代以降の相次ぐ改憲論の中心課題は、やはり九条改定である。自国の軍隊を国連の要請で出動させる(九二年の小林節案)、国際的機構に協力する(九四年の讀賣新聞社案)、集団的自衛権を認め集団安全保障体制にも参加する(二〇〇〇年の自由党案)とバラエティーに富んでいるが、軍隊の保持を正面から認めるという点では共通している。「湾岸戦争」後に掃海艇を派遣し、「アフガン戦争」に後方支援するまでになった自衛隊の活動を踏まえ、解釈ではもう限界であるから自衛隊を軍隊として認め、集団的自衛権も行使しようというのであろう。
 その他の条項に関しては、天皇の元首化、新しい権利規定(プライバシー権、知る権利、環境権など)、国民の義務規定(権利より義務の強調)、公共の福祉による権利制限(国の安全・公の秩序論)、参議院改革(一院制、間接選挙推薦制など)、首相公選制導入(首相権限強化論、大統領的首相論も)、憲法裁判所の設置、地方自治改革(道州制、連邦制など)、緊急事態宣言規定(基本的人権の制限、首相の権限強化)など、さまざまな提案がなされている。これらの狙いには、九条改定に結びつけるための「おとり」として活用しようとする場合から、本格的な全面改憲の一環として考えられている場合までさまざまである。

(2) 改憲論の展開
 最近の改憲に向けた具体的な動きとしては、二〇〇〇年の衆参両院における憲法調査会の設置が改憲論議全体を活気づかせてきている。同じく同年の「アーミテージ報告」が、翌〇一年の防衛秘密保持のための自衛隊法改定やPKF参加に道を開く「PKO法」改定を支え、集団的自衛権及び有事立法に関する議論を助長させた。さらに、今年に予想される憲法調査推進議員連盟の「憲法改正国民投票案」の国会提出が、具体的な改憲に拍車をかけようとしている。
 ただ、ここで確認しておかなくてはならないのは、改憲論の立場の違いである。従来の自民党は五〇年代の改憲論が典型的であるように、天皇元首化、九条改定、個人の尊重より国家重視、伝統的価値の重視などの復古的改憲論であった。しかし、まだ一部にそのような主張を行うグループがいるとはいえ、九〇年代以降の改憲論の主流は、自民党の改革派、自由党(基本的に)、民主党の主流派などの新自由主義的改憲論である。これらは天皇制には必ずしもこだわらず(小沢一郎はこの点で異なるが)、九条改定による「普通の国」化、新自由主義による企業の競争の激化と個人の自立の要求に見合った国家体制の再構築(司法による紛争の事後救済、弱者切り捨て、治安強化など)を内容としている。これからも後者の流れが主流であり続けるであろう。
 そういうなかで今後の具体的な展開としては、(a)解釈改憲(解釈による集団的自衛権の承認、国際的軍事活動への参加)、(b)立法改憲(有事法制の整備、安全保障基本法の制定)、(c)憲法改定1(首相公選制導入や新しい権利規定導入で国民を改憲に慣らす)、(d)憲法改定2(解釈改憲が限界にきたので、最低限九条を変える)、(e)憲法改定3(新しい国家づくりのための全面改定)と、世論の動向を見ながら簡単な(a)から最終的には(e)へと狙ってくるであろう。

(3) 改憲論の前に考えるべきこと
 しかし、やはり改憲論の前に今一度考えるべきことがある。九条に関しては、戦争違法化の歴史のなか、自衛戦争を容認する国連憲章の先をいく平和憲法の歴史的意義を再確認し、単に戦争のない状態だけでなく構造的暴力の解消をも目指す積極的平和主義を考えることが先ではないのか。日本が「普通の国」にレベル・ダウンするのではなく、九条の理念を再評価したうえで、さらにこの実現を目指すことが必要である。
 全体に関しては、天皇の元首化は君主制から共和制に移行してきた歴史の流れに逆行する。まずは憲法の国民主権の徹底から、国旗・国歌法および元号法の廃止、天皇の公的行為の再検討などが求められる。新しい権利規定論については、今議論されている権利はすべて解釈・判例で実現可能である。例えば憲法で法の下の平等、表現の自由、生存権などが保障されていながら、現実にはさまざまな差別が存在し、国民の自由な表現や知る権利が脅かされ、国・自治体が社会保障に不熱心なことこそ問題である。憲法裁判所を設置すれば、一度の裁判で迅速に政府行為のお墨付きを与える危険性が出てくるのであり、それよりは三審制の下での慎重な審理と裁判所による司法積極主義(違憲判断積極主義)こそが求められる。その他の統治規定は、何も今すぐ早急に改定する必要性はないであろう。
 求められているのは、まずは国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という憲法理念実現の努力である。

おわりに

 以上、見てきたように、今回の有事法制論は突然浮上してきたものではなく、その時どきの政治情勢の変化を受けつつも、権力者の側によって着々と検討・部分的実施が進められてきたものである(「九・一一」についても、この前後を分けてよく議論されるが、これまで国内外での対米テロはあったのであり、これに対する九八年のスーダンやアフガニスタンへのアメリカの報復攻撃も行われてきた。今回の事件が大胆な方法と大規模な被害であったために強調されがちだが、これはいわば「量から質への転化」があったようなもので、平和勢力がそれ以前からアメリカ批判をもっと行うべきであった)。
 そして有事立法が成立すれば、次は改憲である。そういう意味では、革新勢力の側がその場その場の反対運動を行うのが精いっぱいで、総合的な対抗案を作れなかったきらいもあった。また、理論・感情が先行し、革新運動の歴史は分裂と細分化の歴史でもあった(この点で、ある意味で自民党の結束の強さは参考にしなければならない)。今後の課題としては、革新勢力の対抗する国家構想づくりと大同団結である。後者は政治論になるが、前者はやはり憲法理念の徹底した実現が一つの国家構想になりうるであろう。
また、そもそも近代で成立した憲法は、社会を統治していくために暴走の可能性がある国家権力を規制するために国民が権力者に「押しつけ」たものである。権力の担い手である公務員に憲法尊重擁護義務(第九九条)を課したのはその現れである。だから、縛りを「押しつけ」られた側の権力者は、憲法が邪魔で仕様がないのである。そのような権力者の側から提起される改憲論は、まず疑ってかからなくてはならない。
 一八世紀の市民革命や二〇世紀の労働運動・社会主義運動などの「権利のための闘争」で、民衆が歴史を創り、憲法や権利を勝ち取ってきた。歴史の、そして社会の主人公である主権者国民の責任が、今問われている。(二〇〇二年三月六日脱稿)

清水雅彦(和光大学)
(月刊マスコミ市民2002年4月号より転載)

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