改憲論者のあいだの改憲内容の対立と改憲への道筋の相違を探る
−「首相公選制改憲」論議を素材に−

はじめに
 自民党の総裁選では、「変人」であるとの評価を受け入れた小泉純一郎・衆議院議員が、橋本・元首相優勢という予想を覆して「圧勝」し、4月24日、自民党総裁となった。そして同月26日、内閣総理大臣(首相)に就任した。
 小泉氏は、自民党の派閥を有名無実化し自民党を変えると公約して総裁になった。自己の自民党総裁・首相就任が政権交代に匹敵するとも発言した。にもかかわらず、派閥は温存されたままであり、小渕政権・森政権で誕生した「自公保の連立政権」の枠組みは相変わらず維持されている。不可思議である。
 しかし他方では、自民党は、党員・議員が小泉氏を総裁に選んだことで利益誘導の護送船団路線から過度の自由競争・自己責任を基本とする新自由主義路線へと今度こそ「変身」しつつあり、国会における首相の「聖域なき構造改革」発言では野党の民主党議員から拍手喝采を浴びている。
 「構造改革による痛み」を被るのが、666兆円という莫大な負債を生み出した最大の責任者である「政・官・財」ではなく、血税に苦しむ一般市民・労働者等であることは当然に推察できるのであるが、しかし、支持率80%台(中には90%台)もある小泉内閣を支持する国民は、期待感ばかりが先行し、「痛み」が必ずしも現実に我が身に降りかかるものと認識し覚悟しているとは言い難い。そのうえマスコミは、自民党には「小泉改革」を阻む「抵抗勢力」が存在し(『週刊朝日』2001年6月15日号22−26頁)、民主党には「非抵抗勢力」が存在している(『週刊朝日』2001年6月22日号150−153頁)などと報じ、「小泉改革」への援護射撃を行ない、1994年の「政治改革」時の過ちを再び繰り返そうとしている。
 このような流れから判断すれば、小泉政権は、実質として、民主党も加わった4党連立政権あるいは自民党と民主党(の各一部)を中心とした連立政権と言っても良いのかもしれない。だとするならば、自民党と民主党の各党首によって共通に主張されている「首相公選制による改憲」論を軽視するわけにはいかないだろう。
 また、首相公選制はこれまで中曽根康弘・元首相によって説かれてきた(参照、中曽根康弘「わが新民主憲法制定論を日本人に問う!」『週刊ポスト』2000年1月1・7日号、268頁[269頁]、同「(緊急提言・改憲と再生を目指して)わが改憲論」『諸君』2000年4月号、54頁[61−62頁]、同『21世紀日本の国家戦略』PHP研究所(2000年)172−181頁)が、必ずしも大きく注目されてこなかった。ところが、根本的には「政治改革」の失敗を背景に、より個別的には森政権を生んだ自民党の密室政治への不満、森首相の「リーダーシップの欠如」、加藤政変の「失敗」等も手伝って、国民のあいだには政治不信・政党不信が急速に広がり、かつ鬱積している。こうした中で首相公選制に対する国民の過度の期待(幻想)があるため、改憲論がこれまでよりも現実味を帯びてきたようである。
 そして実際に、首相公選制導入を検討する小泉首相の私的懇談会「首相公選制を考える懇談会」が設置され(佐々木毅東大学長を座長とし、大学教授や政治評論家ら計11人で構成)、7月13日初会合が開かれた。懇談会は月1回開催され、1年後をめどに具体案をまとめる予定である、という。
 そこで、この小論ではこの問題を取り上げて検討を加えるが、「首相公選制の改憲」論そのものへの批判を行なうわけではない(参照、柳井健一「首相公選論の問題点」。「首相公選制の改憲」論議につき、改憲論者のあいだで意見の対立があり、それに対応して改憲への道筋に相違があることに注目し、その理由が何であるのかを私なりに分析してみることにする。
 憲法運動の今後のあり方の一助になれば幸いである。

1.首相公選制導入による改憲の道筋
 後述するように「首相公選制による改憲」については、改憲論者のあいだでもこれまで意見の一致を見てこなかった。それだけではない。「首相公選制による改憲」を肯定する論者のあいだにおいても、その他の改憲内容との関係でその道筋について大きく二つの意見に分かれているように思われる。
 (1) 首相公選制導入による改憲を第一弾として実行し、その後に憲法第9条などの改憲を実行しようとする道筋。これは「首相公選制先行の改憲」論と呼ぶことができる。
 (2) 首相公選制の改憲人気に乗じて一気に憲法第9条まで改憲しようとする道筋。これは「首相公選制を含めた全面改憲」論と呼ぶことができる。
 小泉首相は、憲法第9条「改正」論者であるが、「他の条項には触れないで、首相公選制に限って憲法を改正してやったほうが望ましいのではないか」と発言した。これは上記(1)の立場である。鳩山由紀夫・民主党代表は、「いまある自衛隊は軍隊であるとはっきり認めたほうがいい」と憲法第9条「改正」を主張するが、「首相公選制を憲法改正の第一弾にすれば、憲法改正はけっして悪いものではないと国民に知らしめることができます」と主張し、すでに一昨年、上記(1)の立場を主張していた(鳩山由紀夫「自衛隊を軍隊と認めよ」『文藝春秋』1999年10月号、262頁[263頁、272頁])
 他方、山崎拓・自民党幹事長は、必ずしも首相公選制に全面賛成ではないものの(参照、山崎拓「政治宣言」『中央公論』1999年7月号、66頁以下[71頁]、同『憲法改正』生産性出版(2001年)128−140頁)、マスコミのインタビューに答えて、小泉首相の主張する「首相公選制に限定し、それを先行させた改憲」ではなく、「首相公選制だけではなく憲法第9条をも含めた全面改憲」を主張している。これはどちらかと言えば上記(2)の立場であろう。
 両者の違いはどこからくるのであろうか。
 私見によると、憲法第9条「改正」については各新聞社の世論調査によって違いがあり、国民のあいだに第9条「改正」賛成が多数であると断言できる状態にないので、改憲論者は改憲の道筋において意見の一致を見ていないことがその原因であるように思われる。
 “国民のあいだには第9条「改正」への抵抗が根強いからこそ、首相公選制の改憲で改憲への抵抗感を和らげると同時に、集団的「自衛」権の行使を国会決議等を駆使して解釈改憲で乗り切り既成事実を創っておいて、次にその「現実」に合わせて第9条「改正」を狙おう”というのが小泉首相などの思惑であろう。他方、山崎・自民党幹事長などの思惑は、“だからこそ、小泉人気にあやかって首相公選制を売り物に一気に第9条まで「改正」しよう”と考えているのであろう。
 前者はどちらかと言えば「毒入りのアメ」(憲法第9条「改正」)を毒入りでないと思わせてから国民に食べさせようと画策しているのに対して、後者は国民が毒入りではないと勘違いしているもの(首相公選制)で誘惑して毒入りと思っているもの(憲法第9条「改正」)まで一気に食べさせようと画策していることになる。
 以上のように「首相公選制による改憲」を肯定する論者のあいだにおいても、改憲の道筋について意見の対立があり、この対立は、憲法第9条「改正」に対する国民の抵抗の強弱についての認識の差に起因しているように思われるのである。
 いずれの道筋で改憲論が一本化するかどうか、現時点では明言できる状況にはないように思われる。しかし内閣の支持率がきわめて高いことを考えれば、いずれの道筋にも警戒しなければならないだろう。

2.首相公選制否定論者の改憲論
 しかしながら、この問題に限らず、改憲論者の敵は護憲論者だけではなく、改憲論者の中にもいる。というのは、これまで、改憲論者のあいだでも首相公選制については評価が分かれており、首相公選制に賛成する改憲論もある(浅尾慶一郎・山本一太「首相公選制の手続きはこれだ」中央公論2001年1月号16−頁以下、渡部昇一・小林節『そろそろ憲法を変えてみようか』致知出版社・2001年、188頁以下)が、他方、これまで首相公選制を主張してこなかった改憲論や、これに反対してきた改憲論もあるからである。
 これまで首相公選制を主張してこなかった改憲論の代表として、読売新聞社の改憲論が挙げられる。同社は、1994年11月3日に第一次試案を、2000年5月3日に第二次試案を発表したが、いずれにおいても首相公選制を提案してはこなかった。読売新聞社調査研究本部主任研究員の加藤孔昭氏も、首相のリーダーシップを強調し国家改造を説いてはいるものの、首相公選制導入を提唱してはいない(加藤孔昭編著『憲法改革の論点』信山社・2000年、1頁以下)
 また、首相公選制に反対している改憲論の代表として、自由党党首の小沢一郎氏が挙げられる(小沢一郎「日本国憲法改正試案」文藝春秋・1999年9月号、94頁以下[104頁])。自由党自身も「慎重かつ冷静な論議が必要である」として基本的に党首と同じ立場である(自由党『日本一新・新しい憲法を創る基本方針(第一次草案)』2000年12月2日)。日経新聞社政治部編集委員の芹川洋一氏は「議院内閣制に合わない」として批判している(芹川洋一『憲法改革』日本経済新聞社・2000年、111頁以下)。1994年「政治改革」の強行に大きく貢献した民間政治臨調が1999年7月12日に衣更えし、その時「戦後憲法体制の包括的な検証にまで踏み込んだ、国の政治制度・基本法制のあり方に関する今世紀最後の国民的議論を展開する」との「決意」のもとに発足した「21世紀臨調」(「新しい日本をつくる国民会議」)も、首相公選制導入論を批判している(緊急提言「すべての政治家と国民に問う――自民党総裁選にあたって」2001年4月19日発表)
 今年5月3日付けの毎日新聞で対談している改憲論者3名(中西輝政、北岡伸一、大嶽秀夫の各氏)は、憲法第9条をはじめとする改憲には賛成するものの、首相公選制には消極ないし反対の立場を明言している。同日に読売新聞に掲載された「憲法シンポジウム−政治の復権をめざして」のコーディネーターとパネリスト各氏も基本的には同様である。
 このように、今、小泉人気で注目される首相公選制については、これまで改憲論者のあいだでも意見の対立があったのである。

3.首相公選制否定改憲論の理由とそこから見える改憲の道筋の相違
 このような対立には幾つかの理由があるように思われる。
 その第一は、各論者も明言しているように(象徴)天皇制との関係についての理解の相違である。首相公選制・肯定論者は「天皇の存在のゆえに」大統領制を主張せず首相公選制を主張するにとどまるのであるが、否定論者は「天皇の存在のゆえに」首相公選制をも否定するのである。どちらも「天皇が元首である」という珍説を展開する傾向にあるが、その傾向と主張の意味内容が強いのは否定論者の方である。それゆえ、否定論者にとっては、“首相公選制を導入するとなると天皇制廃止の選択を迫られ、そんなことはできないからこそ首相公選制は否定される”という論法になるのである。
 このような理由は各論者が明言しているものの、決定的な理由であるとは思えない。それ以上に重要な理由は必ずしも明言されてないところにあるように思われる。
 そこで第二の理由として挙げられるのが、民意の集約のあり方の相違である。どちらも首相のリーダーシップの強化を説き、議会制民主主義を軽視する点で共通している。だが、否定論者は民意の集約を国会議員の選挙で行なうことを主張し、それゆえ選挙制度につき単純(純粋)小選挙区制を主張する傾向にある。これに対して、肯定論者は内閣の長である首相の選択において民意の集約を考える傾向にある。
 これに関連して言えば、議会内又は与党内における自己の基盤の弱い国会議員ほど、それを強固にするために肯定論を支持する傾向にある。野党第一党の鳩山党首や、小泉首相が肯定論であるのがその典型であろう。
 第三に、首相公選制を一種の直接民主主義と考え、直接民主主義的制度に対する評価の違いに求めることができるのではなかろうか。肯定論者はかつての保革伯仲時代が終焉したと判断し、保守の時代のもとでならこの程度の直接民主制なら首相のリーダーシップも正当化できるので許容されると判断しているように思える。これに対して、否定論者はこれを機に素朴な「国民の直接的政治参加」が説かれ国民投票制度や住民投票制度を肯定する主張が活発化することを恐れる上に、憲法改正手続きの規定(憲法第96条)の軟性化の策動、つまり、憲法改正の際に国民投票を経ずにそれを行う途を開拓するという策動にとって、大きな障害となると考えていると思われる。
 “首相公選制でいったん改憲がなされてしまえば、マスコミはこの度の自民党総裁選以上に大々的にそれを報じるであろうから改憲への抵抗感も国民のあいだで和らぐとはいえ、それでも憲法第9条「改正」には根強い抵抗・反対がある。集団的自衛権の行使の問題がマスコミでクローズアップされれば、国民はその危険性をこれまで以上に警戒するであろう。また、自衛のためだけではなくアメリカの戦争や国連平和維持活動(PKO)、さらには国連決議に基づく戦争などへも日本が参加するとなると、今の自衛隊の規模では不十分であるから何らかの形で徴兵制が導入されるのではないか、と国民も現実を直視し、改憲に警戒することだろう。そうなると、自衛隊肯定論者のなかにも改憲に必ずしも賛成しない者が多数現れるであろう。だから、現行の改正条項を残したままで首相公選制による改憲を先行させることは、憲法第9条の「改正」をより困難にしてしまう。”
 否定論には、このような評価が潜んでいるのではなかろうか。
 それゆえ、例えば、改憲の第一弾では「新しい人権」規定の明文化と改憲規定の軟化を実現し、これで憲法「改正」が容易になったことを利用して本命の第9条などの改憲を第二弾として行なおうと画策している改憲(「改憲手続きの改正を先行させた段階的改憲」)論者にとって、「首相公選制先行の改憲」は致命的な障害を抱えることになると予想しているように思われる。
 第四に、首相公選制を憲法に規定することの難しさについて認識の相違があるのではなかろうか。肯定論者は容易に首相公選制を憲法規定に採用できると思っているのかもしれない。しかし、否定論者は、例えば議会多数派の勢力と首相の勢力とが異なる場合には内閣不信任が簡単に可決されてしまうなど重大な問題を抱えてしまい、議院内閣制の本質にまで議論が及ぶ可能性があるため、このような問題に真剣に対応した規定を盛り込むとなると、むしろ改憲を技術的に難しくしてしまう、と判断しているのではなかろうか。
 特に、小泉首相は、首相候補者が国会議員でなくても良いとか、閣僚の過半数が国会議員でなくても良いなどの発言をしているが、これでは益々大統領制に近づき、議院内閣制の本質と矛盾しかねないため、さらにもっと難しい理論的問題を抱えることになるので、反対論も強くなると予想される。この点では、それを本当に予想しているかどうかは別にして、首相公選制を将来的なものとして先送りする改憲論(早川忠孝『新しい憲法を創る』かんき出版・1999年、110頁[ただし、条件付き賛成])が主張されていることが注目される。

終わりに
 仮に以上の予測が的中しているとするならば、小泉首相の私的懇談会である「首相公選制を考える懇談会」についても、首相公選制に消極的な佐々木毅氏が座長となっていることやそのメンバーにも同様の立場が少なくないことなど(参照、「『首相公選』どう議論」『毎日新聞』2001年7月12日)も勘案して、そこでの議論状況に注目しなければならないだろう。あるいはまた、小泉人気のなかで都議会議員選挙で自民党が議席を大幅に伸ばしたことを考慮すると、今度の参議院議員通常選挙や次の衆議院議員総選挙の選挙結果にも留意しなければならないであろう。
 それらの結果次第では、これまで首相公選制による改憲に消極的または反対していた改憲論者が、小泉首相の人気に乗じて肯定論に転じ、一気に憲法第9条「改正」まで主張し始めるかもしれない(小泉首相誕生前に首相公選制を提唱し誕生後に公表されたものとして、渡邊啓貴「首相公選制を導入せよ」『改革者』2001年6月号37−39頁)。あるいは逆に、首相公選制の反対をこれまで以上に強めて改憲内容の建て直しを謀るかもしれない(小泉首相誕生後に首相公選制を批判するものとして、慶野義雄「首相公選制の落とし穴」『正論』2001年7月号120−130頁)。いずれにせよ、改憲論議の動向から目が離せないだろう。
 現時点でできることを簡単に挙げれば、まず、「首相公選制を含めた全面改憲」論に対しては、首相公選制そのものの問題点をしっかりと国民に説明することも忘れてはならないであろう(参照、長谷部恭男「首相公選論・何が問題か」『世界』2001年7月号46−53頁)
 また、「段階的改憲」論に対しては、国民投票を経ずに改憲が行われることになれば国民主権が後退することを強く指摘すると共に、アメリカや財界の押し付ける集団的「自衛」権行使を政府・与党が明文改憲ではなく「解釈改憲」で強行することに充分警戒し、その問題点をしっかりと国民に訴える必要があるだろう(参照、浦田一郎「政府の集団的自衛権論――従来の見解と小泉政権下の議論」
 憲法運動の今後のあり方については、憲法改悪における改憲の道筋をにらみながら、それを考える必要があるのではなかろうか。

 上脇博之(北九州市立大学)

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