民衆が警察の手先となる時−東京・武蔵野市の条例の検討−

石埼学(亜細亜大学助教授)

はじめに

 「いまや、個々の住民の多様なニーズに対応し、住民による参加と監視がより容易である地方自治体こそが、行政の主役としての地位を占めるべきときである。『地域のことは地域で決める』『自分たちのことは自分たちで決める』という国民主権と民主主義の原点に立ち返」る。これは、鳩山由起夫民主党代表の諮問機関である民主党憲法調査会が出した「民主党憲法調査会報告」(二〇〇二年七月二九日)の一フレーズである。
 誰もが身近に参加しうるコミュニティの自治を基礎単位とする「民主主義国家」像が、そこにはかいま見える。ここで言われているコミュニティとは、市町村という基礎的自治体よりも、より小さな「自治の基礎単位」たる「町内会・NPO・中間法人というような民間法人(民間団体)」のことである。地縁団体である町内会(法人格取得可能)、非営利のボランティア法人団体(NPO)並びに営利企業(民間法人)も主要なアクターとするコミュニティを基礎単位とし、それらへの市民の積極的な参加に基づいて作られる「民主主義国家」というのが、民主党憲法調査会が描きだす近未来のニッポン国家像である。
 ここに登場する「民主主義」のアクターとしての町内会、NPO並びに民間法人に対しては、今日では一般的には、否定的評価を下す人もあまりいないはずだ。あるいは各種のNPO法人などに対しては、一般的には、「まちづくり」や「福祉」などを担う新たな非国家的アクターとして期待が高まっているのが現状であろう。
 もとより、この「民主主義国家」像を、抽象的一般的な議論でもって評価することはできない。しかし、民主党幹事長となった中野寛成氏が会長としてまとめあげ、国連決議に基づく多国籍軍への自衛隊の参加を可能とする改憲論をももりこんだ報告書の中に組み込まれている国家像であるだけに、改憲策動と関係がないと即断することもできない。
 本稿では、いわゆる「生活安全条例」の憲法上の問題点を主に武蔵野市の条例を素材に検討するが、その際、この民主党憲法調査会報告書に盛り込まれているようなコミュニティ論を念頭に置いていきたい。
 では、「住民による参加と監視」(民主党憲法調査会報告書の文言)のためのシステムが、今、どのように構築されつつあるであろうか。それを具体的に検証しよう。そして、今、コミュニティを肯定的に語ることがいかなる意味を持つのかを考えよう。

一 「生活安全」のアクター

 「市民は、地域の安全を点検し、協同して犯罪を予防するための活動を行うように努める」ことを「市民の責務」と定めるのは、二〇〇二年一〇月一日に施行された「武蔵野市生活安全安全条例」三条である。同条例では、市が「関係機関の協力を得て、市民生活の安全を確保するために必要な施策を実施する」ものとされている(二条一項)が、そうした市の施策への「協力」も「市民の責務」である(三条)。「関係機関」には、「武蔵野市生活安全会議」の委員に「武蔵野警察署長」が入る(五条四項)。したがって武蔵野市民は、犯罪を予防するために、警察署とも協力するように努めねばならない。
 さらに、「武蔵野市生活安全会議」が策定する「安全計画」を推進するために「武蔵野市生活安全対策推進協議会」が設置されるが、同推進協議会は「関係機関、市民団体等」で構成されるという(七条)。
 地域の安全の点検や犯罪の予防を推進する「市民団体」といえば、具体的には地域の町内会と重複して作られている防犯協会のことであることは間違いなかろう。
 こうした警察と協力・協同する「市民団体」が、「民主党憲法調査会報告」が想定するコミュニティであるならば、それらを基礎単位とする「民主主義」の実態が明らかになるだろう。今の日本の法情況を度外視して、コミュニティや「民主主義」を語っているのであれば、それは、政党として無責任の極みである。町内会や防犯協会を通じて、住民の討論内容が警察に筒抜け、ということでは、警察批判など望むべくもなく、批判意見も最大限に尊重されるべき民主主義プロセスは、機能しようがない。
 二〇〇二年一一月七日付「朝日新聞」の投書欄に興味深い投書がある。投書の主である山形県在住の斎藤実氏は、日本海沿岸東北自動車道の建設促進の署名用紙が町内会で回覧され、署名が要請されたという。斎藤氏は、「強制的ではないと言われても断りにくいものであり、戦前の隣組が果たした「『世論』作りや地域での締め付けを再び繰り返してはならない」と述べている。このような形で、特定の政策の促進を求める署名用紙が隣近所で回覧されるとなると、憲法一九条が保障する思想の自由も何もあったものではない。思想の自由とは、内心で人が何を考えるかは全くその人の自由であり、また内心で考えたことの露見を強制されないという自由である。それは、民主主義社会の基盤であり、絶対に侵害されてはならないものである。
 町内会などが果たしうる思想抑圧などの機能や現にある生活安全条例の存在を無視して、各種の中間団体を「民主主義」の「基礎単位」とする民主党憲法調査会報告書の描く近未来像は語り得ないはずである。

二 行政・警察・市民の連携

 さて、つぎに「生活安全条例」が推進しようとする「市民連帯主義」を検討しよう。
 「区民等は、相互扶助の精神に基づき、地域社会における連帯意識を高めるとともに、相互に協力して、安全で快適なまちづくりの自主的な活動を推進するように努めなければならない」とは、「千代田区生活環境条例」の四条二項である。同条例でも、区民が警察署などの「関係行政機関」へ協力しなければならないとされている(四条三項)以上、やはりここにも行政や警察と一体となった「市民連帯主義」が現れている。私は、この類の「市民連帯主義」を「いじめと排除のための連帯」になりうるものとして危惧している(渡辺治・三輪隆・小沢隆一編『戦争する国へ 有事法制のシナリオ』旬報社、二〇〇二年、12を参照)。その私の危惧は、「安全・安心まちづくり」を推進している小出治氏(東京大学大学院教授)の次のような文章によって裏付けられる。「管理者不在の共用地の拡大とあいまって犯罪には至らないものの、そこを利用する人にとって不快を感じたり迷惑を与えるような浮浪者、暴走族などに対する対策も新しい問題であるかもしれない」(『新時代の都市計画5 安全・安心のまちづくり』ぎょうせい、二〇〇〇年、三四九頁)。
 犯罪を犯したわけでもないのに、他人が「不快を感じたり」、他人に「迷惑を与える」人々を地域から排除することが、「安全・安心まちづくり」の課題であるというのである。それは、犯罪の予防とも関係がない。「不快」だとか、「迷惑」という感情が極めて主観的なものである以上、端的に気にくわない人々の排除の論理である。これは、およそ「ノーマルな」=「平均的な」=「規範に適った」人々の感情に基づいて「アブノーマルな」人々を排除する論理であり、「野宿者」のみならず、「精神病者」や「外国人」や「危険思想の持ち主」などを排除していく危険性を内包している。「ノーマル」か「アブノーマル」かの線引が恣意的である以上、こうした犯罪と関係のない人々をも排除する論理を内包した「安全・安心まちづくり」の論理を組み込む「生活安全条例」の「市民連帯主義」も、極めて恣意的なものとなるであろう。
 同じく「公共」に関係するように見えるが、「生活安全条例」の「市民連帯主義」は、他者のリアリティと厳しく向き合い、労働市場から排除された人々を「棄民」とすることを望まない近時の公共性論(例えば、斉藤純一『公共性』岩波書店、二〇〇〇年)とは相当に異質なものである。「アブノーマルな」他者のリアリティと向き合おうともせず、端的に排除する「市民連帯主義」は、ファシズムのひとつの現れなのだろうか。

三 生活安全条例等の違憲性

 ところで、ここまでで検討してきたアクターの問題や「市民連帯主義」の問題を考える際には、以下の述べるような「生活安全条例」などによる表現の自由やプライヴァシー権の蹂躙問題が前提となる。そして「生活安全条例」にある表現の自由等への制約の規定は、運用によっては、例えばチラシ配りといった民衆のメディアを萎縮させ、日本国憲法を扼殺するものになりかねない。「武蔵野市生活安全条例」及び「武蔵野市つきまとい勧誘行為の防止及び路上宣伝行為等の適正化に関する条例」(以下、「つきまとい条例」)を例にその点を検討する。

1 「路上宣伝行為」の「適正化」
 「つきまとい条例」は、「道路その他一般の交通の用に供する場所」での「路上宣伝行為等」を「適正化」の対象としている。すなわち「宣伝用ティッシュペーパー、商品見本、ビラその他これらに類するものの配布」(二条(3)ア)、「ぬいぐるみを着用し、又は手拍子を打ち、若しくは大声を上げながら行う宣伝又は呼び込み」(イ)、「通行人を呼び止めて行う・・・アンケート調査・・・」(ウ)、その他「宣伝。勧誘等の行為であって市長が別に定めるもの」(エ)などである。二条(3エ)が端的に示すとおり「つきまとい条例」では、「適正化」の対象となる「路上宣伝行為等」がまったく限定されていない。「何人も、路上宣伝行為等をするときは、他人の通行を阻害しない方法でしなければならな」(四条)いとする条項を見る限り、あらゆる表現活動が「他人の通行を阻害」するとみなされれば、「適正化」の対象となると言える。しかし「他人の通行を阻害」したかどうかという文言は、極めて曖昧である。運用次第では、人波でごった返すラッシュ時の駅頭での「路上宣伝行為等」がすべて「適正化」の対象となる危険すらある。
 そして、市長が指定する「勧誘行為等適正化特定地区」(三条、以下「特定地域」)では、市長は、「路上宣伝行為等の方法の変更を求めることができる」(一一条)とされている。
 罰則がない条例ではあるが、「適正化」の対象となる表現行為の態様が、明確性に欠けている以上、「つきまとい条例」の当該条項は、チラシ配りなどの民衆の表現行為を萎縮させ、憲法違反である。最低限、「適正化」が、憲法二一条が保障する表現の自由に抵触して、民衆の表現行為を萎縮させないように運用することが求められる。

2 監視カメラ
 「武蔵野市生活条例」の第四条を受けて、その「施行規則」二条では、市内で事業を営む者、市内で土地や建物を所有・占有・管理する者、さらにあらたに建物を建築しようとする業者に対して、「犯罪を予防するために必要な設備の設置」について警察署長と協議するように市長が指導することになっている。おそらくは、武蔵野市の一定以上の数の人が利用する建築物等に監視カメラや防犯灯などが設置されていくことになるのだろう。そして「施行規則」二条は、「一五戸以上の共同住宅」などさまざまな施設を例示的に列挙した上で、「不特定かつ多数の者が利用する建物」をあげている。およそあらゆる建物が防犯カメラの設置の対象となる危険性があり、しかも警察署長と協議の上でそうする以上、特定の市民運動団体や政党などの事務所や活動家の自宅への出入りなどが監視される危険すらある。こんなことになったら、市民運動家と交流することや特定政党の機関紙を定期購読することすら、不安を覚えてしまうだろう。「武蔵野市生活安全条例」四条及び同「施行規則」二条は、憲法一三条が保障するプライヴァシー権、同一九条が保障する思想の自由、同二一条が保障する結社の自由、同一三条及び二二条が保障する人間同士の交流の自由を根こそぎ奪い去る危険があり、憲法違反である。

むすびにかえて

 以上から得られる結論は次の通りである。冒頭にみた民主党憲法調査会報告書は、「論憲」を掲げている。しかし憲法について論じるのであれば、空理空論ではなく、まず日本国憲法が保障する権利などが脅かされている実態を前提にすべきであり、それなくしては、民主党の「民主主義国家」像は、何ら説得力を持ち得ない。日本国憲法の人権保障は、「普通の国」と遜色がない。憲法学者の中にもいる日本国憲法や立憲主義の充実のために改憲が必要だとする論者(「護憲的改憲」論者)の議論は、まず日本国憲法の「普通の」人権に対する侵害への抵抗という行動に裏付けられて、はじめて説得力を持つ。
 他方、「アブノーマルな」人々の排除や自由の蹂躙に異議申し立てしようとする人々は、隣近所で何を言われようが、監視カメラがあろうが、何ら臆する必要はない。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(日本国憲法九七条)。

追記:清水雅彦氏と私の共同執筆論文「あなたの安全を守ります!?―警察国家化を推進する『生活安全条例』」法学セミナー五七六号(二〇〇二年一二月号、日本評論社)をあわせて読んでいただきたい。

(月刊マスコミ市民407号・2002年12月号より転載)

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