国家の保護による安全か、自由か

―新しい「有事法制」に関する一視角―


*筆者注:以下の拙稿は、『週刊金曜日』三九七号(二〇〇二年二月一日)に公表させていただいたものの転載である。細かい表記などが若干ことなる。引用していただく際には、『週刊金曜日』より引用してください。

 生活のあらゆる場面で、人々の「不安」が増大している。「日本は安全」と考える人が5割を下回った(注1)
 「自己責任」イデオロギーを振りかざし、「規制緩和」を様々な分野で押し進めた支配層に、その責任の大部分はある。労働における規制緩和(有期雇用、派遣労働の自由化、解雇の自由化など)、借家住まいの人々を正当な理由なく追い出すことのできる定期借地権・定期借家権の創設、地元商店街を荒廃させた大規模小売店舗法の廃止、大増税を目論む「税制改革」、医療費の自己負担の増大などの福祉切り捨て、富裕層の子ども優遇に他ならない教育改革・・・。

一 「脱・法化」と「法化」

 日本国憲法(以下、憲法)のもとで、その理念を具体化するために積み上げられてきた法制度を崩壊させつづけている支配層は、憲法や近代法の大原則すらかなぐり捨てようとしている。憲法の平和原理を蹂躙し、戦争遂行に国権の最高機関である議会の事前承認すら必要としない「テロ対策特別措置法」、何をやったら犯罪になるのか分からない「ストーカー行為規制法」(憲法三一条違反)、強制捜査をする際には、強制捜査の対象を明示し、相手方に防御の機会を与えるための「令状主義」(憲法三三条、三五条)を換骨奪胎する「通信傍受法」・・・。
 憲法からみた場合には、ルールなき弱肉強食の人間関係の肯定という「脱・法化」が大規模に起こっている。ところが、これらのあたらしい法体系=市民の安全を口実にした治安立法は、民衆には、いままで以上の「規範意識」を求めている(「法化」)。「環境保護」のための環境美化条例(ポイ捨て規制)や、ストーカーと疑われ兼ねない行為(待ち伏せ・見張り・面会や交際要求の反復など)を「ストーカー行為」と決めつけ、規制するストーカー行為規制法など(注2)が典型的だ。すでに刑事法は、犯罪行為の事後的処罰ではなく、実害が生じる以前の「危険」な行為(従来なら刑事罰の対象ではない)の規制へと向かっている(注3)。これは、「精神病者」の自由を蹂躙するものとして実現を阻止されてきた保安処分の普遍化ではないか。民衆は、いままで以上の過剰な「規範意識」を刑罰の威嚇をもって要求されている。
 そして改正住民基本台帳法に基づいてこの8月から起動する「住基ネット」は、さしあたりは希望者だけに配られるICカードともあいまって、「ハイパー・パノプティコン」(超管理社会)の土台となり、プライヴァシー権を根こそぎにするものだ。そこに、各種の監視カメラ、Nシステム、ETC車、バイオメトリックス技術、エシュロン、軍事衛星などがリンクしだしたら・・・(注4)。そら恐ろしい話である(注5)
 「外部からの武力攻撃、武力攻撃に発展する可能性のある緊急事態、重大な治安問題、経済的混乱、大規模災害など」に備えるための「国民非常事態法」の提言(平和・安全保障研究所、一九九七年)に見られるように、新しい「有事法制」の構想は、外国の侵略があった場合の米軍・自衛隊の便宜のための諸法律の整備を超えて(それが重大ではないというわけではない)、警察力だけでは対処できない事態に対する、保安処分の普遍化の究極の担保として、前述の意味での「法化」の総仕上げとして準備されているのでなかろうか? このような警察国家化との関連で「有事法制」を考えてみよう。

二 警察国家化の一環としての「有事法制」

 今、支配層が望んでいる改憲やあたらしい「有事法制」のシンボルは、「安全」(セキュリティ)ではないのか?(注6) 『防衛白書(平成一三年版)』(一二五頁以下)は、有事法制の基本枠組みを「1.自衛隊の行動にかかわる法制、2.軍の行動にかかわる法制、3.自衛隊及び米軍の行動に直接かかわらないが国民の生命・財産保護などのための法制」の整備に分類している。ここでは3.についての叙述に注目したい。そこでは、「政府としては、有事法制は、わが国への武力攻撃などに際し、自衛隊が文民統制の下で適切に対処し、国民の生命・財産を確保するという自衛隊の任務遂行を全うするとの観点から」のものであるという認識が示されている。しかし自衛隊や米軍の行動と直接かかわらない「武力攻撃など」とは、いかなる事態であろうか?「重大な治安問題、経済的混乱、大規模災害」など、平和・安全保障研究所の「提言」(前出)に盛り込まれているような事態にまで「有事法制」の対象が拡大されつつある。そして、「国民の生命・財産」を守ることを口実にしたあたらしい「有事法制」への策動は、保安処分の普遍化=警察国家化とリンクして国内治安維持の軍事化を目指しているのではないか。つまり本来は、警察など通常の国家機関が対応すべき問題に、自衛隊が武装して介入してくることになるのではないか(注7)。ソマリアに、コソヴォに、旧ユーゴに、そしてアフガンに一方的に大量殺傷兵器をばらまき、次の標的を探し回る軍事国家アメリカの戦略は、圧倒的軍事力と情報戦能力を背景とした「大規模部隊の投入なしに、宣戦布告なしに・・・・・・、つまりは接触することなしに敵を急襲する能力に基づく力の論理」に基づく「航空−軌道攻撃」(注8)であろう。であるならば、米軍と行動を共にするかぎり、自衛隊には「国民総動員体制」はあまり必要ない。むしろ、治安国家=警察国家の常態化による「テロリスト」などの「危険分子」のおそれのある行動をする「挙動不審者」への保安処分と連動する自衛隊の任務の拡大にも注意を払う必要があろう。ちなみに、広範な法律改正を必要とする「有事法制」が直ちにできないからといって、将来の議会の意志を拘束するような「プログラム法」の制定という政治手法は憲法上許されない。それは、時間とともに変化する世論を反映するという国民代表原則(憲法四三条)、および議員の自由な討論や表決を保障する無答責原則(憲法五一条)に違反する。

三 保護者としての国家

 ところで、いつも国家は「保護者」としてたち現れたのではなかったか? 一九五〇年代改憲の動きのシンボルは、樋口陽一氏(早稲田大学教授)によれば、「福祉国家」であった。福祉国家建設をめざす現代国家は、国民の保護者なのだから、そうした国家に対する「国民」の「義務」の規定を設けるべきとの主張が当時の改憲論にはあった。樋口陽一氏は、様々な福祉国家論に分析を加えた後で、「かつての『福祉国家』論は、個人と国家の緊張関係を観念の世界で消去することによって、個人の尊厳という近代立憲主義の基本前提を曖昧にする論理を含んでいたが、今日の『福祉社会』論は、共同体からの自由な諸個人の解放という、近代立憲主義の基本前提を曖昧にする論理を含んでいる」とし、近代的個人像への価値的コミットメントという立場から、日本における「福祉」シンボルへの鋭い批判を提起している(注9)。 しかし「保護者」としての「福祉国家」も、「日本的特性」論に依拠した「共同体」による保護も拒否し、「近代的個人」たらんとする樋口陽一氏の選択は、「治安こそ最大の福祉」という今日の改憲をめざす策動にどう立ち向かうのであろうか?自己責任で強い「規範意識」を持った「近代的個人」こそ、市民の安全を口実とした治安立法が望むところではないのか?近代立憲主義は、諸人権宣言の「安全」という文言が示すように、そもそも市民の「安全」を保障する国家像をビルトインしているのではないか?(注10) それ故にこそ、日本国憲法が「安全」という文言を人権規定からは放逐し、かわりに平和的生存権を掲げ、「安全」を口実にした「保護者としての国家」を否定していることの意義は、あらためて重視されるべきである。

四 窮極の「有事法制」としての憲法停止?

 「有事法制」は、憲法の理念に真っ向から反する。それは、支配者を法の拘束から解き放つことを意味する。しかし、憲法下で醸成された民衆の「平和意識」をうち砕き、改憲を実行することすら、なおままならないという状況で、支配層が、以下のような「思考」に傾斜しつつあることにも注意が必要である。
 『ボイス(Voice)』(平成14年1月号)の石原慎太郎・中曽根康弘・鳩山由紀夫各氏の座談会「憲法改正の行動計画」が、その「思考」を端的に表している。座談会の副題は、ずばり「国家が『国民一人ひとりの生命と財産』を守るために」。
 「9−11」について、「これからもいままでと同じ安全保障観でよいのか。日本人の生命と安全を、これから国としてどのように守ることができるのか。そうした根本的問いかけがなされた」(鳩山氏)というのが、野党第一党党首の教訓である。「国会議員はいろいろな力をもっているのだから、国民の生命と財産を守り、奪われたのなら取り戻すために使えないとしたら、何のための国会議員なのか。何のための防衛論であり、防衛力なのかといわざるをえない」(石原氏)というのが、首都東京の首長の防衛論である。これには、「それはそのとおりです。国民の生命・財産を守るということでは、一人といえども蔑ろにはできない」(中曽根氏)と元総理大臣が相槌を打つ。さまざまなありきたりの危機を煽る話しが続いて、国民の生命・財産を守るという国家目的を持ち出し、憲法改正の話しにつなげるという、単純といえば単純な、ワイドショー的レトリック。ここに現れているのは、まさに「保護者としての国家」像である。しかし、今度は、「安全」の・・・。一見すると正しいようにみえる政治目的をかかげ、権力を拡大するというのは、権力者のいつものやり方であり、そのような手法の主たる効果は、民衆の思考停止である。このような「権力者の思考」については、さらに岡本篤尚氏(広島大学助教授)の次の指摘が有効な批判となろう。「国家権力は、人々の『安全』への欲求を利用して、人々への統制と監視を強化する」ということこそが、「《安全保障》国家のかかえる最大のアポリアなのである」(注11)
 「あなたの安全のためですよ」(岡本氏)「あなたの・・・のためですよ」という権力者の傲慢な「自意識」こそが権力者の権力者たる所以である。その行き着く果ての憲法の「廃墟」。改憲は一〇年くらいかけてやるが、さしあたり「議会主義で憲法の歴史的な正当性の否認決議をすればいい」(石原氏)、「両院で憲法改正を断行するという決議でもいいわけで、そちらのほうが合法的な性格がみえますね」(中曽根氏)。一〇年くらい正当性のある憲法がない状態(窮極の「有事法制」)を想定しているのだろうか?こうした論調は、一九三三年に議会の多数決で、議会自身がほぼ全権をヒトラーに譲り渡してしまった「授権法」を思い起こさせる。この「アドバルーン」の行方が気になるところである。ちなみに、衆参両議院は、憲法四一条によって「立法権」を授権された憲法上の機関であるから、石原氏や中曽根氏のいうような、自らの存立根拠である憲法を否定するような「決議」をする権限は、そもそも与えられていない。そのような「決議」は、憲法上無効である。

 改憲派(廃憲派?)が提起する「国家に保護された安全」を受け入れることが、「自発的奴隷化」であるならば、「強者の自由」の担い手たらんとすることは、広い意味での権力者になりたいという願望の現れにすぎない。一方で民衆を殴りつけ、他方で「安全」というアメをちらつかせる権力者の「わな」に引っかかるまい。「安全な空間」で、「自発的奴隷」になることすらも許されないというのが、近未来の多くの民衆であろう。なぜなら、国家に保護してもらうほどの「財産」など、持ち合わせていないのだから!


(1) 二〇〇二年一月八日付『朝日新聞』。
(2) 詳しくは、小田中聡樹「刑事法制の変動と憲法」法律時報七三巻六号。
(3) 金尚均『危険社会と刑法』成文堂、二〇〇一年が詳しい。 
(4) 小倉利丸編『監視社会とプライバシー』インパクト出版会、二〇〇一年などを参照。
(5) 今日の憲法状況の全体像について、小沢隆一『現代日本の法』法律文化社、二〇〇〇年を参照。
(6) 「セキュリティ権力」について酒井隆史『自由論』青土社、二〇〇一年、『現代思想・特集「安全」とは何か』第二七巻一一号を参照。
(7) 岡本篤尚「安全の専制」全国憲法研究会編『憲法問題12』三省堂、二〇〇一年を参照。
(8) ポール・ヴィリリオ『幻滅への戦略』青土社、二〇〇〇年、六六頁。
(9) 以上、樋口陽一『近代憲法学にとっての論理と価値』日本評論社、一九九四年、第三章。
(10) 『現代思想・特集「安全」とは何か』第二七巻一一号、七二頁以下の市野川容孝の発言を参照。
(11) 岡本篤尚「《安全保障》国家のアポリア」法律時報七二巻五号。

石埼学(亜細亜大学法学部専任講師)

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