不戦へのネットワーク 有事法制反対ピースアクション

【不戦ネット会報46号/2007年4月26日発行】
シリーズ「アジアの一員として生きるために」集会報告

 「朝鮮人は日本人のカナリアだ」というフレーズを聞いたことはありませんか。
昔、カナリアの悲鳴と死によって、地底にもぐる人々は危険を察知したそうです。
「あの当時とまったく同じだ。わしらにとって日本はやっぱり恐ろしい国だ」と
言うお年寄りの言葉と出会うたびに、僕はカナリアを思い出し、私たちの社会が
いまだ朝鮮人に対しにカナリアを強制し続けていることに肩身の狭さを感じてい
ます。お年寄りの言う「あの当時」とは、、日本に奪われた子どもたちの民族性の
回復のために、食うや食わずのぎりぎりの生活の親たちによって建てられたウリ
ハッキョ(民族学校)が、日本政府によって暴力的の閉鎖され、翌49年、破防
法の原型になった団体等規制令により大衆団体である朝鮮人連盟や朝鮮民青同が
解散させられ、翌50年6月25日、朝鮮戦争に突入して行った「あの当時」の
ことです。
 アメリカ占領下とは言え、日本国憲法が成立した後の話です。60年たっても
同じことだと言う老いたカナリアの切ない認識です。

 アメリカと共に孤立化する日本の中で、アジアの人々と仲良くできるための道を考え、私たちの課題をはっきりさせる目的のシリーズにとって、在日外国人である朝鮮人と私たち日本人の関係、朝鮮半島との関係を考えること抜きには始まらないと考えました。今、私たちは右手で握手を求めながら左手で蹴りつける状態を強いられています。朝鮮人に対する民間の差別や迫害から、日本政府・警察庁による迫害へとエスカレートしている状況でのシリーズです。主催者側としては、蹴り続ける左手を何とかストップさせたい思いで今後も集会参加を呼びかけていきます。

第2回 2月3日  渡辺健樹さん (日韓民衆連帯全国ネットワーク共同代表)
 日朝国交回復なしに平和はない
   ―日本こそ対話の条件を作れ―

 「東アジアの平和について、平和運動を考えるとき、日朝関係は避けて通れないにもかかわらず、それを課題とする平和団体が少ない中、この課題で私を呼んでくれた主催者にまず敬意を払います。」と言う挨拶で話は始まりました。
 70年代の政治犯救援、80年代の韓国民主化運動との連帯、90年代の民主化=革命化を成し遂げた韓国民衆運動との連帯、このあたりはあっさり述べられましたが、聞いている方はまさに日韓民衆運動30年の生き証人の話として熱い
ものを感じました。

 日本側でも衝撃的な希望の出現として2000年6月の南北首脳会談を受け取る土壌があったにもかかわらず、01年の9・11事件、02年の9・17日朝ピョンヤン宣言以降の「拉致問題」を口実とした反動によって、和解に向けたその土壌が消滅一歩手前の状態になってしまった。更に、06年7月5日のミサイル実験、10月9日の核実験によって官民挙げての「朝鮮人狩り」と言っても言い過ぎでもない状態になっている。なぜ、このような事態を日本社会は止めることができないのか。敗戦以後も差別と同化政策が温存される土壌の中で、政府とマスコミが一体となって日本と朝鮮半島の歴史や南北分断問題の本質を一切抜きに共和国への一方的なパッシングを繰り返し、温存されてきた朝鮮人軽視の土壌の中で「ならずもの国家」を支持する朝鮮人とその団体というイメージを垂れ流し、「北朝鮮やそれを支持する朝鮮人は叩いて当然」という雰囲気を作り上げてきたこと、それに同調することはあっても抵抗する社会勢力を私たち社会が失いつつあること。従って、だからこそ、何よりも百年に及ぶ日本と朝鮮半島の歴史を直視し、ブレない歴史認識を獲得し、過去の加害の責任を速やかに清算する立場から日朝間の対話・交渉を日朝国交回復の目的を持って粘り強くやる必要があると主張されました。

 3時間にも及ぶお話の中で、その一部の紹介しかできませんでしたが、現状に対する怒りを自己コントロールしながら一発の怒りの表明ではなんともならない現実と30年間格闘してきた人の静かな自信に心地よさを感じた講演集会でした。

第3回 3月17日  竹本 昇さん (北朝鮮人道支援ネットワーク)
 もう一つの朝鮮・人道支援から見える日朝関係  =私たちの課題=
 
 教育基本法改悪反対の国会前座り込み中に、何百人もの在日朝鮮人青年たちが「人権無視は許さない。迫害は許されない。」という旗のもと、11月・12月と連続で参加する中、全国で、また名古屋でも朝鮮総連の呼びかけで「迫害は許されない」というビラまきが、日本人も参加して三回行われました。

 今年、1月18日、漆間警察庁長官が記者会見し「拉致問題の警察の役割は『ここまでやられるのか』と相手が思うように事件化し、実態を明らかにすることだ」と発言。1月10日の兵庫県をはじめに28日は滋賀県で、29日には神奈川県、2月5日札幌、6日には三度目の朝鮮総連兵庫県本部や商工会に対する強制捜査がありました。在日の人々は「3・1人民蜂起88周年」に合わせて弾圧・迫害反対の集会とデモを3月3日、東京と兵庫を中心に決行しました。「あの当時」以来の規模だそうです。あの日、名古屋でも300人の人々が栄交差点を中心に街宣活動を行いました。

 こうした流れを踏まえての竹本さんの講演でしたので、お話の前に2月6日の兵庫県本部に対する弾圧の実態のドキュメント映像を見てもらうことから始まりました。「朝鮮人への弾圧の実態を日本の人々にも見てもらいたい」という総連愛知県本部から借りた映像でした。竹本さんはすでにこの映像を見ており、了解していましたが、講演後、「朝鮮人弾圧」と「粉ミルク支援」ではちょっと落差が大きすぎてすみませんとお詫びしました。

 僕は講演を通して、これで5回目の対面になるのですが、いつも19歳でなくなられた息子さんへの悲しみを背負って、日本の排外主義と静かに格闘しておられるという印象を払うことができません。「日本にも北朝鮮にも涙を流している人がいる」というキャッチフレーズを全国に広げ、自分たちが見てきた共和国の姿を伝えることを通して、日本政府やマスコミが作り上げる「北朝鮮人像」を破り、「共和国の人々との間に、友好的で平和的な関係を築いていきたい」と主張されました。マスコミの流す映像に毒されているせいか、竹本さんのピョンヤンの映像を素直に見ることのできない自分を感じました。いいとこどりかもしれない、と。
 映像を見る自分の視線の中に、日本のマスコミやテレビカメラと同じ視線を感じ、このカメラの目線をお茶の間に配信するテレビ局を許す社会の一員として、自分もやはり蹴り続ける左手の一部であることを自覚せざるを得ませんでした。

 核実験当日もその前後もピョンヤンは穏やかでした。子どもたちや家族連れもあたり前の毎日を過ごしているだけでした。核実験の質問に対し、女子学生が「日本やアメリカの敵対政策から祖国を守るために自衛核武装は当然のことです。」と笑顔で応えていました。逆に、「私たちは日本人と仲良くしたいと思っているのに、なぜ日本は共和国の悪口ばかり言うのですか。」と訪朝団に質問していました。

 上映後のお話は、百数十年の日朝間の歴史について述べられましたが、「歴史の無知が、在日朝鮮人の人権を蹂躙している。」という強い自覚から自分自身の認識を確かめながらのお話でした。和解に対する逆風の中で、粉ミルク支援を通したハンクネットの活動を知っていただくよい機会でした。竹本さん、ありがとうございます。

(金安 弘)


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