ラダイトからボルサまで

~労働組合運動の地域的&産業的組織の
国際的経験と原理を探る~
インターネット無料公開への序文
目次 はじめに

 

第1章:タテとヨコの組織関係の国際的相違
第2章:労働組合運動の発祥地…イギリスの場合
第3章:地方的ヨコ組織からの出発…アメリカの場合
第4章:革命の落とし子・ブールスは生き残った
第5章:商工会議所vs労働会議所…イタリアの場合
第6章:現代をリードするヨコ組織…CGILとカメラを典型に
第7章:意外史の分岐点…ロシア革命と社会主義国の労働組織

2007.12.4カウンタ変更(936)2016.09.02カウンタ変更(1395)

第2章:労働組合運動の発祥地~イギリスの場合
(分割掲載4)

分割掲載版は2008年6月の訂正が未反映です。第2章一括掲載をご覧ください。

(分割1)1.史上初の団結禁止法との対決
(分割2)2.遠い親戚より近所の他人、3.ヨコ組織と一般組合の発達史
(分割3)4.トレイズ・ユニオンの複数形、5.ワン・ビッグ・ユニオンの理想
(分割4)6.労働組合評議会、7.ワーカーズ・ユニオン、8.TUCからの排除

6.労働組合評議会への道

 大トレイズ・ユニオンの崩壊後、11年を経た1845年に、全国労働者保護労働組合同盟(National Asociation of United Trades for the Protection of Labourer)が成立した。この構成単位は、連合労働組合(United Trades)であり、すでに同職組合をそのままにした連合体が各地で結成されていた。全国同盟の結成に当たっては、マンチェスターほかの地方連合体が、その代表を送り出した。

 これらの地方的連合体は、かつての失敗に懲りて、トレイズ・ユニオン型の組織方針を否定し、むしろ明確に、「既存の労働組合の組織に干渉しようとする意志をもっていない」などと、規約に明記さえした。このような経過を踏んで、現代につながる労働組合評議会が各地で結成された。1860年には、今日のロンドンの労働組合評議会が、最初の会合を開いている。1867年には、全国に12の労働組合評議会が作られ、これらの労働組合評議会のイニシャティヴの下で、1868年に、今日のTUC(総評議会)が成立した。

 1870~1873年には、労働組合評議会が倍増し、1889~1891年には60に達する未曾有の激増期を迎える。当然、この背景には、労働組合運動全体の高揚があった。

7.ワーカーズ・ユニオン

 1880年代のイギリス労働組合運動は、一般労働組合の組織化運動の新たな波を迎えた。この組織化方針は、パリ・コンミューンの刺激をも受けた社会主義者の指導になるものであった。彼らは、フランス語で組合を意味するサンディカ(syndicat)を、社会改革の主体に位置付けており、イギリスでもサンディカリストと呼ばれた。サンディカリストは「産業革命主義者」とも訳されるが、この呼び名の歴史的かつ政治的な意味については後述する。この時期には、万を単位とする労働組合が、数年の内に次々と結成された。TUCは、その組織人員を、1885年の約58万人から1890年の約147万人へと、倍以上に増やした。

 前進の主な局面は、半熟練および非熟練の労働者の組織化であった。その中でも、7万人という大組織になった「ガスならびに一般労働者組合」(National Union of Gasworkers and General Lavourers)は、新しい一般労働組合の特徴を、その名称に刻み込んでいる。従来のTradesからworkers, lavourersへと、用語の革新が行われたのである。「一般労働者組合」と訳されているが、これまた何気ないが意味の深い「者」の一字なのである。日本でも労働組合ではなくて労働「者」組合を名乗る例がある。この「者」の一字は、workers, lavourersの意味を継承しており、すべての「一般」労働者を組織化する基本方針の表明となっているのである。

 1898年になると、新しい用語を冒頭に掲げて「ワーカーズ・ユニオン」(Workers' Union)を名乗り、明快至極に、すべての労働者を組織化する方針を持つ新組織が誕生した。この組織は、1929年の合併を経て、今日も、TUCの中心をなす運輸および一般労働者組合(Transport and General workers' Union)の中に、その名称の一部とともに、生き続けている。

 このような、組織化の嵐の中で、旧来の職業別組合は、組織的な統合を余儀なくされ、単一化に向かったのである。

8.TUCからの排除

 一方、この間に、現代のTUC型の組織構造を決定付ける事件が、政治的な背景を伴いながら進行していた。

 1895年に、TUCは一方的に、地方労働組合評議会を、その構成組織から排除した。ウェッブ夫妻が述べているように、「この評議会こそは総評議会[TUC]の創始者であった」のだが、産業「別」の中央集権的なタテ組織への傾向を強める全国組合の強大化とともに、形勢は逆転していた。

 つぎのようなウェッブ夫妻の筆になる文章は、現代の日本のヨコ組織とタテ組織の関係を考える上でも、大変に深い意味を含むとのと言わなければならない。

「全国組合の中央執行部は、自分たちが直接に代表されない指導的な団体の存在にたいしては、疑いと嫉妬心をもっていたので、その地方支部は、実際に禁じられないまでも、想像上でも競合的な力となるかもしれないものを固く守るようなことを奨励されなかった」

 このような雰囲気の下で、複雑な、いまだ正確には解明されない主導権争いが頂点に達した。1895年のTUC大会は、あらゆる地方労働組合評議会を直ちにTUCから追放すること、各労働組合の総組合員数にもとづく投票制度をとること、代議員は有給の役員もしくは現にその職種で働いている組合員に限ること、などを決定した。

 結果として明らかなことは、第1に、地方労働組合評議会が、自らが生みの親だったナショナル・センターのTUCから追放されたことであり、第2に、当時のサンディカリスト指導者として著名なトム・マンが、TUC大会の代議員資格を失ったことである。この提案が可決されたTUC大会の状況を、ウェッブ夫妻は、非常におそろしい雰囲気であった」と記している。

 奇しくも、この年は、ウェッブ夫妻の共著、『労働組合運動の歴史』の初版が刊行された翌年であり、エンゲルスの没年でもあった。

 以来、イギリスの地方労働組合評議会は、労働党の地方構成要素というような、日本で言う「選挙地区労」の蔑称の地位に甘んじながら、今日に至る。ウェッブ夫妻は、「全国労働組合評議会連盟をつくろうとする企ては成功しなかった」と記しているが、時期その他の状況は記していない。この「全国労働組合評議会連盟」なるものが作られたとしたら、それは、のちに見るフランスやイタリアの場合のように、ヨコ組織の結集による全国中央組織を実現したことになる。歴史は意外な展開を見たのかもしれないのである。

 いずれにしても、現代のTUCの組織構造の形成には、明白な意図的工作の証拠が残されている。TUCは、その創立の1968年以来、1895年までは、タテとヨコの両組織を含み、フランスのCGTに近い組織だったのである。では、この型の基本原理、およびそれを崩した力は、いったい何だったのであろうか。その原理と力学を、より正確に探るためには、もう一つ、イギリスと近い関係にあるアメリカの場合をも、観察する必要がある。

 以上で分割「第2章」は終わり。「第3章:地方的組織からの出発~アメリカの場合~」に続く。

「第3章:地方的ヨコ組織からの出発~アメリカの場合」へ

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