| ┃戻る┃ |
木村書店WEB文庫
|
┃メルマガ案内┃木村書店┃ |
|
禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 〜番組制作白書'66〜』-7 |
|
メルマガ Vol.7 (2008.02.18)
|
|
(第1章 空洞化すすむ「国民のための放送」) 4 政策優先の番組制作 A 現場無視の拡張路線 我々は、ここまで、「国民のための放送」の空洞化を、企画―提案―採 否の段階と方針と評価の在り方の二つを中心に考察し、「国民のための放 送」の反動化、保守化の面を、規制と考査のメカニズムを支配する底流と 圧力という点から問題にしてきた。この問に明らかにされたのは、ビジョ ンなき上層意思と、無責任体系を体質化した管理職群という現象であるが、 しかし、問題はそれだけにとどまらないのも自明である。 なぜなら、それらの現象全てが、単に巨大機構としてのNHKとか、高 度成長の途上にあるマスコミ産業のもつ歪みなどという見方では捉えきれ ない何か重大な事態の存在を暗黙の中に指さしているからである。 一つには、NHKが、現支配体制の中に完全にビルト・インされてしま って、言論機関はおろか、情報伝達機関としても片輪なものとなり、「国 民のための放送」が「体制側からの国民にむけた放送」となりつつあるの ではないか、ということである。第2には、NHKが自己の拡張のために のみ自己運動的に発達しており、「製作現場」だけではなく、「国民」そ のものも雲散霧消していこうとしているということである。 第3は、「国民」を見失った拡張運動路線の裏がえしとして出てくる合 理化攻勢の激しさである。 この節は、主にこの第2点に焦点をあわせながら、第2章への足がかり としての第3点にもふれてみたい。 ――「通信高校講座とは一体何だろう」 「今作っている講座は、これでよいのだろうか。決まりきったフ ォーマット、出演者など、これで良いのだろうか」 「通信高校講座はほんとに“番組”なのか」 「文教政策の貧困をカバーする通信教育制度の手助けをしておれ ばよいのか」―― これは、教育第2分会の報告に記された、通信高校講座担当者の声であ る。何だ、どこの部にもある、PDお決まりのナゲキ節じゃないか、と思 わないでほしい。 そのためにも、もう一つのナゲキ節をお目にかけよう。 ――「ずばり言って、第二会社のような気がする」 「ヘソのようなもの。NHKにとって対外的にはなくてはならな いが、ただあるというだけ」 「本当のところ、日本のおえら方が、日本は一等国だから、海外 放送をしなくてはならない。それには公共放送機関のNHKにまか せよう。とそれだけのことで電波が出ている感じがしないでもない。 ―― こちらの方は、国際分会の報告から拾った声である。 この二つの部からの声に何か共通した問題の所在を感じないであろうか。 とにかく、もう少し、二つの部門からの声に語ってもらおう。 ――通高担当者は……、番組の本質にかかわることから、パターンの1 枚の選択のことまで、疑問の渦にとりまかれて制作している。通信 高校講座という、プロデューサーの中でも、非常に特殊な番組作り の中だけに、現在の教育番組の、いやプロデューサーの職務の一つ の極端だが、ティピカルな問題を抱えている。(教2)―― ――上にあげた諸発言は、決して極端な発言、ツムジまがりの意見ばか りを、わざわざ探し出して引用したのではない。表現の差、こまか なニュアンスの差こそあれ、現在国際放送に従事する組合員みんな の胸の中を、こうして、絶望感、空しさがふきぬけている(国際) ―― ――後期中等教育としての通信制高校制度の是非はともかくとして、現 在の通信高校講座の在り方には多くの疑問があり。それが同時に担 当者への圧迫となっている。(教2)―― ――NHKは「国際放送」実施という一大使命をになっており……、 云々という、何か事あるごとにNHK4本の柱の一つとして持ち出 される国際放送は、単なる逃げ口上のための道具にすぎず、時々は、 ただ時間をうめているだけのものなのであろうか、という疑問すら わいてくる。(国際)―― 通信高校講座や大学講座は、ともに教育の機会均等や、高校・大学の門 戸開放に資するという「一大使命」をになうことになっており、「NHK の何本目かの柱」として、毎年の国内番組編集の基本計画にも、麗々しく 触れられる重点施策事項の一つである。しかし、労働=制作条件はきわめ て劣悪であり、(第2章参照)、かかげられた理想は足もとに横たわる、 大きな矛盾を前にますます遠ざかっていき、今では、「使命」の強調は、 「単なる逃げ口上」とうつり、「重点施策対象」とはいっても、「ただ時 間をうめているだけ」というに近い。つまり「NHKにとって対外的には なくてはならないが、ただあるだけ」になりかかっており、「本当のとこ ろ、日本のおえら方が青少年にせめて夢だけでもあたえなくてはならん。 それには、公共放送機関のNHKに通信高校講座や通信学園を設けてもら って、通信教育制度をもっと利用してもらおう。とそれだけのことで電波 が出ている感じがしないでもない」といった声が、もし通信高校講座担当 者から出たとしたって、少しも不思議には思えない現状なのである。 国際放送部門からの声はしばらくおいて、まず、教育第2分会のかかえ ている様々な問題を紹介しよう。 ――通信高校講座の基本的な問題。 まず第一点は、……教育番組に付随するテキストの問題である。 現在は、全国高等学校通信教育研究会(通教実施校の教師団体)選 択の教科書によって作成された学習書(通教生の自習のための副読 本)が、そのまま放送テキストになっている。これはNHKの通教 制度への協力という形になってはいるが、むしろ利用促進の政治的 配慮にもとづいており、実態としては、放送と直接関りのないもの となっている。それだけに制作に当って、放送独自の立場が見失わ れてしまう結果を招いている。 第2に協会は、4カ年計画(今年度で完結した)をたて、非常な 力をさいて、通信高校講座の拡大をはかり、通信課程で必要な殆ど の教科書を網羅してきた。その全科目網羅主義が、極端な番組増を 強いてきたわけで、そのため、労働強化、番組の質的低下が招来さ れた。とりわけ、教科に対するR・Tの特性を十分生かしたとはい えず、また、通信教育生の利用の実態に合ったとはいえないものま で放送されることになった。例えば、農業経営など、全国で履修者 800人位といわれ、果たして放送に必要なものか、それ以上に必 要な科目の放送回数増などの方を考えた方がよい―― 我々は、こうした安直な全科目網羅主義が通信教育講座も大学講座も技 能講座も何でもとり入れてくる網羅主義や、国際放送にみられる、「1カ 国語でも多く」や1時間おきのジェネラル・サービスの採用などの網羅主 義と共通したものであり、膨張主義とでも呼ぶべき、NHK的特徴の現れ ではないかという点を深く懸念するものである。 我々は、なにも、通教制度や、国際放送の意義を否定しない。まして、 技能講座やジェネラル・サービスの意義を、味噌も何とかも一緒にするよ うな態度で疑問視しようとは思わない。ただ、少なくとも通信教育講座の 現状を直視すれば、通信教育制度の社会的意義は、そのまま、今の通信教 育番組の意義に結びつかないことを言いたいのであり、その背後に、無計 画な膨張主義の存在を嗅ぎとらざるをえないことを言いたいのである。な ぜなら、現状は制作現場の無視と教育実態の無視をしかさし示していない からである。 番組担当者が、学習書編集などの、利用促進という本来業務以外に力を 割かざるをえないというのは、番組自体の充実を計ることによって、通教 制度の利用促進を計るという、本当の意味の協力の在り方を見失わせてい ることなのである。 また、通信高校教育番組発足に当っては、教師団体の協力を得ることは 是非必要であるが、それのみに頼らざるをえない、あるいは、それに過大 に頼らざるを得ないという事態を招かないための配慮に欠けることはなか ったか。少なくとも、現場担当者の現在の悩みを救うために方策がうち出 されないままに経過していることにも、安易な、拡張のみを目途としたN HK的体質をみてとらないわけにはいかない。 細かい差異はあっても、この膨張主義=網羅主義的弊害のあらわれを、 国際放送のほかにも、各種講座番組(大学講座、ラジオ農業学校、各種技 能講座……)にみてとることができる。もう一つ、大学講座の例をひこう。 ――「大学講座」 この番組は、昭和38年にはじめられた、ラジオによる“大学通信 講座”を基盤にしている。これは大学における通信教育課程での単 位履修の“一助”となるために生れ通信教育実施校(主として私立 6大学)と連携、放送内容、講師等を当該大学に全面的に依存する ことで行ってきたものである。従って一面大学教育を受ける機会の 拡充という積極的な意味を担いながら、同時に、番組制作の上では 非常に重大な制約をもっているものであった。 昭和41年度からの大学講座は、こうした継続の上に》一般市民に 対する公開講座的な性格をもつこととなった。しかし、実態として は、単位取得との関連(実質的には大学の単位取得のためには実に 僅かなものをもっているにすぎない)から、従来の大学通信教育協 議会(私立6大学の連絡機関)との関係は変りなく進められている。 ここに大学講座の重大な第一の問題がある。即ち番組の内容(どの 科目を放送するか)、企画、テキスト、出演者については大きな限 界があり、特に出演者は、私立6大学の関係教師に限られるため、 大きな問題を抱えている。 第2の点は、大学の一般教育科目(いわゆる一般教養課程)の内 容は現在の教育にとって重大な反省の時期に来ている。(同時にこ れには大学の自治とも深くかかわっているが、それはここではふれ ぬとして)それだけに、企画段階で十分な検討を経ずに行うことは 危険である。しかし現実には十分な研究、調査等への時間が全く欠 落していることに非常に大きな疑問がある。具体的にはこの講座の 問題は出演者にある。現在の方針では通信教育実施校の枠内に出演 者が限定され、しかも各校間の出演者のバランスをとる奇妙な方法 がとられ(大学側の要求のため)「A校からは少なくとも1名」 「B校は多すぎる」などといった配慮があるわけである。全てここ に起因する。問題の多い出演者を抱えたほとんど全ての担当者は、 その欠陥をカバーするため、制作の全てに過重な労働を余儀なくさ せられているのが実態である。 同時にこれは番組の内容的な要求から来るものではないために、 質の低下を来たす事は明らかである。(教2)―― B 国民不在の合理化体制 何でも、とにかくやろう、NHKの対外的威信に結びつくものなら……. いわばこうした路線は、今やNHKの中に抜きさしならぬ矛盾をかかえこ んでしまうことになっている。一生懸命、力を注げば、注ぐだけ、その矛 盾はあらわになる。従って、最低の労力、資力をそこに充てて、矛盾が外 に明らかになりさえしなければよいということになる。ここからの、当然 の帰結は、内部矛盾の慢性化であると同時に、表面を糊塗せんがための、 見通しのない彌縫策である。 大学講座に、一般聴視者対象の公開講座の要素を加えるという変更を試 みても、基本的矛盾が、二重の矛盾に変るだけであるのは明らかであろう。 一方では、こうした無定見に相ともなって、「つまみ喰い」主義ともい うべき問題が起ってくる。 ――「中学生の勉強室」 “高校受験と実力主義”これがこの番組のキャッチフレーズであ り、テキストの表紙にはっきり書かれていることである。 何よりも基本的に高校受験を目指すこの番組に矛盾を感じないわ けにはいかない。各地の高校入試問題から素材をとり解説するこの 番組にはそれ自体に大きな疑問を持っている。視聴率の高さだけで 判断することはできないであろう。(教2)―― こんどは、「つまみぐい」の反対のいわば「くい逃げ」とでもいうべき、 新しい形であらわれようとしている問題を、語学番組の部門からひろって 紹介しておこう。 ――“ドイツ語”が来年度再放送をめざして、現在放送中のものをスト ックしている。再放送の可否については各担当者にも意見が分れ、 基本的に一致しているとは言い難いが、現状のものを再放送しよう とすることに対する疑問不満が多いことでは一致している。 今年の2月、突然天下りとも言える形で職制から業務命令が下さ れ、はじまったものだが、予算も制作条件も人員も何ら改善を見る ことなく番組制作が行われているのが実態であり、そのため話題 (再放送の時期を勘案して)等の規制もあり、担当者の心理的負担 は決して少なくない再放送の実施に当っての準備、検討もなしに行 うことは聴取者に対しても一面背信行為とも言えよう。(教2)― ― この問題については、担当者たちも、正直に、可否については意見がわ かれ、基本的に一致していないことを告白している。だが、上層部とても、 意見の統一ができる時点にまでは到達していないこともあきらかである。 その中で、これまた、「とにかくやろう」という流儀での決定が下され る背後には、現場無視、番組軽視の形で強力におし進められようとする合 理化攻勢の特徴をみることができる。 ニュースまで含めたカラー化推進、UHFによるテレビ第3チャンネル 獲得、通信衛星放送、等々。我々の前には、「NHKの使命」という大義 名分を拡張路線=経営政策のカクレミノとしながら、「国民のための放 送」の空洞化をもたらし、現場無視の合理化攻勢を押しつけてこようとす る、さらに大きな動きが現れてきつつあることを忘れてはならないだろう。 最後に再び、体制の中のマスコミ機関としての性格を益々色濃くしてい くかにみえる、NHKのエスカレーション的拡大路線についての疑念と不 満が深まりつつあることを、次の国際分会からの報告で証言しておこう。 ――大多数の国民の立場に立って、その利益を擁護する放送が国際放送 の基本的な姿勢であるべきであるが、現実は必ずしもそうではない。 むしろ、国策優先、政府優先の傾向が強い。この場合の国家、政府 の利益と国民の利益とは対立する場合もある。「政府与党の立場が 国民の立場と錯覚している。あるいは、巧妙に一致させようとする 職制が多い。」 その結果として、現状は「日本の客観的紹介という名目のもとで、 当りさわりのないよそゆきの顔をみせている」に過ぎない。 さまざまな日本人が何を考え、どのような意見を持っているか、 単に平均化された意見でなく、平均を大きくはみだした部分もあわ せて、紹介しようとする姿勢がない。 例えば、昭和40年ごろから特にはっきりとした形をとりはじめた 重点の一つに、いわゆる「アジア中心主義」というのがある。これ は、今後の国際放送は、コミュニケーションの手段が不足している アジア地域を中心として行うということには原則として賛成する。 しかし、この協会側の「アジア中心」という姿勢は、政府の指向す る非共産圏アジアの指導者、非反米のアジア諸国の結集への努力と 無関係でもないであろう。我々はこうしたアジア中心という姿勢が、 「国策的、政策中心の方向に走らぬよう警戒する」必要がある。 |
|
|
|
|
2008.02.25/2008.6.18改訂 木村書店に戻る