週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.72 2005.01.27

[20050127]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.72
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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   終章:王国の哲学 

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http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-c-end.gif
扉 図
アフリカ大陸の主要言語族分布図

★οO◯Oo。・゜゜・★ 終章の構成 ★・゜゜・οO◯Oο。★
エスカレーション/バントゥの思想/はじめにコトバありき
地に満ちよ/インクルレコ

◆(終章-1)エスカレーション ◆

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 このエスカレーションの、大まかな有様は、すでにのべてきた。ホモ・サピエンス、新石器文化、農耕・牧畜文化、金属文化、古代文明のすべての段階にわたって、オリエント起源説またはコーカソイド(白色人系)起源説が横行していた。それは、現代版の神話、白色人の文化英雄神話であった。

 セネガル人のディオプは、こう書いている。

 「実際のところ、西ヨーロッパ諸国の出版物を信じなければならないとすれば、熱帯降雨林の中心部にいたるまで、ぎりぎりの分析をしてみると、黒色人の創造になるといえる文明を、ひとつなりとも見いだそうとするのは、空しい努力だというのである。……

 アフリカ文明の起源についての、このような説明は、何らかの策略によって、かの神秘的な白色人種が、この地域に到達し、住みついたという、有りうべからざる証明にたどりつくことなしには、論理的でもなく、承認され得べくもないし、まともに相手にされず、客観的でも科学的でもありえない。学者たちが、彼らの論理の果てに、論理学的かつ弁証法的な演釈((これは皮肉である))によって、ヨーロッパの専門家筋の広くいきわたったところの、《黒い肌の白色人種》という概念に、自らを導いていかざるをえなかった理由は、非常に簡単に理解できるであろう。このような学説には、現実的な土台が全く欠けているのだから、明日がないものであることは明らかである。この事態は、これらの著述家たちの、客観性と落ち着き払った態度のよそおいの下からすけてみえ、彼らをむしばむ情念によってしか、説明できない」(『黒色人国家と文化』、p.9)

 このようなディオプの宣言は、いささか手きびしすぎたのであろう。セネガルあたりは、「反白色人優越主義」の中心地といわれている。ディオプの本に、たちまちにして、揚げ足取りの批判、というより非難が集中したのは、よくわかるような気がする。

 しかし、わたしはそれ以前の、数百年にわたる歴史の歪曲を考えれば、これくらいの皮肉は、当然ではなかろうかと思う。むしろ、非難され、批判されなければならないのは、エスカレーションの推進者である。

 たとえば、東アフリカ史を専攻するイギリス人のローランド・オリバーは、『ジンバブウェの謎』と題して、つぎのような論理を展開している。

 まず彼は、ウガンダのアンコーレ王国やルアンダ=ウルンディ二重王国のワッシ貴族を、「ハム系の白色人種からなる支配階級」と規定する。ハム系とは、エジプト系というほどの意味である。そして、その出発点は、現代のエチオピア周辺の、『ハム系またはセム系のより小さな王国の一群の中に探し求むべきであると思われる」、という結論をひきだしている。ところが、その証拠は、なにもあげられていない。

 要するにオリバーは、何の証拠もなしに、アフリカの黒色人は、白色人の支配階級をいただいていた、つまり、社会組織すら、「白色人種」に教えられた、と主張している。では、なぜ証拠が残らなかったのだろうか。オリバーは、つぎのように説明している。

 「この特殊な牧畜民文化のほとんどすべての痕跡は、優秀なバントゥ諸族の文化――そのただなかに、この牧畜文化が浸透していったのであるが――の中に埋れ、消え去ってしまっている」

 オリバーは、ここで、巧妙に問題点をさけている。というのは、ワッシ貴族の言語は、完全なバントゥ系言語であり、そこには、いわゆるハム系やセム系からの影響は、全くみいだせないのだ。同じイギリス人でも、シーニーの方が卒直である卒直である。彼女は、ウガンダの支配層をなす民族について、彼らが、「征服された人びとと雑婚し……その人びとのバンツー語を使うようになった」と説明している。

 しかし、こういうことは、絶対に起りえない。侵入した支配者が、数的に弱体で、文化的にも劣っていた場合には、文法上の同化が起きる。たとえば、ヴァイキングの一派であるノルマン貴族は、アングロ・サクソンの国を征服した。ノルマン人自体が雑多な集団で、フランス語を借用していたような状態だったから、英語の文法は堅持された。しかし、それ以後の英語には、大量のフランス語の単語が流れ込んだ。しかも、宮廷ではフランス語が、永らく公用語として使われた。

 ルアンダ=ウルンディのワッシ貴族、またはアイティオプスの一族は、大昔からバントゥ系の、キンヤルワンダとよばれる言語を使っていた。彼らは、中央アフリカはえぬきの民族だった。

 それではなぜ、オリバーたちは、このような無理押しのエスカレーションをしたのであろうか。

 そのこたえは、彼自身の文章が語っている。ヨーロッパ系の学者は、アフリカの諸王国を研究するにつれて、その社会にはたらいている基本原理に、気づかずにはいられなかった。たとえば、二重王国制度である。この社会制度が、古代エジプトにも、ソロモンの王国にも生かされていた以上、その起源について、何らかの説明がなされなければならない。

 しかし、オリバーたちは、深追いしすぎた。バントゥ系の言語族(終章の扉の図表参照)の壁は、いかにも厚かった。オリバーたちの「白色人英雄神話」の南進は、ここで決定的にはばまれた。車輪は空転し、むしろ、逆転のおもむきを呈しはじめた。

 しかもこの、バントゥ語圏の文化には、古代史の深い謎が刻みこまれていた。バントゥ語の文法は、バントゥ哲学、つまり力ある人々の思想を反映していたし、その言語の成立年代をも暗示していた、わたしは、その背景を悟ったとき、おののきを覚えた。

次回配信は、終章-2「バントゥの思想」です。

( \(◎o◎)/! 終章は5まであるざんす )

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