週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.2 2003.09.25

[20030925]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.2
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  序章:疑惑の旅立ち 

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◆(序章-2)つぎなる疑問 ◆

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 だが、ひとつのことで、ふたつもみっつもの学説があるということは、何を意味するのだろうか。いうまでもなく、真実はひとつしかない。だから、正しい学説も、ひとつしか存在しえない。ひとつの学説をのぞいて、ほかは、当然、まちがっている。また、もしかすると、いままでの学説が、すべてまちがっている可能性すらある。

 たとえば日本史では、女王ヒミコの邪馬台国が、大和か九州かというので、数十年間も論争がつづいている。せまい日本のことだから、これ以外に候補地がでてくる気づかいはない。そしてこれも、どちらかが、まちがっているに決まっている。また、ヒミコや邪馬台国の位置づけについては、「皇国史観」がさまざまな錯誤をつくりだしてきた。

 わたしは、これと同じことが、ヨーロッパ系の学者によるアフリカ史やエジプト史、そしてオリエント史の研究方法の中に、はっきりとあらわれているのを知った。皇国史観やナチズムは、つい30年前まで通用していた。日本やドイツは、封建制度からぬけだしたばかりの国だったから、神話そのままの歴史学が、そのまま受けいれられた。

 フランス、イギリス、アメリカでは、ブルジョワ民主主義の伝統があったから、若干事情がちがっていた。だが、フランスやイギリスは、最大の植民地領有国だった。そして、アメリカは黒色人差別の国である。これらの諸国の支配体制も、当然、神話を必要としていた。そこで、一見科学的な「現代の神話」をつくりあげた。この「一見科学的」が、大変な曲者である。皇国史観やナチズムなどは、まともな学者には相手にされなかった。ところが、「一見科学的」な説明は、意外に受け入れられやすい。多分、それを考えた学者本人も、信じこんでいるのだろう。

 そこでわたしは、あらゆる学説を、根本的に疑ってかかることにした。また、アフリカ大陸の中心部から、すべての歴史をみなおすことにした。データを整理し、いままでの学説の論理を、裏がえしにしてみた。もちろん、採用できる点は、とりいれた。

 その結果、アフリカ史のみならず、人類史全体にかかわる、大きな謎をいくつか解いた、と確信している。もちろん、シロウトのことだから、いくつかの誤りをも犯しているであろう。しかし、わたしがどういうデータにもとづき、どういう論理によって古代の謎を解く鍵を見出したか、という経過は、人類史、古代史の理解を深める上で、決して無益なものではないと思う。

 また、そこはシロウトの身軽さで、わたし自身が楽しんだ謎ときを、いささか勇み足とは思いながらも、そのまま書かせていただくことにする。わたしがあらゆる学者の説を疑ってかかったように、読者も、わたしの説明をおおいに疑いながら、よんでいただきたい。

 ではまず、疑惑の旅の出発点を、古代エジプトに定めてみよう。デヴィドソンは、「古代アフリカの記録はエジプトからはじまる」、と指摘している。だが、この肝心のエジプト古記録の解釈が、まちがっていたら、どういうことになるのだろうか。

次回配信は、序章-3「ナルメルの遠征」です。

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1946年、北京から引揚げ船で送還された “少年A” の物語
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