『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(6-5)

終章 ―「競争」 5

―インベーダーの狙いをくじき、撃退する手段はどこに―

電網木村書店 Web無料公開 2008.6.2

部数拡大競争の本音

 ところで、読売争議は、戦後はじめて、務台光雄に販売店主動員の実績をもたらした。

 務台は、報知新聞社時代に、専売(直営)店をまわり、拡張販売の実務も経験したという。そしてその時に、「直営というものが、果していい制度なのかどうかということ」(『闘魂の人』一三三頁)を考えたという。

 だが、戦後にも、もう一回考えなおす機会はあった。しかも、その機会について、務台らは、くわしく知っていたのである。

 「自由競争が激化してくれば、やがて専売制に立ち戻るということは、だれもが予想している。だが、店主たちは共販一〇年の無風の生活を手放したくない。ナベカマ合戦で読者の獲得、維持に多くの資金をつぎこんだ食うか食われるかの専売制時代の苦労は、もう二度と味わいたくなかった。店主たちは、専売制の到来を察知しながらも共販制への未練は断ちきれない。なんとか波風をたたせるような事態や不安をなくそうと、東京地区新聞事務所では『東京地区公正販売協議会』を二五年二月に結成、発行本社、販売店が一丸となって共販解体の因ともなる傾斜販売を行わぬ申合せをした」(『百年史』五八五頁)

 このように、販売店主の正直な気持は、共販制維持にあったのである。しかし、すでに「傾斜販売」という、かつての系統店主を動かしての、出し抜き合いが始まっていた。

 読売新聞の『百年史』は、この出し抜き合いを、いかにも他社がはじめたように描いている。そして、戦後の専売制復活を決定的にしたのは、サンケイの東京進出だとしている。

 ところが、争議のなかではあったが、戦後いちはやく系統店の七日会を再発足させたのは、まちがいなしに読売新聞であった。そして、サンケイの進出は、すでに第二章「背景」でふれたように、専売移行を「演出」するための、絶好の口実にしかならなかった。いずれにしても、専売移行を強行したのは、大手中央紙であることは間違いない。

 務台光雄と一部の販売店主会とは、うたがいもなく、読売新聞の民主化闘争を押しつぶし、その勢いをかって、一般の販売店主がいやがる専売制の復活に、拍車をかけたのである。

 しかし、戦争中に共販制が存在したように、そして、目的は戦争遂行のためとはいえ、「無意義なる競争の弊を一掃するものとす」(『百年史』四七〇頁)という三社間の相互援助協定が存在したように、新聞=専売制を絶対化する理由はまったくないのである。同じ地域を数人の新聞配達者が走るのも、人件費といわんより人的な損失である。ムダな費用は結局、すべて読者もちとなっている。また、それだけではなく、専売という、日本で独特の発達をとげた新聞販売方式こそは、やはり日本資本主義の特徴を如何なくそなえており、イデオロギー支配の上でも諸悪の根源といわねばならないのである。

 たとえば、内川芳美は『新聞史話』の冒頭に、「新聞茶屋」を置いている。明治の初年には、「新聞見料二厘より二厘半、茶価五厘」(同書一〇頁)という料金で、各種の新聞を何日分もまとめてよめた。

 公立、私立の新聞縦覧所もあった。新聞と雑誌の区分もはっきりしないころのことであるから、それらを合せた簡易図書館のようなものと考えてもよいであろう。

 また、いまでも、新聞以外の出版物は、書店ですべて求められる建前になっている。販売会社の巨大化や大出版社のマスプロ・マスセールが問題になり、少部数で良心的な出版物が入手しにくいのも事実であるが、それでも建前は守られている。ある程度の規模の書店で注文すれば、政党や政党系列出版社発行の出版物も、入手できるのである。また、駅の売店では、政党の機関紙は売らないが、競馬新聞にいたるまで、すべての商業紙が一緒に並べられている。

 ところが、おそらく「読者の便宜」という売り出し文句つきの新聞販売店、たとえば読売新聞の販売店で、おたくが一番近いからといって、どこそこの政党新聞を届けてくれと頼んだら、気違い扱いされるのがオチであろう。電機店の系列化も不便で許せないが、そこではまだ、誠にすまなそうに断わられるのである。

 かくして、政党であれ、労働組合であれ、言論手段に訴えるためには、自腹を切り合っての配布ルートづくりを、余儀なくされている。もちろん、戦争中の新聞共販制は、デモクラシーのデの字もないものではあったが、それを民主的につくりかえる契機はあったのである。なぜなら、そのままの共販店は、務台らが「左傾紙面」(『百年史』四九二頁)とする読売新聞を、百数十万部も配達していたのである。

 しかも、その部数は、職場管理闘争中にすら、拡大していた。マーク・ゲインは、第一次読売争議の妥結を記しつつ、こう書いている。

 「しかし、それよりも私の興味を引いたのは、何週間もの間、所有者の手によらずして従業員の手で新聞が発行され続けたことであった。発行部数は途方もなく増大し、一七〇万部に達しようとしている」(『ニッポン日記』二四頁)

 務台らが敵視したのは、この事実であった。そして、第二次争議のロックアウト、四ヵ月ものたたかいののち、……

 「一九四六年一〇月一八日、読売『争議団』四百余名は、関東配電焼ビルのスト本部で、『解団式』ならびに『共闘感謝大会』をおこなった。争議妥結の報告、友誼団体代表挨拶ののち、やがて『解団宣言』が発せられた。そして『争議団』員は、読売新聞社に向けて、最後の『勝利の』デモ行進をおこなった。労農記者懇話会は、その情景を以下のように伝えている。

 『鈴木東民氏ら六名はその白い胸花を先頭に、つづいて赤い花の三一名がそれに従い、その後に全争議団員がならんだ。友誼団体の行動隊が沿道にならび、アカハタの歌、インターの合唱におくられて堂々と読売新聞社にかえって行った。色あせた――けれど闘争に輝く組合旗が先頭ではためいた。われかえるような喚声。お向いの毎日会館からは花吹雪のように紙片が舞った』」(山本『読売争議』三〇七頁)

 これだけの人数が、戦後の食糧難時代を、餓えに苦しみながら、約四ヵ月間のロックアウト攻撃と闘いぬいた歴史は、よみがえり、受けつがれるであろう。この伝統は、やはり、読売新聞なり読売グループなりの、一世紀をさかのぼる進歩の源に発するものである。

 ところで、この伝統の今日的な復活への最も大きな障害は、務台らの競争万能主義である。その出発点については、すでに前章「暗雲」の終りにふれた。この流れは、日本テレビの小林与三次社長にも、より露骨な形で受けつがれている。


(終章6)最後の“競争教”教祖