『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(6-3)

終章 ―「競争」 3

―インベーダーの狙いをくじき、撃退する手段はどこに―

電網木村書店 Web無料公開 2008.6.2

“自由主義”社会の防衛戦

 内務官僚OBたる正力松太郎の、第一次読売争議における決意の程については、務台光雄も、こう書いている。

 「生殺与奪の権を持つ占領軍は、日本の帝国主義を民主主義に切替えるため、利用できる一切を利用しようと考えたのである。そして、占領軍の支援があると知った読売社内の容共分子は、公然と徳田の日本共産党と手を握り、間もなく正力社長の相手は日本共産党それ自体となってしまった。

 占領軍のこの政策に、労働組合、労働者は勝ち誇った眼ざしで、この争議の行方を眺め、手を出す勇気を失った各企業の経営者は、唯一の希望として、秘かに正力の抵抗に期待したのだった。

 だが正力は、断じて退かなかった。自分がいま譲歩することは、間もなく日本の全企業が共産党の手に奪取されることだ。読売新聞は潰しても、共産党の手には渡さないというのである」(『読売新聞風雲録』一五頁)

 表現の細部は問題とすまい。要するに正力は、読売新聞をつぶしても闘う決意であった。そして、正力が巣鴨プリズンにはいり、本書の最初に紹介したスパイ・柴田秀利らを動かしていた時、務台光雄も社外(新聞連盟理事長)にありながら、やはり、読売新聞(当時は合併で『読売報知』)を「つぶす」べく、一大鬼手をかまえていた。

 それはなんと、まったく別の新聞として、『読売新聞』(以下もカッコつき)の発行を準備することであった。『闘魂の人』では、「中正な新聞の発行を計画」という小見出しとなる。鈴木東民を編集局長とする『読売報知』の「紙面が急速に左傾化」(同書二一七頁)したのに対抗するためだという。

 準備については、日刊工業新聞から二台の輪転機を現物で出資、御手洗辰雄らの紹介で、GHQの参謀長サザーランド中将が五〇万部用の紙を約束したらしい。それ以外に、河合良成(正力の終生の友!)らの協力で、「七、八○○万円の出資者を当っていた」(同前二一七頁)そうであるから、まだ拡充する方針だったのかもしれない。当時の『読売報知』は、一九四五年一〇月一日現在で、輪転機は「計六台が当座の戦力、発行部数一六〇万余」(『百年史』四七七頁)とあり、しかも実際に稼動していたのは四台というから、務台の『読売新聞』は大変な強敵である。しかも、のちにでてくるように、務台は、旧読売系販売店主を、すぐに組織できる力も持っていたのである。

 面白いのは、務台がみずからを正当化するために持ち出している理由が、まことに正直なことである。紙面の「左傾化」、これ以外には、なにもないのである。

 当時の読売新聞は、正力との協定にもとづく人事体制であり、派閥はあったにせよ、平和に運営されていた。部数ものびており、財政上の問題はなかったのである。

 さて、務台らの『読売新聞』発刊の動きを知って、『読売報知』の方が先に題号を読売新聞に戻した。そして、「業務局長武藤三徳が、八反田を通じて務台に会見を申し入れてきた」(同前二一六頁)。

 武藤三徳は、最高闘争委員の一人であったが、我欲の強い大男で、のちには務台の復社を妨害したため、務台が正力あての手紙の中でも、「信義もなければ道義もない」(同鎚三九頁)などと、口を極めて非難するようになる人物である。思想的にも反共の方だったのであろうか、一九四六年一月一〇日に延安から帰国した野坂参三の「歓迎国民大会」が一面トップの大きな扱いとなったことをきっかけに、やはり最高闘争委員で理論家の志賀重義と、取っ組み合いの喧嘩をした。

 そこで、武藤を「業務局長にして、その面から反共闘争をやらせたならばという意見が拾頭してきた。ある日、馬場は武藤を社長室によんだ」(赤沼『新聞太平記』二一三頁)という次第なのである。

 馬場恒吾は、戦前に軍部と対立したため、「自由主義者」とされていた。しかし、吉田茂と同様、戦後に売り出した「自由主義者」(リベラリスト)の大半は、英米派にすぎず、反民主主義者であり、反共の闘士にほかならなかった。軍部の圧迫で執筆ができなかったとはいうものの、本人みずから、二度の憲兵隊への出頭について、こう書いている。

 「別に何を書いたとか、何を企てたという疑いがあったのでなく、ただ何を考えているかを質間するためであったと思われる」(『自伝点描』九〇頁)

 拷問で殺された反戦の闘士とくらべれば、まことに優雅な御訪問であって、彼ら自身も、黙って洞ケ峠をきめこんでいただけである。

 「正力は、物を書けない馬場は、金がなかろうと考えて生活費を送っていた」(『プロ野球の父正力松太郎』一四九頁)という事実もあるようだ。そして、『自伝点描』には「自由世界建設の悲願」の項もある。

 ところで、これらの経験豊かな反共の闘士たちは、三〇代の武藤三徳をあやつり、販売店主の読売七日会を再組織しながら、時機を計っていた。

 一九四七年三月、トルーマン・ドクトリンは、アメリカの反共的世界政策への転換をつげた。GHQ新聞課長は、バーコフからインボデンに代った。

 インボデン少佐は、プレスコードの客観主義を拡大解釈し、まず五月三日付読売新聞の極東軍事法廷の報道を問題にした。「美しい日本ムスメ」とか「ダンスホール」とか、すでに他紙もとりあげた事実の報道で、処分をにおわせてきた。「マ元帥を侮辱するものである」(『八十年史』五二〇頁)というのである。

 そして……


(終章4)“販売の神様”の復活祭