『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(5-1)

第五章 ―「疑惑」 1

―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30

日本ラジオ前史の陰謀

 ラジオと正力松太郎をめぐる話も、やはり、見てきたようなウソをいう講談めいている。

 しかし、資料をたぐっていくと、ウソばかりでなく、意外な陰謀のあとがうかがえるのである。そして、「あの太々しい男が武者振いしておった」といわれる正力の読売新聞乗りこみの裏には、この新鋭のマスコミ機関たるラジオ免許の、一大争奪戦がかくされていたという疑いが、濃厚なのである。

 ときは大正末期、一九二〇年代前半、ロシア革命と民族独立運動の嵐のなかで、列強資本主義国はいっせいにラジオ放送の活用をはかった。

 ラジオ放送の技術も、ほかのすべての技術と同様、その開発にいたる全体的な知識と技能の発展のうえにあるのはもちろんのことだが、それと同時に、やはり、社会の必要に応じて急速に実用化されていったという性格を持っている。

 マルコーニによる無線電信の発明は一八九五(明治二八)年である。最初のラジオ放送の実験は一九〇一(明治三四)年、一般むけの送信方式をとった実験放送は一九〇六(明治三九)年で、ともにアメリカ人によるものであった。

 一九一六(大正五)年には、アメリカのウェスチングハウス社副技師長コンラッド博士が、試験放送局の免許を取り、一九二〇年四月には、本格的な放送局免許をとった。自由競争主義の国、アメリカにおけるラジオ放送は、最初から民間の商業放送として出発した。ラジオ発足にともなう最初の宣伝は、アマチュア無線のレコードファンに対する新譜レコードの提供店アナウンス、ついで、ウェスチングハウス社のラジオ受信機の新聞広告であったという。

 一九二〇年二月には、コンラッド博士のKDKA局が、大統領選挙の放送で、一挙に名を挙げ、翌一九一二(大正一〇)年には、全米でラジオ放送ブームがはじまり、一九二二年一一月末の記録によると、全米の放送局数は五六九局、受信機は二〇〇万台を突破した。

 ラジオ放送ブームの背景には、第一次世界戦争からロシア革命という、激動の世界情勢があった。

 そしてアメリカは、日本と同様、みずからの国土を犠牲にしない参戦という好条件にめぐまれ、空前の戦後景気にうるおっていた。その下でこそ、アメリカの商業放送史が、本格的に開幕したのである。

 しかし、戦火をあびたヨーロッパの列強諸国では、事情がちがっていた。アメリカ以外の国では、経済事情を出発点としながら、ラジオ放送は多かれ少なかれ、国家統制の下にスタートするか、のちに組みこまれるかの運命にあった。

 フランス……一九二一年から、情報省の国営機関による独占放送

 イギリス……一九二二年から、最初は株式会社、のち公益法入の独占放送

 ドイツ……一九二三年から、各都市の民間放送設立、のち一九二五年に半宮半民の独占放送の統制下にはいる。

 イタリア……一九二四年から、ローマとミラノで発足し、のちに統一、半官半民の独占放送

 日本……一九二五(大正一四)年から、公益法人として、東京、名古屋、大阪で発足、翌年には合併し、独占放送

 さて、「ラジオも正力アイデア」とは、『創意の人』の大ゴマスリであり、やはり、大ウソである。正力はたしかに、ラジオ創設に関係して動いてはいる。しかし、その動きは忍者風であり、また、決して、正力のアイデアで日本のラジオがはじまったわけではない。ところが、たとえば正力がテレビの創設をはかった際、アメリカヘの売りこみのため、皆川芳造がド・フォーレ博士あての手紙を書いた。皆川はその中で、「日本で初めてラジオをやろうとしたのもこの人であるが、内閣の政策変更のために実現しなかった」(『25年』七頁)と書いてしまっているのである。しかも、日本テレビの社史ともあろうものが、この誤りを訂正しようともしていない。そして、ともかく、「五〇回以上」も正力に会ったという片柳忠男は、正力自身の話にもとづいてであろう、こう書いている。

 「ラジオをつくろうとしたのはいったい誰か、実はこれが何と正力松太郎であったのだ」

 「彼は有力者の集る工業クラブヘ出かけていき郷誠之助や、藤原銀次郎氏など当時の財界有力者に話をもちかけ、日本で最初の民間放送局を創るべく努力した。そしてとうとう、これ等の人々を口説きおとしたのである。

 『その時、後藤さんが驚いちゃってね、それから藤原さんに話したら藤原さんも驚いたよ、そこで郷さんがやるとなれば、ぜひみんなで相談しようというところまでこぎつけたよ』

 だが、そうなるといつでもそうだが、『これはいいぞ』という時、このアイデアは彼一人のものとなっていない。

 別なところから出願者が続々と現われてきた。当時にして二七、八の出願者があったというから驚くべきことである」(『創意の人』一四六-一四九頁)

 だが、この晩年の大ウソには、大きな穴がある。それも、同じ本のなかで、ハッキリといっていることさえもが、大ウソの決め手なのである。正力は、ラジオをやろうと思い立った理由について、読売新聞経営の困難をあげている。

 「社長となって二ヵ月にして『これはいかん』と正力は思ったという。そこで彼は、その時、新聞と共にラジオをやってみたら……と考えた。まったく彼の頭の中は大きなアイデアがうずを巻いているのだ。そう思いつくと、彼は、後援者である後藤新平のところへかけつけて行った。彼は後藤新平にラジオは儲かることを説明し、放送局の設立に着手すべきことを説いた」(同前一四七頁)

 読売新聞の社長になって「二ヵ月」ということは、つまり、一九二四(大正一三)年四月ないし五月のことである。「その時」、正力がラジオをやろうと思い、そのアイデアをまねてか、二七、八の出願者が「別のところから」続々と現われてきたということになっているのである。

 ところが、まともな資料をみると、日本でのラジオ放送免許出願は、すでにその二年前、一九二二(大正一一)年からはじまっている。この年には、許可をえて試験放送を行なう研究家も続出している。

 なお、当時は、ラジオのことを「無線電話」とよんでいた。

 翌一九二三年末には、「放送用私設無線電話規則」が公布され、その時すでに全国で四一件の出願が確認されている。そして、正力が動き出したと称する時期、一九二四(大正一三)年五月頃には、同規則にもとづき、さらに正式の願書提出が求められていたが、その数は全国で六四件に達していた。

 その後、東京地区で逓信省の審査の対象となったものが二八(二六、二九とする資料もある)とされているので、正力の話と数字が合っているのは、これだけである。

 では、正力の自慢話は、マッカなウソばかりであろうか。後藤新平、郷誠之助、藤原銀次郎、引き合いに出された政財界のボスもいまはない。彼らの間にかわされたであろう「密談」のかずかずは、ニクソンの電話テープのような記録を残してはいない。また、ここには、『原敬日記』の記録もおよんでいない。原敬はすでに、一九二一(大正一○)年、東京駅頭で暗殺されてしまったのである。

 だが、日本のラジオ放送が、実質はどうあれ、最初は民営(私設無線電話)の方向ではじまり、なぜか三つの社団法人にまとめられ、はては現在のNHKに単一化されたという歴史は、うたがいのない事実であり、その裏には、さまざまな思惑が乱れとび、影武者たちが動いたことは確かなのである。

 「嘘は誠の皮、誠は嘘の皮」という。正力講談ラジオ編の一席の裏に、なにがあったのであろうか。正力の役割はなにか。読売新聞乗りこみとの関係はいかに……

 この一件を、ラジオ電波争奪=支配をめぐる陰謀、後藤新平=正力松太郎ら、内務省高級官僚グループを先兵とする歴史的策略とみて、その「とぼけていて油断のならない」足跡を追ってみよう。


(第5章2)「東洋大放送局」の大風呂敷