『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(2-6)

第二章 ―「背景」 6

―国会を愚弄するテレビ電波私的独占化競争の正体―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

マイクロ・ウェーブで「怪文書」

○斎藤委員 議事進行について……(略)……。ただいま当局からいわゆる正力テレビの御説明がありましたが、私の手元に入っておりまする、これは一種の怪文書だと思うのでありますが、「正力松太郎氏と米国防省の危険極まる陰謀、日本テレビの外資導入に関する報告、電波管理委員会有志」というパンフレットを読んでみますると、電電公社の首脳部にもいろいろな累の及ぶようなことも書いてある。こういう一国の最も重視すべきマイクロ・ウェーブを独占し、しかもそれがアメリカの国防省と通諜して、一〇〇〇万ドルの借款を目的とする電波通信網の独占というようなものが、もし日本において計画せられているとするならば、これは国家としてすこぶる重大であり、この真相をきわめるのは、国家の最高機関である国会の電通委員会以外にないのではないかと思うのであります。従って委員長におかれましては、この問題を解明する意味におきまして、単に当局の想像的な説明を求めるということは私は無意味だと思いますので、よろしく本人を呼び、関係者を全部呼んで、一挙にこの真相を解明するような、適当な方法をひとつ講ぜられるようお願いしておきます。

○成田委員長 ただいまの斎藤委員の御発言、ごもっともだと思います。
 (『衆議院・電気通信委員会議事録』一九五三年一一月六日、一頁)

 問題の怪文書が出されたのは、この年の一〇月のこと。以来、各界で論議がなされ、ついに、国会における爆弾質問となったものである。この斎藤委員の議事進行動議にもとづいて、翌月の七日には、正力松太郎が参考人として登場することになった。

 前後の事情を整理してみると、日本テレビの開局は、この怪文書が出る直前の一九五三(昭和二八)年八月であった。

 その前年の七月三一日、日本テレビの予備免許がおろされた際、当局は、「テレビジョン放送は、さしむき東京において実施するものとし、その成果と中継回線の完成をまって逐次地方都市に及ぼす」という方針を示していた。「中継回線」とは、マイクロ・ウェーブ(極超短波)』を使用するもので、当初からの“正力テレビ構想”に含まれていた。日本テレビが獲得した予備免許は、このマイクロ回線の部分と全国的ネット網とを切りすてた形であり、東京ローカル放送局の免許に縮小されたものであった。

 正力は、当然、のこりの構想をあきらめたわけではなかった。「日本テレビ放送網株式会社という社名が示すように、全国ネットワークの建設と、それによって可能となる全般通信網構想の実現を目標としていた」(『25年』五一頁)のである。そして、日本テレビの開局に先立って、さきのように、“密約”をやぶり、一九五三(昭和二八)年八月一七日、名古屋と京阪神地方についても、テレビ放送局開設の免許申請にふみきっていた。

 正力の動きは、しかし、各界の反発をよんだ。九月一五日には、「地方新聞社一五社の社長が連署し、反対趣旨を盛った『テレビの中継と外資の導入について』という声明書が公表された」(『25年』五三頁)。この声明は、「一部民間組織が外資により超短波通信幹線網設置を企図」しているのは、「公共性に反する」という趣旨のもので、たとえば『中国新聞』は、二面の中程に三段の大見出しで、「国会を訪れ声明」(同紙一九五三年九月一八日)と報道していた。ところが、その実態は、はるかに恐るべきものであった。

○正力参考人 ……(略)……いうまでもなく太平洋戦争に負けた最大の原因は、いわゆる通信網の不完全からであります。ことに御承知の通り、優秀な日本海軍が負けたということは、この通信不完全ということによる、これは皆さん御承知の通りと思う。こういう優秀を誇った日本の海軍が全滅を食ったのは、通信だということを知っているにもかかわらず、これに対する国民の注意力が少ない。ことに終戦後、通信網はかえって悪くなっておる。国家として、これほどゆゆしいことはないと私は思う。どうしても、この際、通信網を完備しなければならぬ。……(略)……

 アメリカの国防省も、われわれの計画を見て、これならば日米安全保障の意味からでも、日本にこれがあった方がよかろうということで、これまた推薦してくれたわけであります。(『衆議院・電気通信委員会議事録』一九五三年二一月七日、一-二頁)

 なんとまた、国防省代表の演説かと思われるような、軍事論である。そして、これが、マイクロ・ウェーブを早期に、正力方式で建設するメリットのひとつだというのである。これでは、「怪文書がでるのも当然」といわれるわけである。

 もっとも、この時期、公職追放を解除された鳩山一郎が、吉田茂に政権返還をせまり、そのあおりで「怪文書」類が乱れとんでいた。内閣調査室が出所の「怪文書」さえあった時代である。松本清張の『深層海流』や『現代官僚論』シリーズなどは、それらの情報を巧みに料理したものであり、正力「怪文書」も、突っこめば面白い話になるかもしれない。しかも、「怪文書」といわれる以上、執筆者は不明だが、部外者では分らない部分も多いので、軍事的部分のみを紹介しておきたい。

 「正力氏は、久しい以前より総司令部有力者間を奔走し、極超短波(マイクロ・ウェーブ)多重式中継施設のための、外資導入計画を進めて来たのであります。さらにさかのぼれば、そもそも正力氏がテレビ事業に手を染めたこと自体が、占領軍有力将校の勧奨に発端しており、目下問題の外資導入計画は、正力テレビの前提となっていたのでありました。

 ……(略)……正力氏はもっぱら米国筋と秘密裡に議を進め、その結論として、米国防省と提携して、自己の野望を達成することを決意したのでありました。

 東京における折衝でほぼ成算を得た正力氏は、今夏腹心の柴田秘書をワシントンに派遣し、直接国防省首脳に対する説得を行わしめました。柴田氏みずから語るところによれば、説得は大要次のごとき趣旨のものであります。

 現在米国は、日本を極東における前進基地として完備することを、急務としているのではないか。すでに日本に設けられた多数の基地を統制し、有事の際に十分なる機動力を発揮するためにも、通信施設の支配権は不可欠の要件であろう。それには、日本が近代的電波通信施設の建設にこれから乗り出そうとしている現在こそ、米国にとって絶好無二の機会である。もし、日本独自の力で施設ができてしまえば、何かと支障を生ずる。また、もし、日本の公共機関の手に建設をゆだねるならば、これも同様の支障を生むであろう。米国国防当局としては、今正力氏を援助することによって、実権を掌握することが磐有利ではないか。……(略)……

 かかる提案に対して、国防省側が心動かしたのは、もちろんのことであります。正力氏みずからが豪語するごとく、時宜にかない、相手の心奥を明察した上での、妙手であったと申せましょう」(『衆議院・電気通信委員会議事録』一九五三年一一月六日、二頁)

 さて、さて、部外者では、とうてい書けないような「文書」ではなかろうか。しかも、一年後には、自衛隊との共同使用案まで、とび出してくる。

○片島委員 ……(略)……マイクロ・ウェーブの設備計画が、一部民間から非常に強力に押し進められておるということが、問題になりました。……(略)……ところがきわめて最近、八月の二八日に、正力松太郎氏が池田自民党幹事長と会談をし、その後塚田大臣と池田幹事長、木村防衛庁長官、それから正力松太郎の四氏が、東京会館で会談をいたしております。……(略)……

○塚田国務大臣 ……(略)……防衛庁に、防衛の必要からして、マイクロの設備を持ちたいという考え方があるわけであります。……(略)……その防衛庁の計画に今度付随して、その施設をひとつやらしてもらいたい。自分の方は外資を導入して、これをするから、その対価ということになりますか、やらしてもらいたい。……(略)……防衛庁の使用するマイクロ・ウェーブの一部分を、自分のテレビの連絡に使いたいという、構想であるわけであります。(同前一九五四年一〇月八日、一三頁)

ついで、参議院では、木村篤太郎防衛庁長官がみずから事実を認めた。

○国務大臣(木村篤太郎君) 私といたしましては、防衛庁において、全国的のマイクロ・ウェーブを持つことが、望ましいと考えております。……(略)……しかし現実の問題として、防衛庁自体には、さようなものは、現段階においては持つことはできないことは、御承知の通りであります。……(略)……それで、今のお話の民間会社という、お話であります。民間会社がどこかということは、会社自体という話はありません。しかし、正力君が最初に来たことは、事実であります。正力君の話によると、自分のほうで、全国的のマイクロ・ウェーブを持ちたいんだという、話であります。……(略)……わたしの、非常に魅力を感じた点は、二つある。一つは、二ヵ年でやる。極めて短時日であるということ。もう一つは、これはでき上った上においては、これを防衛庁において保管さしてよろしい。まあ機密保持その他の点から見て、これは我々としては、自分の手において、これを保管するということは望ましいことである。この点が、わたしが非常に魅力を感じた点であります。(『参議院・電気通信委員会議事録』一九五四年一〇月一二日、六、八頁)

 つまり、正力のマイクロ・ウェーブ計画は、早くできる、そして、防衛庁で保管できるという利点があったわけである。ここまでなら、正力一流の強引な売りこみとも見えるが、もうひとつの事実を重ねてみると、恐ろしくなってくるのである。

 というのは、すでに一九五一(昭和二六)年に、衆参両院の電気通信委員会の委員計五名が、アメリカ国防省(ペンタゴン)を訪れ、マイクロ・ウェーブの軍事的な重要性を教えられているのである。そして、その五名の国会議員の一人が、こういっている。

○山田節男君 ……(略)……ワシントンでペンタゴンに参りまして、GHQのこちらのマッカーサー元帥の通信部長であったバックという少将でありますが、ここに、われわれを歓迎されまして、ペンタゴンの四階あるいは五階でありますか、四階、五階のあそこは全部通信施設なんです。これは秘密の部分もあるけれども、国会の代表であるというので、われわれ五名のものは、とくにコンラッド代将が、つぶさにわれわれに見学を許してくれて、同時にコンラッド代将、それからバック少将がいうには、将来の文明、ことに戦争、防衛というものについては、もうこれは通信がほとんどといっていいくらい重要性をもっている。……(略)……将来日本というものは、通信ならびに防衛というものを考えて、マイクロ・ウェーブはいかに重要性をもっているかということを、実は知って帰ってきました。帰ってきたとたんに、正力氏がテレビならびにマイクロ開発を当局に申請しておられることを発見しました。(同前六頁)

 アメリカの動きは、当時の世界戦略の上に立つものであった。もちろん、日本と同様の資本主義国のこと、大電機メーカーの献金で成り立つホワイトハウスの主などの、それなりの思惑は働いたことであろう。アメリカの財界も、戦後不況乗り切りに、必死の策をねっていたところである。そして、それらの動きを背景として、正力松太郎が日本で、マイクロ・ウェーブ構想をぶち上げたのである。

 なるほど、正力の構想は、そのままは実らなかった。しかし、当時のアメリカは、たとえば吉田茂と鳩山一郎の、双方にヒモをつけ、反共おどりの上手な方にテコいれをしていたのである。商売の常識としても、入札方式に典型的にあらわれるように、複数の取引相手に話を持ちかけ、競合させるのが達人なのである。

 結果からみて、世論は、より反動的に見えた正力構想が敗れたことに安心し、電電公社と防衛庁のマイクロ・ウェーブが、公共資金で大々的に建設されることを許したのであった。そして、一般国民には、代償として、全国ネットワークのスポーツ中継、ミッチーブーム、皇太子御成婚パレードの実況中継が、あたえられたのであった。

 オリンピック中継、野球中継、大相撲中継等々、全国ネット娯楽番組のうらで、違法な電波支配が進行していった。

 この間、なぜか、郵政省電波管理局の行政指導は、微妙な屈折を経ている。というのは、まず最初に一九五七(昭和三二)年四月、テレビ大量免許に当って、電波管理局は、つぎのように、新聞と放送との経営分離の圧力をかけている。

 「テレビ周波数割当て問題に関連して、浜田電波管理局長は、『新聞と放送事業とを分離することが、マスコミの公共性の見地から望ましい』という見解を発表した。既設ラジオ局は、ほとんど全部が各地方の有力新聞社をバックにしていたが、テレビ局免許を前にして、郵政当局側のこの発言は、相当な効果をもたらした。これがきっかけで、新潟日報とラジオ新潟、河北新報と東北放送、南日本新聞とラジオ南日本、北国新聞社と北陸放送などが、あいついで経営首脳部の兼任制をやめ、この分離傾向は、しだいに全国的に行きわたっていった」(『民間放送+年史』九五頁)

図 読売新聞・日本テレビ・グループによる、違法なネット局資本支配状況
  日本テレビ最近8年間の読売系取締役比率の変化
  日本テレビ最近8年間の主要株主持ち株比率の変化

読売新聞・日本テレビ・グループによる、違法なネット局資本支配状況

 この時期に出された通達(省令)も、以上の経過を裏づけている。資本の一〇%以下、役員の五%以下、現業役員の兼任禁止、ネット支配規制など、グループ企業を単位として、きびしく規定されている。

 ところが、すでにふれたように、田中角栄はハラ芸で読売系の兼務を見逃した。しかも、テレビの全国ネット体制が進行したのち、規制そのものをゆるめ、一九五九(昭和三四)年には、通達の簡略化とともに、見事な官僚作文がつけ加えられる(二六八頁資料参照)。

 第一には、ラジオ、テレビ、新聞の「三事業」の兼営という形で、新聞=放送という基本的な関係についての、すりかえをした。

 第二には、ほかに「有力な大衆情報の供給事業が存在する場合」などという条件を設定し、「大衆情報の独占的供給となるおそれのない場合は、この限りではない」(『一般放送事業者に対する根本基準第9条の適用の方針およびこれに基づく審査要領』より)という完全な抜け穴をつくったことである。

 これらの「行政指導」のねらいは、論より証拠、結果からみれば、ハッキリする。つまり、地方新聞が、ローカル・ラジオ局から、ついでローカル・テレビ局から追い出され、かわりに中央四大新聞と東京テレビ・キー局のネットワークが、全国に貫徹したのである。郵政省電波監理局が、「この限りではない」といった時には、すでに地方新聞の指定席は奪われていたわけである。

 このことと、さきにあげた共同通信からの三大紙の脱退事件とを、合せて考える時、中央紙による一九五〇年代の日本のマスコミ支配攻勢は、すさまじい謀略のにおいがしてくるではないか。

 さて、それから二〇年がすぎ、……


(第2章7)国会答弁のオリンピック競争