『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(1-5)

第一章 ―「現状」「現状」 5

―正力家と読売グループの支配体制はどうなっているか―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

正力家の御家騒動

 読売グループにおける正力松太郎の最後の主要な役職は、読売新聞社主、日本テレビ取締役会長であった。そして、この読売新聞と日本テレビの後継人事が、ともに難航した。読売新聞では、戦後の正力戦犯追放以来、社長は空席という変則人事であった。日本テレビには、社長はいたが、正力のワンマン支配下にあった。

 ワンマン体制そのものの後継者は、いなかった。正力松太郎の死が、一九六九(昭和四四)年一〇月九日、日本テレビ社長に女婿小林与三次が就任、副社長だった正力亨が非常勤取締役に落ちたのが、翌一九七〇年五月二九日、読売新聞社主に正力亨、社長に務台光雄が決定したのが、その翌日の五月三〇日である。その間、七ヵ月半以上も、両社は、正力松太郎なしの、旧体制のまま運営された。

 かげの暗闘は、どういうものだったのだろうか。

 務台光雄の半生記『闘魂の人』によると、読売新聞と日本テレビの社長えらびは、つぎのような経過をたどったことになっている。

 「粉飾決算という不名誉な事態に対処して、社長福井近夫が責任をとって退陣することは当然と考えられたが、そうすると副社長正力亨が社長になるというのが常識であった。正力松太郎と生前親しかった河合良成、石坂泰三といった財界人も、はじめはそう考えていた

 正力亨が日本テレビの副社長に就任したのは四三年一一月で、粉飾決算は四四年一○月だから、在職約一年後のできごとである。副社長だから最高責任はとっていないし、決算報告にもタッチしていない。

 実際上の責任はないわけだが、しかし事情を知らない第三者から見ると、責任がないとはいい切れない。

 そのような意見がいろいろ出てきた。副社長がそのまま副社長でいるならともかく、社長になるのはどうか、というのである。また何といっても正力亨は読売新聞の象徴であるから、傷つけるような結果になってはいけないという配慮も生まれた。……(略)……

 年があけて、二月のある日、小林与三次が務台光雄の部屋をたずねた。小林は読売グループの中枢に座る者である。小林も務台も当時代表権をもつ副社長であった。小林は単刀直入にいった。

 『務台さん、読売新聞の社長をやってくれ』

 唐突な申し入れに務台はおどろいた。口にこそ出さなかったが、はらのなかで、読売新聞の社長は小林副社長がやるのが一番いいと考えていた。……(略)……

 日本テレビの社長は読売から求めなければならない。一番いいのは正力亨で、これなら故正力松太の意思にも添い、いろいろの意墜もいいのだが、万一のことを考えなければならない。そこでいろいろと憶測や下馬評が出たが、いずれも帯に短し、たすきに長しで、適任者を見つけることは困難をきわめた。

 苦慮をつづけた務台は、万策つきて、小林与三次に日本テレビ社長就任を要請し、小林もこれを承知した。

 ……(略)……こうしてテレビは小林、新聞は務台という体制が確立した」(同書三四-三七頁、傍点は筆者 追記:引用内太字が原著傍点部分)

 この話は、なかなか含みがある。まず、正力家の長男亨を、はっきりいえば故人の「意思」に反して、日本テレビの社長とせず、読売新聞社の社主にまつりあげたということなのである。しかも、正力松太郎の末期の本物の「意思」(遺志?)は、遺言として残っていない。そして一説には、故人が正力姓の「武」の将来を案じていたというのである。

 「武」とは、正力亨の異母弟のことであり、正力姓を名乗り、いまも、よみうりランド常務取締役、日本テレビ非常勤取締役の地位にある。兄の亨よりも父親似であるが、控え目な人柄のため、正力の晩年、一九六六(昭和四一)年に日本テレビ入社、翌年には審議室長、取締役へと急速に昇進した時にも、それほど悪い評判は立たなかった。むしろ、社内では、上から下まで、ワンマン体制よりもよしとして、武の後継に期待する雰囲気があった。兄の亨よりも、はるかに人気があったのである。

 こういった正力家の男子直系をめぐる事情を背景に、務台と小林の間で、どういう話し合いが行なわれたのか。また、両者の駆け引きはなかったのか。

 「読売の社内事情に詳しい関係者がいう。

 『大正力が亡くなったとき、務台、小林の両氏は諸売の副社長だった。務台さんが販売、小林さんが編集と分担統轄していたのですが、正力さんは後任に小林さんを決めていた。でも、務台さんにすれば“いまの読売は俺がやらなければダメになる”くらいの気概と責任感に燃えていた。当時の役員もほとんど務台さんの息がかかっており、小林さんには批判や不満はなかったのだが、社内の大勢としては務台待望論の方が強かったんですよ。しかし、小林さん側にすると、たとえ女婿とはいえ正力家の一員である小林さんこそ、大正力の跡目を相続するもの、と思っても無理はない。

 そこで、業界の長老が両氏の間に分け入って、務台氏が当座の三期六年をやって、その後に小林氏に任せるということで収めたんです」(『経済界』一九七九年四月二四日号、五二頁)

 この約束の「六年」は、もう過ぎた。来年の一九八○年で、一〇年目になる。当時の務台の“気概”として、二〇〇億円の大手町新社屋建設、そしてその印刷・発送体制を土台とした対朝日新聞部数拡大競争があった。この目標は、やりとげられているのである。

 すでに正力の存命中、三田和夫は、『軍事研究』誌への連載で、小林与三次が中堅記者を「“勉強会”の講師」にしていること、務台が戦後の復社あいさつのコピーを全社員と新聞関係者に配ったことなどを記した。そして、正力の死の直後に、務台社長、ついで小林社長への“禅譲”体制を推測していた。

 このあたりの関係者の推測は、ほぼ当っているのであろう。しかし、正力家とその一族以外のものにとって、事態は“禅譲”ではすまなかった。

 問題の空白の七ヵ月半、日本テレビの上級職制たちは、なにかと口実をもうけては、読売新聞社通いをはじめた。口の悪い社員は、“参勤交代”といったそうである。つぎの実力者への期待感という、一種のフヌケ現象がつづいたのち、新しい独裁者が登場した。故ワンマン体制下の腐敗は、一挙に、新しいファッショ支配確立への、絶好のコヤシとして活用されることになった。

 詳細は省くが、日本テレビでの社内汚職の噂は、数知れなかった。読売新聞でも、にたような話が多かったらしく、元社会部記者の遠藤美佐雄が、みずから「私憤の書」と称する『大人になれない事件記者』のなかで、いくつかの暴露をしている。そして、読売新聞社から、名誉きそんの告訴もされたそうだ。しかも、遠藤の後輩にあたる三田和夫は、つぎのように報告している。

 「この著は、森脇文庫から刊行されたが、発売はされなかった。金久保編集総務の“社外活動”で、読売が買占めて絶版となり、陽の目をみないで断裁された」(『現代の眼』一九六五年九月号、一七四頁)

 “ダンサイ”という非常手段はとられたものの、この遠藤の著書は、国会図書館にも、日本新聞協会資料室にも、ちゃんと収容されている。そして、三田和夫の論文や著書と同様に、読売新聞の内部を探る指針となっているようだ。このあたりにも、マスコミの大読売と、ミニコミの対比が、はっきり現われているといえよう。

 それにしても、ダンサイとか、フンショとかは、言論人のする仕事ではないだろうが……。」


(第1章6)小林社長の無血クーデター