『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(1-3)

第一章 ―「現状」「現状」 3

―正力家と読売グループの支配体制はどうなっているか―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

正力タワーか読売新社屋か

 “密約”なり、“再建案”なりの結末は、翌一九七〇(昭和四五)年五月の株主総会まで、持ちこされた。そして、小林与三次社長の就任、秋には“無血クーデター”による、六名の前役員クビキリとなった。

 だが、その前に、粉飾事件と日本テレビ新役員人事の背景として、主要な要素をみておこう。

 当時計画中のものには、“正力タワー”と“読売新聞新社屋”があった。また、その前段には、“よみうりランド”建設にからむ、正力松太郎と務台光雄の激突があった。そして、それらを背景としつつ、読売グループなり正力一家の御家騒動がある。

 “正力タワー”計画は、新宿の一万坪の土地を買い足し、文字どおり世界一 ―― 五五〇メートルのテレビ塔と付属施設をつくろうというものであった。総工費は二〇〇億円とも二五〇億円ともいわれていたが、その資金ぐりの一環として、日本テレビの増資計画があった。資本金一二億円を二五億円とするものであり、この増資のための有価証券届出書が、大蔵省で引っかかったことになっているのである。

 増資一三億円のうち、一二億円は、株主に額面有償割当であり、一億円にあたる二〇万株は時価発行の予定であった。粉飾暴露後の大蔵省の指導は、一二億の増資を許可し、時価発行分のみ不許可としたもので、この点からみても、当時の日本テレビが優良会社だったことは証明されるのである。

 それはさておき、時価発行が成功すれば、ほぼ二億七四○○万円となり、有償配布の一二億円と合せて、一四億七四〇〇万円ほどの現金が、日本テレビにはいることになっていたわけである。

 二〇〇億円の資金ぐりには、まだ遠い。しかし、とりあえず、一〇億円内外の粉飾を是正するには充分である。そして、建設工事という、もっともヤミ金のつくりやすい仕事にかかれば、……というところだったようである。起工式は、すでに正力の死の前年、一九六八(昭和四三)年一〇月二四日に行なわれ、ホテル・ニューオータニに関係者四〇〇〇人を集めて、起工披露宴まで持たれた。

 しかも、正力タワーの建設責任者は、正力松太郎の長男、亨であった。この体制がつくられてしまった以上、ワンマン正力の健康以外に、この計画の推進をはばむものはなかった。

 ところが、このタワー計画の一方には、読売新聞の大手町新社屋計画が進行していた。完成は一九七一(昭和四六)年一〇月末であるが、「地下五階(実質六階)、地上一〇階建て、土地、輪転機、付帯設備を含めて総経費二三〇億円を要した」(『闘魂の人』三八頁)という。土地は元国有財産で、その確保には、一九六一(昭和三六)年以来、務台がとりくみ、大蔵大臣の田中角栄、池田首相、佐藤首相、福田、水田両大蔵大臣らと渡り合い、サンケイと張り合って、ついに入手したという。最後には、元官僚の小林与三次も、大蔵省国有財産局長らとの折衝に動いたという。しかも、その次第は、務台みずから自伝で宣伝している。

 しかし、この土地確保をはじめ、読売新聞本社の増強について、正力は熱心ではなかったようである。少なくとも、務台側の主張では、そういうことになっている。

 そこで、粉飾決算暴露の“投書”づくりも、その後の総会の黒幕も、務台光雄その人の画策ではないか、という推察も出てきたわけである。目的は、いわずと知れたこと、まずは"正力タワー〟つぶし、正力亨の動き封じ、である。結果として見ても、正力タワー計画は役員人事をいじらぬうちに消えたし、半年後、正力亨は、読売新聞社主にまつり上げられ、日本テレビでは平取締役に落ち、読売興業社長、巨人軍オーナーとはいうものの、まったく実権を奪われているのである。

 しかも、務台と正力松太郎との間には、すでに、よみうりランド建設と九州進出にからむ激突があり、その前にも、大阪進出に際してのサヤ当てがあった。


(第1章4)よみうりランドと九州進出