チェチェン総合情報

ハンガーストライキ 〜さらなる大地をめざして〜
文・報告/山口花能(フリージャーナリスト)

(写真:第二次チェチェン戦争に参戦したハリドと、その娘。
現在はアゼルバイジャンで難民生活を送っている。
(バクーのアパートにて。2003.11撮影))

 2004年もチェチェンをめぐる事件はいくつもあった。2月、カタールでヤンダルビーエフ(チェチェン独立派2代目大統領)がロシア連邦保安局の指示を受けた情報局員に暗殺され、5月にはカディロフ親露派政権大統領が爆殺された。8月末から9月にかけてはロシア国内でバス停爆破、地下鉄駅前爆破、旅客機2機の爆破墜落、そして北オセチア学校占拠事件と続いた。なかでも学校占拠事件は330人以上の人質が死亡するという大惨劇の結末となった。

 多くの事件を目にするとき、ニュースにならないような、つぶやきのような事象は忘れてしまいそうになる。しかし実際には、日の当たらない、声の届きにくい物事にも戦争の本質が隠されているのではないだろうか。それは日々、戦闘で死亡するロシア、チェチェン両軍の兵士の数であったり、チェチェン国外に逃れた20万とも30万ともいわれるチェチェン人難民のつぶやきだったりする。

世界の片隅からの声

 彼らの声に耳を傾けてみたい。私のメールアドレスを頼りに、メッセージを送ってくれた青年がいる。アゼルバイジャン共和国に住む、チェチェン難民の青年ハリド(仮名・23歳)だ。彼とは2003年11月、アゼルバイジャンの首都バクーで出会った。長身と肌の白さが印象的な青年だ。彼は第二次チェチェン戦争に参戦したことがある元兵士で、バクーでは難民生活のかたわら学校に通っていた。そのハリドが送ってきたメールには、ある声明が書かれてあった。アゼルバイジャンの国連難民高等弁務官あての声明で、国際難民認定の発給や、第三国への移送を願う内容であった。メールの内容からも、声明からも、せっぱつまった難民達の気持ちがつめこまれているようだ。以下に、ハリドからのメールを全文貼り付けるので読んでいただきたい。(以下はハリドからのメール。)


 「カノ(花能)、こんにちは。いかがお過ごしですか? 一つ、お伝えしたいことがあります。アゼルバイジャンに住むチェチェン人難民が数人、正月明けにも、自分達の厳しい生活状況を訴えるためハンガーストライキをする予定です。

 我々はこれまで何度も国連難民弁務官事務所に対し、国際的な難民認定の承認と、第三国への移送について嘆願を出していました、しかし、ほとんどの場合、拒否されています。 全世界でチェチェンでの大量虐殺について、また、ロシアが何を行っているかについて報じられています。チェチェンでは毎日のように人が行方不明になったり、殺されるので、祖国を逃れたチェチェン人は帰国することができません。

 カノ、もしできれば、ハンガーストライキについて情報を広めてください。私達には支援が必要なのです。我々に関心、支援の手を差し伸べてくださる人権団体にも、ぜひお伝えください。 日本からの支援を喜んでお受けします。 下記に、難民高等弁務官へ渡した声明を、お送りします。

国連難民高等弁務官 アゼルバイジャン事務所 ジャン・クロード・コンコロテ代表殿
チェチェン市民より

<声明>

国連難民高等弁務官アゼルバイジャン事務所は、これまで我々チェチェン人に国際難民認定を認めず、我々の問題について真剣に取り合いませんでした。住居費や食費が高騰し、チェチェン人の逮捕が増えています。また、病人への医療援助も行われていません。このような中、我々の生活は耐えられない状況となっています。 ?そこで、我々は自らの権利を守るため、具体的な行動を取ることにしました。つまり、国連難民高等弁務官が、早急に我々の要求を受け入れないのであれば、新年明けに我々はハンガーストライキを行います。

我々は以下の事を要求します。

1.至近に、国際難民認定を発給し、第三国へ移送すること。 あるいは、認定拒否の場合はその法的理由を説明すること。

2.第三国へ移送されるまで、経済援助を毎月定期的に支払い、その金額を現在より増額すること。

敬具
署名:・・・・・(安全のため伏せる)

バクー市、アゼルバイジャン


 民家が砲撃を受けたり、掃討作戦が日常的に行われているチェチェン。祖国を逃れて難民となった人たちは、避難先の国でも安住を得るわけではなく、慢性的な仕事不足、経済困難におちいっている。難民は生活資金がつきれば、戦火の祖国に戻るしかない。声明を読んでみて分かったことは、ハリドたちアゼルバイジャンのチェチェン難民は、アゼルバイジャンではない、さらに別の“どこか”を目指して、旅立とうとしているようだ。言うまでもないことだが、戦争状態さえ終われば、チェチェン難民は祖国へ戻れる。しかし、現状は帰国を許さないので、国連難民弁務官事務所を相手に、彼らはハンガーストライキをするしかないのだ。

第一次戦争 〜子ども時代〜

 2003年、私がハリドに出会って取材したときのことを書きたい。私は、彼が妻と小さな娘2人と一緒に住んでいるアパートを訪問した。そして彼の子ども時代の話から、聞き取りを始めた。 94年、ハリドが13歳のとき、第一次チェチェン戦争が勃発。ロシア軍の攻撃を避けて、彼は家族とともにダゲスタン(チェチェン東隣の国)に逃れ、難民となった。

 「戦争が始まると僕たちは、チェチェン国内にある親戚の住む村を転々とした。チェチェン全土で戦争が展開されたからです。戦争では当然、戦争で起こるべきすべての事が起きた。つまり空爆、銃撃があった。皆パニックになり、ほうぼうに逃げました。グローズヌイは空爆や長距離ロケット砲での攻撃をうけ、多くの一般市民が犠牲になった」

 彼のダゲスタンでの難民生活はどうだったのだろうか?

 「僕たちは一番勉強が必要な時期に、その機会が失われた。ダゲスタンには何万という難民が来て、人でごった返していた。どこかの避難所では何百人もの難民と一緒に生活したこともある。ダゲスタンとチェチェンの国境地域では、ほとんどのダゲスタンの家庭に、チェチェン難民が身を寄せていたよ」

第二次戦争 〜少年期〜

 ハリドは停戦になってからチェチェンに戻り、大学に通った。彼は大学に籍を置きながら、グーデルメスの警察機関でも働いていた。しかし99年に第二次戦争が始まると、ハリドは大学を去り、武器を持って仲間とともに自分の国家を守る決意をする。

 「僕は2年間大学で学んだが、愛国心があったし、ロシアは遅かれ早かれチェチェンに攻めこんでくると思ったので、祖国を守るために18歳で参戦した。400年のロシアとの戦争で、私の曽祖父も、祖父も父も戦ったから。僕は99年9月に入隊後、そのすぐ翌年の2000年2月、太ももに重症を負った」 

 ハリドが負傷したときの様子を聞いた。

 「それは冬の山岳地域での戦闘のときのことだ。ロシア軍の陣地にあと10メートルという所まで近づいたとき、ロシア軍が手榴弾を投げてきた。我々は受けたケガに気づかず、仲間の兵士が「手榴弾を投げるから、カバーしてくれ!」と言ったので、僕は立ち上がり機関銃を撃とうとしたんだ。しかし、そのとき太ももに重傷を負った。おそらく機関銃で撃たれたのだと思う」

 ハリドはケガを治すためにしばらく地下に隠れ、その後、家族とともにバクーに逃れてきた。 バクーのアパートで、これらの話をハリドから聴いたが、ハリドとともにインタビューに答えてくれたチェチェン軍の元兵士、ゼムリハン(仮名)の言葉も引用する。ゼムリハンは第一次戦争では兵士として参戦し、第二次戦争では部隊をまとめる指揮官だった。

 「私はロシア軍の自軍の兵士に対する待遇について発言したい。ハリドが負傷したときの戦闘では、ロシア軍部隊の約30名が戦死しました。その隣の山でも同じく戦闘があり、そこでもロシア軍に損害を与えました。この二度の戦闘で、ロシア兵が合計50〜60名死亡したにもかかわらず、ロシアではテレビや新聞でも、ニュースとしてまったく取り上げられませんでした。彼らは自軍の兵士にさえ、このような扱いをするのです。人間のできる行為ではない。そしてこのような出来事は皆に知らされる事はなく、何度も起きている」  

生き抜くという戦い

 今は戦線を離れたハリドとゼムリハンだが、現在は異国の地で家族を守りながら必死で暮らしている。銃を持って戦うことは過酷だけれど、難民として生き抜くこと、家族を守ることも、チェチェンの男達の戦いであると私は思う。バサーエフやプーチンといった覚えやすい“大物たち”について取りあげるのは戦争の情勢を語る上で重要なことだけれど、『戦争の人物録』に載らないような、市井の人々の声にも耳を傾けていたい。 寒空の下、正月明けにもハリドたちチェチェン難民は、国連難民弁務官事務所に対し、国際難民認定や、第三国への移送を求めるハンガーストライキを行う予定だ。

山口花能HP:http://www10.ocn.ne.jp/~kanoh/

ご意見、ご質問など、山口までお願いします。
山口メルアド kano74@peach.ocn.ne.jp

チェチェン難民支援を行っている『タノシイウツワの会』の紹介ページ
http://www3.vc-net.ne.jp/~neggys/tanoshiiutuwa3.htm