チェチェン総合情報

彼女は幼い人質たちにおっぱいを与えていた。
「オオカミはわたしが子供たちのために乳を搾ってやっているのをみて、自動小銃を向けた」

2004.12.02 ノーヴァヤ・ガゼータ89号 http://2004.novayagazeta.ru/nomer/2004/89n/n89n-s17.shtml

2004年、12月2日 ベスラン アンナ・ポリトコフスカヤ

第一中等学校の9月1日入学式で始まったこの秋も終わってしまった。ベスランでは冬が始まるという今、状況がよくなった人は誰もいない。 悪くなった人は、少なくとも4家族ある。行方不明のままで、公式には捜索中ということになっている子供たちの家族だ。つまり、まだ、遺体も見つからず、葬儀も、追悼の行事も、なく、子供たちが帰ってきたわけでもない。ゲオルギー・アガエフ、アスラン・キシエフ、ザリナ・ノルマトヴァ、全員1997年生まれ。そして、11歳の少女アザ・グメツオヴァだ。

ジョーリク

ジョーリク(ゲオルギーの愛称)・アガエフの母親、ジーファはほとんどずっと家を空けなくなった、待っているのだ。

「ひょっくりジョーリクが帰ったのに、私がいないなんて。そんなことになったらどうします?」どこか自分に向かってのように微笑みながら、ジーファが言う。「この町ではわたしを気がふれていると思っているけど、そうじゃないわ。うちのジョーリクは生きているけど、誰かが捕まえているのに違いないのよ」

ベスランで、行方不明の子供を持つ家族は二つに分かれている。ジーファのように、子どもはどこかでとらわれているのだと信じているものたち。そして、子どもは亡くなったのだが、その遺骸はだれかほかのものが埋葬してしまったのだと信じているものたち。ジーファが自分に許していることはただ二つ。一つはジョーリクの妹、11ヶ月のヴィーカチカを載せて乳母車を押して、一番近くの四つ辻にでていき、ジョーリクがそのうち帰ってくると信じている方向にじっと目をこらしていること。もう一カ所はジョーリクが学校に上がる前に通っていた「空色の電車」という幼稚園に行くことだ。そこに人道支援でもらうチョコレート菓子を届けに行く。これはジョーリクの兄で5年になった、サーシャとジーファが人質だったことに対してもらっているものだ。

「子どもたちはお菓子をたべて、ジョーリクのことを祈ってくれるわ。そうすればあの子も楽になるし。あそこで」と優しく説明するジーファ。

でも、どこなの、そのあそこって。わからない。誰にも。ジーファにも。つまり、頭がおかしくなっている?しかし、正常とはどういうことだろうか?まわりじゅう、期待を裏切るようなことだらけのときに、行方不明の息子を待ち続けること?それとも、待っていない、そこにこそ精神的な健全さがある?待たないほうが健全なの?

ジーファも人質になっていて、子どもたちにおっぱいを飲ませてやった母親だ。ジョーリクの妹が赤ん坊だったので、お乳がでたのだ。ジーファは自分のまわりにいる子どもたち皆におっぱいをのませてやって、それから、それを漉して、スプーンにしぼり、こどもたちはそれを回し飲みしたのだ。

「はじめは、こどもたちは直接お乳を吸ったの。ふつうに」とジーファ。

「あかちゃんじゃないのに?」

「もちろん。 這い寄ってきて、吸ったのよ。うちの上の子サーシャだって、もう10歳だったけど、喜んでそうしたわ。でも、ジョーリクはほしがらなかった。それでわたしはあの子の新しい短靴を脱がせた——サーシャと二人に新学期だから、お父さんが買ってやったものよ、ジョーリクがおっぱいを吸うのを恥ずかしがらないように、靴の中にお乳をしぼってやった。でも、革靴だから、すぐしみこんでしまうのよ。どうしていいかわからなかった。アザマートというほかの男の子が私が子どもたちにおっぱいを飲ませようとしているのを見て、自分のおばあちゃんをつついてこう言ったわ「おばあちゃん、僕にもおっぱいちょうだい!」「こんな歳でおっぱいなんかでないよ」そこで、わたしは言ったのよ「アザマート、こっちにおいで。あんたにもやるよ。ジョーリクが今場所を変わるからね」あのこたちはそうしました。そういうことを全部、あたしたちの向かいの、起爆装置のところにいたやつは見ていたの。そいつはオオカミに似ていた。そいつはわたしがおっぱいをやっているのに気づいて、あたしに自動小銃を向けるとねらいをつけた。あたしは、そいつが私を殺すことは怖くなかった。子どもたちが見ているところで殺されたら、困るなと思って、ちょっと、だましてやることにしたの。

ベスランの事件の責任は誰にあるのかということでいろいろとりざたされているわ、プーチンだ、ザソーホフだ、ジヤジコフだって、もちろんあのひとたちは責任があるけど、そのうちの誰がこの男、おっぱいを与えている女のひとに銃口を向けるこの男をそうし向けたわけでもない、そいつが自分で決めたことよ。選ぶ余地はあったのよ、たとえばこの「朝、昼、晩の食事」に気づかないふりをすることだって、それとも銃を構えるか…

 そこにそこまで聞いたときに、タメルラン・アガエフ、ジョリクやサーシャ、ヴィーカの父親でジーファの夫が入ってきた。タメルランのやつれた顔には悲しみと、攻撃の表情が張り付いていた。しかし、それはたちまち、解けていったが、なんと彼もジーファが必死で信じ込んでいる、息子は生きていて、戻ってこられるという思いで耐えていたのだ。

  ジーファは続ける:

「わたしは、トイレに行かせてもらった。それがどんなに大変だったか、とてもいえない。わたしは、もうだれも気にしなくなっていたので、その場で用をたしてしまうこともできたのだけど、わざと出ていくことにしたの。トイレは教室にあって、そこなら引き出しの中に必ずスプーンがあるはずだから。その通り、柄に花模様の彫り物のあるかわいいスプーンを見つけた。それをひっつかんだわ。このスプーンにこっそりお乳をためられるわ、とうれしかった。子どもたちにおっぱいをあげるのはずっとやりやすくなったし、危なくなかった。自分でもスプーンをなめて見たけど、おいしかったわ。わたしはおっぱいが出るからってほかの女の人たちがうらやましがって見ていたわ。突入のあと私が手術室に運び込まれたとき、衣服を脱がされて、このスプーンが転がり出たの。医師たちが「これはいったい何ですか?」というので「笑わないでね、このスプーンにお乳をしぼって子どもたちに与えていたの」と答えたわ。手術室は一瞬シーンとなって、長いことその静けさがはりつめていた。すべて憶えているわ。わたしは33歳。33歳という歳がとても怖かった、そして、こういうことになったのよ。9月3日には体育館の中がとても静かになった。テロリストたちはどこかへいってしまった、わたしたちと残っていたのはわずかよ。わたしたちはもう導火線の上を平気ではい回ってた、どうでもよくなっていたのよ。幻覚が始まってた、自分が棺に入っているような感じで。ジョーリクはびっくりしたのね、きっと、わたしから離れていった。

 それから ジーファは爆風で窓のそとに吹き飛ばされた。彼女の周りにいたものたちは皆焼け死んで、彼女だけが生き残った。顔の半分が爆発で損傷し、手術を受けた、再手術もしなければならない、 破片が4個のこっているがそれはそおっとしておくしかない。

「でも、わたしにとってはこんな傷や破片なんかたいしたことではないの、大事なのはジョーリクのこと。あの子が帰ってきたら、三度目の誕生を祝うわ——とジーファは何度も何度も繰り返す——「見て!ジョーリクが帰ってきたのよ!」って叫ぶわ。

そしてこの上なく幸せな微笑みを浮かべる。

「うちにはこれっぽっちも遺骸も運び込まれてこない、だから、ジョーリクは生きているのよ!」これはほとんど絶望して言っている。

この秋にベスランであちこちで見られたもの。 確認のためにロストフから遺骸の一部が運ばれてくる。ロストフから運ばれてきた中にジョリクは見つからなかった。そこには同い年ぐらいの少年たちのものがあったが、ジョリクではなかった。では、それは誰の子どもたちなのだろう? どうしてこれを求めている人たちが出てこなかったのだろう?

また、ジーファが今度は小さな声でささやく。

「わたしはもう絶対に木イチゴのジャムは食べないわ。はじめの2時間はとても恐ろしかった、サーシャがどこかへ行ってしまった。ジョリクが叫んだの「あいつがサーシャを殺しちゃった!」「これは映画の撮影なのよ」とわたし。ジョーリクは「でも、どうしてこうなってるの?本当のこと言えば?この流れてきたのは何なの?」わたしは「ジョーリク、これは木イチゴのシロップよ」と。

アーシク(アスランの愛称)

マリーナ・キシーエヴァは31歳、誕生日は11月1日なので、もう祝わなかった。フマラグ村に住んでいる。9月1日の事件のあとで彼女の家族は半分に減ってしまった。マリーナは息子を入学式に連れて行った夫のアルトゥールと 息子のアスラン、7歳で2年A組だったアーシクを失い、5歳の娘ミレナだけが残った。

ミレーナは幼いのにとても真剣で、驚いたことにアーシクはどうしたのなどと絶対訊かない。ただ、幼稚園には決して行かなくなった。そして家で女たちが泣き出すと黙って気を失うのだった。

アルトゥールはマリーナの夫で、「クラスでももっともいい父親だった」とアーシクの先生、ライーサ・カムブラートヴナザラガソヴァーキビゾヴァが語っている。アーシクをフマラーグからよい学校に通わせるためにベスランまでわざわざ連れて行くことにしたのはアルトウール自身だった。 彼は働いて、大学にも通っていたがアーシクを通わせていた。マリーナはアルトゥールのロシア経済商科大学ピャチゴルスク支部法学部の「立法」の学年論文を見せてくれる。9月1日の一日前にやっとピャチゴルスクから戻ってきた、自分で息子を入学式に連れて行くために。マリーナもいくつもりだったが、家に残ったのはまったく偶然だった。

「どうしてわたしが残ったのか。私だったら、あの子を連れ出したのに。アーシク!ちっぽけで、やせっこけていてゆかいな子。みんなに好かれていた、とってもはにかみやの」—マリーナはミレーナの前で泣き出さないように必死で眉を八の字にして我慢していた。

 そのかわり今泣いてばかりいるのはノンナ・キシーエヴァというアルトウールの母親でアーシクのおばあさんだ、彼女はウラジカフカスに住んでいたのだが今はフマラグにやってきている。よくできるアーシクをどの学校へ行かせるか家族で相談したとき、アルトウールが母親にひきとってくれと頼んだのだ、ウラジカフカスでロシア語で勉強できるように、フマラグではやはりオセチア語だから、将来、大学にいくにはやはりロシア語の教育を受けた方がいい、とアルトゥールは考えた。しかし、ノンナおばあちゃんは、そんなに責任重大な役目はとても果たせないとことわった、どこのおばあちゃんもそうだ。

今、ノンナおばあちゃんはどうにもならないほどつらい。アーシクの遺体もみつからない。アルトゥールは殺されたー9月1日ただちに。テロリストが守りを固め、爆破装置をあちこちつるすのに男たちは使われた。

「みんなの話じゃ、アルトゥールはこういったそうよ「自分の手で子どもたちを殺すほうがましだ」と、そして殺された」とノンナが説明する。

こうしてアーシクのパパはいなくなり、体育館でひとりぼっちになった。そこでライーサカムブラトヴナ先生のところにはっていきほとんど最後まで彼女と一緒だった。しきりに「アルトゥールはどこ?」と言い続けていた。

「パパはどこ?と訊かないのには驚きました」——小学校の先生らしくゆっくりライーサ先生が言う。「なんでも承知していたんでしょうけど、はっきりさせたくなかったんでしょう」

ライーサ先生は62歳、9月1日に彼女は先生としての勤続40年を迎えた。ライーサ先生は 経験を積んだ先生の多くがそうであるように頭をしっかりもたげて、しゃきっとしている——ベスランでどのように捜査が行われ、誰の責任であったのかなどごちゃごちゃで訳がわからない状態で、生き残った先生方の中に「見殺し」の犯人捜しが、検察と特務機関によってしくまれ、始まっている今でも。

「そう、生き延びた先生方が矢面に立たされているんです——先生方が 最後まで子どもに対する責任を果たさなかった、自分たちは生き残って、子どもたちが死んでしまった責任がある、と。誰かがあのとき誰かを救うことができたなんて信じないで。爆発の前にも後にももう誰も誰かを救うことなんかできませんでした。あの時の先生がたの義務はただ一つ。子どもたちの手本となって、支えとなってやることだけです。みなそうしていました。でもそれは爆発が起きるまでです。爆発のあとではもう誰も誰かを支えるなどできなかった。9月3日にはもうみんなが朦朧としてきていた。幻覚があらわれて…わたしはアーシクを守り続けたけれど最後にそれができなかった…9月1日には最初のグループとして体育館にはいりました、2年A組は一番前のほうだったので戸口に近かったんです。わたしは自分の担任の最前列に座っていました、その後ろに生徒と父兄が。爆発物はわたしの頭の上にありました。アルトゥール・キシエフは息子と一緒でした。 武装したものたちは「若いお父さんは全員前へ」といいました。5分後に全員廊下で撃ち殺されました。こうしてわたしの生徒二人が父親を失いました。ミシコフとキシエフです。わたしは生徒にいいました「子どもたちは撃たれないわ」アーシクはわたしの足下にいておなかがすいたといいました。わたしはできるだけのことをしました。最初の夜こんなことがありました。小さな男の子をつれた若いおかあさんがいて、その子が泣いていて、お母さんが泣きやませようとあやしたんですがどうしても泣きやまない。そのとき武装勢力は銃を向けて「黙らせろ」と眼で合図したのですが、やがて、ため息をつくと、水のはいった瓶を取り出して差し出したのです「これはおれの水だが、子どもにやれ。それとおれのチョコレート菓子だ、ハンカチに包んでしゃぶらせてやれ」と。おかあさんは毒が入っているんじゃないかとおびえていました。「どうせ、ここから生きては出られないんだから、今は子どもを黙らせたほうがいいわ」と私。おかあさんはお菓子をちぎって、赤ちゃんにしゃぶらせました。のこりの一つ半をわたしは背中に隠しました。そして大きな一切れをアーシクにちぎってやりました。残りもそっとちぎって担任の子どもたちにわたしました。二日目には水がまったくなくなって、トイレにも行かせてもらえなくなった。わたしは「その場でしなさい」と行ったので、こどもたちはほっとしてそうしました。男の子たちには瓶をわたしてそこにさせました。「その瓶から飲みなさい」こどもたちはゲーっとなりました。そこでわたしが担任だったことのある6年生の男の子がおしっこをまず飲みました。そんなに恐ろしいことではないのだと子どもたちにわからせるために鼻をつまみもしませんでした。わたしのあとから子どもたちも飲むようになり、アーシクもそうしました。9月3日の朝、5年生のカリーナメリコヴァが突然トイレに行きたいと言って、ゆるされました。そこでエンマ・ハサノヴナ・カリャーエヴァという彼女のお母さんで、初等部の先生は娘にこっそり、部屋の中にある観葉植物の葉をむしっておいでと命じました。トイレは部屋の中に穴をあけてあったからです。カリーナは葉っぱをたくさんちぎってノートの間に入れて持ってきました。こどもたちにこの葉っぱをあげました。 アーシクはこうして二日目に食べたのです。エンマもカリンカも亡くなりました。アーシクを最後の最後に見失ってしまったのは誰が悪いんでしょうか?突入の直前にはたくさんの人が苦しんでいました。何人も気を失って倒れていましたし、誰かがその上を踏みつけていました。タイーサ・カウルベコヴナ・ヘタグロヴァさんはオセチア語の先生でしたが、気分がわるくなって、私は先生の近くに張っていきました、壁際にひきずっていったのです、そうしなかったらみなにふみつけられてしまったでしょう。そのときアーシクをおいてきてしまったのです。それっきり。わたしは爆発も銃撃も知りません。世界が消えてしまったという感じ。わたしが気づいたのは特殊部隊がわたしを踏んづけていったからです。わたしの上をつぎつぎに踏みつけていくので、気づいて、はい出しました。周りには死体が重なり合っていました。わたしがどうして生き残ったのか?どうしてほかのものたちでないのか?なぜわたしの受け持ちの8年生の7人が死んでしまったのか?なぜ、62歳のわたしではなく彼らが死んだのか?アーシクはどこにいるのか?あの子は毎晩わたしの眼の前に子ネズミのようにはい出してくる…アーシクのお母さんのマリーナはやっとの思いで生きている、よくあうのでわかります。

マリーナはアーシクのノートを開けては眺めている、そればかりやっている。マリーナは学校に行って、二年A組の教室にあったすべてをひっくりかえして見てそこで一年生のときのアーシクのノートを見つけた。何時間もそのノートのページを繰っている、そこにはアーシクが一年生でできた唯一の書き取りが書いてある「5月18日、庭に野バラが咲いている。それは香りのいい花だ」これを繰り返し読んでいる。そのノートに釘付けになっているマリーナの後ろにはベッドがあり、アルトゥールがすきだったものが並べてある、たばこ、成績表、学生時代のもの、学年論文。そして その写真。厳しい顔と思慮深い目つき。ミレナはだまりこくって写真の前を動いていく、とても奇妙だ。「この子はわかっているんだろうけれど、はっきりさせたくないんでしょう」とアーシクのことをラリーサ先生がいったのと同じようにマリーナも娘のことを説明する。最初の2ヶ月は全くどうでもよかった。どこにもでかけなかったし、この子も家のことも放りっぱなし、わたしには用がなくなってしまった…自分だけしかなかった…蛇口をひねることができなかった。流水の音をきけなかった。どうして子どもたちに飲ませてやらなかったの?あの9月1日があった後でも皆が食べたり、飲んだりしていられるなんてたまらなかった…わたしは狂いそうだった。いまだって狂いそう。

「精神科の医者はきてくれましたか?」

「いいえ。精神科からは全く連絡がありません」

マリーナは新しいランドセルと一緒に届けられた手紙を見せてくれる。サンクトペテルブルグの小学生たちから アーシクにあてた人道支援。誰もがアーシクはいなくなったことを知っているのに、こんなものが?14歳の女の子イルーシャからの手紙「あの恐ろしい日を耐え抜いたあんたはよくやったあなたはすばらしい!」そして、文通しましょう、とある。

「どうして生存者のリストにうちの住所が入っているのか?」マリーナはそうきいて、無慈悲ないい加減さにいらだって泣いている。「ランドセルなんて耐え難い。精神的な支援の逆よ。だれも 私を助けてはくれないってわかったわ。何か自分でしなければ。じっとしているのはもうやめ。

手を振り上げて、自分の悲しみをちょっとでも脇に除けようとしているかのよう。誰かが何か知らせてくれるまで、ぼんやり待っていないで、自分から訪ね歩くことにした。

しかし、要求することは容易ではない。キシエフ家を悲しみの底に投げ込んだのは「ロストフでもアーシクはいない」と言うことで表される。ベスランでこれは次の意味を持つ:遺伝子検査が9月3日以降にロストフに持ち込まれた身体の一部に対して公式に行われその結果アスラン・キシエフの遺体と思われるものはロストフで見つからなかった。アーシク(アスランの愛称)はいない。そして遺体もない。そのかわりロストフには同年配の少年の遺体がふたつある。つまり?

つまり、残るは埋葬されている遺体を掘り起こすことだ、これは「人々が苦しまないように」と早々とすべての遺体をうめてしまうことにした人たちが計画している。ロストフの有名な軍司法医学研究室で遺体の確認がおこなわれたが、ここでは「できるだけ早く」という注文に応じてそして政治的な早急さから、化け物のようなこと、つまり、考え得る最悪のことが行われたのだ。ベスランではすでに誰もが認めることだが、空港にいく道沿いの新しい埋葬所はヒッチコック顔負けの光景だが、そこを掘り返すしかない。

「みんなアーシクは他の人のところにいるんだと思っている。誰かがあのこを連れて行って返そうとしていないんだ。アーザ・グメツオヴァの親御さんともあって、あの人たちと同じようにやるつもりよ。 アーシクの年齢の男の子のリストを検察でもらって、もう葬儀が行われた家族を回って、遺伝子検査にもう一度血液を提供してもらうように頼むつもりよ。

「検察ではまちがって埋葬されているにちがいないと思っているの」

「検察では親に協力を要請しているの?」

「していないけれど、ほのめかしているの。「自分の子どもの遺体を埋葬した人たちが、もう一度血液を出してくれたら、ロストフに残っている遺体と比べてみるの、そうしたらあきらかになるわ。」

これの意味するところは:マリーナが家々を回って、そこの家族に遺体の再発掘を頼むということ。検察はわかっていながらそれをおそれている、民衆の怒りが怖いのだ。そして、そのいやな役をもっとも辛い思いをしている人たちに押しつけている。いかにも、我が国らしい、「国家がやりそうな」やりかただ。

アーザ

ベスランで最初にこれを——家々をまわって再び血を提供してくれと頼んだのはサーシャグメツオヴァとリンマトルチノヴァ、アーザ・グメツオーヴァの両親だ。

「狂ってしまわないために。本当のこといえば、何かしないではいられないから。」とサーシャ。

彼もリンマも英雄的なひとたちだ。今のベスランですでに埋めた自分の子どもの墓を自発的に掘り起こしてもらうように家々を回って頼むなんて。

「最初、アーザは人質になっているんだと信じてました、—顔色の悪い憔悴したサーシャが説明する。この秋ずっと眠れていない、娘を救うことができなかった自分を責め続けている。「しだいに、妻もわたしもアーザは人質になってはいないとわかってきた。 9月4日にあったこととは次のような状態だったのだから。遺体の確認はパンツの色だった、それ以外の身体の部分でわかることはできなかった。ロストフに連れて行かれたのは黒くなっているものばかりだった。しかし、ロストフは全部を受け入れられず、ここにも検査もなしに残されていた。それをそれぞれの家族がパンツの色で見分けてひきとった。しかし、ここの町は小さい、ブティックがあるわけじゃなし、同じ市場で買ったもので同じパンツはたくさんあった。それでみんなごちゃごちゃになった。わたしたちはこれがわかった、自分で死体置き場をあちこち見て歩き、指の一本一本、袋の一つ一つを見て歩いた。

「よくそんなことに耐えられましたね?」

この気の利かない質問にもリンマの顔はまったくたじろぐ様子もなかった。

「私は自分に言い聞かせたの。<あそこにいた子どもたちほど辛い思いをしたものはいないわ。自分を惜しんだりしたらいけない>そして惜しまないの。いまわたしたちがアージクに最後にしてやれることは自分の子どもを埋葬してやること。ロストフにはうちの娘と同じ年格好の女の子の遺体があるの、うちの子じゃない。ということはどこかの家がこの女の子のかわりにうちの子を埋葬したのよ。たしかにそれはすごくたくさんの家々をたどっていかなければならないわ、それはわかっているわ」

「たどっていくって、死体再発掘のこと?」

「もちろんよ。検察でくれたリストでは他人の子を埋葬しているかもしれないのは38家族なの。同じ年格好の女の子が38人。ロストフに残っている遺体のかずと捜索されている子どもの数があっているということは確認のときに間違えただけだということよ」

9月1日、アザは初めて「お母さんと一緒でなく、お花も持たないで」学校に一人で行った。6年G組の友達同士でそう決めたのだった。スヴェータ・ツオイは朝鮮人でお母さんはマリーナ・パク、スヴェータは踊り手、思いつきが豊富で、子どもモード劇場のソリスト、彼女は9月27日にみつかった、遺伝子分析でみつかった、というのも足がなく、外見では見分けられなかったから。

もう一人の友達はエンマ・ハーエヴァ。文字通り元気に満ちあふれていた。即興で詩を作り、学校に行く途中近所のみんなと挨拶を交わし、おばあさんたちの健康をたずねたものだった。やはり、死亡していた。しかし、密閉の棺に葬られたのではない、運がよかった。

そして、アーザ。リンマとサーシャの目に入れても痛くない一人娘。リンマははたらいていなかった、 ベスランでかなえられるすべてをアーザに与えていた。踊り、歌、外国語、サークル、何でもやらせた。

あれは21世紀の人たちですもの。あの子たちをそう呼んでいたの。自分の子どもをほめるのはよくないけど、でも私たちとは違うから。とても積極的だった。たくさんのことを望んでいたわ。アーザは何に対しても自分の意見をもっていたし、いろいろ理屈を持っていたわ。

リンマは中等部の年齢なら誰でも書くようなふつうの学校のアンケートを見せてくれた。

名前、何になりたいか?興味があるのはシュワルグネッガーか隣のクラスの男の子ペーチャか?アーザのアンケートは違っていた。何が一番気になりますか? 答え:ロシア」おやまあ。このアンケートは9月1日の事件の後で見つかった。ソファの肘掛けと座る部分の間に隠されていた詩もそうだった。なぜ?

「わたしはあそこに行ってしまうわ。
なんでもあって、何でもできるところへ。
もう待つのは飽きたわ。
無理なのよ。
すべて、おきてしまった、
早過ぎも遅すぎもしない、
なぜって永遠なんだから、
なぜってすべてがこんなに複雑なんだもの、
わたしは天国行きの切符が用意されている、
そこにもうじき行けるわ
最初の便で、
それはもうちょっと簡単ね・・・

何かいい足りないのは間違いない。しかし、ここで見えていたことも明らかだ。

明らかなのはただ一つ、この三人は最初体育館の中であちこちに散らばっていたのに9月3日にはおたがいにはいよって集まったのだ、クラスメートのマヂーナサザノヴァがちょうど誕生日だったので皆で祝おうとしたのだ。全員が一緒に座っていたのが目撃されているが、それは 子どもたちを逃がすために爆破された、その壁際だった…つまり、ほかのものが救われるために、壁際にいたものたちが命を奪われたのだ。

「体育館のここに居たものでたすかったものは居ないと聞いています。となると、アーザを埋葬するだけです。それでおわり。つまり、リストに載っている住所を尋ね歩いてお願いする、それを仕事にするしかありません」とリンマは話を結んだ。

追伸の代わりに

「ノルド・オスト」「ベスラン」ともっとも最悪のシナリオを国民のために書き続けている国家機構を敬うことはできない。だのに、今起きていることを見てほしい。こっそり、だが、確実に、国家はすべてに対する責任を逃れようとしている。遺体の再発掘を容認した?もっとも辛い思いをしている人たちにすべてを押しつけてしまおうというのだ。葬儀を済ませた人たちを、まだできないで居るひとたちと衝突させる、そうすればザソーホフやプーチンに反対する集会など開かれない。そして、事件調査の真相など要求しなくなる、それどころでなくなるからだ…

いったいどこに「十分にいきとどいた精神科のケア」とやらがあるのだろうか?成果を報告するプーチンの報告書の中に?連邦と名付けられた政府はどこにあるのだろうか? 国家はすべてから手を引いてしまった。そして、ベスランは孤立無援で、ひっそりと狂っていく…・