チェチェン総合情報

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バイナフの運命

記事について

1944年の赤軍記念日、チェチェン人とイングーシ人の強制移住が突然開始された。この措置により、当時50万人のチェチェン人が半減したと言われる。貨車に載せられて移住先のカザフスタンに着き、列車を降りたチェチェンの人々は何一つない雪原に茫然とした。食糧も宿舎もなく、「凍った馬糞を割って、中に残った飼料のトウモロコシを茹でて食べた」と、かつて日本を訪れたチェチェンの閣僚が話した。

帝政ロシア、ソビエト時代を通じて、辺境民族がどのように扱われたかの一端が、この「バイナフの運命」に描写されている。注意すべきなのは、現在チェチェンでロシア軍との戦闘を続けているマスハードフ大統領ら、指導者層はほとんどが流刑先のカザフスタン生まれであることだ。どのような出来事にも前史はある。

なお、執筆者のコドゾエフ議員が希望を託すイングーシのルスラン・アウシェフ大統領は、2001年12月末に辞任。翌年4月にロシア連邦保安局(FSB)のムラート・ジアジコフ将軍が大統領に就任した。以来イングーシではチェチェン難民の追い出しが始まり、駐留ロシア軍部隊の増強も検討されている。戦火はチェチェンからイングーシにも拡大しかねない。(2002.10.20.大富亮/チェチェンニュース編集室)

バシール・コドゾエフ/ロシア連邦議会下院議員
翻訳協力:T.K

2月23日、56年前のこの日、バイナフ(コーカサス民の総称、主にチェチェン、イングーシ人を指す)の2民族の強制移住が始まった。すでにカラチャイ人、バルカル人、カルムイク人が同じ運命にあっており、まもなくクリミヤタタール人を始め、ブラックリストに載せられたいくつかの民族が同じ憂き目にあったのである。

1944年の強制移住の公式の口実となったのは、バイナフの人々が 「全国民的にソ連に対する裏切りを行った」という、内務人民委員部(NKVD)が作り上げた書類である。今でも第二次戦争中に1300人のチェチェン人とイングーシ人がドイツ側についたということを引き合いに出す資料がある。しかし様々な民族の転向者を集めたドイツ国防軍の「ムスリム」部隊でさえそれだけの人数はいなかった。

ドイツの軍はウラジカフカス近郊で止められて、チェチェンはおろかイングーシ国境にさえ到達できていなかったとき、大衆が敵と協力することなどありえなかった。したがって、チェチェン、イングーシの長老たちが白馬のたずなをとって占領者たちを迎えたなどというのはスターリン側の作り話に過ぎない。

強制移住の悲劇の真の理由は ソビエト政権が「背教者」を排除しようとしたことで、この民族の自立心がこの地域に型どおりの社会主義的なやり方を根付かせる邪魔になったのだ。それは何よりもコルホーズ、ソフホーズの制度(集団農場、国営農場)で、これはこの地方の伝統的なやり方と真っ向からぶつかるものであった。また新しい社会の人間を教育すると称して、宗教を愚弄したことだった。そのために20年間にわたって、チェチェンとイングーシでは常に赤軍や国家保安軍との衝突が発生していた。そうしたことが、この悲運を招いた。

私、下院議員のバシール・コドゾエフは、チェチェン人とイングーシ人が名誉回復され、もとの地へ戻って作ったチェチェン・イングーシ自治共和国で生まれた。しかし44年の2月の悪夢を家族たち、年長者たちは死ぬまで忘れることはない。彼らはカザフスタンの強制移住地カラガンダ(これは日本のシベリア抑留者も苦しんだ流刑地)の流刑地で暮らしたのだ。このことは代々語り伝えられている。

当時、1944年1月31日に採択された国家防衛委員会の決定、「全てのイングーシ人をカザフスタンとキルギスに移住させる」というものについては、当然ながらまだ誰も知らされて居なかった。しかし不穏な情勢は感じられていた。見たこともないような大勢の兵士や将校たちがチェチェン、イングーシに現れ、なんの説明もなくい きなり家々が彼らの宿舎に提供させられた。軍用トラックは家々の敷地内にも停車していた。

その後判明したことだが、44年のあの日までに、チェチェン・イングーシ共和国に12万人の兵員が送り込まれていたのだ。これは地元民の人口の実に四分の一という割合であった。2月の初めには 「移住」の噂が流れ始めた。というのも、近くではカラチャイ人たちの移住が既に起きていたからだ。しかし、そうした恐ろしいことは誰も最後の最後まで信じまいとしていた。人の常というものだろう。

強制移住の作戦開始の3日前に、その総指揮官であるラヴレンチイ・ベリヤ(スターリンの副官)とその部下のコブロフ、マムロフ、セロフが首都のグローズヌイに入った。そして2月23日の未明、追放の対象にならない「特別危険人物」の逮捕が始まり、内務人民委員部のいわゆる「排除すべき人物」の逮捕が始まった。居住区の各広場には、赤軍記念日の集会と称して14歳以上の男子、成人男子が集められ、そこで包囲されて自動小銃をつきつけられながら車に乗せられた。

他の兵士たちは家々から女性や子供を追い出し、鉄道駅に集めた。なぜか輸送に値しないと判断された僻地や山岳集落の住人たちは、その場で輸送員数からはずされた。すなわち、残虐に始末されてしまった。こうしてチェチェンのハイバフ村の住人700人が、コルホーズの馬屋で焼き殺された。

この作戦は6日間続いたのち、チェチェン・イングーシは閑散としてきて、ベリヤは46万人を追放したとスターリンに報告した。それだけではなかった。人民委員部の血塗れの手がソ連のために戦線で闘って帰ってきたチェチェン・イングーシ人やヴォルガ以西の各地にいたバイナフたちを襲った。1944年の10月までに内務人民委員部のデータでは、特別居住者の数は40万6千人より減っている。その他は食料もない冷たい汽車の中や、置き去りにされた荒野で死んでしまったのだ。

このような流刑は12年間続いたが、彼らが故郷に戻ることが許されてからも、問題は残っていた。まさにそこで、流血のチェチェン戦争やプリゴロードヌイ地区での悲劇のタネが蒔かれたのだ。イングーシの人々が新たに追放の地にあるとき、1992年の秋に僅かに残っている安定も、崩れてしまうかと思われた。元のチェチェンイングーシ共和国から別れたばかりのイングーシがチェチェンと同じ道を行きそうだった。

しかしイングーシのバランス感覚の良い指導者ルスラン・アウシェフ(当時大統領)のおかげで、これは避けられた。彼は報復の欲求を抑えることができたのだ。多くの困難はあるにせよ、またこの痛みが癒えるにはまだまだ何年もかかるだろうが、平和は取り戻されるだろう。いずれにせよ大部分のイングーシ人はロシアから別れた国家となるつもりはない。

チェチェンでは1997年—99年の独立の時にも、こうした指導者が現れなかった。ロシア連邦と新しい関係を作る現実的な可能性もあったのに。共和国全体を支配してきた野戦司令官たちが支配力を強めこれがイングーシにも打撃を与えた。略奪や誘拐で、イングーシの人たちは北コーカサスの他の共和国や地方の人々と同じく苦しんできた。イングーシ自身がいまでもプリゴロド地区からのイングーシ人の難民流入に音を上げており、その痛みや悔しさを飲み込んで、なお数十万のチェチェン人を受け入れている。

結局民衆は、流血、復讐、破壊の習慣を乗り越えることができるようになるだろう。 「バイナフのロシア人に対する400年戦争」というのも、和解しがたい者たちのプロパガンダに過ぎない。16世紀にテレク河の流域にコサックの前哨基地ができた時から、第一次コーカサス戦争までの間にロシアの積極的に対決したのはわずかな山岳部族だけで、それは彼らの生業が山岳ゲリラの存在形態を守ることだったからである。大部分のバイナフの新しい入植者たちとの関係は悪くなかった。

その後1944年の強制移住を初めとして様々なことが起きたのだ。しかし、その責任はロシア国民にあるのではなく、彼らの良心ある代表者たちはむしろ不運な者たちをできるだけ助けようと手をさしのべたのだ。強制移住の責任は、スターリン体制のノメンクラトウーラ体質にあった。

そして今のイングーシ共和国は、ロシア連邦のなかにあって平和政策を進め、話し合いで問題を解決しようとしている国として、北コーカサスの地域で善隣関係を確立する有効な実例となりうるのではないかと私は考えている。

独立新聞 2000年2月23日
http://www.ng.ru/regions/2000-02-23/4_desteny.html