<オンライン講演録>
国家構造の根本的転換を目論む反動的改憲阻止のために−−「公益」の名による権利の包括的制限

講師:弁護士 冠木克彦さん


 オンライン講演録第二弾は、昨年7月2日に行われた「憲法改悪、教育基本法改悪に反対する連続講座第5回 「国家構造の根本的転換を目論む反動的改憲阻止のために−−『公益』の名による権利の包括的制限」である。講師の冠木克彦さんに若干の加筆訂正をしていただいた。なお、小見出しなどは署名事務局の責任で追加したものである。「近代憲法の意味と日本国憲法の意義(上)(下)」岩本勲さん(大阪産業大学・政治学)と併せて学習会などで活用していただきたい。
 私たちが作成したマンガ・リーフレット「ヒトを縛る自民党新憲法案」は、この2つの講演内容に大きく依拠している。マンガ・リーフレットの拡大や学習の際にも、ぜひこのオンライン講演録を参考に使っていただきたい。

※<オンライン講演録>
 近代憲法の意味と日本国憲法の意義(上)
 近代憲法の意味と日本国憲法の意義(下)

マンガ・リーフレット「ヒトを縛る自民党新憲法案」


2007年5月25日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局



[1]政府支配層による憲法改悪の背景と衝動力

(1)次々と提出される反動諸法案と改憲の恐ろしい狙い−−食えない若者を戦地に送り込む
 自民党改憲案は見れば見るほど、最初はよく分からなかったのですが、隠れた形で根本的な改悪になっているということが分かってきました。
 憲法の改悪というような問題を考える場合、抽象的に考えるのではなく、それを推し進めている政党、その勢力が、いま現にどういうことを進めておるかということをまず考えた方がよく分かるわけであります。ごく最近、新聞資料をちょっと見ただけで、非常に大きな特徴がずっと出てきている。法案の問題で言いますと、3悪法(教基法改悪、共謀罪法、国民投票法)は、特に共謀罪などというものは、われわれのこれまでの常識からすればとんでもない法律であります。
 一方、新聞紙上を騒がせておりますのは、もっぱら格差の拡大の問題です。最近の医療法の改悪問題、それから、住民税の高齢者に対する負担を上げるというような問題の中で、まさに棄民に近いような事実が出ているわけです。高齢者の住民税の免除が無くなることになって、「香典だって払えない」というような新聞の見出しが踊っている。格差拡大の中で、若い労働者が仕事ができずに、あるいはクビにされて、全く行き場が無いというような状況があります。
 また、9条の問題との関係では、防衛庁の省への格上げと海外任務の本務への編入があります。海外任務の本務編入ということで言いますと、あとは外国で通常兵器を使ったドンパチがまだできない、というだけの問題で、あとは全部できるということになる。さらに、自民党が用意しておりますのは、国連決議なしで自衛隊の派遣ができる恒久法を作るということです。これは3日ほど前の新聞に出ておりました。私は今日、憲法の何が改悪されるのかという話をするのですが、9条との関係では現在すでに改悪の中身を先取りするような形で、ずうっと事態は進行している。一方で格差の問題は、ほったらかしにしておいて、こういう状態のまま続けていって、ここから出てくる矛盾をどういう形で押さえつけるのか、解決するのか、というような形の問題になってきている。
 教育基本法の改悪の問題についても、全国連絡会の三宅晶子さんが、教基法の改悪というのは、実は労働問題だと言っています。結局、複線化にして、金持ちの子弟はどんどん高級で良い教育を受けられるようにしながら、あとの圧倒的多数の子弟は劣悪な教育条件の下で切り捨てられていく。そういうような方式が、この教育基本法の中で出ておるわけであります。必ず、そういう形にすれば文句が出て、誰かが反抗する訳ですけれども、それをしないように愛国心の問題と国家主義に基づく強権的な支配ということが予定されている。
 こういった流れを見ると、簡単に言えば、結局日本の自民党政権は、アメリカがやっているイラクの問題を見ていて、あれだけアメリカからイラクに行って米兵が死んでいる、この間の新聞で約2300人ですが、ざっと3000人ぐらい死んでもらったらあんなことができるんだ、という考えになっているのではないか。それでも、行ってくれる人がいないと困るわけで、それもアメリカに倣ったら良いと考えているのではないか。アメリカでは、食えない人々が「志願」してイラクへ行っている訳です。アメリカでは差別が厳しくて、貧しくてハンデを負った若者がいろいろな資格を取ろうとすれば、兵役に行くという事が一つの活路になっている。志願して、軍隊に行って、そこの経験でやっと食える何らかの資格なり免許をもらって、生活を立てよう、という希望を持って行っている訳です。日本においても、食えない若者を作っていけば良いんじゃないか、という発想と一致しているのではないか。そういうように考えると、まことに恐ろしい。その恐ろしいというのは単なる危惧ではなくて、まさに改憲の内容がそういう恐ろしいものになっている。その点をじっくりと見て、現に彼らが一体何をしようとしているのかを、はっきりと私たちはつかまなければいけない、と思います。


(2)国家構造の根本的な転換を目指す自民党新憲法草案−−海外への軍事的進出と国内での基本的人権剥奪はワンセット
 改憲草案ですが、改憲するのであれば、自由民主党改憲草案と書けばいいのに、自由民主党新憲法草案と書いている。最初は気にしなかったのですが、そうだ、これは改憲と違うのだ、新憲法を作るんだ、ということに気がつきました。現行憲法の前文には、我々はこれに反する一切の憲法法令及び詔勅を排除する、というのが書いてある。この憲法に反する憲法を許さない、と書いてある。これはなかなかの憲法であります。つまり、この憲法において、改正手続きをとって改正したとしても、この憲法に反する憲法はアカンというのが面白いですね。ただ、実際は、やってしまった場合にどうすることもできない、という問題があるわけです。
 その憲法の趣旨というのは、前文のところで書いているように、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権というこの人類の歴史の中で普遍的な価値−−普遍的な価値の三原則と言っておりますが−−です。これに反する憲法改正はできないというのが、私たちが憲法を学んだ原則であります。
 それを意識しているのか、していないのかは知りません。しかし、改正ではないのだと、新憲法になるんだ、というのが自民党の考えであって、だからこそ私は、今日のテーマに書いておりますように、自民党が「国家構造の根本的な転換」をこの改訂において図ろうとしていると考えています。だからこそ私は、根本的に何を変化させようとしているかという問題をレジメで提起しております。その内容は、先ほど言いましたように、海外における権益の確保、海外への軍隊の進出、侵略行為の加担ということが、大っぴらにできるような形の改正にしようということが一つ、そしてもしそういう風にするとすれば、国内における基本的人権は大幅に制限しなければ、そのような国家行為はできないと考えていることがもう一つ、この二つだと思います。
 西原さんは、憲法9条だけじゃない、憲法9条だけが変えられるんだと突っ張っていたらあきませんよ、とおっしゃった。その通りです。憲法9条を変えようと思うならば、国内の体制を変えなければ、それを満足に追求することはできない。その中では、様々な日本国民の権利を制限しないといけないというこの二つが、表裏一体の形になっています。これが根本的に社会の変化ということになっています。
 変化というのは、我々の社会の変化ではないのです。彼ら自民党を支えている支配層のいろいろな都合が変化を引き起こしている。アメリカ軍と一緒に行かないことには、日本の財界が大きな顔をしたり、そこでの権益を確保することができないと、彼らはおそらく考えておるに違いない。事実はそうなんですが、私が今言った形で変えなければならないと自民党は言わない訳です。余り大したことは変えないよ、という形で持ち出してきた。だからこそこれは根本的な改悪であって、詐欺的な変更だ、と私は考えるのです。


(3)改憲のために煽られる民族主義と北朝鮮の脅威
 しかし、憲法を変えるというのは、新聞でも書いていましたように、針の穴に糸を通す様に、やはり多数を取っていても極めて難しい。民主党の議員に聞いたのですが、憲法の改悪という事をやろうとすれば、もちろん国民投票法というような手続き規定が作られた上でのことですが、いざやろうというときには、一つのきっかけをつかんでどっとやらないとできないでしょうな、と。そのどっとやるきっかけですが、これはやはり民族主義を煽ることになるでしょう。一番悪者にされるのは、多分、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)になるだろうと思います。そういう何らかの危機をつかまえて、社会不安に乗じて、改憲というように持っていくのではないか。いわゆる不安を醸成させて、衝動的に危機からの脱出は憲法を変えるしかない、という形でやろうとするのではないか。その準備をいま、彼らはやっていると見なければなりません。
 余談ですが、ベストセラーで「国家の品格」というのが出ていますが、ひどい本ですね。著者は藤原正彦、どこか大学の教授ですよね。ずうーっと読んでいくと、最終的な結論は、日本には武士道があるから、差別なんか存在しない、武士道の惻隠の情があるから、と。惻隠の情、哀れみの情、武士の情けじゃ、と。哀れみの情があれば、差別はなくなる、よくこんなことを大学の教授が書けますね。ほかにもいろいろあるんですが、私が最も大事にしなければならないと思う人権について述べます。西洋的な自由や人権、民主主義など、そんなものはくだらないことだ、そういうように書いてある。一般に一つの主張をしようとすれば、最も普遍的に価値として公表されているものについて、自分はどのように考えて、その一部についてはこう考えて、それについては日本にはこういう思想がある、と書くのなら分かります。ところが、自由や民主主義や人権など、そんなくだらないものは外国から来たんだと、そんな言い方です。こんな本がベストセラーにされているんだから、日本における思想状況が非常に危険なものになっているということを、私たちは注意しなければならない、と思います。
 最終的に、民族主義をおだてて、という形で行くと、竹島の問題だとか、尖閣列島の問題だとか、北朝鮮の問題だとか気になりますよね。それを彼らが、どのように誘導していくかということを私たちは、十分に見ておかねばならないと思います。


(4)財界が一斉に憲法改悪を提言−−海外の権益確保のための軍事力を露骨に要求
 改憲がズシッと前に出てきておりますが、それは日本の経済団体の全てが、初めて口をそろえて、改憲だと言い出したことが背景にあります。日本経団連が2005年1月に出した「わが国の基本問題を考える、これからの日本」という題の報告書があります。この中で、こう言っています。「日米同盟の下で、自衛隊は存在することによる抑止力としての機能が中心であった。内外の安心、安全の確保や世界平和のために協力・貢献、ひいては、国益に資する国のための組織として、有効に機能することは、いわば否定されてきた」、だから有効に機能させなければならない、こういうことを経団連が真正面から言い出している。このあたりは、非常に恐いところであります。
 また、雰囲気的に変わってきている背景には、日本の企業が国際的に支店をどんどん持って、海外支店勤務者がたくさん生まれているということがある。例えばシャープという会社も全世界的に支店を持っている。そのシャープの社員ばっかりを運ぶ旅行社ができている。それで成り立っている。シャープの社員が日常的に日本から海外に行く、あるいは帰ってくる、そういうことで成り立っている。また、奈良の高級住宅地に住んでいるある人の奥さんは、バスの中で、ドイツに行ったとか海外旅行の話をしている。そんな雰囲気がある。それは、私の主人が海外勤務に行くが、向こうで何か起こったら、誰が助けてくれるんだ、という話なのです。
 昔、十数年前、若王子さんという人がマニラで誘拐された事件がありました。その時、石原慎太郎が何を言ったかというと、あの若王子さんを軍隊を持っていって救出できないような国は国家か、と。そのような発想が、すでに出てきている。これはまだ明確な解釈としては確定はしていないんですが、第9条の改憲案の中の、自衛軍を作りますというところで、その自衛軍の任務の中で余り見慣れない規定が書かれている。「国民の生命もしくは自由を守るための活動を行うことができる。」普通、これは警察の任務なんです。国民の財産を守ったり、国民の生命、身体の安全を確保したりは警察の任務としてあるんだけれども、この第9条の改憲案の中に、自衛軍の任務として出てきている。この点について、社民党の議員さんが中国に行ったときに中国の人から聞かれた。こう書いてあるが、これを持って中国に侵略してくるのか、と。アメリカがパナマに行ったりとか、中南米に侵略していた歴史がたくさんありますが、必ず、その時には、自国民の保護ということを名目に行きました。パナマでは大統領を逮捕して帰ってくる、それも国民の保護のためにやっている、そういうアメリカのやり方がありますが、被害を受けた国はこの規定を見て、日本人の救出のためとして侵略してくるのではないか、ということを既に言っているわけです。



[2]自民党新憲法草案前文に見る危険

(1)“自由主義”(新自由主義的市場原理主義)、“資本の自由”を「不変の価値」と宣言
 このように問題点はたくさんあるのですが、要は、権利の関係と国家制度という問題になります。まずは、憲法前文の改悪の所をじっくりと見て頂くと、この中にだいたいの所は全部出ておるのであります。
 自民党の改憲案ですが、「象徴天皇制は、これを維持する。また国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。」
 日本国憲法には、自由という言葉は出てきますが、自由主義という言葉は出てきません。たしかに、自民党の「要綱」とか「論点整理」には“自由”というのは書いてある。しかし“自由主義”というのは初めてです。自由主義というのは厳密に言うと、政治思想の一つの立場だと私は思います。民主主義という場合は、“統治機構のあり方”がありますから、一般的に民主主義のいろんな形態があり、大きなところで民主主義ということでそれを使っている。それはあるんです。
 ところが“自由主義”と言われると一つの価値観が前提となります。元々歴史的に現れた段階で言うと、レッセフェールであって、金持ちが好き勝手に企業活動をやって、そこに犠牲が出ようが勝手だと。とにかく、ドンドンドンドン働かして、好き勝手に企業活動をやっていけば、この世の中は幸せになるんだというのがレッセフェールです。そして、その自由主義に基づいて、被害を受けてこようがどうしようが、それは被害を受けたお前が悪い。その言い方の新しい形が現在の“新自由主義”です。やはり自由主義と言っています。
 自由主義の場合はイデオロギーというような側面もあったんですが、新自由主義の方は、あからさまに弱肉強食の世界というものを大前提にしていく。そういう自由主義というものを自民党新憲法草案前文に使っている。中身で言えば、経済活動の自由であって、市場主義の自由、市場原理主義、新自由主義−−そういう競争社会という一定の形が入っている。その自由主義というものをここに入れる。政治的イデオロギーをここに入れている。こんなのはないんじゃないですか。これは書き間違いだと思ったんだけども、そうじゃない、と後で分かって来るんです。やはり、自由主義なんです。現在の競争社会と市場原理主義、効率社会、それを前提にしているということが、後になって、基本的人権のところで出て来るんです。だからこれは自由主義です。


(2)異質な概念をごちゃ混ぜにして、3つの憲法の基本原則(国民主権、基本的人権、平和主義)を徹底して薄める
 「国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権、平和主義と国際協調主義」−−自民党の草案ではこれを対になるように書いていますが、これはセットにも対にもならないんです。国民主権というのは、国家権力の正当性の根源を示しているものであって、少数者を含む全国民を基礎にした正当性の根拠を国民主権という。民主主義というのは、統治手段であって、多数決を意味する。だから、国民主権と民主主義というのをここで並列的に並べて、セットで言うものではない。違うものをセットで入れるとどちらかを他方で薄めてしまい、ゴチャゴチャにしてしまって、分からなくしてしまう効果がありますから、ここで国民主権と民主主義をゴチャ混ぜにしたとすると、国民主権と言っている話が、多数決の民主主義の話になります。そういう形で、薄められてしまうのです。
 今言いましたように、自由主義と基本的人権なんて絶対にこんなものは対になりません。基本的人権の話は後でしますけれども、自由主義的基本的人権もあれば、生存権的基本的人権もあるわけでありまして、自由主義と基本的人権が、セットで並び立つという事は絶対にない。おそらく、現在の我々の権利の問題から言うならば、ここでの自由主義、つまり市場原理主義だとか、経済活動の自由だとか、市場主義、それから効率主義、そういうものは、現在の私たちの様々な多数者の基本的人権を擁護するためには、むしろ、それに敵対して、制限しなければならない対象物です。それをこの自民党改憲草案は、憲法前文に入れている。だから、自由主義と基本的人権をくっつけたとするならば、どちらかを薄める形というのは明らかです。基本的人権の意味を自由主義的にグチャグチャにしてしまうということです。意味のない解釈にしてしまうんです。
 もう一つはっきりしていることは、平和主義と国際協調主義と書いてありますが、ここで書いてある国際協調主義というのは、文章上からも、これまでの歴史からも明らかなように、アメリカと一緒になって外国に侵略に行くということです。ここでも平和主義というのは、今までの非武装平和、戦争放棄、軍隊放棄というこれまで私たちが考えてきた平和とは全く違うものものであって、イラクのように侵略していってもそれが平和なんだ、という平和です。ここで、国際協調主義と平和主義をゴチャ混ぜにしていることは、平和と言ったって、ブッシュの平和ですよ、ということがここで言える訳です。この憲法前文の中で、最もひどいところは、今申し上げたところです。このひどいことを前提にしながら、次の段落があります。


(3)愛国心も医療や福祉や介護も教育も、国民の「責務」「義務」だらけの前文
 「日本国民は帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。」
 これ、国家が何か良いことをやってくれるのかな、と読んだらあきません。「日本国民は」と書いてある。日本国民は、こんな義務があるんだ、と。国家とは書いていない。国民は一杯しなければなりません。「日本国民は帰属する国や社会を」愛さないといけない。責任感と気概まで持たないといけない。やる気を出さないといけない。「自ら支え守る責務を共有し」、つまり義務ばっかり共有し、そして、「自由かつ公正で活力ある社会」。これは、先ほど言った、やはり自由主義、今の競争社会、効率社会、それが「自由かつ公正で活力ある社会」。こういう「自由かつ公正で活力ある社会」を作るんだ、改革しなければならない、とやってきたのが小泉改革です。だから、この中身というのが、新自由主義に基づくこの改革であり、社会であるわけです。
 「国民福祉の充実を図り」。国民福祉の充実を国家が図ってくれるのは結構だけども、なぜ、我々が国民福祉の充実を図らなければならないのか。これで言うと、国民福祉の充実を図るために、お前らは金を出せ、という意味なんです。それしかないでしょう。私らが社会福祉のために何かできるか。社会福祉のいろいろな制度を作って、いろいろな施設を作って、そこで介護をしたり、いろいろな事をやってくれるのは国とか、地方公共団体です。それを仮に民営化したとして、そこでの費用が発生します。我々国民ができることは、そこへお金を出すことしかないんじゃないか。
 もう一つは、“家族の義務”です。今、医療だとか、老人保健施設だとか、介護療養型の施設の改悪かが出てきておりますが、これも施設に入れるのではなしに、家族が引き取れということです。「国民福祉の充実を図」るというのが国民の義務として出てくる。大変なことです。金をいくら取られるか分かりません。
 次は、「教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する」。地方自治の発展も国民の義務として出てくるのでしょう。本来、国家が行わなければならない問題が皆、国民の義務ということになって、いわゆる小さな政府論に合致するようになる。
 次の段落は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。」今まで余り出ていなかったことです。今までは、平和という言葉がよく出てきた。今度は、正義とか秩序という問題が出てくる。だいたい、正義とか秩序と嬉しそうに言ってきたのは、ブッシュであります。それにくっついて行ったのが小泉でありまして、小泉などは、今は国賓待遇の歓待を受けて、プレスリーの家に行って、ルンルンにやっているけど、そのブッシュと小泉の言っていたやり方が、アメリカの侵略行為に協力する、協力するためのあらゆる負担を国民がするということです。「国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。」アメリカが、イラクに対して、人権侵害の国だとか、そういう形で攻めて行っておりますが、それと同じことをここで提起しております。
 「日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがいのない地球の環境を守るため、力を尽くす。」これは、国がしないといけないんではないか。こういうことが全部、「日本国民は」になっている。



[3]国家権力と闘うための人民の権利はどう保障されているか

(1)「憲法とは何か」については、国民主権を中心に据えて考えると整理が付く−−憲法とは、主権者である国民が国家権力を縛るためのもの
 ここから憲法とは何かということを話します。憲法とは何かという話は、第一回講座の西原先生のところできっちりと言われたと思うのですが、これまでの根本的な考え方を変えてしまう方向性が出ている。これは自民党の改憲案ですが、民主党の創憲案の中でも、こんなひどいのではありませんが、発想としては同じものがちょっと出てきている。民主党の発想の中には、「国民の責務」というのは、さすがに言わない。「国民の義務」の強調などは、余りよろしくないだろうというような言い方もここに書いてある。何を言うかというと、「国民の責務」ではなしに、「共同の責務」という言葉を、民主党は作ってきました。これは、国民と国家というものを「共同の責務」としてくくっている。確かにその中では、明確に書いていません。例えば、環境については、国民も努力しなければならない、とか。そういうことは書いていますが、民主党の改憲案の中には、具体的には出ていません。ただ、発想では、よく似たことが出てきているということを知っておかないといけません。
 憲法というのは、極めて政治的な規範であって、国内の諸階層や階層間の力関係の反映でありました。斎藤貴男さんが述べているように、自民党の改憲案というのは、自民党を支持している階級や階層が考えている都合に従って書かれているものである。だから、この中に対立と抗争が常にある。何よりも、国家というものは、権力という問題を中心に据えなければなりません。
 ある組合に私は話をしに行ったことがあるんですが、組合大会で方針案を作って十分に審議するのと同じことをすると思っていては大変なことになりますよ、と言ったことがあります。権力という問題、つまり、国ということの要素として、通常は三つ言われる。“国土”と“国民”と“統治機構”です。“国土”と“国民”というのは、例えば、ある一定の時期を通じて変わらなくある。戦争で“国土”が変わったこともあるが、それにしても、“国土”、それから“国民”というのは、常に変わらないである。だから、時々のこの国、この国に対する愛国心ということを言った場合、ある“統治機構”がその国にある訳でして、具体的には、その“統治機構”に対する問題が愛国心だとかの対象になってくる。だから、国家を考える場合に、一番大きな要素は、“統治機構”であって、“統治機構”なしに国家とは言わない。「国土があった」って言っても、それは「歴史があった」と言う訳であって、“国土”とは言わないでしょう。土地があって、住民がおる。それは、歴史上あったはずです。そこで、国といったものができたというのは、その国というのは単なる地理的なものでも何でもない。“統治機構”です。それが国であります。
 だから、これまでの歴史の中で、その国家が近代民主主義の場合は、その国家が国民に対して、ひどいことをしないようにという形の道具を作った。
 私は、より端的に国民主権という問題を中心にしてこの問題を考えていくのが、一番分かりやすいと思います。私のレジュメの所に、対照表を作っていますが、右端に「コメント並びに関連事項」ということを書いています。大日本帝国憲法、旧憲法ですね。それも書いています。前文が旧憲法には付いている訳です。こんなもの読めと言われても読めない。昭和天皇は、オウオウオウといった読み方だったが、あれは祝詞なんです。その祝詞と同じリズムで大日本帝国憲法の上諭というのが書いてある。私には読めない。その中の発布の勅語。これはまた極々一部です。
 「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」。これが旧憲法です。これは、天皇が、つまり主権者たる天皇が、また神の子でもある天皇が、汝臣民に与えた憲法です。だから、ここで出てくる権利にしても、それは、天皇大権の制限の下である権利であって、結局、権利とは主権者天皇が部分的に汝臣民に与えたものであった。だから、国民の権利と言っても、常にどこかで制限を受ける形になっている。だからこそ、旧憲法については、外見的立憲主義と言われる。立憲主義という形を取っているのだけれども、外見的なものであった。
 現在の憲法は、主権者国民が定めたものである。国家は、国民ではありません。国民は我々であり、国家は一つの機関です。統治機構ですから、行政機関、議会、裁判所、警察、そして軍隊など色んな国家機関から成り立っています。それらが国家です。我々は国民です。国家が主権者ではないのです。主権者は我々国民です。その我々国民が憲法を定める訳ですから、この主権者国民のために国家はこういうようにしろと定めたのが憲法です。
 だから国家と我々とが共同して何かを決めるというのはおかしい。国家が主体者ではない。主体者は国民だけです。その国民が自らの幸福と生存のためにあるべき国家の形としてこういう国家を定める、だからこそ、その国家ができることとできないことを国民が定める。そのためのルールが憲法であります。だから、憲法の中に国民の義務ばかりが出てくるようなものは、立憲主義に基づく憲法ではない、と言わざるを得ない。
 ところが、先ほどの自民党改憲案を読みましたが、前文のところで、「国家の義務」というのは出てこなくて、「国民の義務」ばかりが出てきます。だから、自民党の改憲案というのは、これは、国民を縛るルールに変化をしてしまっている、と言わざるを得ません。


(2)憲法9条で争う場合の「平和的生存権」の重要性
 これからもう少し逐条的な形で見ていきたいと思います。まずは、第九条の全体的な問題については、平和の問題を対象にこの講座でやって頂くことになっています。だからここで第九条の問題について言わなければならないことは、平和的生存権のことを言っておかないといけません。現行憲法前文の二段目の最後のところですね。
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
 これがなぜ大事かと言いますと、以前は、平和つまり安全という問題は、国家の平和であって、国家の安全であった。国民個々人の平和を権利として認めたものは憲法史上、初めてであります。ここに、「平和のうちに生存する権利を有する」という平和的生存権がある。これは立派な権利でないかということで裁判闘争で争いました。
 今までの判決の中で、平和的生存権があるという形で判決を書いたのは、長沼ナイキ基地闘争における第一審判決だけで、後はこれを明確な権利としては真正面から認めていない。
 私は、湾岸戦争の時に、掃海艇が派遣された段階の掃海艇派遣差し止め訴訟というものをやりました。その時、平和的生存権を脅かすものである、ということを言いました。あの湾岸戦争の時に、ペルシャ湾に日本の船舶が行き、掃海艇を出して協力しているということであれば、あれは停戦後ではありましたが、まだ完全に戦争が収まったわけではないその段階で派遣すれば、イラク側は、その現場の商船に対して攻撃するということもできるではないか、そういう平和が脅かされる、ということを根拠にして、平和的生存権を使いました。もちろん負けましたが。それからカンボジアへの派遣の問題でも平和的生存権を使いました。これも負けはしたけれども、ケンカにはなった。ここが大事、ケンカにはなるということです。
 他の問題のところで言いますが、ワイマール憲法は非常にいろんな事を一杯書いているんです。ところが、ナチスが出てきて完全に潰されてしまった。それには政治的な理由がもちろんあるのですけれども、法文の問題とすると、国民個人の権利として、いろんな事が規定されていない。仮にここでその平和的生存権というものを書いていないとします。しかし憲法第九条があり、前文では平和主義を謳っています。この平和的生存権というものを書いていなくって、イラクに行きますよ、ペルシャ湾に行きますよ、カンボジアに派遣しますよ、あるいはこれからも戦争をしますよとなった場合、私個人として止めることはできないのかという問題が問われる。この平和的生存権という事がここに書いていなければ、裁判自体を起こすことができない。この辺が、法律というものの難しい所でありまして、常識と法律が全然違うということになります。


(3)憲法で一番大事なことは、我々国民にどのような権利が保障されているのかということ
 教育基本法の問題は今までここで講義を受けておりますので、今の関連で、忘れないうちに一つだけ言っておきます。私のレジュメのところで、教育基本法の改悪案を入れています。左の所、自民党の教育基本法改悪案は、第16条で教育行政と書いています。
 教育行政で、「教育は不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」というのが改悪案です。
 現行は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」
 「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」というのを切り捨てた。しかし、「不当な支配に服することなく」というものを残しているではないか、大したことはないではないか、ということを言うんです。それが間違いです。
 第1回の西原先生の講義の時に、君が代、日の丸の問題について、西原先生はおっしゃった。良心の自由というものは、子供たち自身の権利でもある。教えている教師自身の権利でもある。その場合に、日の丸、君が代を子どもに命じて、立たせよう、歌わせようとした時に、子どもは子どもとしての良心の自由に従って、「するのは嫌だ」と言うことは憲法上はできます。次に、教師は言えるのか。その場合、教師が、自分個人の良心の自由の問題として言えるかどうかという問題が、今争われているたくさんの訴訟にあります。
 今、そのことを私は言いたいのではなくして、「国民全体に対し直接に責任を負って」というのは、どういう意味合いを持っているのかというと、教師個人は、子どもたちに直接に責任を負って教育をする義務がある。だから、子供の思想、良心の自由を侵すことはできない。教師自身に今の権利があるかないかは、今別にして、子どもにその権利がある。子どものその権利は守らなければならない。なぜ、守らなければならないかと言うと、「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」からである。それなら、子ども個人には、その日の丸、君が代を拒否するという権利がある。その権利を侵さないよう守ってあげようとする場合に、教師は子どもの権利を守る義務がある。従って、行政から日の丸、君が代を歌わせよ、と言われたって、子どもの権利を守るために“抗命権”があるではないか、というのが西原さんのすさまじい意見であります。校長の命令に対して抗う権利がある。その抗う権利の根拠は、子どもの持っている良心の自由なのです。子どもの持っている良心の自由を教師がなぜ言えるかというと、教師は、「国民全体に対し直接に責任を負って」いるからだ。だから、この規定を無くしてしまうと、しかも今度の改悪案を見ると、今の「国民全体に対し直接に責任を負」うということを無くして、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と言うのだから、法律の定めるとおりに、そこから学習指導要領が出てきて、その通りにやらされる。その場合に、「直接に責任を負って」というのがあれば、「この指導要領では、私は、『直接に責任を負』うような教育はできません。」と抗う権利が出てくるけれども、これが無くなると、できなくなる。
 だから、何度も言いますが、法律だとか、憲法だとかを見る場合に一番大事なことは、我々国民にどのような権利が保障されているのか、です。きれい事を書いていることが大事なのではありません。我々にどのような権利が保障されているのか、そのことが一番大事なことです。先程、言いましたように、前文だけであれば、ああいう裁判は出来なかった。第九条だけではああいう裁判は出来なかった。「第九条で戦争放棄と書いてあるのだから、政府が戦争をしようと思うならば、国民は差し止めることが出来るんではないか」−−こう言ったとすると、政府は、「そんなことはしてはいけないと憲法に書いてあるけれども、あなたに一体どんな権利があるんですか」と言いうる。そこなんです。政府は戦争をしてはいけない、軍隊を持ってはいけない、と書いてある。だから、政府にそれをさせないために、私は裁判を起こしたのです、と。「じゃ、聞きますが、あなた個人は、政府にそういうことをさせないというどんな権利を持っているのですか。」だから、平和的生存権というのを書いていなければ、ケンカにもならない、ということです。


(4)「権利には義務が伴う」はくせ者−−世間話が法文化される怖さ
 さて、権利の問題に入ります。基本的人権の問題、極めて問題の大きいところです。レジュメでは、3枚目になります。一番左側に現行憲法。次に自民党の改憲案。改憲案と「要綱」とか「論点整理」というのを書いています。これが、分かり易いというか、注意すべきものとして記載しました。自民党の改憲案ですけれども、第十一条、これは、本文は変わっていないんですけれども見出しが変わっています。現行憲法では「基本的人権の普遍性、永久不可侵性、固有性」と、ちゃんと書いてある。自民党の改憲案は本文を変えていませんけれども、「基本的人権の享有」だけを書いています。
 十二条、ここでは、現行憲法は、「自由及び権利の保持責任と濫用禁止」。自民党案は、「国民の責務」としている。十二条の現行法は、基本的人権ですけれども、これは、「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と書いてあるのに対して、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。」
 それから、十三条をついでに言いますと、現行法の「公共の福祉に反しない限り」というのを、自民党案では「公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と、こうなる。自民党の「要綱」ないしは「論点整理」というところに、一番下には、本音を書いている。「これまでは、ともすれば、憲法とは『国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である』という論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正の論議を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、『国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール』としての側面ももつものであることをアピールしていくことが重要である」と。
 では一つ一つ行きましょう。「自由及び権利には責任及び義務が伴」わないといけない。これはくせ者です。世間話でも、自由には責任が伴うんだ、権利には義務が伴うんだ、という話は出て来るんですが、これは法律上のこととして考えると、「自由及び権利には責任及び義務が伴う」というのだから、自由には責任が伴うということなんでしょうね。一つの法を作るときに、何々の自由を有する、何々の権利を有する、という法文に続けて、責任を負う、と書かないとおかしい。しかし、そんな法文を考えることはどうしてもできない。例えば、表現の自由。「表現の自由の権利があるので、だから私はデモ行進をしました。」「そのデモ行進は自由です。しかし、責任を取りなさい。」何だろう。分からないでしょう。「私は、デモ行進の権利行使をしました。」「じゃ、責任を取りなさい。」何なんでしょうか。「私はデモ行進をやってこういうスローガンを掲げてやりました。私はこれに責任を持って確信を持ってやっています」と。それは、普通の責任の話であって、デモをしたという法的責任など、どこに出て来るんですか。デモ行進が権利の行使であるわけですから、普通の車道を通っていきます。通常は、道路交通法違反です。それを、権利の行使だから通って行く。何の責任を取る必要があるのか。だから、何かおかしいですね。
 次は、義務です。被告人には自白をしない権利があります、と法廷で一番最初に被告人に申し渡されます。「あなたには黙秘の権利がありますよ。しかし、責任も取りなさい。」と言えば一体これは何ですか。これ、おかしいでしょ。成り立たないじゃないですか。これは、法文上、間違いなのです。こんな法文を作れと言ったって、作れないんです。自由に責任が伴うという法文をどうやって作るのか。権利に義務が伴う。「あなたにはこういう権利がある。従って、こういう義務を果たしなさい。」そういう法文を作れと言われても、作れない。だから、これは間違いなのです。権利を制限するために間違いを無理にくっつけて、こういうごまかしをやっている。実は私、これをだいぶん悩んだんです。何か考えるのかなあと。自由と責任。権利と義務。だいぶん考えたが、考えても出てこない。私の結論、これは間違いだと思う。他の文献も見ましたが、こんなことはあり得ない、間違いだと言っている文献も見つけました。これは間違いです。間違いなんだけれども、ここに書いている意味は、権利の行使を非常に制限していく作用としてあることは間違いないことです。
 おそらく、生活保護の問題から行くと、今度は500億円の切り捨てなんです。それで行くと、現在の生活保護の状態でも全国で500億円切り捨てなければならないですから、その対象範囲も非常に限定している。その時に、「あなたには家族があるでしょう。」「30年以上、会っていない息子が北海道におります。」「それでもいるじゃないですか。息子は扶養義務があるじゃないですか。だから、息子が何とかしないと生活保護は出せません。」「会いに行っても会ってくれません。」「そんなことは知らない。あなたの息子でしょう。30年間ほったらかしは、あなたの責任でしょう。」そういう形で働きかけることが出来る、としている。法文上は間違っているけれども、政治的には猛威を振るうことになります。



[4]「公共の福祉」から「公益」へ−−自民党の狙いは“権利の包括的制限”

(1)基本的人権を制限する包括的規定としての「公益」「公の秩序」
 それから、「公共の福祉」の問題です。ここの自民党「要綱」、「論点整理」のところで、「『公共の福祉』を『公共の利益』あるいは『公益』とすべきである。」というのがこの段階で出ています。ところが実は、国際的には、「公共の福祉」だけでも、日本の権利規定はおかしいという批判が出されているんですね。国連の人権部会がありますけれども、「公共の福祉」という言葉でもって、日本はいろいろな人権を制約しているけれどもどうなんだ、と突きつけられている。今の「公共の福祉」でも、そういう外国からの批判が強いのですけれども、さらにこの「公共の福祉」を「公益」と「公の秩序」に変えようとしている。「公益」と言いますと、国、地方公共団体のすることは全て、これ「公益」です。悪いことでも「公益」です。私益ではないです。「公益」です。だから、「公益」及び「公の秩序」に反しないようにやらないといけないということであれば、もう「お上の言うことを聞きなさい。」ということを意味しているにすぎない。
 「公共の福祉」という話は、私どもが裁判闘争をやっているときに非常に邪魔になったものです。ただ、その邪魔になった中で、戦後の総評を中心とした労働攻勢が盛んな頃に、やっと最高裁で「人権の調整原理」というところまでこぎ着けた。それが有名な全逓中郵判決であります。これは、最高裁の1966年10月26日の判決です。この有名な判決の中に、「公共の福祉というものは人権の調整原理である」とある。例えば、デモ行進をとりましょう。デモ行進を申請する。車道を通るわけですから、車道を通る他の人の権利を制限することになる。だから、いきなり言われても混乱するから、届け出制になっている。届けはする。そうすると交通整理をして通れるようにします。届けをするという、そこのところが調整の問題となる。だから、無届けデモはダメだと言われる。ただ今の公安条例は届け出ではない。争ったんですね。許可制になって。許可制というのは元々、禁止の解除が許可なんです。憲法上の権利がなぜ元々禁止なのか、と言って我々が争いました。これは私が学生運動をやっているときから、警察と争った。「何で許可なんだ。届けで良いではないか。」「とにかく書いてくれ。」と言うので書いた。そういうことがあったのですが、今の公安条例は許可制なので、あれは憲法違反と考えていますけれども、現実には届け出をしたらだらだらといろいろな条件を付けてきますから、あれは問題だと思いますが、そういう届け出だけはやってくれ、というのが調整原理です。全逓中郵判決は、全逓という公務員の組合、郵便局の公務員が、争議行為をすることを一律に禁じていたその公労法の規定が合憲かどうかが争われた事件であります。1966年頃というのは、全逓は良く闘争をやってた時でありまして、まさに「権利の全逓」と言われていました。そのころはいろいろとニックネームがあって、「鬼の動労」と、「権利の全逓」と言われていた。この1966年10月26日の判決は、1958年の春闘の行為に対する判決です。同じ日にやって同じ行為で名古屋中郵で捕まった事件が、この全逓中郵判決の10年ぐらい後で実は出るんですが、全然逆の判決が出ています。同じ行為で全然逆の判決が出ています。ただこの1966年の10・26判決は、公労法の規定は合憲という判断をするんですけれども、この公労法の規定を合憲だとするためには、ストライキが出来ないということによる代償措置をしなければならないし、といろいろな条件をたくさん付けるんです。そういうことなしに、一律に禁止するということは、憲法二八条に違反するということで出した判決です。その中で、初めて真正面から公共の福祉というのは、「人権相互の調整原理」であるとなったのです。
 だから、基本的人権の対立する相手は人であって、国家ではないのです。他の人の権利との調整原理が、公共の福祉であります。だから、「公益」だとか、「公の秩序」だとかというものとは全く違う。言葉としては似ている。だから、言葉をこれだけ変えただけで、人権相互の調整だとかいう話ではなくって、国家や地方公共団体が、頭からこれは公益だと言ったらもうダメだということです。だから、こんなものは基本的人権の保障というものにならない。しかし、それぞれの時の解釈が問題になってくるわけですから予測の付かない場合があるわけです。
 明治憲法の場合は、法律の範囲内において権利を保障するということになっているんです。それは、まあけしからん規定ではあるが、少なくとも法律があるわけです。例えば、出版なら出版条例とかがあったわけです。これをしてはならない、それでなければ出版できるというので、あらかじめ予測は付くわけです。ところが「公益」並びに「公の秩序」というような形になった場合に、それは一体何だ。これは包括的な規定の所に現れている。だから、皆さん方の今争っていることで言えば、「日の丸・君が代」。「日の丸に敬礼しない、あるいは、君が代を歌わない、それはあなたの良心の自由です。しかし、日の丸を掲揚して、君が代を歌うのは公益であって、公の秩序です。従いなさい。」何だこれは、ということになる。そんなものは良心の自由なんて保障したことにはなりません。ならないけれども、そういう規定になっている。しかも、今言ったように、それぞれが抽象的なものですから、今、日の丸・君が代の問題を言いましたけれども、今後は−−憲法二八条の労働基本権には何も手は付けられていませんけれども−−この包括規定がある場合に、労働者の争議権というものはどうなるのか。「争議権はありますよ。ストライキ権はありますよ。どうぞやって下さい。しかし、公の秩序はこうなっています。それに従ってくれ。」「ストライキはやったら結構です。ただ10日後にしてもらわないといけません。それ以前にやられると公益が侵害されるんです。10日後。1日もしてもらったら困る。半日だけにして下さい。1日もされたら公の秩序が混乱するじゃないですか。」という解釈ができる。こんな所に包括的な規定を持ってきた。だから、他の具体的な権利の所に手を着けられていない、と言ったって、その保障の内容は、今言った包括規定によって制限されている。これが恐ろしい。だから、こんなもの基本的人権を保障したことにはならない、と私は思います。


(2)19条「通信の秘密」を21条「検閲禁止」から切り離す−−警察による盗聴行為が自由自在に
 もう少し具体的に見ていきます。4項目の所に、思想及び良心の自由があります。現行法は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と述べています。第十九条はそのままにあって、十九条の二というのが付け加わっています。「何人も、自己に関する情報を不当に取得され、保有され、または利用されない。」という個人情報の保護があります。その次に変なものがあります。「通信の秘密は、侵してはならない。」元々あったのが、現行憲法第二十一条、表現の自由のところに、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない。」この通信の秘密というのと検閲というのはくっついていたものです。これを今度は、思想及び良心の自由と第十九条の二(個人情報の保護等)のところに通信の秘密を入れている。個人情報の保護と通信の秘密がワンセットになっている。この意味は、元々の「検閲は、これをしてはならない。」というような非常に大きな権利ではなく、個人情報の保護のための通信の秘密を保護していることになる。だから、個人情報の保護以上に出るいろいろな必要性、たとえば犯罪捜査のための盗聴。いろいろな厳格な要件を付けていても、捜査のためと言えば出来る。ブッシュがやっているように。この規定と先程の包括規定をくっつければ、盗聴は令状なしにどんどん警察がやっていくことが出来るようになる。


(3)20条「政教分離」規定の換骨奪胎
 それから、第二十条信教の自由。これはもう、靖国参拝などで問題になっているところです。この信教の自由、政教分離の問題というのは、日本の政治状況の中では、極めて重要な規定であります。戦前の日本というものは、宗教国家であったわけで、天皇自体が神様だった。やはり神様は強い。「人権宣言略年表」を付けていますが、一番上に書いているのが、「バージニア権利章典」です。ご存じのように、アメリカ独立の時に「バージニア権利章典」が出て、それから少しして独立宣言が出ます。この「バージニア権利章典」に至るまでの思想家の問題でいうならば、トーマス・ペインの「コモン・センス」というのが岩波文庫から出ています。これは非常に勇気の出る素晴らしい物です。ワシントンの軍隊がイギリス軍と戦って膠着状態で前進しなくなった時期があったらしい。その時期に、トーマス・ペインが書いたのが「コモン・センス」です。トーマス・ペインが書いた物を少し読みますと、
 「イギリスでは、王は、戦争をさせたり、官職を分配したりするほかは、ほとんどすることがない。それは、はっきりいえば、国民を貧乏にさせたり、仲間げんかさせたりすることだ。ひとりの人間が、一年に80万ポンドをもらい、おまけに崇拝されるということは、実になんという結構な職務であることか。神の眼からみれば、これまで存在した王冠をかぶった悪魔全部よりも、社会に対し正直なたったひとりの人間の方が、尊いのだ。」(岩波文庫「コモン・センス」38頁)
 これはものすごい迫力を持って、アメリカの国民に入ったんです。これによって初めて、王様というものに対して目から鱗が落ちた。だから、率先してワシントン軍に入っていく。そして一挙に挽回してアメリカを独立させる。トーマス・ペインのこの本は、当時の有権者数の約7割5分は全部読んだ。私も学生時代に読みましたけれども、ものすごく勇気の出る素晴らしい本ですね。若い方は是非とも読まれたらいい。その王の話があったんですが、大日本帝国憲法というのは、神たる天皇の国家になっていた。その神というものが、国家神道という形で猛威を振るいました。その深刻な反省の中から現在の憲法ができたのであって、諸外国と比べてもかなり厳密な政治と宗教との分離を図っています。これを自民党の改憲案では、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助・助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。」(レジュメ4頁)と書いてある。つまり、「社会的儀礼」や「習俗」は良いということです。それから、「特定の宗教に対する援助」とか「促進」とか「圧迫」とか「干渉」をしなければ良いということです。だから、宗教活動の範囲は非常に広くなります。小泉のやっている靖国参拝なんか全然問題にならない。習俗的行為ということでケンカにもならない。これは、戦前の日本と戦後の日本の対比の中で重要な規定ですが、これを変えようとしています。

(4)21条では「表現の自由」の制限のための条項を追加
 それから、二一条の集会・結社の自由。ここのところも表題を変えています。「集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」という元々の表題を付けていたものを「表現の自由」だけにしています。本文は変えていませんけれども、先程言いましたように、通信の秘密をどこかにやってしまっています。表現の自由の問題に対する制限論理を若干ここで紹介しておきますと、一応、公共の福祉なのですが、一般的な公共の福祉でこの集会・結社・言論の自由を制限するというような規制はしていません。これの表現行為に対する規制というのは、非常に重要なものでありまして、制約原理は「明白かつ現在の危険」ということで縛っています。「明白」=一見して明らかだ、「現在の」=つまり将来ではなく今すぐ重大な危険が発生するという場合に初めて制限できるものであって、やむを得ない制限であることと、より制限的でない他の選びうる手段を採らなければならない、というように非常に制限的になっています。ここで説明義務を入れた、というのですけども、これも先程の話と同じ、国民の知る権利として規定しないと意味がない。国民の権利として規定することは、いかに重要かということは先程言った通りです。国家がこういう説明をするのは、当然のことです。ここに書いているのが、国民が「説明しろ」と言う請求権を持っていない、というのは明らかで、全く意味がないごまかしです。


(5)24条は表題改悪で全面改悪への強い意図をにじます
 それから、二四条について。これ、二四条は変えないのですが、自民党の「要綱」や「論点説明」のところでは、変えたい、変えたい、変えたい、ということが書いていまして、我々はこの自民党案を読む前には、二四条を変えて来るぞ、と言っていたのですが、一応、本文は変えていません。ただ、表題を変えています。現行法は、「家族生活における個人の尊厳・両性の平等」でありますが、「婚姻及び家族に関する基本原則」というものに変わっています。「要綱」案では、重大なことを書いています。「国民は夫婦の協力と責任により、自らの家庭を良好に維持しなければならない。」仲が良けりゃいいわなあ。ドメスティックバイオレンスをやるような旦那とも仲良くしろと言うのか。こんなものを憲法に書いてどうする気だ。それから、「国民は自己の保護下にある子どもを養育する責務を有するとともに、親を敬う精神を尊重しなければならない。」今は、親殺しというのは少なくて、子殺しと子の虐待は何万人とおります。これは社会福祉の問題で、次で言う二五条との関係もあり、そちらの方に家族の責任と絡めた恰好で出てくる可能性がある。憲法上の法文を変えないままに法律上、出してくる危険性があります。


(6)25条では生存権について「要綱」案が「国民負担の責務」を明記
 二五条に行きますと、現行法は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とありますが、これが有名な生存権的基本権の規定になります。一応、1項、2項は変えていないのですが、加えて、「環境保全の責務」というものを入れています。それから、「犯罪被害者の権利」というものも入れています。ここで「要綱」案が大事なことを変えています。「社会的費用を負担する責務」を入れたかったのですね。「国民は納税の義務に加えて、社会保障制度の保険料など社会的費用を負担する責務を有する。」これこれ、これが改憲案の前文のところで、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り」とあるが、「国民福祉の充実を図り」とは、「カネを出せ」ということだという意味です。それから、二五条の生存権の要綱に「『国が社会福祉、社会保障の向上に努める際、国民も社会的費用の負担によって協力する責務を有する』とする意見もある」と、こう書いています。だから、この法文は変えませんけれども、前文に従ったような形でこのような法律が出てくる可能性がある。教育の条項のところは、教育基本法の講座に譲ります。


(7)28条では表題「労働基本権」を「勤労者の団結権等」へ改悪
 次は、労働基本権のところですが、28条、労働基本権は、現行法は、労働基本権ということで書いていますが、改悪法は、「勤労者の団結権等」。基本権と言ってくれません。教育基本法、労働基準法。基本と言われているものを変えてきている。教育基本法を今変えようとしている。労働基準法の規定をグシャグシャにしようとしている。労働契約法というものを今作ろうとしている。労働基準法も大分、女性保護のあたりとか、残業の問題とか、そういったところをずうっと骨抜きにしてきていますが、それを今度は包括的な形で、労働契約法というものを作ってやっていこうとしている。この間、新聞に出ていた話では、残業代について、年間四〇〇万円以上ある労働者は、残業代を捨てないといけない。労使双方から苦情が出ている。そんなことをしたら働かない、と私は思うのだけれども、年間収入として四〇〇万円以上ある労働者は、いくら残業しても残業代に付けない、というのが厚労省の話として出てきている。これは大騒動になると思いますが、そういう発想をもって労働基準法の労働保護法を変えていこうとしています。
 労働の事を若干言いますと、労働に対する問題は二つありまして、労働団体法と労働保護法の二つ。労働者の賃金の保障とか、労働時間の保障というのは労働保護法と労働基準法。労働団体法というのは、労働組合の問題で、それが労働組合法となっている。労組法についての施政の仕方というのもこれから出てきますが、労働基準法をまずガタガタにしようとしている。おそらく28条にとって一番の脅威は前文です。自由主義から来る市場原理主義とか自由競争主義の徹底。これに反するストライキをやるとなった場合に、この法文からは出ていないけれども総論からこれに対する規制が出てくる可能性があります。


(8)29条では、財産権を「公益及び公の秩序」で制限。22条「職業選択の自由」での「公共の福祉に反する限り」を削除することで会社閉鎖の無制限の自由
 それから29条の財産権。この財産権は、大したことはないと思っていたのですが、そうじゃない。財産権の内容は公共の福祉に適合するようにというのが原則です。ここでも、「財産権の内容は公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。」となっている。これだけであれば、まだまだと思っていた。
 ところが、22条のところに職業選択の自由というのがある。レジュメには書いていない。職業選択の自由というのがありまして、「公共の福祉に反しない限り、何人も職業選択の自由を有する」というのが現行法ですが、今度の改悪案で、ここだけ「公共の福祉に反しない限り」というものを取ったのです。「公共の福祉に反しない限り」という現在の条文を取りました。だから、職業選択の自由は、完全に自由です。これは何を意味しているのか。どうやら、労働争議の中で、組合と争います。使用者側が、「もうこんな会社は儲からないから、止めておこう。会社は閉鎖する。」これは組合ともめます。組合の権利がある。従業員の権利がある。会社閉鎖という企業側の方針は、それは不当労働行為をもって認められない。不当労働行為を満たさなくとも権利の濫用としてこれは無効である。要するに、会社を経営している人が、「もう嫌だ、止める」と言うぐらいではダメだ、ということです。他の人が大迷惑を受けるではないか、というのが今の秩序です。それを支えているのは、確かに止めたいというのは一つの自由ではあるが、これは公共の福祉の制限がある。そこでの公共の福祉というのは、労働者の権利であるし、従業員の自由です。それは、人権相互の調整原理です。それは、労働者の権利を侵害するではないかと。だから、それはダメだよ、と今はなっているが、ここのところを抜いた。ということは、経営側が自由に会社を倒産させることが出来るようになる。財産権の安全にしても、「公益及び公の秩序」とここで出てくるもので言えば、強権的な土地収容だとか、財産の行為がありますが、そういうものに対して抵抗が出来なくなる。成田空港問題であれだけやってきたが、そういうことが強権的にやられる。
 権利の問題はざっとここまでやりました。あとは、予算の問題のところです。今の予算は、通るまでは別のやりくりをしている。ところが財政のところで新しく出てきたのは、「予算案が通らなかったら、まずもってどんどん予算を出したら結構です。後で国会の承認を得たらよい」ということを入れています。野党が抵抗することがほとんど出来なくなる。今は予算を通さなければならないということで、国会闘争や駆け引きなどをやっていますが、それが、もう予算のところで闘争にならないという形になっている。

 以上、見ましたように、今回の改憲案というものは、まさにとんでもない内容であります。これまで私達はこの憲法の下で、ある意味で「平和と民主主義という時代」を送ることが出来ましたが、この改憲と改憲につながっていく諸法規の改悪を許していくと、まさに暗黒時代ということも言えそうです。それほどひどい問題です。やはり、九条を変えて戦争の出来る国家にする、ということは基本的人権を含めてあらゆる体制を変えることを前提にしている、ということが分かります。そういう意味で、憲法そのもののことでなくても、それにつながっていくさまざまな悪法が目白押しに出ているわけですから、それに勝っていかなければ憲法改悪を許してしまうことになる、と思います。




質疑応答

質問
 レジュメのコメントで、「『愛国心は、悪党の最後の隠れ家である』という言葉がある。」とありますが、これはどんな意味ですか?

答え
 原典は知りません。英の文豪サミュエル・ジョンソンが言ったということが伝えられています。


質問
 「公益及び公の秩序に反しない限り」ということが包括的なものとして憲法の条文の中に入れられることによって、国家、政府がフリーハンドを得ることになります。大日本帝国憲法でさえ、「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」ということが憲法上規定されていますが、これからもさらに後退して、憲法が先に決められて、この規定がある限り政府が定めようとする法律に一切反対することが、全て公益に反するということで、できなくなります。大日本帝国憲法や教育基本法でもそうですが、別に定める法律に基づいて国民の権利など制限するという形を取っていますが、それすらもなく、教育基本法の改悪法案よりもさらにひどい国家へのフリーハンドを大きく与えることになる、こういう憲法が本当に通用するのかどうか?諸外国の憲法あるいは、憲法的な規定から見て、これほど国家にフリーハンドを与えた憲法があり得るのかどうか?国会での審議が成立するのかどうか?自民党の改憲案は、知られていない。争点化すれば通すのは難しい。北朝鮮を利用するしかない。改憲のリアリティ、闘いについて教えて下さい。

答え
 「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と書いてあるが、法文上、こういうものは出来ない。これを議論できるのか?ということですが、こんなもの見たことがない、としか言いようがない。ただ自民党の要綱案、論点整理、民主党の創憲案というものを見ていくと、ここのところについて、民主党は知っているのか。マスコミについても「公益及び公の秩序」について取りあげたのを私は見ていません。みんなが気が付いて、こんなものひどい、ということになると、こんなもの通らないというのも、私も成る程そうだろうと思います。民主党が対決姿勢になって、グラグラしてなかなか通らない、ということになると憲法を変えようとする場合には、最終的には野党民主党の協力を得て出来るかどうかというところまで煮詰まっていかないと多分無理ではないか、と思います。現に出てきていて、共産党や社民党、我々とかは、これはひどいと言っているが、他は言っていない。これは何故なんだろう。憲法は国家を縛るだけのものではなくて、我々も縛るものです。最終的にこの憲法草案というもので、改憲というところまで行かなくとも、改憲に近いような、九条関係では、自衛隊の問題というのはドンドン既成の事実を積み上げてやっている。社会福祉の関係では、切り捨てという状況があるわけで、そういう悪い既成事実を積み重ねていき、積み重ねる上である一定の事件の時に非常にうまく乗せていくのだろう。それ以上のことは分かりません。悪いものを積み重ねていくと、結果としてこれに近いものが出てくる、という問題がある。現に起こっている具体的な事実と絡めて言っていかないと、憲法の条文がああだのこうだのと言ってもダメです。今の具体的にかけられている事実を改善するための闘い、そちらの方に重点を置いた中で、行かないと悪い既成事実を積み重ねられていくと、暴力的な形で組織されることもありますから、そうさせないようにすることが肝要であると、私は思っています。


質問
 「人権宣言年表」について説明をお願いします。

答え

バージニア権利章典
 「人権宣言年表」ですが、たいてい書いているのはイギリスから始まるが、我々の闘争にそんなに影響はないので、アメリカ革命から入っています。「バージニア権利章典」の所では、先程「コモンセンス」の話をしました。「バージニア権利章典」でどういうことを言っているかということは、若干、知っておいて頂かないといけない。私が、中身として知っておいて欲しいと思ったのは、「バージニア」と「フランスの人権宣言」と「ワイマール憲法」があっという間に潰された話をやっぱり知っておかないといけません。
 「バージニア」の所では、最も古典的な天賦人権説に従っています。最初に書いているところは、レジュメに書いているようなものです。
 「すべての人は生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有する」「かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安寧とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由とを享受する権利である。」
 「政府というものは、人民国家もしくは社会の利益・保護および安全のために樹立されている。あるいは、そう樹立されるべきものである。政府の形態は各様であるが、最大限の幸福と安寧をもたらし得、また失政の危険に対する保障が最も効果的なものが、その最善のものである。いかなる政府でも、それがこれらの目的に反するか、あるいは不充分であることが認められた場合には、社会の多数のものは、その政府を改良し、変改し、あるいは廃止する権利を有する。」
 人民の幸せなどを守らないと国家というものを転覆する権利を持っているんだ、ということまで書いています。これが、1776年で、1789年がフランス革命の人権宣言ということになります。

クロポトキン『フランス革命史』
 フランス革命というのは、いろいろな本が出ていて、読み出したら止まらない素晴らしい物語がたくさん出ています。余り知られていないもので、「フランス革命史」というクロポトキンが書いている本があります。これは古本でないと手に入らないと思いますが、クロポトキンというロシアの革命家、アナーキストであります。レーニンがロシア革命を成功させた後、すぐに革命家の先輩として、このクロポトキンをクレムリンに招待します。うやうやしく招き入れて、あなたの書かれたこの「フランス革命史」を全国の図書館に一冊は必ずそろえましょう、と言った。この「フランス革命史」の中で、余り他の本では出てこない話で一つあるのですが、革命の性格としてはブルジョア革命と言われていますが、着飾ったブルジョアジーがバスチーユに行ったわけではありません。人民が武器を持って行っているわけです。そういう多くの人民が革命に参加していくのですが、もちろん農民も賛成します。農民はこの革命に全面的に賛成するのですが、一番大きな要求は十分の一税の撤廃という問題だったのです。そのことを当初から掲げているのだけれども、革命政権もそれについて全然相手にしてくれない状況が続く。業を煮やした農民達が、パリに行って国民議会を多人数で取り巻く。国民議会の方はそういうことを全然気にしないで他のことを審議しているのだけれども、誰かが外に出てみると議会が取り巻かれている。取り巻かれているだけではなしに、大砲を8門か向けて、十分の一税を早く撤廃しろ、撤廃しないならぶっ放すぞ、と言われて、びっくりして飛び込んでそれを可決した、という話です。一般のフランス革命史の中でも十分の一税の話は出てくるのだけれども今の話はどうも出てこない。クロポトキンの革命史は、民衆を基本に置いた革命史として書いていますので、非常に面白いです。パリを歩いてみると、ここを大革命が通過したということが、しみじみと分かるというようなことを書いています。

フランス人権宣言
 それはともかくとして、フランス革命でできあがった「人および市民の権利宣言」1789年。7月14日がバスチーユの襲撃でありますが、物の本によるとバスチーユを襲撃して皆が喜んでパリに戻ってきて、集会をやっているところに貧相な若者がチョコチョコと出てきて、紙を読んで帰った。それがこの人権宣言だ、というのです。それだけだったら、おそらく歴史に残らなかっただろうけれども、8月から始まった議会の中でこれを討議して、1週間か10日ぐらいで討議して、このフランスの「人および市民の権利宣言」が採択されます。そこの重要な点だけ申し上げておきます。第1条が、「人は自由かつ権利において平等」と当然出ております。それから「政治的団結はこれら自然権の保全、圧政への抵抗」だということ、3条は「国民主権」の問題。7条から9条は「刑事訴追に対する権利」を言っております。この点は、時間がある方は見られたらいいのですが、ベッカリーアという方の「犯罪と刑罰」という本が岩波書店から出ています。これは昔から出ていますが、昔の翻訳者は風早八十二さん一人だったのです。最近出ている本を見ますと、もう一人、五十嵐二葉さんが書いています。五十嵐二葉さんは、風早さんの娘さんで、今、東京で弁護士をしています。この「犯罪と刑罰」というのは非常に面白い。丁度、フランス革命の前夜に出てきます。この方はイタリアです。キリスト教を中心とした貴族権力が猛威を振るっていた時期に書いています。素晴らしいことを書いているのですが、ひどい相手がいる中に出しているので、前段のところで、非常に丁寧に、私はどうしてこの本を書いたのかということをずっと書いています。この中に現在の罪刑法定主義であるとか、刑事被告人の権利であるとか、有罪と宣告されるまでは無罪として扱うとか、当然に今、我々が持っている人民の自由権という基本的人権がこの中に出てきます。それでもう一つ申し上げておきたいことは、共謀罪の所でも出ましたけれども、密告という問題であります。ベッカリーアは、この密告の問題について、ものすごく悩み苦しんでいるのです。彼は、だいたい私は、基本的には密告ということに対して、賛成しない、いかに犯罪者となったとしても、仲間を裏切ってそれで国家に密告して申し出る、その人間は助かるが、そういうことは、私は人間として許し難い、どうしても密告の制度は私は認めない、と一旦書いてある。そこからまた書き換える。それでも犯罪を予防するためには、密告の制度も意味がある、と。それからまた書く。やはり私は認めない、と。ものすごくここのところは、悩み苦しんでいます。最終的には、結論としては、やむを得ない、というところに落ち着くんです。それについて面白い話が残っています。ヴォルテールとヘーゲルがそれについて書いた。ヴォルテールは、このベッカリーアがこういったことを指摘して悩み苦しんで重要な問題を提起している、と書いて自分の結論は言っていない。ヘーゲルは全然違って、犯罪というのは社会に対する悪なんだ。刑罰は悪に対する悪反動と言っています。犯罪者の悪の中で裏切ろうが裏切るまいが、関係ないではないか。ベッカリーアというのは何と甘っちょろいことで悩んでいるんだ、と言っている。考え方の相違というものがものすごくある。ただ、このベッカリーアの「犯罪と刑罰」の全体は読むと非常に暖かくなる。だから、若い人は是非読んで下さい。
 このフランスの人権宣言のところで、「財産権は一つの神聖で不可侵の権利」だ、というのが絶対に入っています。これはブルジョア革命だったから入っています。これが、1789年であります。けれども、1793年にロベスピエールがジャコバンの憲法草案を出している。それは、「財産権は、同胞の安全、自由、生存または財産を侵すことができず、それに反する所有または移転は本来的に不法であり、不道徳である。社会は国民に職を与え、生活の手段を確保して、全ての国民の生存を保障する義務がある。生活保障義務、教育義務」というものをロベスピエールが草案として出すのですが、当然に採用されず、ただ、その中に、後に出てくる生存権的基本権的な考え方が色濃く出ています。ロベスピエールは、革命の全過程の中で、ブルジョアジーの勝手な行動だとか、お金だとか、それについての腐敗というものに対して、ものすごく神経質に闘っています。理性の神様を立てて好き勝手なことをさせない。理性的にさえ行動すれば、世の中は正しくなるのだというルソーの考え方で実践しております。その人らしい憲法草案も書いていますが、採用されない。これが、1793年。

パリコミューンと労働者階級の闘争
 1830年がフランス7月革命。その頃からは産業革命が起こってきますし、イギリスではチャーチスト運動が起こってきます。もちろん、その中では労働運動の結成過程だとか、秘密結社として組合が作られているとか,加盟すると言えば、指を切って血を吸って、絶対に裏切らない、という表明をして労働組合に入るとか、そういう話がたくさん出ています。そういう過程の中から労働者階級の階級としての階級闘争というものが出てくる。それで、1848年のマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に至ることになります。1871年にはパリコミューンが起こって、社会主義権力の萌芽形態ができます。ここでは、「常備軍の廃止、全人民の武装、議員・公務員・裁判官の選挙、解任性、労働者並の賃金制、おしゃべりの機関としての議会の廃止と行動体としての議会の創出。」これは素晴らしい決議を作るわけです。大佛次郎が「パリ燃ゆ」という本を書いています。元々は外交官として出発し、フランスに行って、フランスで資料を漁ってパリコミューンの歴史を書きます。感動的な話はたくさんあるのですが、私が昔、読んだ中で感心したのは、パリコミューンのいろいろやっていた人の中に、いわゆる英雄はいない。皆働いている人です。いろいろなリーダーはおります。あらゆる決議をこの大佛次郎が調べた。あらゆるコミューンの決議が成立しているのは、真夜中です。だから、昼間に働いた人が、夕方あるいは夜に集まってきて、議論を始めて、やっと真夜中に成立して、そこから家に帰って少し寝て、そこからまた仕事に行った。そういう人達が集まって、決議をしている。大佛次郎が書いていますが、例外なしに真夜中です。
 パリコミューンの話をすれば、たくさんあります。ビクトル・ユーゴーの「ジャン・ヴァルジャン」ですが、ビクトルユーゴーはこの当時は、パリの公職にあったのが、やはりコミューンを支持したために追放されます。追放されて本当はパリから出なければならなかったのですが逃亡に逃亡を重ねて、ずっとパリの中に隠れ住むのです。その時に書いたのが、この「ジャン・ヴァルジャン」。だから、ジャヴェール警部によって追及されているジャン・ヴァルジャンだとか、ああいうもの全部、自分の体験を元にしているから、あれほど迫力がある。「パリ燃ゆ」の中では、ルイズ・ミッシェルという中学の女の先生を話の中心に据えながら書いていますが、最終的にはルイズ・ミッシェルはフランス領のニューカレドニア、フィリピンの少し西側にありますが、そこに流されて、途中で許されて帰ってくるのですが、今でもフランス領で観光名所になっています。行かれたら、コミューン戦士の末裔がいるかどうか、見られても良いのではないか、と思います。

ロシア革命とワイマール憲法
 1890年のメーデー。ここで、8時間労働制の主張が掲げられる。そして、1917年のロシア革命で、国家として初めて8時間労働制を保障します。同時にドイツでも革命闘争があったわけですが、1918年に失敗して、1919年1月に消滅します。そこから出来上がったのが、ワイマール憲法です。正式には、ドイツ憲法ですが、ワイマールで開かれたので、一般的には、ワイマール憲法と言われています。この時、「資本主義国家における憲法として、最初の生存権的基本権を認めた。」私がここで言いたかったことは、やはり、ロシア革命が一方で起こります。まさに、ヨーロッパの各資本主義国家は、肝を冷やすどころか腰を抜かしておる。自国の労働者達は、「労働者は祖国を持たない」と言っているし、「あえて祖国と言うならば、ロシア社会主義、ソヴェトが我が祖国だ」と言っている。「お前たちが戦争をするならば、戦争を内乱へ」と言っている。さあ大変だ。労働者に対する政策を明確に作ることなしに、国家を維持することはできない、という中から、ワイマール憲法ができた。そこで出てくるのが、生存権的基本権です。142条では、教育の問題。151条では、「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的を持つ正義の原則に適合しなければならない。」これが、生存権的基本権と言われるものです。ただこれは、もっとたくさんありますが、これらは全てプログラム的規定です。これは、国家はこうすると書いてある。人民はこういう権利を持っているという形にはなっていない、ということから、ナチスが現れて、同じ憲法により、ワイマール憲法に反する法律をドンドン作って、基本法たる意味を失った、という過程をたどりました。全体的に権利の事を言いますと、ブルジョア革命、フランスの市民革命の中で、自由権的基本権が広範に確立されていく。それは、その後の国家における、より抑圧された側の基本権として生きていきます。1919年、ロシア革命を境として、以後、労働者階級を中心とした生存権に対する保障が、生存権的基本権という形で各国に認められていく。それは、当初の段階ではこのように書かれるのだけれども、それは言うなれば、国家はええ恰好をしただけ、ということになってくる。

日本国憲法第25条と生存権的基本権
 実は、日本国憲法の二五条も、最高裁の判決は、未だにプログラム的規定の判決です。これは、岡山の結核療養所におられた朝日さんという方が、一人で本当に紙もない状態の中から、訴状を書いて、準備書面を書いて、それで裁判をやった。どの判例集を見ても、憲法二五条の判例のトップというのは、この朝日さんの訴訟です。最終的に最高裁にかかったときには−−朝日さんは亡くなっておられて、相続人がそれを継いでいたわけですけれども−−生活保護の権利というものは一身専属権であって、相続人はあるけれども、朝日さんの死亡によってその請求権は無くなったというアホみたいな判決になるのですが、その事情を説明しているところが、長く書いてある。プログラム的規定だと。つまり、朝日さん個人が裁判所まで行って請求して、具体的にカネなんぼという支払いを受ける、具体的にどういう保護を受ける、というような権利はない、というのが、未だに最高裁の判決です。ただ、この朝日訴訟が起こした結果として、学説の中には、こんなアホなことがあるか、二五条の権利として書いてあるではないか、ということになった。ほぼ学者の中の多数説が、抽象的権利説というのは、やはり、それでも権利ではあるけれども、まだ具体的なところに行かないということから、裁判所でケンカまではできるのだけれども判決の所では、負けるということになっている。具体的権利説になって、現に生活するにあたってこれだけお金が少ないから、当然月々これだけのお金がないと生活できない、と立証をさせる、ということになる。でないと具体的権利にはならない。それでも、この裁判の影響というものは非常に大きかった。だからこそ、裁判としては他に同じような裁判は起こっていませんけれども、様々な生活保護や福祉関係の裁判が、これを基にしている。そういう形で、やっと日本においても生存権的基本権というものを一応、権利としてこれを問うことができます。将来のことを言うと、やはり、精神的自由権だとか、そういうものは国家に差別、抑圧がある限り、それについての権利というものは無くならない、と考えています。社会主義への移行において、変わってくるのは財産権の問題だろうと思います。それが中心になるだろう。財産も今の考えの中で、すでに出ていますが、国民全体の平等という面から、富者の権利を制限して、国民全体の生活を保障する。それが社会主義になれば、国家体制になるのでしょうが、そういう形の流れというものは、もう無くならない。憲法闘争の中で、私達も具体的な課題において、一つ一つ闘って、その権利を拡大することが肝要ではないか、と考えています。以上です。 




(講演レジュメ)


国家構造の根本的転換を目論む
反動的改憲阻止のために

−「公益」の名による権利の包括的制限−


2006年7月2日                     
弁 護 士   冠    木    克    彦


第1.はじめに
 1.なぜ「改憲草案」ではなくて「新憲法草案」か
  ・憲法はどういうときに作られるか
  ・根本的に「社会の何か」が変化したのか
  ・クーデター的改憲  詐欺的変革

 2.「改憲の危険」を規定しているもの
  ・資本主義の「危機」なのか
  ・社会に蔓延する「危機的諸現象」
  ・不安の醸成と衝動的「危機からの出口」の作出

 3.思想状況
  ・ベストセラー 「国家の品格」
  ・単なるナショナリズムから排他的ナショナリズムへ

 4.改憲論者の特徴的発言


第2.憲法とは何か
 1.極めて政治的な「規範」
   一国内の諸階級、諸階層間の力関係の反映
   特に、政権を担う勢力と他の国民の力関係を表明する。
      ↓
   組合など内部に根本的利害の対立を持たない集団における規範と同様な感覚でみると根本的誤りを犯す(自民党案も民主党案も大問題)。

 2.権力という問題が根本
   国家を構成するものとして国土、国民、統治機構といわれるが、本質は統治機構=権力。したがって、「愛国」は常に具体的に問題となり、その時の権力=政治権力を対象とする。
   国家権力は人を死刑にもできるし、刑務所をもって広範な物理的強制を行使する。法の名の下に人情や感情は入り込む余地のない正に灰色の有無をいわさぬ強制力である。
    この権力の行使が国民の権利などを侵害しないようにするのが立憲主義である。→従って、憲法とは「国家を縛るルール」である。理論的には国民主権から根拠づけられる。主権者国民が自らの生存や福祉、権利保護のために国家を組織しているのであるから、国民のために国家があり、国家のために国民があるわけではない。
      ↓
    しかし、自民党改憲案は、「国民を縛るルールに変化」
    「人民の、人民による、人民のための政治」を実現するためには、国民が国家に請求してその政治が実現できるという「権利」が前提になければならない。

 3.政治的「規範」であることから、その憲法が作られようとしているその当時の政治状況が憲法の中身になってくる。


第3.憲法前文の改悪
 1.改憲案には「国家の責務」はなく、全て「日本国民の責務」になっている。
     権利章典から、国民の義務の強制へ
     民主憲法から大日本帝国憲法に逆戻り
    権利はまず、無条件に権利として認められなければ意味はない。条件付「権利」は「権利」という名がついても、いろいろな条件で制約されていて実現されないから権利ではない。
    旧憲法は「法律の留保」のついた権利であり、国家の都合で法律により大幅に制限できた。

 2.基本的人権の尊重と書きながら、その実、国民の権利を前文に書いていない。次の権利のところでも「責務」としている。

 3.平和的生存権を否定している。
   この前文の現行規定は、常に平和的権利を語る場合に役に立ってきたが、これを否定している。

 4.現行の国際協調主義は「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ことから導き出されているが、改憲案では「正義と秩序を基調とする国際平和」となっており、ブッシュがイラクなどに侵略するときの言葉とかわらない。

 5.改憲案では地球環境の問題が出ているが、なんと「国家の責務」にせず、「日本国民」になっている。国家がしなくて何ができるか。


第4.第9条のすさまじい改悪
 1.第9条A項があるからこそ、世界史的に素晴らしい平和憲法になっていたのに、A項を削除。

 2.自衛軍を創設して、グローバルに出撃できる。
   「国際的に協調」−国連とはしておらず、米と協調してグローバルに軍を派兵できる。

 3.「国民の生命若しくは自由を守るための活動」とはいったい何か。
   中国へ行った人が、中国人から、この規定は他国に日本人救出を口実に侵略するときに使うのかといわれた。
   米が他国に侵略するとき常に「自国民の保護」を口実にしたように、この「邦人保護」を名目に他国に侵入することが可能となる恐ろしい規定。


第5.基本的人権の意味をなくする権利剥奪条項
 1.全体の規定
 (1) 第12条(国民の責務)
    「自由及び権利には責任及び義務が伴う」
    「公益及び公の秩序に反しないように」

 (2) 第13条(個人の尊重)
    「国民の権利については、公益及び公の秩序に反しないかぎり‥‥」

 (3) 権利に条件をつければ、それは、旧憲法の法律の留保であって、権利の保障にはならない。
    例えば、被告人の権利があるが、それについて責任と義務をつけたとすると、「自白すれば権利の行使ができる」というようになれば自白しない権利は無に等しい。

 (4) 「公共の福祉」とは、人権相互の調整原理であり、現行憲法は基本的人権の行使を制限するのは、他の基本的人権との衝突により調整原理たる公共の福祉で制限できるだけである(全逓中郵判決)。
      ↓
    これに対し、「公益」というのは国家や地方公共団体のする事はすべて「公益」であるから、公益による制限ができるというのは、「お上の命令で全て制限できる」という恐ろしい規定である。

 (5) これらの包括的規定がなされると、他の改憲されていない条文の解釈規定として利用され、解釈によって制限できるようになる。

 2.各人権の形成過程と内容
 (1) 自由権的基本権
  (イ) 精神的自由権

  (ロ) 人身の自由権

  (ハ) 財産権

 (2) 生存権的基本権
  (イ) 生存権

  (ロ) 労働基本権

  (ハ) 社会権

 3.具体的検討(改憲されるとどうなるか)
 (1) 精神的自由権
  (イ) 思想良心の自由

  (ロ) 信教の自由、及び政教分離原則

  (ハ) 表現の自由

 (2) 個人の尊厳と家族制度の問題

 (3) 生存権的基本権
  (イ) 生存権

  (ロ) 教育権、教育を受ける権利、教基法改悪との関連

  (ハ) 労働基本権

  (ニ) 環境権

 (4) 財産権

 (5) 人身の自由権

 4.この改憲の本質はなにか−そして私達の課題
 (1) ファッショ的支配を可能にする。

 (2) 海外侵略と国内の人権抑圧は「明白な事実」

 (3) 平和と民主主義の限りない重要性

 (4) 現実の「改憲先取り既成事実化」への闘争が必要








人 権 宣 言 略 年 表
1776




1789








1793.4.24





1830

1838

1848


1871.4.19





1890.5.1

1917.11


1918

1919
   10.29

1919.8












(日本)
1889.2.11
(明22)

1946.11.3
(昭21)
バージニア権利章典 人権宣言の先駆け
  すべて人は生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有する。
  ・・・かかる権利とは、財産を取得・所有し、幸福と安寧とを追求する手段
  を伴って生命と自由を享受する権利。 

フランス「人および市民の権利宣言」1789.7.14 バスチーユ
   8.17〜26 憲法制定議会で採択
  §1.人は自由かつ権利において平等
  §2.政治的団結はこれら自然権の保全、圧政への抵抗
  §3.国民主権
  §7〜9.刑事訴追に対する権利(ベッカリーア、犯罪と刑罰)
  §11.思想表現の自由
  §17.財産権は一つの神聖で不可侵の権利

ロベスピエールのジャコバン憲法草案
  財産権は、同胞の安全、自由、生存または財産を侵すことができず、それに
  反する所有または移転は本来的に不法であり、不道徳である。社会は国民に
  職を与え、生活の手段を確保して、全ての国民の生存を保障する義務がある。
  生活保障義務、教育義務(採用されず)

フランス7月革命

チャーチスト運動(英)

仏 2月革命
マルクス、エンゲルス「共産党宣言」

パリコミューン フランス人民に対する宣言
(社会主義の萌芽形態)
  常備軍の廃止、全人民の武装、議員・公務員・裁判官の選挙、解任性、労働
  者並の賃金制、おしゃべりの機関としての議会の廃止と行動体としての議会
  の創出

メーデー 8時間労働制等の主張

ロシア革命 8時間労働制を国家機関として初めて保証
      社会主義国家成立の衝撃

ドイツ革命失敗

ヴェルサイユ条約で国際労働機関(ILO)成立
ILO第1号条約 8時間労働制

ワイマール憲法成立 資本主義国家における憲法として、最初の生存権的基本権
          を認めた。しかしプログラム的規定が多い。
  §142. 教育の自由権と国家の保護
  §151.@経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する
      目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。この限界内で、
      個人の経済的自由は確保されなければならない。
  §153.@所有権は、憲法によって保障される。その内容及び限界は法律によ
      って明らかにされる。
 ↓
1933年ナチス政権
  「授権法」によりワイマール憲法に反する法律を次々に発令し、ワイマール
  憲法は国家の基本法たる意味を失った。


大日本帝国憲法(外見的立憲主義)
  主権者でかつ神たる天皇が「ナンジ臣民ニ与エタ」憲法

日本国憲法