わたしの雑記帳

2007/8/30 岡崎哲(さとし)くん(中3・14)暴行死事件の国と県を訴えている国家賠償裁判が、いよいよ判決。
元少年の証人尋問の様子(聞き書き)

1998年10月8日、茨城県牛久市の中学校で放課後、同級生に殴られて死亡した岡崎哲くんの事件で、茨城県警の捜査が身内(加害少年の父親と兄が現役の警察官だった)をかばった違法なものであるとして両親が起こしていた国家賠償の民事裁判(2000年3月9日提訴)が2007年9月26日(水)午前10時から、水戸地裁で判決を迎えることになった。

国家が相手の裁判は勝訴率がきわめて低い。まして、個人が警察を訴えるとなると、他の例をみてもさらに困難となる。両親にとって、この裁判は少しは何かを得ることができただろうか。それとも、大切な息子を殺され、さらに自らの傷を深くしただけだったのだろうか。

岡崎さんは、3つの裁判を起こした。
加害者とその両親を訴えた第一次訴訟。学校の責任を問うた第三次訴訟。そして、県警を訴えた第二次訴訟。
私が傍聴した学校裁判の多くは理不尽なものだったが、そのなかでも、とくに不透明な部分の多い裁判だった。裏で何か大きな力が動いているような不気味なものを感じていた。これだけの大きな事件であるにもかかわらず、マスコミの報道は小さく、なかには、遺族に取材をしながら、相手の言い分のみを報道した新聞社もあった。

そして、本来であれば真っ先に裁判の証人として、法廷に引きずりだされるはずの加害者。不思議なことに、この事件においては、第一次訴訟においても、第三次訴訟においても、原告側は証人尋問を強く願ったにもかかわらず、そして、その時々の裁判官が幾度となく「証人として呼ぶ」ことを口にしながらも、なぜか、出廷させることはなかった。
それが、一番、加害者本人との関連が遠いと思われる第二次訴訟において、ようやく証人尋問が実現した。

ただし、それも簡単に実現したわけではなかった。何度も要請しては元少年側に、「ちゃんと更生しているのに、出廷は妨げになる」と断られた。原告側が非公開の条件までのんでも、元少年Hとその親は出廷を拒み続けた。
最後は「拘引」(強制的に連れてくる)することになったが、なぜか、当日は自発的に来たことになっていたという。

加害者の証人尋問は、2007年2月14日(水)だった。事前にお知らせいただいていたが、サイトに載っていることを理由に出廷を拒まれてしまったらと、裁判情報にはUPしないことにした。そして、私自身、その日はすでに講演が入っており、残念ながら傍聴に行くことができなかった。しかし、傍聴した方から、当日の様子の詳しいメモ書きをいただくことができたので、私なりに組みなおしたものをここに載せさせていただく。(一応、内容に間違いないか岡崎さんに見ていただき、加筆訂正していただいた分を含む)

この裁判の目的はあくまで、茨城県警の捜査方法に違法性はなかったかを問うことであり、その点では、質問内容が限定されていたという。

*********

Q:原告代理人の大石弁護士から、事件直後の警察官の聞き取りについて。
A:「警察官はちゃんと聴いてくれた」「覚えている限り、正直に話した」。

Q:哲くんとの関係について。
A:「3年生になって、接触はほとんどなかった」「とくに仲は悪くなかった」。
Q:警察調書には「かねてから不仲であり「(哲くんのほうから)けんかの挑発を受けた」「日ごろ、けんかができるかと挑発されていた」「けんかの挑発を受けた被疑者がこういう事件を起こした」と書かれているが?
A:「岡崎くんがたまに感情的になって、いやだなと思ったこととかもあったという意味だと思う」「みたら、なんだこのやろうという仲ではなかったが、たまに、ちょっといやだなと思ったことが、友達のなかでもあった」
「(けんかをしようといわれたというのは)日ごろということはない」「ひんぱんにということはない」「言われたこともあるかもしれない」「前日には、確実に言われた」「以前というのを前の日ととらえてしまった」。

Q:なぜ、哲くんと暴力トラブルになったのか?
A:「自分もわからない」「警察に全部ちゃんと話している」「その当日に述べたことがたぶん、真実」「今は覚えていない」。

Q:当日のことについて。哲くんから「けんかをしよう」と言われたのか。
A:「たぶん、言われたと思う」「覚えていない」「ただ、哲くんが怒っていたので、やろうというより、、やらなければいけないと思った」。
Q:哲くんが怒っていた理由は?
A:「トイレのときに、自分が岡崎くんを蹴って、たぶん、そのことに対して、すごく頭にきていたと思う」。

Q:わざわざジャージに着替えたのはなぜか?着替えた制服はどうしたのか?
A:「胸倉をつかまれたりしたら、ボタンがとれるとか、考えていたもしれない」「着替えた制服についてはどうしたか覚えていない」。
Q:汚れる場所でやることがはっきりしていたから、ジャージに着替えたのではないか?
A:「間違いなく、そんなことはない」。

Q:林道みたいなところが現場だったことについて、Hくんが場所を決めたのか?
A:「そうだと思う」「記憶があいまい」「やるならそこだと決めていたわけではない」。
Q:現場に着くまで10分くらいの間、どんな話をしたのか?
A:「調書に書いてあるとおり」。
Q:現場には誰が一緒に行ったのか?
A:「途中まで、Nくん、Tくん、Yくんが行った」。
Q:Oくんは?
A:「今の時点では記憶にない」。
Q:Sくんは?
A:「現場を通りかかった人なので、そのときにはいなかった」
Q:Sくんは、どの時点で通りかかったのか?
A:「岡崎くんが倒れていたときに通りかかった」「自分がSくんにNを呼んできてくれるよう頼んだ」。

Q:東京高裁の判決で認められた哲くんの死因「腹部への外力作用による神経性ショックによる急死」について。
「お腹は一切、殴ったり、蹴ったりしていない」と誰かに言ったか?
A:「言ったか、言わなかったか、わからない」。
Q:最初は「岡崎の腹や背中などを右手のこぶしで殴りました」とあり、「同人の腹部、頭部等を、手拳で数回殴打、転倒させる」と書いていたのが、だんだんお腹が出てこなくなって、背中や頭、顔のみになっているが。
A:「けんかをしているとき、どこを殴ってとかいう意識がなかった」「左手を引っ張りながらという形は覚えているが、お腹辺りを殴っていたという意味でずっと言っていたかもしれない」。
Q:警察や検察の調書を見ると、お腹を殴ったというのが出てきたり、それが全然出てこなかったりしている。民事裁判のなかで、お腹は殴っていないという主張がHくん側から出されているが、本当はどうだったのか?警察に誘導されたのではないか?。
A:「現時点では、記憶にないのでわからない」「なんでそうなったのかはわからない」「認識していないんで、どこを殴ったという場所が変わってきちゃっているのかもしれない」「お腹をなぐったって書いてあるのなら、たぶん、お腹を殴ったと思う」「今は、明確には覚えていない」「全部、自分の覚えている範囲で、述べてきた」。

Q:証人尋問に来ることを拒み続けた理由について。警察に誘導されて、本当とは違う内容の供述調書が作成されたということがあるから、Hくんは証人尋問に出てきたくないと言っていたのではないか?
A:「まったく違う。全部、自分の覚えている範囲で、自分の記憶をたどって述べてきた」
Q:ではなぜ、。証人に出てくることをしなかったのか?
A:「正直いうと、こわかったから」。
Q:原告側が出した手紙に対して、「何をしたら正しいのか分からない」と書いてきているが、どういう意味か?。
A:「答えがわからないということ。自分がどうしたらいいのかが、わからなかったという意味」
Q:「心が整理できない」とも書いているが、法廷で話すことによって整理できたか?
A:「分からない。今思っていることを証言して、あとはどうなるか分からない。今日が終わってからじゃないと分からない」。

Q:最後に、遺族に対してどう思っているか?。
A:「申し訳ない気持ち」。
Q:ほかにはないか?
A:(無言)



もうひとりの原告代理人登坂弁護士からの質問。
Q:事件直後の様子について。
A:「相当、動転していた」。
Q:学校の教室では、付き添っていた先生に何かこの件で話したのか?
A:「先生が誰だったか覚えていない」「たぶん、泣いていて、どうしたらいいんだろうといって、気が動転していた」。
Q:調書には、そのあと、警官が来て、名前を聞かれて、「なきじゃくりながらも、岡崎にけんかをやろうと言われたことから学校の少し離れた森の中でけんかをやることになった」と言ったと書かれているが、ずっと泣いている状態で、警察官に詳しい説明ができたのか?。
A:「泣いていたが、その説明をしたのは覚えている」「パトカーのなかで聞かれた」「パトカーのなかかわからないが、留置場に運ばれる前に聞かれたのは覚えている」。
Q:警察官から、いつ、どういう調べを受けたかは?
A:「覚えていない」「パトカーのなかで、ありのままを話していたと思う」。

Q:Hくんの供述調書に、犯行の状況が記載されているが、今、ここで読めるくらい短い。2頁くらいしかない。気が動転していたから、Hくんが自分ら話せたことは、家族関係やこれまでの自分の経歴を除いては、そんなに多くはなかったのではないか?
A:「分からない」「覚えていない」。

Q:父親や母親といつ会えたのか?
A:「記憶にない。覚えていない」。「母がいなくて、父と兄が先に来たと思う。たぶん、次の日の朝だと思う。記憶があいまいでわからない」。
Q:10月8日、事件のあった日に、母親が供述調書をつくっている。そのなかで、「私としてはこの2人は仲の良い友達であり、2人の間に何があったのかまったくわかりません」と書いているが?
A:「岡崎くんと母親とは、もうほとんどあっていないので、たぶん、サッカーのときの記憶とかが一番あると思うので、そんなふうに言ったのだと思う」。
Q:岡崎くんと私物を交換したことはないか?
A:靴を交換した。

Q:警察の調書について、取調べを受けたときに、どこどこを殴ったんだろうという話が警察官のほうから、出たのではないか?
A:「出ていない。自分が言ったこと」。
Q:しかし、Hくんの話からすると、「どこを殴ったかよく覚えていません」という調書ができるなら分かるが?
A:「自分の口から、その調書に書いてあることを述べた。自分の記憶をたどって述べたので、ちょっと表現が違うとかあるかもしれないが、調書に書かれているなら、その通りに言った。


このあと、原告である哲くんのお母さんが、Hくんに直接、質問する機会が与えられた。
しかし、原告側、弁護士に「お母さん、感情的にならないで!」と強く言われたこともあり、短く感想を述べるにとどまったという。
「あなたのお母さんの調書のなかに『最近、Hは何を考えているかわからない。理解しがたかった』などというのが入っていた。先ほどの証言でも、事件前日までは哲とけんかするようなことはなかった。むしろ、ほかの人物であった可能性があった。そういうことを考えると、当時あなたは15歳の少年だったので、そういう多感なときの少年の心のあり方が、証言から垣間見えた。どのような暴行をしたとかいうことは、私たちがこれから生きることにとって、必要なことだった。本日、来てくれたことは感謝するが、できる限りの真実を語ってくれることを私は望んだ」
弁護士から、質問はしないのかと聞かれて、「いいです」と答えて黙りこくってしまったという。

続いて、哲くんのお父さんが、直接、質問の機会を与えられた。
Q:ここに「本件は、中学3年生同士の一対一のけんかにおいて、お互いに暴行を加えた際に、少年が機をとらえて被害者の頭部および背部等を右手拳で力任せに数発殴打したところ、被害者が体質的因子を所有していたため、少年の暴行およびけんかの際の興奮状態により、ストレス心筋症を起こして死亡した事案である」と書かれている。ストレス心筋症という死因を弁護士から聞いていたか?どういう病気だと聞かされていたか?
A:心臓の病気。詳しく聞かされていたが、ちょっと、内容を覚えていない。

Q:事件当日、やはり、けんか相手が、なぜSくんから哲に変わったのが、私たちは今になってもわからない。ただ、救急車で運ばれるとき、B子さんがN先生と会って、「私のせいだ。私が原因だ」というように話している。このことについて、知っているか?
A:「今、はじめて聞いた」「B子さんの発言はしらなかった」

Q:哲が死んで8年、私どもはあなたと直接、話をしたくてここまで闘ってきた。もう少し早く、記憶が途切れる前に、私たちの前でいろいろ話してくれたほうが、本当はもっとよかった。そうしてほしかった。これは親の願いです。
A:(黙ってうなずいた)


被告(県)代理人弁護士から。
Q:あなたは、警察の取り調べを受けた際、その当時、自分の記憶らあることを一生懸命に思い出して、話したということでいいか?それが調書に取られたということでいいか?
A:「はい」

裁判官から。
Q:今現在は何をして生活しているのか?
A:「バイトをしている」。
Q:ボクシングをやっているのでは?
A:「バイトをしながら、ボクシングをやっている」。

Q:ボクシングは、プロの免許をとったのか?
A:取得した。
Q:ボクシングはいつから始めたのか?
A:19歳のとき。
Q:高校を出たあと?
A:高校を出て、少したってから。
Q:高校を出たときに、すぐに仕事に就こうとは思わなかったのか?
A:仕事に就いた。
Q:同時にボクシングも趣味として始めたのか?
A:違う。仕事をやめて、ボクシングをやった。
Q:ボクシングのプロの免許はいつ取ったのか?
A:21歳のとき。
Q:仕事をやめてまで始めたかったボクシングを目指したきっかけはどういうことだったのか?
A:引きこもりじゃないが、家で考えたりという時期があった。正直、もう、世の中がいやだなという感情もあった。今のオレに何ができるのかとすごく考えて、そのときにボクシングの試合を見て、すごい感動を与えているスポーツがあって、こんな自分でも、人に感動を与えられるのかなという思いで、ボクシングをやってみようと思った。
Q:いろいろ悩んでいたというのは、本件の事件も関係しているのか?
A:本件の事件のこと。

Q:家庭裁判所で保護観察処分を受けてから現在に至るまで、特に事件など起こしていないか?
A:起こしていない。
Q:家庭裁判所の審判のとき、今回の事件のはことは非常に反省していて、これからは、被害者のためにも、がんばって生きていきたいと思いますというように述べていたが、今回、裁判所に証人として来るまで、何回か、裁判所で証言するチャンスがあったと思うが、今まで来なかったのはなぜか?
A:やはり、先ほども言ったが、正直、怖かった。
Q:何が怖かったのか?
A:・・・・。自分の言葉ではちょっと表現ができない。
Q:裁判所に来てもらって、結局、覚えていることを正直に話してもらうだけで、特に怖いことはないと思うが、事件のことを思い出すこと自体、ためらわれるところがあったのか?
A:ちょっと、そういうのもあった。
Q:今後、ずっとボクサーを続けていくということはできないと思うが、今後、どのように生きていこうと思っているのか?
A:ボクシングも、今、試合させてもらっていて、大会にも出る。その成績とかでどうなるかわからないが、日本チャンピオンになって、ジムとか開いて、ジムの人たちにいろんなことを教えてあげられれば一番いいと思っている。実際、どうなるかはボクシングは一対一の試合なので、わからないが、そういう気持ちでがんばっている。

裁判長から。
Q:いろいろ悩んだ末に、あなたのほうから進んで、こちらの法廷へ証人としてきてもらったが、気持ちの変化とか、何か原因はあったのか?
A:(無言)
Q:誰かに相談したとか?
A:父とか母とかとも相談した。父とか母とかも悩んでいた。それで話し合って決めた。
Q:最終的に決めるのはあなた自身だが、そういう心の変化というのはあったのか?
A:遺族からも手紙をもらっていたし、先ほど、怖いとか言っていたが、やはり、逃げてばかりじゃだめだなという部分もあったので、今日、来た。


********

ここから、私見を交えて。

当日、裁判を傍聴した人たちは、「加害者のあまりの小柄なこと驚いた」という。そして、そのことで改めて「一対一の素手でのけんか」という県警の発表に疑念を抱いたという。
私のところにメールを寄せてくれた同校の元生徒も、「当時、中学生がひとを素手で殴り殺すことができるものだろうかと疑問に思った」と書いていた。

事件当時、Hくんも、哲くんも中学3年生。
岡崎哲くんの身長は170センチはあったと聞いている。Hくんも当時からは少しは身長は伸びているだろう。だとすれば、なおさら体格差は歴然としている。そして、哲くんは小さい頃からずっとスポーツに親しんできて、サッカー部のキャプテンとして活躍していた。運動神経はお墨付き。

その哲くんが、短時間に一方的にやられて、ほぼ即死状態になったというのは、いくら当時から、将来、ボクサーになるようなパンチを持っていたとしても、納得がいかない。
遺体には深く抉られたような傷がいくつもついていた。警察側は砂利道に転んでついた傷と主張したが、解剖医は素手ではつかない、メリケンサックなどの凶器を使用した傷ではないかと言ったという。
一方で、哲くんの手にも、足にも、傷ひとつなく、医者はひとを殴ったり、蹴ったりしたあとはないと言ったという。

警察側が主張した哲くんの死因は、「けんかの際の興奮状態、同級生の暴行が起因した、心筋の壊死性変化(ストレス心筋症)」。その病死説が、民事裁判で、「けっして軽度とはいえない打撃による神経性ショック死と腹部への暴行が原因と認定されたあとになってはなおさら、矛盾を感じる。

警察官は事件直後から、「一対一の素手でのけんか」と被害者遺族に断定し、新聞等でも、「岡崎くんが『けんかをやらないか』と挑発した」「凶器を使わず数分殴り合っただけ」「二人は以前から仲が悪く、絶えず口論するなど対立していた」とすぐに報じられた。

たとえ、加害者が「一対一の素手でのけんか」と主張したとしても、この体格差、傷の深さ、即死状態であったこと、加害者の仲間が何人も現場におり被害者はひとりだった、加害者は体操着に着替えて準備万端、被害者は制服のままだった、ことなどを総合すれば、捜査のプロとしては、ひとりに対する集団暴行で、凶器を使用した可能性もあると疑うべきではなかったかと思う。実際にいくつもの少年事件で、加害者側は一対一のけんかと主張していても、実際は集団リンチで、みなが口裏を合わせていたということは多い。即日で、結論を出すことは普通であれば、避けるのではないか。
これらの警察の対応は、「加害者の父と兄が現役の警察官だった」と聞いてはじめて、「なるほど」と納得がいくものではなかったかと思う。

そして、この証人尋問においても、加害者の言葉には矛盾がいっぱいある。
「警察はちゃんと聞いてくれた」「記憶通りに自分からから話した」と言いながら、何をどういったのかの詳細については、「わからない」「記憶にない」。
パニック状態であったはずなのに、けんかの理由のところだけは当日の調書にしっかりと、哲くんがしかけきた、わざわざ一対一のけんかと明記されていること。哲くんと仲が悪くはなかってのに、仲が悪かったと書かれていること。日ごろはそんなことはなかったのに、哲くんが「けんかができるか」と執拗に迫っていたと書かれていること。けんかの相手がSくんから哲くんに急に変わった理由。最初はお腹を殴ったと証言したのに、次第に記述がなくなり、民事裁判では「お腹は殴っていない」と主張したこと。裁判の証人尋問に応じなかった理由。何一つ、解明されていない。

裁判所はこの証言から、どの程度汲み取ってくれるか。
しかし、県と国とを訴えている裁判の証人として、限られた質問しか許されないなかで、むしろ、裁判官がいちばん、遺族が聞きたかった内容をストレートに聞いてくれた気がした。
どういうつもりで、ボクシングをやっているのかと。

そして、民事裁判で、哲くんは病死ではなく、腹部への暴行が原因の死亡とはっきり打ち出されてなお、哲くんの死後はじめて対面した遺族に対して、謝罪の言葉はついに一言もなかった。
これが、学校、警察、親が、みんなして元少年をかばった結果なのだと思う。
哲くんの死から彼はいったい何を学んだのか。かつては仲良く一緒にサッカーをしたこともある同級生を殴り殺した拳で、日本チャンピオンになって、ひとに感動を与えたり、ものを教えたりしたいという。まるで、哲くんの死をきっかけに、ひとを殴り殺せるほどの力を持っていることに目覚めて、それを勲章にして生きていこうという。
被害者遺族にとって、加害者と唯一、直接話せる機会が民事裁判しかなかった。それも、何度も要請しては断られた。哲くんの両親の心中を思んばかることも一切、ない。

2007年5月25日、改正少年法が成立した。
@「触法少年」の行為に対して、警察が押収、捜査・検証といった「調査」をする権限があることを明記。
A少年院への送致年齢の下限を「14歳以上」から「おおむね12歳以上」に引き下げ。
B保護観察中の少年が守るべき事項を繰り返し違反するなどしたら、少年院などに送る処分が可能に。
C重大事件で身柄を拘束されている少年に公費で弁護士(付添人)をつけられるように制度拡大。
など。

しかし、どんなに低年齢に引き下げ、厳罰に処したところで、大人たちが本気になって、子どもたちを守り、更生を手助けしていこうと思わない限り、事態はよい方向へは向かわないだろう。
少年犯罪の再犯率が上がっているという。
大人たちの都合ばかりを考えて、子どもたちを罰しようとするから、子どもたちは更生できないのではないだろうか。

岡崎哲くんの事件で、誰がいったい、真剣に被害者の死を悼み、加害者の真の更生を願って本気で動いただろう。
被害者遺族だけのような気がする。

警察官の不祥事がまた起きた。国の権力を背景に、人を殺す道具を携帯する警察官は、より厳しい目で国民にチェックされるべきだと思う。疑わしきは被告人の利益にではなく、疑わしきは徹底解明してもらいたい。でなければ、私たちは安心して自分の生命を国家に委ねられない。


哲くんのお母さんからメールをいただきました。ここに掲載させていただきます。

「この裁判を傍聴して下さった知人の方々は「加害者のあまりの小柄なこと驚いた。哲君の下腹部へ相当な暴行や顔の無数の傷、でも哲君の手足にはそれらを防御した痕跡すらも全く無かったのだから、一対一の素手の喧嘩でなくNくんなどの存在を見逃せないリンチ事件であったと再確認できた」と感想を述べてくれました。

私も主人も傍聴して下さった方々も、H君のかなりの小柄なことに本当に驚きました。事件から8年以上もたち、彼はそれなりに成長しているのではないかと思っていたので(実際H君は事件当時よりは成長してはいたとは思いますが)、私たちには中学生のHくんが背広を着て目の前の尋問席に座っているような奇妙な感覚になりました。

事件翌年の司法解剖医からの説明でも哲の右下腹部への暴行は、バットなど凶器を使わず素手などによる暴行である場合は被害者が幼児、加害者が大人と言うほどの体力差がないとなしえ無いと説明を受けていました。
事件当時哲の方が加害者Hくんよりも大きく、170センチはあり、本当に一対一の素手での喧嘩であれば、あのような短時間で殺されることはありえないことは確信できました。いくらでも逃げれるし、応戦も出来たはずです。殺されていった哲の手や足には応戦した痕跡すらないきれいなきれいなものでした。しかし顔には何かでえぐられた傷が沢山残されていました。

尋問席に座り心もとなげに小さな手を見つめながら開いたり閉じたりしている彼の姿に、とても情けない思いがしました。
H君の姿に息苦しさを感じ、唇をかみ締めやっとの思いで弁護人席に座っていました。
加害者の証人尋問が終わってから、早半年が過ぎましたが、私どもは未だに言葉にでき得ない自責の念に駆られ、生きた心地がしません。
加害者を怒鳴りつけて、真実を語らせたかった、怒りの感情だって無かったわけではありません。
でも、この国では被害者が怒りの感情を表すことを許しません。被害者が声を出すと全て、被害者感情でものを言うと、されてきました。私は口を閉ざすことでしか、被害者の地位を守ることが出来ませんでした。
 
「ばれなきゃいいジャン!」(黒沼克史氏「少年法を問い直す」より)という日本社会、大人から子どもまで嘘をつき通し、都合が悪けりゃ「記憶にございません」と白を切る者勝ち、哲の事件の周りにいた多くの青少年たちもこれを学びました。
哲の事件後、地域では「人を殺す方が、万引きや喫煙よりも学校の先生警察、大人たちは守ってくれる。殺るなら今のうち」と言っていた子どもたち。
多くの学校事故事件が起こり、哲の事件の2年半後に4人組の少年らによるとされている強盗致死事件(未解決)も起きました。
事件の周りにいた当時の多くの子どもたちは既に成人し立派な大人になりました。
親になっている子どもたちもいるはずです。彼らは、絶対にしてはいけないこと、人の命を奪ってはいけないということをどう自分の子どもたちに教えていくのでしょうか。
 
現少年法の改正には、どうか日本中の少年犯罪被害者一人も残さず意見聴取をして作り直して欲しいと思います。
そしてまずは、被害者の人権と権利を加害者並みに保障することからお願いをしたいと思います。
被害者への人権や権利の保障が無い情況では正しい捜査・事実認定は望めません。
現少年法の持つ人権の不平等性が、非行少年のための現少年法の法理念が、この国の多くの子どもたちを苦しめて来ました。
加害者の人権のみを大切にした粗雑な事実認定は真実を退け、そして少年事件の再犯率の高さを維持してきたようです。
現少年法を根本から考え直さなければならない時期にさしかかっていると思います、この国の全ての子どもたちの命と未来を守れる少年法へ、より良い大人への成長の道しるべとなる少年法へ。



 HOME   検 索   BACK   わたしの雑記帳・新 



 
Copyright (C) 2007 S.TAKEDA All rights reserved.