わたしの雑記帳

2005/3/20 「児童虐待防止シンポジウム 〜児童の権利擁護と施設運営のあり方について〜」(2005/3/14)の報告


2005年3月14日(月)、埼玉県県民健康センターの大会議室で、「児童虐待防止シンポジウム 〜児童の権利擁護と施設運営のあり方について〜」が開催された。
これは、昨年(2004年)7月に川越市の「埼玉育児院」で、12月に児玉郡児玉町の「桑梓(そうし)」で施設長による虐待が匿名の内部告発によって発覚した事態を受けて、埼玉県社会福祉協議会、埼玉県児童養護・児童自立支援施設協議会が主催で開催された(後援は埼玉県)。施設サイドが児童福祉施設内虐待をテーマにシンポジウムを開くのは初の試みという。

コーディネーターは立教大学コミュニティ福祉学部教授の浅井春夫氏。
シンポジストは、
星野 崇啓(たかひろ) 氏 (埼玉県小児医療センター精児童精神科医)
松本 弥生 氏 (埼玉県川越児童相談所弁護士)
関根 和夫 氏 (埼玉県中央児童相談所所長)
喜多 一憲 氏 (全国児童養護施設協議会副会長、名古屋文化キンダーホルト施設長)
関根 茂雄 氏 (社会福祉法人「同仁学院」理事長)

受付名簿に記入するとき、いつものように、施設関係者でも、大学で専攻しているわけでもなく、またマスコミでもない私のような一般参加は少ないと知った。会場はほぼ満席に近い状態だった(140人参加?)。多くは、児童養護施設に勤める職員のようだった。

浅井春夫氏には、ストリートチルドレンを考える会のシンポジウムでコーディネーターをしていただいたことがある。松本弥生弁護士は、桶川ストーカー事件の原告側弁護団のひとりだった。子どものことをやっていると、いろんなところでつながりが出てくるのをうれしく思う。


まず、星野小児科医からの発言。
施設内虐待はなぜ起きるのかについて。誤った施設観があるという。すなわち、施設は子どもを管理するところと思っている。住まわせてあげているという劣等処遇的な考えが抜けきれない。
そして、被虐待児の率が増えているなかで、入所してくる子どもたちの行動、精神面は多岐にわたる。理解をするのが困難になっている。一方で、職員の知識、技能、研修システムが整っていない。入所児童に対して、一生懸命にやったことがうまくいかないと無力感に襲われる。不満を感じる。力で押さえつけるようになる。やがてエスカレートすると虐待になる。

施設内では、どんな種類の虐待も起きうる。大人から子どもへ。子どもから子どもへ。暴力の連鎖。世代、年代を超えて引き継がれる。
身体的虐待はまだ目につきやすい。性的虐待は子ども同士の問題行動も多い。
ネグレクトは目につかないわりに、深刻である。
施設内虐待が発覚すると、力で押さえていたものが崩れる。爆発する。施設全体が荒れる。今までがんばってきた職員までもが、自信を失い、疲れてしまう。そういう時こそ、外部のひとのサポートが大事だと言う。

第三者機関の介入の目的は、虐待行為の停止。職員の問題を解消すること。職員のしかるべき処分。管理・運営体制の見直しなど。その時に、子どもと話すことは大切なこと。どんな職員が何をしたのかを聴く。
傷つけられてしまった子どもの心理的問題、子どもたちのグループとしての問題など、一人ひとりの問題のアセスメント(評価)とアドバイスが必要。

虐待された子どもの心理として、虐待から時間がたってしまうと、無力感に襲われる。誰に何を言っても無駄だとあきらめてしまう。安心感をもてない。年長児ほどひどい。
虐待が発覚して後、対処の時点で問題が多い。子どもたちが訴えても、それをきちんと受けとめる機関、システムがない。真相をあきらかにする、内部サポートシステムがない。また、指揮系統がはっきりしない。どこがリーダーシップをとるかはっきりさせるべき。

浅井氏がコメントした。施設側は、子どもを指導する、力で支配するという考え方を改めるべきだと。
子どもをケアする、見守り、子どもの自治を援助するという考え方に変えていくべきと。
指導とは、する側の説得。それには技量がいる。受ける側の納得がなければならない。


埼玉県中央児童相談所所長の関根和夫氏の発言。
埼玉県内には19カ所(1万86人が入所)の児童養護施設がある。入所率は98.9%。年末になると満杯で、入る施設がない。異常な事態である。
施設の課題としては、運営は寮ごとに任されていて、検討が行われていない。危機管理システムがない。
施設長のリーダーシップが必要。後継者をいかに育てていくかも課題。

もうひとりの関根氏(偶然同姓ということで、縁戚関係にはないそうです)。「同仁学院」理事長・関根茂雄氏の発言。理事長の冷静な判断力が第一に大切。理事会と施設運営のいい関係が必要。
浅井氏は、理事会には風通しのよさが必要であるとコメントした。


松本弁護士は、埼玉育児院の虐待事件をきっかけに顧問弁護士として依頼を受けたという。昨年の夏以降、虐待された児童の保護に係わってきたという。
児童養護施設内の虐待は、医者に毒を盛られるようなものと言う。
児童養護施設には、前近代的な臭いがする。理事会と施設長が割り切れない。責任主体がはっきりしない。法人と個人との財産がはっきりと分かれていないなどという施設までもがある。監督すべき理事会が見過ごしてきている。
施設側は、子どもたちへの恩恵や保護の考え方を改めるべき。子どもが本来持つ権利の権利擁護である。虐待は不法行為である。それが繰り返されることの重大性を指摘した。


全国児童養護施設協議会副会長の喜多一憲氏は、協議会を離れて、個人的な意見と断っての発言だった。
施設の前提となる子ども観、施設観が前近代的であること。子どもの権利条約の学習がなされていない問題点を指摘。子どもたちの主体性、選択権が大切にされていないという。
「指導」という言葉を「援助」に変えるべき。施設職員には、できるだけ命令文をつかうなといっている。命令文は、支配や強制となる。子どもたちの選択肢を奪う。

構造的な問題点として、収容、管理、生活指導、という考え方。同族経営のリスク、施設長が他の職員の意見をふさぐことなどを挙げた。また、職員の人権感覚の問題、最適基準の問題、職員の犠牲や奉仕でなりたってきたことの問題。職員が自己実現できる職場づくりをしていかなければならないと言う。
施設には、緊急対応ができる能力がなければならない。危機対応こそが施設の機能であり、現状では施設長、理事長の問題ががある。「職員に笑顔があるような職場」が、子どもたちにとってもよい施設だと言う。


予めうち合わせされていたのか、浅井氏の臨機応変な決断によるものなのか、埼玉県内の児童養護施設内の虐待を取り上げた埼玉新聞の記者・小宮氏に、いきなり発言を求めた。
少しためらって、本人が名乗りをあげた。
児童相談所はなぜ、子どもたちを救えなかったのか。子どもたちの安心と安全を守るために措置費は支給されているはず、施設は勘違いをしていると言う。

施設内虐待を防止するためには、
・法制度で内部告発した職員を守る制度を確立すべき。
・現在は、立入調査時の子どもへのヒアリングルールも決められていない、未整備であるという問題がある。
・施設の最低基準の問題。最低でよしとしていないか。
・1年毎に施設長の適格性、不適格性を判断する外部評価が必要。


後で、会場から小宮氏の取材姿勢に対する批判の声もあがったが、私には、小宮氏が本気で子どもたちの人権について考えているからこそ、時に激昂することもあったのではないかと思えた。記者という仕事の忙しさに流されず、腰を据えて取り組んでいるからこそ、あのような記事を書くことができたのだと思った。


この他に、シンポジウムでは、施設内虐待を防止するためには、
・外部に開かれた施設をつくる以前に、内部、すなわち職員と子どもたちに対して開かれた施設であるべき。
・問題の声を吸い上げる、権限をもった第三者機関の設置の必要性。
・第三者機関が機能するためには、施設ごとではなく、県単位などで共有した第三者機関を設置するべき。そしてその機関は、いつでも動いて、立入調査の権限のあるものでなければならない。
などが提言された。

浅井氏の姿勢には、名前だけの委員はするつもりはない。やるなら実効性のあるものを徹底してやる、という強い意志が感じられた。
一方で、施設の代表者、行政側からは、児童養護施設に入所する子どもたちを問題のある子どもたちで、職員はとても苦労している。管理・指導することが大切。施設長の権限を強化するべきという、施設を子どもたちからではなく、管理する大人たちからばかり捉えた意見が目立った。確かに、虐待を受けて心に深い傷を負った子どもたちの養育は困難であると思う。しかし、だからと言って、彼らを最初からまるで犯罪者扱いしたやり方が、通ってよいはずはない。

最後に、浅井氏は「子ども」という詩を読み上げた。私もだいぶ以前にこの詩をあるひとに教えてもらってとても気に入っていた。最近、皇太子が読まれたということで話題になった。
すべの大人たちは、今こそ、この詩を復誦したい。子どもたちに何が必要なのか、この詩は示唆している。


        「子ども」  (ドロシー・ロー・ノルド作)

  批判ばかりされた子どもは、非難する事をおぼえる
  殴られて大きくなった子どもは、力にたよることをおぼえる
  笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる
  皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心のもちぬしとなる
  しかし、
  激励をうけた子どもは、自信をおぼえる
  寛容にであった子どもは、忍耐をおぼえる
  賞賛をうけた子どもは、評価することをおぼえる
  フェアプレーを経験した子どもは、公正をおぼえる
  安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる
  可愛がられ抱きしめられた子どもは、世界の愛情を感じとることをおぼえる


追記:浅井先生から、実際に施設内で子どもたちを殴打するのに使われた、カレンダーの芯の金具3本を新聞紙とガムテープでまいたものを見せていただいた。大学で学生たちに自分の体を試しに打ってみるようにと指導しているという。以前に、この事件のことを新聞記事で読んでも、どういうものか実感がわかなかった。
実際に手にして、自らの腕を軽く打ってみる。棒は軽い。にもかかわらず、とても痛い。これを小さな子どもたちが振るわれたのだ。おそらく、容赦なく。目に見える傷を残さない、しかし、強いダメージを与えるための道具。それをわざわざ手作りする職員。けっして、「しつけ」などと呼ぶべきではない。「いじめ」「暴力」「虐待」だと実感する。現実というものは大抵の場合、想像以上に酷い。





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