わたしの雑記帳

2003/3/2 子どもたちの「おままごと」

子どもたちの遊び「おままごと」は家族を映す鏡だ。
かつてマンションで暮らしていた時、近所の子どもたちがおままごとをしていて、その会話に思わず赤面してしまったことがある。
朝、お父さんとお母さん、起きるのはどっちが早いかで子どもたちが言い争っていて、うちはこうだ、いやうちではお父さんがでかけるとき、お母さんは寝ているなど、その家の事情が全部バレてしまう。
また、夫婦げんかをしたとき、どっちが強くて、どっちから謝るとか・・・。うちではこの間、お父さんとお母さんがこんなことで喧嘩していたとか。近くにいた親たちの耳はついつい、ダンボになってしまう。
家族の事情を筒抜けにする「おままごと遊び」は子どもにやってほしくないかも、と思ったものだった。

そのおままごとが今、成立しないという。子どもたちが一番なりたがらないのは、なんとお母さん。
昔は一番人気だったのに、なぜと思う。それでも母親役になった子どもは、やたらうるさくがなり立てるという。「勉強しなさい」「片付けなさい」「早く、早く」。
それが今の子どもたちの母親像なのだろう。お料理をする、やさしく家族を送り出す、「今日は何があったの?」と聴く。たしか昔のおままごとの母親はそんなイメージだったのに。

では、父親役はというと。ぼーとやることもなくウロウロウしている、ゴロゴロと家で寝ている、という役らしい。昔のおままごとでは、「会社に行ってきます」のあとは、父親の出番はなく、夕方になって「お帰りなさい」で、「今日は疲れたよ」と言い、「お風呂にする、ご飯にする?」が定番だったけれど。さらにセリフが少なくなっているようだ。

では、子どもたちが一番なりたがるものはなにか?なんとペット!犬や猫になりたがるという。
昔なら、「ペット役なんて、いじめだ!」と親から抗議の声が上がりかねない。(今でも、親が知ったらそうかも)それが、子どもたちはペットの役になりきるという。嬉々として、よつんばになって歩き回り、ゴロゴロと甘える。
少し前の時代に、子どもたちが母親役ではなく、赤ん坊役を競い合っていたのを見て、不思議に思ったことがある。たまたま、そういうままごとを目撃しただけなのだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。今や赤ん坊から、さらにペットへ。

小さな子どもたちの目にもどうやら、大人社会は楽しいものには映っていないらしい。子どもは、早く大人になりたいと願うものだと思っていたが、今の子どもたちにとって、大人はなりたいものではないらしい。
それどころか、人間というものにすら希望が見えない。
赤ん坊、ペット。子どもたちは、大人たちからもっと無条件に愛されたいと感じている。「おりこうさんだったら」「勉強がよくできたら」そんな条件付きでなく、愛されるのは赤ん坊やペットだけだと感じているのかもしれない。まるで、そこにしか自分の存在価値がないかのように、子どもの評価を気にして、「早く」「早く」とヒステリックに追い立てる母親。存在感が薄いどころか、家のなかにまるで居場所のない父親。
結婚したがらない男性。母親になりたがらない女性。どうやら大人になっても、人気のなさは変わらないらしい。

ディズニーのくまのプーさんを思い出す。クリストファー・ロビンがプーさんに、僕はいつまでも子どものままではいられないんだと嘆くシーンがある。そこにはまだ、幸せな子ども時代が存在していた。暖かい友情関係だとか、夢だとかにたっぷりとひたっていられた時間。小学校にあがるまでの5〜6年のほんの短いけれど、思いっ切り楽しいだけの時間。それすら、今の子どもたちは奪われている。

幼児期にひとはきっと、生きることの喜びを全身で体感する。それがその後の生きる力の原動力になったり、他人を愛することの基礎になるのだと思う。「心」は、体験を全身で感じることの「体感」から「実感」として作られるのだと思う。今の子どもたちに圧倒的に足りないのは体験。それも全身で感じる喜びの体験だと思う。それは、親との関係のなかで愛される喜び、友達との関係のなかでわき上がる興奮から自然に得られるものだと思う。

それを奪っているのは、忙しさに心を亡くした(忙しいという字は、心を亡くすと書く)親たち、幼児教室や塾、テレビ、ゲーム機など子どもの時間を奪い合う商業主義、子どもたちに知識を詰め込みロボットのように便利使いしようとする政治家、企業家。
生きる喜びを持てない子どもたちは、生に執着しない。心を持たない子どもたちは相手の痛みがわからない。自分を殺すのも、相手を殺すのも、子どもたちにとって大して変わりないのかもしれない。
人としての生を大切にできない子どもにしたのは、大人たちの責任だ。子どもたちにはたっぷりと遊びの時間を。生きていることの喜びを全身で感じられる体験をしっかりとさせたい。
せっかく人として生まれてきて、人よりペットのほうが幸せに見えると、幼い心が無意識のうちにもペットに生まれてきたかったと思うのは、あまりに悲しい。



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