わたしの雑記帳

2002/11/17 子どもたちに「愛国心」をというけれど、「愛」が足りないのは「国」のほうではないですか?


「教育基本法」改正の議論
が進んでいる。今回の見直しの柱は主に3点。
1.国や郷土を愛する心
2.公共に参画する意識
3.家庭の役割の明記

私は、政府が教育に積極的に口出しするようになって、ますます日本の教育は悪くなったと思っている。現場から生まれた知恵ではなく、政治家や財界人が政治的な取引や自らの思惑で子どもたちに押しつける教育。ころころと変わる方針に現場の教師と子どもたちは翻弄されてきた。
そして、このところの様々な改憲の動き。「改正」といいながら、どんどんものごとが「改悪」される気がしてならない。時代がとてつもなく恐ろしい方向へと一歩ずつ、着実に向かっている気がするのは、私だけだろうか。

今回、特に私が気になるのは、教育基本法に「愛国心」を盛り込もうという動きだ。
しかも、「愛国心」と言わずに「国を愛する心」という言葉を使うという(まるで奉仕活動と言ってみたりボランティアと言ってみたりするのと同じ)。「愛する心」をひとに強要できるものなのか、あるいはしてもよいものなのだろうか。「愛」は義務ではなく、自然にわき上がってくるものではないのか。

誰かが誰かに「愛すること」を強要するとき、それは心の問題にとどまらず、「無償の労働力」への要求が必ずついて回る。あるいは、理屈では割り切れない理不尽なことも、「愛」の名のもとに「がまんすること」や「無条件に受け入れること」を強要する。
それが「強いもの」から「弱いもの」への要求の場合、特に顕著となる。戦前、天皇に対する忠誠心を強要して国民を軍国主義にかりたてたように。あるいは、親が子どもを虐待するとき、男が女から搾取するときに都合よく使われる。「愛」が連発されるとき、そのウラでは利益を得ようとする側の計算が働いている。

そして、「心の強要」を一番容易にする方法は、「洗脳」と「暴力」(ここで言う暴力は必ずしも直接殴る蹴るとは限らない。目に見えない形の暴力が存在すると思っている)だ。軍政下の日本においてももちろんそうだったし、北朝鮮においてもそうであると報道されている。そして「カルト」と呼ばれる宗教、赤軍派などにおいても同じように行われた。
そのことを忘れて今また、一番抵抗の弱い子どもたちを対象に「心を強要」しようとしている。
「愛」という砂糖菓子のように甘いコーティングで飾ってはいても、結局は政府に対して「無批判」「無抵抗」「盲目的」であることを要求している。それぞれの「愛」ではなく、ここでは要求される形がすでに決められている。

そもそも「国」とはなにをさすのか。国民ひとりひとりの集まりが国ではないのか。それが、民主国家といいながら、一部の政治家たちだけが「国体」となっていて、国民と同義語ではけっしてない。
さらに政治は「学校教育」に口出しするだけでは飽き足りず、「家庭教育」まで自分たちの範疇に収めようとしている。たしかに家庭での教育は大切だ。今のままでいいわけがない。しかし、政府が口出すべきことではないと思っている。
生活を管理するということは、その思想まで管理することにつながる。そして、国が口出しすることは、単なるスローガンに終わらず、やがては強制力をもつ危惧がある。個人や家庭より「公共」が優先されれば、いずれ公共の幸せが個人の幸せを奪っていくという矛盾がおきる。もちろん、個人さえよければとは思わない。大切なのはバランスだと思う。法制化することでかえってそのバランスが崩れる気がする。家庭のなかまで国が監視し、違反することを許さない社会。戦前の日本の家庭で行われたのと同じことを再び、法律をもってやろうとしている。

ほんとうに、「愛」が足りないのは「国」のほうだと思う。子どもを深く愛する親が、わが子に「愛」を要求するだろうか。見返りを要求するだろうか。「愛は与えること」という言葉がある一方で、「愛とは奪うこと」という有名な言葉がある。今、政府が提唱しようとしている「愛」はまさに「奪うこと」だと思う。

今の「日本の国」が、国民を愛しているとは思えない。子どもたちを愛しているとは思えない。役に立つ、立たない、生産力、知的財産としてのみ、人間を考えている。役にたつもの、あるいは役に立つ間は優遇されるが、そうでないものには冷たい。それこそ、義務でいやいやほどこしをする感覚はあっても、積極的に「愛」を注いでいるとは思えない。ほんとうに「愛」があるのなら、自立できる子どもはほおっておいても、誰かの助けがなければ、うまく生活がまわっていかないひとにこそ、手厚くなるのが筋ではないだろうか。

教育をみていても、そこに子どもたちへの「愛」は感じられない。いかに子どもたちを使うか、道具のように考えている。子どもたちの「幸せ」を考えて教育があるのではなく、たとえ子どもたちを「不幸」にしても、国の目的のためには押しつけも厭わないという姿勢が感じられる。
「子どもは国の宝」という言葉がある。今は資産運用の時代。外敵から守るためにただ金庫にしまっておくようなことはしない。次の利益を生み出さない「宝」に価値を感じない。

日本人としてのアイデンティティが足りないという。しかし日本という国が、そこにいるみんなを幸せにする素晴らしい国だと感じられるのなら、そして、日本の国が自分たちのことだけではなく、世界の平和や世界の人びとのことを考えられるような国だと感じられるのであれば、子どもたちは強要されなくとも、自分たちがこの国に生まれたことをきっと「誇り」に思うだろう。そこには自然と自分の国に対する「愛」が生まれるだろう。

よくアメリカ合衆国や外国の例を出すひとがいる。しかし、それぞれの国にはそれぞれ異なる歴史がある。それを結果だけ真似しろと言っても無理な話だ。アメリカ合衆国の人びとが「旗」を大切にするのは、イギリスをはじめとする多くの国から移民としてやってきて、自分たちでひとひとつ星を築いてきたという自負があるからではないだろうか。

比べて日本は、「日の丸」の旗のもと国民を先導し他国を占領し、多くの人々を自分たちのエゴから殺してきた。しかもその反省すらきちんとしないで、うやむやにしたまま再びその旗を国民に押しつけようとする。今もって、教科書を検閲して日本の歴史について様々な見方をすることを許さない。自分たちの国の歴史について学ぶべき時間数も意図的に減らされてきた。
デザイン的にはどんなに優れていても、その旗のもと、国内外を問わず沢山の人びとが血の犠牲を強いられてきたことを思えば、そのマイナスイメージは拭いきれない。まして、過去の「日の丸」の旗の使われ方をみれば、歴史を知る人びとにとって、その旗を国民に押しつけることのウラに恐ろしい陰謀が隠されているのではないかと危惧するのは当然ではないだろうか。

教育は常に政治家たちに利用されてきた。国は子どもたちを道具としてしか見ていない。この国には、ほんとうに子どもたち一人ひとりを大切する視点がない。そこから、いじめ、体罰、暴力、心の荒れ、不登校、ひきこもり、など子どもたちのあらゆる問題が始まっている気がする。表出しているのは子どもたちの心の叫びだ。それを聞き取りもせず、さらに子どもたちを追いつめようとしている。

国歌国旗法が成立したときから、すでに日本は一歩を踏み出している。もう、ネジを巻き戻すことはできないのだろうか。一旦受け入れてしまったら、元に戻すにはその何倍もの力がいる。時代の波が私たちの子どもを呑み込もうとしている。屍(しかばね)を累々と目の前に積み上げてからでないと、人間は気づくことができないものだろうか。

おそらく第二次世界大戦直後からすでに、虎視眈々と機会をうかがってきた人びとがいる。歴史のネジを巻き戻すような政策を小出しにしてきては、今までは強い反対でなしえなかった。しかし、戦争の悲惨な体験は時間とともに忘れ去られた。世界各地でテロ事件が起きている。必要以上に煽りたてられる人びとの不安。今こそ、政治家たちにとってまたとないチャンスだろう。日本が再び武装化すること。国民をすべて戦士にしたてること。「強いアメリカ」に追随して、再び「強い日本」になること。戦争、軍隊のなかでは、個人の尊厳など簡単に吹き飛ばされてしまう。人権など簡単に握りつぶされてしまう。殺戮、搾取、服従。それらのなかに人間の幸せがあるはずがない。子どもたちの幸せがあるはすがない。しかし、言論の自由のない社会は、政治家たちにとってこそ、最も都合がいい。そのことを私たちは忘れてはいけない。上っ面のきれいな言葉にごまかされて、本質を見失ってはいけない。無知と無関心から、悪法を受け入れてしまったら、泣くのは子どもたちだ。やがてそれは社会へのツケとなって私たち大人へと回ってくる。再び子どもたちへと、悪循環はとどまることない。
慎重に慎重に。ものごとがが悪くなるときは、坂を転がるように例えられるがごとく、あっという間だ。

私たちにとって、子どもたちにとって、ほんとうに必要なことは何なのか?それは時代が変わったからといってそう簡単に変わってしまうものなのか?よく考えたい。
私は日本の歴史のなかでひとつ評価していることがある。あの悲惨な戦争を経て、一時人びとは、ほんとうに真剣に人として生きることの幸せについて考えたと思う。あの時の気持ちを私たちは歴史のなかから、もう一度、学び直さなければならないと思う。



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