わたしの雑記帳

2001/4/20 権力と闘う人びと


岡崎さんの裁判では、毎回、いろんな方たちが傍聴支援に訪れる。
裁判が終わったあとに、そういった人たちと食事をしたり、お茶を飲んだりするのが、ひとつの楽しみとなった。

ずいぶん、遠くから来ている人もいる。多くが、自ら闘っている人びと、もしくは同じ心の傷を抱える人びとだ。これもすべて、岡崎さん夫妻の地道で絶え間のない活動の成果だ。自分のことだけでもたいへんな時に、支援する人たちと通信を発行したり、自らも積極的に情報を求めて動く。孤立無援で闘っている人びとが、情報と心の共有を求めて集まってくる。しっかりと他人の話を聞き支援を行う。ネットワークをとても大切にしていて、多くの人たちの橋渡しをしてくれている。

みんなの話を聞いていると、この国の真の姿、暗部がいやになるほど見えてくる。
平和だと思っていた日本の常識が覆される。自分を守ってくれると信じていた国家権力が、いかにあてにならないものであるか、そして、一旦敵に回したら、太刀打ちすることがいかに困難なことかを思い知らされる。

地元の新聞記者は、地元の権力者にとってマイナスになる記事が書けないという。
地元だからこそ、真相究明に力を注ぎ、どこよりも詳しい記事が書けると思うのは素人考えであることが思い知らされる。
地元新聞が、なぜ警察発表のままに記事を書くのか。新しい事実が出てきたときに、それが警察や県、行政に不利なことの場合に、記事を書けないのか。被害者に、もしくは被害者遺族に粘りに粘って取材した記事が、発表されないまま埋もれてしまうのか。
地元で、反権力的な記事を書いた記者は仕事ができなくなるという。見せしめのために、出入りを禁止されたり、他の事件であれなんであれ、取材を拒否されたり、一切の情報を流してもらえなくなるという。

ある新聞社では、地元の記者の立場を考慮してか、わざわざ本社発表という形で地元の反権力的な記事を掲載した。しかし、結果は地元の記者にツケが来た。結局、地元では仕事にならず、地方へ飛ばされてしまったという。
「報道の知る権利」とか、「ペンは剣より強し」と言っても、権力と太刀打ちできるだけの組織力を持っているか、もしくは組織に縛られないフリーで、実力一本で勝負するかでもしなければ、本当の記事はなかなか書けないものらしい。だから、横並びの記事になる。

「報道被害」。被害者や遺族をさらにどん底まで突き落とす。スクープ合戦の加熱と一方で権力におもねる体制と。被害者は直接の加害者だけでなく、いろんなものを相手に闘わなくてはならない。

埼玉県桶川の女子大生刺殺事件の被害者遺族の方が岡崎さんの裁判傍聴に来ていた。
どうして、今はあんなに明るくしていられるのだろうと不思議なほど、酷い目にあってきた。加害者の言い分のみがひとり歩きした、いわれのない誹謗中傷。
対象が美人の女子大生ということで、さらにセンセーショナルに扱われた。ストーカー被害にあっただけでなく、殺害理由が、まるで被害者に大きな落ち度があったかのように、事実を曲げて扱われる。加害者の責任逃れの言い分をまるごと信じる警察。それを追随するマスコミ。死人に口なし。本人が生きて訴えることができないことを、遺族がどれだけ悔しい思いでいるか。

一方で、マスコミの力が、事件解決の道を開くこともあるのも事実だ。
桶川の事件では、清水潔という記者が警察より先に犯人にたどり着いたという。 (ウェブサイト 三流ジャーナリズムの部屋 参照)
岡崎さんの事件でも、いろんなマスコミが押し寄せることで、こちらのマスコミにはこう答えているのに、こちらでは同じひとが違う答えをしている、地元の人びとの間で飛び交っているウワサが根も葉もないことであることが、マスコミの取材で明らかにされたなどのプラス面もあった。
そして、事件をこのまま闇に葬り去りたくはない人びとにとっては、強い味方でもある
つまり、マスコミは諸刃の剣で、権力と闘う武器にもなるし、自らを傷つける武器にもなる。
同じように、このサイトも、訪れてくれる人が増えていくなかで、自覚をもって運営しなければと思う。

また、身内の死の警察発表の「自殺」に疑問をもっている人がいた。状況を綿密に検証した人たちが「これは絶対に自殺ではない。他殺だ」と断定しているにかかわらず、地元警察は最初に掲げた「自殺説」を頑として曲げようとしない。あげく、自殺の原因はあんただとまで言われる。あんたが追いつめたと。
情報を求めて何度も訪れる警察で、担当の警察官に「オレはあんたに嫌われているから、オレはもう、何にも言わない」と言われる。まるで子どものケンカの意地の張り方だ。しかし、権力をもっているだけに、始末に悪い。被害者遺族がなぜ、警察官に威嚇されなければならないのか。
一旦、自殺と発表したものを他殺に変えれば、ミスを認めなければならない。責任問題となる。各地の警察で不祥事が起きているように、仕事を増やしたくなくて、安易な方を選びましたなどとは言えない。

日本国内で、犯罪被害にあったとき、人びとが真っ先に頼りにするのは警察のはずだ。その警察が敵になる。相手はものすごい国家権力を有している。特に地方では、身内かばいの意識から、警察官はもとより、関連する公共機関すべてが敵となる。
それでも、末端の警察官は一生懸命にやってくれていると、被害者や遺族は言う。ただ、教師にしても、医者にしても、警察官にしても、一旦組織となると、個人の良心や正義などつぶされてしまう。

どうして素直に「間違っていました。ごめんなさい」といい大人が言えないのだろう」と被害者は言う。それだけで、みんながどれだけ楽になることか。嘘に嘘を重ねるたびに傷口が大きくなる。取り返しがつかなくなるというのに。体面や処罰を恐れて、人間の一番大切なものを失っていく。たとえ裁判で明らかにされなくとも、マスコミによって日の光のもとに晒されることがなくとも、そんな負の財産を一生、背負って生きていかなければならないのは、辛くはないのだろうか。それとも、そんなことを感じないほど、心は固く無機質になっているのだろうか。

地元で孤立してまで、職を失ってまで、被害者側に立って、あるいは公平な立場で、発言できる人はほうとうに限られている。それでも、時々、そういう人びとと会うことができるたびに、人間もまだまだ捨てたものじゃないと少しほっとする。

闘っている人びとが今、様々なネットワークを築きつつある。
条件が全く同じでなくとも、共感する心さえあれば、手をつなぐことができる。一方で、同じ被害者でも、人それぞれで、必ずしも分かり合えるとは限らない。
相手よりも、自分のほうが不幸であると強調する。自分の気持ちは誰にも絶対に分からないと頑なになる。これも、傷ついた心ゆえだと思うが、互いに傷ついた人びとが互いの傷を開きあうほど不幸なことはない。不幸の度合いを、たとえば数値で計ることができたとして、それが何になるだろう。
あなたの不幸は私の90%分しかないと言ったところで、その人にとっては100%なのだから、比べることに意味はないはずなのに。

それでも、被害者の心がほんとうにわかるのは被害者だと思うから、被害者でも被害者遺族でもない私はせめて、両者の出会いを取り持つことができたらと思う。そして、100%わからなくても、10%でも、5%でも、わかってくれる人たちを一人でも多く増やせたらと思う。微力ながら。


HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新