わたしの雑記帳

2000/12/28 現場の声を無視した「奉仕活動の義務化」


企業が戦略をたてるとき、現場の声をきくことが鉄則になっている。かつてのように、経営者が頭の中であれこれ考えて実行に移したところで、激しい世の中の動きが掴みきれずに、世の中のニーズとかけ離れてしまう。顧客にもっとも近い現場の声を経営に反映させることで、消費を取り込んでいく。押しつけでは、けっしてうまくいかない。
競争激化の世の中で殿様商売は、大企業といえど通用しなくなっている。

だというのに、いまだ旧態依然としているところがある。政府の方針だ。
一握りの政治家が、「国民のため」と称して勝手をする。けっして現場の声に耳を傾けようとはしない。介護保険しかり、教育改革しかりだ。
「識者の意見」を聴くと言いながら、自分たちに都合のよい意見ばかりをかき集める。

教育でいう現場とは、もちろん教師と生徒のこと。しかし政府は、生徒のみならず、教師をも信頼していない。まかせておけないと思っているらしい。だから、次から次へと新しい方針を打ち出しては、現場を引っかき回す。打ち出した方針がうまくいかないと現場のせいにして、自分たちの考えがより現場に反映されるようにと、教師の管理ばかりを強める。
政府は教育現場ではなく政財界の現場、すなわち企業の方向ばかりを向いている。企業が欲する人材を育成するための学校を実現しようとしている。自分たちの基盤を支えているのは、一般国民ではなく、企業の財力であると認識している。

消費税導入以来、国民の大多数が反対しようがどうしようが、何でも法案が通ってしまう。
君が代、日の丸にしても、ここ数年持ち上がってきたことではなく、戦後(昭和20年8月15日終戦)間もない昭和25年(1950年)には、天野文相が、「国家の祝日及び学校の行事に際し、各学校、官庁、家庭において国旗掲揚とともに国家斉唱をすることがのぞましい」とし、これをすすめるとの談話を発表し、全国の知事、教育委員会等に通知している。
つまり、その頃から虎視眈々と教育現場への義務化を狙っていたが、日教組等の強い反対にあい、果たせずにきた。それが今、日教組が弱体化し、ますます政府は教育界における発言権を強めていった。日の丸掲揚、君が代斉唱に反対する教職員は解雇されるほどに。

そして、このたびの「学校での奉仕活動の義務化」。やがて18歳の国民すべてに1年間程度の奉仕活動を義務づけるという。
曾野綾子さんは、産経新聞や文春等で、「教育は強制からはじまる」と断言しているという。それにのっかって官僚たちも、「もともと教育とはそうしたものだ。自由にさせすぎたから、学校崩壊や様々な少年事件が起こるんだ」と声高に言い始める。

一方で、この法案に賛成するという現場の声は聞かれない。
ボランティアを通して得るものは確かにあるだろう、しかし、強制となると疑問が残る。まして、教師たちがボランティア活動をしたこともない中では、どのように指導すればよいのか、自分たちにもわからず体勢が整わない。学力低下が叫ばれるなか、そんなゆとりはない。
どちらかといえば、こんな意見が体勢を占めるのではないか。

政府は学校や青少年の荒れを理由に、その有力な解決策としてドンと打ち出す。
今の学校の荒れが、自分たちが次々と打ち出していった方針の結果だとは、けっして考えない。学校にさえ行けなくなってしまった子どもたちに、更に行かなければならない場所をひとつ増やす。
1999年2月28日、広島県立世羅高校の石川敏浩校長が、日の丸掲揚、君が代斉唱をめぐり、広島県教委と教職員組合との対立の狭間で悩み自殺した。この事件をきっかけに、校長の意志とは裏腹に、「強制ではない」というあいまいさが自殺の原因として、更に強制力を強めていったときのように、自分たちのやろうとしていることに都合良く、強引に理由づけしてしまう。

今回の奉仕活動の義務化で、日の丸、君が代の強制のときに私が感じた危惧をさらに強くした。
18歳という年齢の持つ意味。最初はボランティアという言葉を使いながら、いつの間にか奉仕活動と言い換えられた理由。個性の尊重を片方であげつつ、実際には、はみ出すことを許さない強制ばかりを強めていく。
すべては、徴兵制の布石として使われているのではないかということ。

この不況を別にすれば、自衛隊員の募集はいつも困難を極めているという。かつて、国会で徴兵制が話題にのぼったことがある。その時は反対が強く、すぐに立ち消えになってしまったが。
日の丸、君が代の国民への強制を戦後まもなくからずっと構想に描きながら、ついに果たしてしまったように、段階を追うことで、ひとつひとつの関門をクリアし、やがて法的な強制力を伴う徴兵制へと移行するのではないか。まして、これからは少子高齢社会。手をこまねいていたのでは、兵士は集まらない。

18歳という年齢ならば、軍隊の厳しい訓練にも耐えられるだけの体ができあがっているだろう。親元から離して寮生活をさせることも可能だ。
前段階としては、「小・中学校では2週間、高等学校では1ヶ月間、共同生活などによる奉仕活動を行う」ことによって、徐々に慣らしていく。
そして、日の丸、君が代を象徴として体に染み込まされた愛国心強制されることを、盲目的に上からの命令に従わされることに慣れた人間を、国家への奉仕活動の最たるものとして、軍隊に送り込む。
軍隊に入ることは「奉仕活動」とは言えても、「ボランティア」とは言えない。(もっとも、ボランティアとは自発的な意思による活動のことであって、強制された時点でもう、ボランティアとは言えないが)

かつて、私自身、徴兵制はそんなに悪いことではないのではないかと思っていたこともあった。国民一人ひとりが国のこと、防衛のことに関心を持つのは大切なことだと。
しかし、軍隊のなかで個人の意志が尊重されるはずがない。個人個人の感情も思考もはぎ取って、殺人マシーンとする、敵を倒すための兵器の歯車のひとつとする。そのノウハウに長けているのが軍隊だ。一度、放り込まれたなら、よほど意志の強いものでなければ、簡単に洗脳されてしまう。
そして、それはシュミレーションではなく現実の世界。戦争に行けば実際に殺し、殺される世界なのだ。

今回、曾野綾子さんのような、戦争下における人びとの苦しみと痛みがわかるであろうはずの知識人、作家が、戦前の教育を彷彿させるような国家権力の強制に両手をあげて賛成しているといことは少なからずショックだ。戦争を知らない世代ならいざ知らず。
日本が、もう同じ過ちを二度とは繰り返さないと誓ったのは、まだそんなに遠い昔のことではないはず。戦争体験を持つ、あるいは戦後復興の混乱期を生き抜いてきた人びとが、まだたくさん生存しているというのに。

現場の声を聴こうとしない政府。そんな政府にしてしまったのは、もちろん、私たち国民にも責任がある。政治への無関心さが、政府をつけあがらせてしまった。
「教育は強制だ」そんな言葉のもとに、教師も生徒もガチガチにがんじがらめにさせられてしまう。自由な意志さえ奪われていく。疑問を持つ思考回路を断たれていく。そんな教育ならいらない。
一部のひとたちが得するためだけの政治、政府ならいらない。

今の教育現場は確かに荒れている。荒れていると言っては、政府が細かく、細かく、決まりごとを作っていく。強制を科していく。
もしも、政治が教育現場の規制緩和をもっと進めたら。教科書の検閲をやめ、様々な義務を取っ払ったとしたら・・・。
あまりにいろんな人たちの思惑にからめ取られて動きがとれなくなった今の学校。子どもたちにとって無味乾燥、監獄と化した学校も、生き生きと動き出すのではないか。
学校につぎ込まれているのは国民の税金であって、政府官僚のポケットマネーではない。
政党が企業から支持を受けるための教育方針、企業のための部品づくりではなく、子どもたちのための、国民一人ひとりのための学校を取り戻したい。子どもたちにとって本当に必要なことは何か、現場の人たちと話し合いながら作り上げていく学校。そんな学校なら、子どもたちも今よりきっと生き生きするだろう。

太陽と北風の寓話を思い出してほしい。北風が強く吹けば吹くほど、子どもたちは心を固く閉ざしてしまう。

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