第II部、敗戦五十年と民族道徳


第3章.侵略された側は忘れない

 

1.靖国神社の戦犯的性格

1986年8月15日 中曽根首相の靖国神社への公式参拝

1)靖国神社の存在
1869年(明治 2年) 東京招魂社として創設
1879年(明治12年) 靖国神社に改名
「臣民どもは、『ああ大君の額打き給う、栄光の宮、靖国神社』 (靖国神社の歌)の、まばゆいばかりの『栄光に幻惑され、 おのれの師弟をわだつみの悲劇にかりたてられ、あるいは、 積極的にかりたてていったのである。』

『主婦之友』1939年6月号、男子を戦死させた母親の座談会
「ここに共有されている気分は、最後の森川ユキのことば―― 『間に合わん子を、よう間に合わしてつかあさって、お礼を申します』 ――に集約されていると言っていい。」

2)戦後の靖国神社
1969年第61国会、自民党議員立法「靖国神社国営法案」提出・・・廃案
1975年4月、自民党「法案提出を断念」
1975年8月15日、三木首相「私人の資格」で参拝

1986年8月25日付、シンガポールの『連合早報』の論評
<みたところ、海軍出身の中曽根は、 戦後の保守政権が慎重に対処してきた靖国神社問題の処理を急いでいる。 それは、決してこの機会にあの侵略戦争を反省しようというものではなく、 全世界に向かって、 日本軍国主義が戦争でおかした罪悪行為を否定しようとするものである。>

2.私の小さな朝鮮体験

パゴダ公園
1990年5月25日、来日した盧泰愚大統領の初の日本の国会での演説
「去る時代のしこりが両国関係発展の障害となっているのです。」 として、次のように続けた一言である。 「小学校に入ったばかりの韓国の児童が、 学校で日本式の名前でなく自分の名前を使ったり、 母親から教わった自国の言葉を使ったりしては、 先生から鞭打たれなければならなかった痛みを皆様は理解できないと思われます。」

伊藤博文
「ただ、一日本人作家、中野重治が、こう書き残しておいてくれたのが、 せめてもの救いである。 『睦仁天皇の日本政府が閔妃を暗殺したとき・・・ 殺害者の側には侮蔑と計算とだけがあった。 伊藤博文を倒したとき、安重根には熱烈で透明な憎悪があった。』 (「在日朝鮮人と全国水平社の人々」)。」

啄木と安重根
1993年11月22日『朝日新聞』夕刊 韓国の研究者、 呉英珍・東国大教授の研究発表
「啄木の「ココアのひと匙」の詩の中の「テロリスト」とは安重根ではないか。」

3.『尹 奉吉−暗葬の地・金沢から』を読む

尹奉吉墓碑
尹奉吉暗殺記念碑

「本書は、第一次上海事変直後の1932(昭和7)年4月29日 ――当時「天長節」といわれた――、 上海虹口(ホンキュ)公園で催された天長節戦勝祝賀式典の主賓台に爆弾を投じて、 白川義則上海派遣軍司令官を殺害し、 重光葵公使ほか高官達を殺傷したテロリストである尹奉吉の事跡と、 尹の義士としての顕彰の過程、ならびに、 彼の遺体に対する日本側の洵に非人間的な対応をあばき、 『尹奉吉義士暗殺之跡』の石碑(金沢市) を建立した市民運動の記録を要領よくとりまとめたものである。」
「日本当局の焦りと怒りと狼狽は極点に達した。 そこから日本側は、軍法会議という違法な場で尹奉吉に死刑判決を下し、 金沢に移して刑を執行、そのうえ遺体を陸軍墓地への通路にうずめ、 墓標も墓石もおくことを許さなかった。 いうところの『暗葬』である。」
「それに1946年3月、 尹奉吉の遺体発掘の現場には一人の日本人もなく記者もいなかったと伝えられる。 そればかりか、埋葬場所の手がかりを求めて、 情報の聞き取りにまわっていた在日朝鮮人に対して、 日本人は一斉に口を閉ざしたという。 陸軍墓地の管理人さえ何も喋ろうとはしなかった。 戦前戦中の朝鮮人蔑視の感情が思想的に反省されることなく、 今度は恐怖の感情に転化させられたということだろう。 しかも、そうした拒否反応は、 尹奉吉の処刑・暗葬に直接かかわった金沢第9師団の元兵士においてこそ 著しかったようである。」

 

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