第5回総会記念講演・公開学習会

「山西省、日本軍の性暴力調査に参加して」

加藤修弘(山西省明らかにする会)



1.活動のきっかけ、万愛花さんの村を訪ねる
2.中国の農民の目線から見た侵略・性暴力被害
  2-1 日本軍に協力する維持会
  2-2 河東拠点支配下の性暴力被害
3.封印されてきた性暴力被害の記憶
  3-1 南二僕さんの生涯
  3-2 楊秀蓮さんの闘い
4.国家的犯罪としての盂県の性暴力
5.おわりに





1.活動のきっかけ、万愛花さんの村を訪ねる
  こんにちは、加藤といいます。ここでは山西省における日本軍の性暴力の一般的なことでなく、私自身がいろんなきっかけでこのことに関わることになり、のめり込むようなことになって、そんな中からどういうことが見えてきたか、という話を聞いていただこうと思っています。「山西省明らかにする会」の活動は1996年の秋から始まり、この春で16回になるのですが、私もそのほとんどに参加して何度も盂県に足を運んできました。もちろん南京の場合も全く同じだと思いますけれど、現地の風景に接して、そこで考えることによって初めて見えてくることもとてもたくさんあるわけで、そういう中で侵略の歴史の分厚さ、本当の罪深さが、より深く実感できたような気がするのです。
  私自身、このことに関わるようになったきっかけというのは、1992年に、中国で日本軍の性暴力を受けた女性として初めて名乗り出た万愛花さんという方が、国際公聴会の証人としてはじめて日本に来られたことです。国際公聴会の現場では演壇に立って喋りだそうとして、すぐに思いがあまって気絶してしまったものですから、自分の胸の内を語ることもできなかったわけですが、その後東京で女性たちが企画した、こじんまりした集会で初めて万さんは自分のすさまじい体験を語ってくれました。その時、彼女は話しの終わりの方でやおら上半身を裸になってしまったんです。拷問の時に頭をのぞく体中の毛を引っこ抜かれた、それが嘘偽りではないんだということを、何が何でも私たちに知ってもらおうと思って、脇の下に毛が一本もないという自分の体を見せました。初めて日本に来て、男たちもいっぱいいる中で、ある意味ではあられもない姿になって私たちに訴えたと思うのです。それは私にとって衝撃でした。
  万さんはもう一回来日されて、話を聞かせてもらった私たちは何か万さんに返さなければいけないことがあるんじゃないかとずっと思っていました。そういう中で、万さんが日本を相手にして是非とも裁判をやりたいということがあり、その前提として私たちは自分の身を運んで万さんの家を見、万さんの被害の地も歩いてみたいということがあって、1996年の秋に初めて山西省の盂県という農村に足を踏み入れたのです。
  第一回目に盂県に行ったときは、万愛花さんが4つのときに内モンゴルから売られてきて、買われ、育ち、そして共産党に入り、娘時代に抗日の戦士として活躍したその村、羊泉村に万さんの案内で行ったわけです。まず私は風景に圧倒されてしまいました。太原の町を出たらすぐに辺り一面は黄土大地、木も草も緑なんてものは何も見えない、すさまじい風景なわけです。そのど真ん中に盂県というのはあり、特に羊泉村というのはあの荒々しい浸食の河谷の斜面にへばりつくようにして作られている小さな村なんです。その村の風景を見たときに、「こんな所まで日本軍は来て、それであんなことをやったのか」という、今までの自分の侵略戦争というものの認識とはあまりにもかけ離れているというショックがととも大きかったと思います。日がとっぷりと暮れたころに車が着いてライトを消すと、羊泉村というのは漆黒の闇なのです。農民たちはもったいから電気なんかつけないので、夜はまさに闇の底に沈んでしまいます。そして水も少ない。貧しさの極まったみたいな地域だと思います。そんなところに、日本軍が来ている。日本軍が山西省に攻め込んだのは、たとえば石炭とか鉄鉱石とかの地下資源が必要だったからだという理屈でわかったような戦争ではない戦争。つまり戦争というのは当然相手があり人間がいるわけですから、その人間が日本軍になびかなければ、どこまでもどこまでも、こんな小さな村にまでさまざまなことを仕掛けていく形になるという、戦争の底深さということを実感したような気がしました。そこから、盂県に来て、現地の空気を吸えば、もうちょっといろんなことがわかってくるんじゃないかという、とても大きな予感みたいなものが生まれたのです。

2.中国の農民の目線から見た侵略・性暴力被害
 二回目は、現在10人の原告がやっている訴訟の被害女性たちの多くが被害にあった河東村を主な調査対象として出かけて行きました。その時に、日本軍が砲台を造った羊馬山という山の麓で、話を聞かせてくれたのが楊時通さんというおじいさん、村の故老だったんです。この間残念ながら亡くなってしまったんですが、彼を知っている村の誰もが、あんな頭のいい人はいなかった、聡明だったと言う人で、本当にそういう感じの人でした。だから記憶もとてもしっかりしていましたし、何よりもいいのは、分からないことを適当に言わない、分からないことは必ず分からないとはっき言ってくれる人で、おかげでいろんなことがわかったのです。楊時通さんは、このときに主に二つのことを話してくれました。

2-1
 日本軍に協力する維持会
 ひとつは河東村の農民たちは、その前にひどい目に遭った体験があったので全員逃げていたのですが、実際に日本軍が河東村の背後の山に砲台を造って居着いてしまう中で、農民たちは生きるために村に戻ってこざるを得なかったのです。すぐ上に日本軍が君臨している状況で村の人たちがなんとか安全に命を長らえていくためには、やることは結局ただ一つ、維持会という日本軍に対して協力する組織をつくるしかなかったのです。楊時通さんは会計役として維持会を作る中心メンバになっていきます。
 そうやって形の上では日本軍に協力する体制をとりつつ、なんとかして村を守っていかなければいけない。野菜を提供したり、さまざまな日本軍の要求に応えながら、しばしば女を提供しろという要求もあるわけです。女の中継ぎまでもしながら、とにかく村を守っていくという農民たちがいたわけです。
 私は高校の日本史を教えている教員ですから、侵略戦争のことは分かっているつもりで教えてきましたけれど、日本軍の侵略戦争というと何か暴虐、悪辣な日本軍がいて、それに立ち向かう勇敢な八路軍の抗日の戦いがあってという図式、まともに中国人の顔なんか見えないところで、ただ観念的な歴史を想定していただけだという感じがしました。農民にとってみれば八路軍に行くこともできないし、もちろん日本軍に喜んで協力することもできない。でも何はともあれ村を守って、その村で生きていくということが最大の課題だとすれば、そこにはさまざまな選択肢があって、それぞれの村が本当に苦労しながらなんとか村として生き延びようとしていったんだと思います。そういうところまで村を追い込んでいったというのが侵略なんだというように、農民の目線から侵略を考えればどういうものが見えてくるかということがほんの少し分かってきたという感じもしたのです。

2-2
 河東拠点支配下の性暴力被害
 もうひとつ楊時通さんの話で印象的だったのは、この河東村の中で起こった女性の被害には3つの種類があったということです。一番目は、拠点を造ったときに日本軍が要求したことのひとつとして、その支配下に入る周辺のいくつかの村々に女性を割り当てて、5、6名の女性を集めさせ、そして河東村の民家から農民を立ち退かせて、そこに私設の慰安所的なものをつくるということをやったわけです。そういうふうに村々から集められてきた女性たちが日本人の性暴力の被害に遭う、というのがひとつの被害のパターンです。
  二番目は、もっと外の方では日本軍に立ち向かう村々があるわけで、そういうところで日本軍は討伐という作戦行動を展開します。そういう中で捕らえられた女性たちを、もちろんその場で強姦もするわけですが、そのまま拉致してそして砲台の下の崖に造ったヤオドン(穴を掘りこんで造った山西省にはよく見られる住居)の中に連れ込んで強姦をし続ける。討伐で女性が見つかりさえすれば連れてきたというのがもう一つのパターンだったわけです。それから三番目は、村の中の女性を見たときにそのまま家に押し込んで、そのまま手当たり次第強姦するというような女性の被害。大きく分けるとその三つくらいだと楊時通さんは言われたのです。河東村というのはかわいらしい村なんですが、そんな小さな村の中でこんなに多様な性暴力の具体例があるとすれば、さまざまな村々の中での性暴力の全てが明らかになったときに、どれほどすさまじい状況が見えてくるのかということです。
 そんなことを通して、やっぱりわれわれの認識というのは実態に即してはいない、実に甘い認識だったと、ガーンとやられたという感じでした。でも、このことを通してこれからこつこつやっていく中で、本当の侵略というものにわれわれが認識的に近づいていく道筋が見えたのではないかという感じはしたわけです。その後はのめり込んでいくようにして、年に2回くらいのペースで山西省に通い続けていろんなことがわかってきたというのが現在の状況です。

3.封印されてきた性暴力被害の記憶
  私たちは調査する中で一人一人のことに徹底的にこだわっていきたい、どんなちっちゃなことも軽視しないで、何があったのかということを記録して明らかにしていきたいと思っていました。被害の重さとか侵略の罪深さとかはもちろんその中でわかってきますが、それだけじゃなくてたとえばおばあちゃんを取り巻く家族関係の複雑さだとか、医療問題の難しさだとか、それからこのおばあちゃんたちはなぜこんな長い間、何十年間もだまり通してきたのか、家族にもうち明けようとしなかったのかとか、いろんなことを考えざるをえなくなってしまいました。
  私たちはおばあちゃんたちのことをダーニャンと呼ぶんですが、このダーニャンたちのことは、個人のことだけでなく一般的にも、中国の歴史の本に全然取り上げられていないのです。もちろん解放後、各地の農村で日本軍による被害がどれほどのものであったかということを中国はきっちりと調査しましたが、その調査項目の中に女性たちがどういう目に遭ったか、被害に遭った人たちも含めて明らかにするということは、何一つしてこなかったのです。全部闇に埋もれていた。だから何十年も彼女らの記憶が封印されてきている。むしろそういう女性たちがいるということ自体が村の恥、みたいな感覚も正直言ってあるんだと、男の人から聞いたこともあります。そういった中で、おばあちゃんたちが改めて口を開いたということの重さがどれほどのものか、ということを実感するわけです。10人の原告の中の一人だけを具体的に紹介してみたいと思います。

3-1
 南二僕さんの生涯
  南二僕さんという方だけ私たちは生きている時にお会いすることはできませんでした。原告紹介というプリントに楊秀蓮さんという若い女性の似顔絵が描いてありますけれど、南二僕さんはこの楊秀蓮さんを養女として育ててくれた人です。それで彼女が自分の親の恨みを晴らしたいということで現在、原告としてがんばっているわけです。南二僕さんは河東村のそばの南頭村という、これも小さな村ですが、そこで生まれました。ちょっと北に山河村という村があり、若い頃にそこの男の人と結婚するんですが、とても歳が離れていて夫婦仲がうまくいかなくて、すぐに実家に返されたようなのです。
  その山河村という村はもちろん河東拠点の日本軍の支配下にあった村で、周辺の村に女性を提供しろという割り当てがきたときに、その山河村からは、あれは返されちゃった女だからという感じもあって、どうも名指しにされたようなのです。彼女は河東拠点の日本軍のところに連れ去られることになります。たまたま彼女は美しかったということもあるんでしょうが、日本軍の下士官の専属の女性にされてしまうわけです。
  山の上にはトーチカを築いて日本軍がこもっていて、その村の中には中国人によって造られた傀儡部隊である警備隊というのがおかれていました。ところが、この警備隊がとても質が悪いので、警備隊には一人か二人の下士官を教官というかたちで派遣しているわけです。この場合も南二僕さんを専属の女性としたのは村の中にいる警備隊の教官だったわけです。村の中に日常的にいる日本兵というのはこの男だけでしたから、まさに独裁的な権力をもっていたようです。その男は警備隊の砲台のなかに自分の専用の宿舎を持っていて、そこに南二僕さんを引き入れておいて日常的に性暴力を加えたということです。そうやってずっと会っている間についに彼女は妊娠させられて男の子を産み落とすということになるんですが、この男の子はすぐに死んでしまいます。やがて、この男が異動でこの村から姿を消すと、山の上にいた日本軍の下士官がそれを引き継ぐみたいに自分の専属のような形で強姦を続ける。結局、日本軍は43年の終わり頃、ここから移って西煙鎮に戦力を結集するんですが、そのときになってやっと彼女はそういう状況から開放されました。
  しかし、その経過の中で、彼女はいわば村の人身御供になった人間であるにもかかわらず、一方では、日本の下士官に奉仕しているだとか、日本の下士官のおかげでいい物を食っているだとか、そういうふうに見られていました。そんな中で、これは闇の中のまた闇の事件なんですが、あるとき何人かの男が彼女の実家に乱入して彼女のお母さんと二人の弟を殺害するという事件が起こっているんです。結局だれがやったのかは未だに分かっていないようですが、決して触れたくない闇みたいなものを見る気がします。そういうふうに見られていた彼女は解放されたからといって、安心して村にいるというわけにいかないし、おまけに戦争が終わるとすぐに八路軍が入ってきますから、日本軍とつながったとみられている彼女は当然そこにはいられなくなり、村を逃げ出すのです。
  最終的には村に戻って来るのですが、折から反革命の摘発運動が盛んになる時期になっていますので、彼女は過去のことを取り上げられ、裁判にかけられて懲役3年の刑を受けます。実際には2年で出されたんですが、そんなふうに責任をとらされたんです。それだけでなくて、文化大革命が始まると彼女は昔のすべてのことをまた暴露されて、たとえば糾弾集会で反革命という札を首からぶら下げさせられるとか、あるいは彼女自身を標的にした集会ではなくても、いわゆる黒分子として集会のそばにうなだれたまま決して頭を上げないでジーッと立たされていたとか、そういう扱いをされました。そして、正に文化大革命の最中に、南二僕さんは自ら命を絶ちます。これはもちろんそのことだけがきっかけではなくて、性暴力が根本的な原因と思いますが、体の具合が非常に悪くて、村の目もつらかった、ということの結果だと思います。
  実は、これが唯一の救いかもしれませんけれど、南二僕さんはしばらくして結婚しているんです。別の下士官が専属にしたといいましたが、その下士官が南二僕さんをある家に居させたんですが、相手はその家の持ち主の息子なんです。その息子が南二僕さんの所を何度も訪ねていくようになって、二人は好き合って結婚したようです。だから文革の最中にはそんな女と結婚した男ということで、夫自身もいろんな迫害を受けるわけですけれど、それでもこの二人は最後まで仲の良い夫婦であったと周りの農民たちは証言しています。しかし、その夫をもってしても結局、南二僕さんを自殺から救うことはできなかった。そこまで支えることはできず、本当に無念だったろうと思います。

3-2
 楊秀蓮さんの闘い
  ところで、南二僕さんは自殺するちょっと前に、まだ赤ん坊だったを養女として育てたわけです。その楊秀蓮さんは母親の被害のことは全く知らされていなかったようです。また、彼女の義理の父もついにそのことを言おうとはしなかったそうです。ところが、小学校に行ったときに、戦争中の話を聞いて自分たちも勉強して、今がどんなに良くなったか確認し合おうというような目的で、村の故老を呼んで話しを聞く会があったそうです。その故老がかつて日本軍の兵隊たちの性暴力を受けた女性たちがいたという話をして、その中の一人に南二僕さんがいたということを話したそうです。
  小学生の彼女は強姦なんて言葉の意味もわからなかったので、父親に聞いたそうです。父親は愕然としたことでしょう。しかもその後で、先生がみんなに作文を書かせた。ことのいきさつをうっすらとわかりかけた楊秀蓮さんはそんな作文が書けるわけがないです。だから、書かなかった。そしたら、先生がものすごくしかりつけて「おまえみたいなやつは、日本軍のところに行ったらいい、日本軍のところに行って殺されたらいい、そうすればその悔しさがわかるだろう」というようなことを言ったんだそうです。それを家に帰ってお父さんに言ったら、お父さんは烈火のごとく怒って、ただちに小学校にかけつけて学校の校長にねじ込んだそうです。さすがに校長は謝ってその先生のことを叱るということになったらしいんですが、楊秀蓮さんはそういう形で母親の被害のことを担わざるを得なくなったのです。
  それでも南二僕さんの夫はなかなか真相を語ろうとはしなかったようですが、やがてその夫が亡くなる本当の間際になって「全てを語ろう、どうか母親の恨みをお前が晴らしてほしい」と言ってすべての事実を語ってくれたそうです。それで、南二僕さんの志を娘が受け継ぐというふうになったのだと聞きました。
  今年の春に行ったときに私たちは初めて南二僕さんのお墓に行きました。日本軍がふんぞり返っていた羊馬山の下、楊家の畑の脇にこんもりとした土饅頭のお墓がありまして、そこで楊秀蓮さんが話してくれたんです。南二僕さんの夫のお父さんはこの結婚に猛烈に反対で自分は家出したくらいだから、南二僕さんが亡くなったときに、彼女の遺骸を楊家の墓に入れるなんてことは全然できなくて、結局村の外の方に葬ってあったそうです。けれど、楊秀蓮さんと夫のヨウケイレンさんという若い二人が、南二僕さんの夫が亡くなりお墓を造るときに、外にあった南二僕さんの遺骨をいっしょにして土饅頭に埋めてやった。死んだ後までそんなふうに扱われていたということを改めて知らされました。
  今言ったような南二僕さんの話は1回や2回行ってわかったのではなくて、何度も何度もいろんな人たちの話を聞く中でやっとこのくらいの全体像が明らかになってきたのです。こういう話をいい加減な形で一般化したり、類型化したり、なんていうことはできるはずがありません。だから私たちは当面はこういうことを闇から闇に葬らせないために、ひとつひとつ調べ上げて、きっちり記録するということに全力を傾ける、それが話してくれた方たちへの我々の気持ちなのだろうというふうに思っているわけです。

4.国家的犯罪としての盂県の性暴力
  もうひとつは山西省に行っていろんな現地調査していると、風景というものからいろんなことを考えさせられたということはあると思います。先ほどもいいましたけれど、山西省の農村地帯というのは夏の本当に短い時期をのぞけば、ほとんどが荒涼とした黄土大地で、そこに荒々しく刻み込んだ峡谷が走るという風景なわけです。そんな風景の中で「日本軍もいたんだな」と思うと、また考えてしまいました。日本軍がこういう農村を支配する際、いわゆる高度分散配置という配置の仕方をとりました。限られた兵の数で有効になるべく広いところの治安を強化させるために、都市には大隊の本部を置いて、農村部には中隊を置いて、その中隊からなるべくちっぽけな分遣隊を出して、広い範囲に分遣隊のトーチカを造るというかたちで、少しでも広い範囲を押さえるのが高度分散配置です。
  河東村のトーチカは30人規模の大きな分遣隊だったんですけが、やがて人数が減りまして、10人くらいになっていったようです。これは典型的な高度分散配置のトーチカのひとつなのです。私たちは何度も山の上に登って、まだ少しは残っているその跡を確認しながら、お配りしたような見取り図を作っていったわけですが、こんなところにズーッと置かれた日本の男たちは、「これはまともにやってられないだろうな」ということは本当によく分かった気がしました。実はこの地域に入っていった日本の兵隊たちの多くは三重県、愛知県、静岡県などの出身でした。元日本兵の話をきくために三重県の奥まで行ったことがありますが、そこは本当に緑が濃く、海が近くて、水が豊富な地域です。そんなところから引っ張られて、いきなり黄土大地のてっぺんのトーチカに1年、2年といるということになると、彼らの心がどんなふうに荒んでいくだろうか。心が荒廃していくということは疑いもなくあるだろうという感じがしたわけです。
  もちろん軍隊の中には軍規というやつがあります。1942年には戦地強姦罪などという刑法が軍隊の法律の中に作られて、原則的には強姦は禁止、それを破ったら軍法会議、という形はあるわけですが、実際にはこんな小さな村の高度分散配置のところには中隊長などいない、上に立つ隊長だって下士官です。そんなところは軍規もへったくれもない空間になっていっただろう、ということは本当に実感できました。そういう中だからこそ、周辺の村々に女性を割り当てて私設の強姦所をつくることをためらいはしなかったし、それから周辺の村に討伐に行けば行ったで、女性と見れば捕まえて拉致することをためらいはしなかったろう。そんなふうに考えてきたとき、いわゆる都市の慰安所との関係がある程度見えたような感じがしたんです。
  軍隊のあるところ慰安所ありみたいな形で、日本軍は慰安所を政策的に造っていきました。そういうものを造らないと兵隊が現地で強姦して治安対策上非常にまずいから設置したんだ、ということがよく言われたりもするんですが、それはとんでもないことです。むしろ逆効果でした。慰安施設が当たり前の存在だというふうに認識した日本兵が慰安所なんかないこんな高度分散配置の風景の中で、しかも村の中では絶対的な支配者として君臨するという構造の中にぶちこまれたら、結局自分たちで慰安所を造るだろうし、自分たちで好き勝手なことをやり出すだろう。そういう意味では都市に慰安所を造るというその発想法が、そのままの形でこういう地域での性暴力を生み出していたと断定せざるを得ないと思います。
  盂県で起こったこういう事実の数々が、軍規に従わなかった、いわゆる一部の兵隊たちの逸脱行為だなんてことは断じてない。むしろ侵略戦争の全体構造が、慰安所というものを必要とする。そういうものがないと戦争ができないような、侵略戦争の全体構造が生み出した国家的な犯罪だ、ということはほぼ確信できたと思います。むろん個人の責任を逃れられるものでないということを大前提に置いてのことですが、同時にこれはひどい国家犯罪であるという感じがしました。

5.おわりに
  山西省の風景のなかでいろんなところを訪ねていると、これからもいろんなものが見えてくるだろうなと思っています。あくまで私たちのやっていることは途中経過です。もしかしたらこれからも、ズーッと途中経過かもしれないんですが、それを理論的にまとめるなんてところにはとうてい立ち至ってはいません。まだまだこれからやることがたくさんあるような気がしているので、今後も地道にこつこつとやっていきたいと思っています。もしみなさんの中で、私たちと一緒にこういう農村に足を踏み入れていろんな調査活動をともにできる方がいたら、本当にうれしいなと思います。私が見えてきたなんていうと語弊がありますけれども、いろいろ感じていることを話させていただきました。どうもありがとうございました。
(2002年5月11日、亀戸文化センタでの講演、テープ起こしと編集RS)

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