南京大虐殺
− 記録と証言に見る1937南京 −

3.耐え難き女性の受難

劉 彩品

                                         最終更新:1998年12月11日

日本軍の’掃蕩’は人間のに限らず、財物の略奪、家屋や店舗の焼き払いもある。 もし、中国の人々が出会った災難に強いて順番をつけるとしたら、 女性が受けた暴行と屈辱はその筆頭にくるべきでしょう。
戦争直後に出した国民党政府が出した統計資料が南京市档案館に保存されている。 それによると、南京大虐殺での女性死亡者数は65,902名である。 その大部分が強姦後に殺され、又は、強姦拒否で殺された人たちである。 南京大虐殺事件直後の1938年3月、南京金陵大学のスミス教授がおこなった、 南京市内2027戸(50戸に1戸の割合)の調査でも、 「日本軍が南京に入ってからの家屋と動産の損傷の原因の52%が放火、 33%が略奪、婦女の死傷者の84%が兵士による暴行」という結果が出ている。

日本軍による性暴力の数多くの記録と証言の一部を以下再録し、 婦人の受けた強姦暴行の酷さを日本兵、 南京滞在の外国人それから被害者の証言からみてみる。

3・1.日本人による婦人暴行の記録

元兵士の証言として、「南京戦中、女性に対する暴力行為は、 戦闘の合間に小便をするような日常茶飯事になっていた」との回想があった。 日常茶飯事化した女性に対する強姦暴力は、 南京戦をモデルにした石川達三の「生きている兵隊」からも見ることができる。 南京を占領する前、常熟市に入った兵隊のやりとりに次の一節がある:

【左手の太い小指に彼は銀の指環をはめていた。倉田少尉が見つけて、
「伍長、それは何だね」と言った。
「は?これですか、これはこんなもんです」と答へて彼はにやにやと笑った。 そして隣の兵の手を掴んで言った。
「こいつも持つとりますよ」
「どこから持ってきた」
「これは少尉殿、姑娘が呉れたんですわ!」
すると兵ががやがやと笑った。
「銃剣の弾丸と交換にくれたんだろう。なあ笠原」
「そうだよ!」と彼は応じた。「僕は要らんちうてことわったんですがなあ、どうして どうしても笠原さんに差し上げちうてなあ、頼まれたんですわ」
支那の女たちは結婚指環に銀をつかうらしく、どの女の銀指環をはめていた。 あるものは細かい彫りがあり、また名を刻んだものもあった。
「僕もひとつ記念にほしいなあ」少尉は笑ってそう言った。 すると笠原は一層元気づいて叫ぶのであった。
「それあ小隊長殿ご自分で貰ってこんとあかんです。 無錫へでも入ったら早いとこ姑娘を探すと呉れるですよ。 常熟はもう遅いです。どっこにも居らしまへんわ。 みんななんとかなっちまうたんです。あはは…」 】

「どっこにも居らしまへんわ。みんな何とかなっちまうたです」から、 占領地区の女性の遭難が想像できる。 殆どの女性が、強姦され、殺された。 そのことを愉快そうに「あはは…」と日本の兵隊は笑い飛ばしたのである。

人間としての羞恥心、惻隠の心を失った日本兵を迎えた南京の女性は、 身の毛のよだつ悲惨な運命に出あった。 その一端を伝える一通の手紙を『中国慰安婦』(江浩著)の p174−176から日本文に訳してみる。 南京から日本の一兵隊が日本の友人宛てに出した手紙である。

【吉川資君:
僕は死ななかった。12月12日、三方面から南京を包囲した。 南京政府と軍隊は敗退したが、13日予定通り進撃した。
僕は中華門から首都南京へ突入した一人である。 道々には、手を挙げて降参する中国の兵隊、と難民であふれていた。
午後、秋田の横山武彦が住民宅に隠れている一人の少女を強姦した。 小隊長はビンタを食わしたが、視察で通りかかった中山隊長が、 その情況を見て、この町の女性も討伐範囲にあると一言いわれた。
この話が伝わるや否や3分足らずして、 僕たちは20人の女性を家の中に押し込んだ。 正直の話、最初は多少不安だったが、 仲間がいい目をみてる脇に立っているのが馬鹿らしくなり、 臆病者ではないかとさえ思った。 僕が不器用そうに一人の中国娘と争っているのを見て、 小隊長は近寄ってきて、足を上げ、革靴で彼女のお腹を思い切りけった。 声を上げた彼女は争うのを諦め、倒れた、額に汗をたらしながら・・・
・ ・・・・
ついに僕も名の知らないこの女性をやっつけた。 彼女は、顔をそむけ、泣きっぱなしでしたが、争うのを諦めた。 年齢はせいぜい15才であろう。 身体をおこして他の女性を見たら、殆どただ泣いていて、 我が軍の兵士の思うままにされていた。 北支のいたる所で見かけた貞節の石碑から、 中国の女性は気性が激しいと思っていたが、ここでは、 そのような様子は感じられなかった。 しかしその後、つまり皆が終わりかかった時、 私の下にいた娘が、急に裸のまま飛び上がり、吉田の腰から刀を抜いた。 彼女が刀をもって立ち向かうのを防備するべく、僕たちも裸のまま飛び起きた。 わけの分からない叫び声を上げながら、彼女は狂ったように刀を振り回した。 その間に他の女性も起き上がり、裸のまま抱き合った。 その情況がすこぶる刺激的であったため、僕たちはまた興奮しだし、 彼女らに向おうとした。 その時である、刀を持った女性がその刀を自分の首に当て、倒れた。 皆びっくりしている間に、女性達は次々と刀を手に取り、首にあてた。 さきを争って彼女らはその刀を奪い、 刀を手にすると躊躇もなく自分を刺し殺し、地面に倒れた。 目は大きく開き、刀の口から、血が泡のように湧き出だし、腿は痙攣し・・・ 僕たちは、驚いて裸の女性達が地面でのたうち、死亡していくのを眺めていた。 軍法制裁は免れないと恐れた。 しかし、家から出て、町の光景をみて安心した。 町には、兵士に追われて走り回っている裸の女性、地面には死亡した男性、 6人の兵士に輪姦されている少女、反抗する妊婦の腹が割かれ、 拳大の子供が取り出されている・・・
号令が聞こえたので、この辺で
                         宮本
                    昭和12年12月13日   】

このようにして、多くの南京の女性達は辱められ、犯され、 亡くなっていったのである

3・2.南京滞在外国人の記録

1937年の南京で起こったことを8ミリフイルムで記録を残した(南京暴行記録) マギー牧師は、12月19日の日記には次のように記している:
【一週間が過ぎ、ここは人間地獄になってしまった。 どこから書き始めていいか分からないが、見たことを書き記そうとすれば、 直ちに恐怖の物語になる。 始めてこのような残酷なことを見聞した。 強姦、強姦、また強姦である。 一夜に少なくても1000回の強姦が起こっているし、昼間でも強姦がある。 抵抗したものは、刀で刺し殺されるか、銃殺されている・・・】

金陵大学の教授メラーヒが書いた本『南京の大悲劇』 の中にも日本軍の強姦について次のような記載がある:
【多くの中国人女性が強姦の辱めに遭遇した。 抵抗するものはその場で刺し殺され、60才のお婆さんだろうと、 11才の少女だろうと、免れることがなかった。 女性たちは南京の12月の寒中、真っ裸にされ、道中で辱められた。 手足を切り落とされた人もいた。 開いている戸の中から漏れてくる、女性の凄惨な叫び声を聞く度、 身の毛のよだつ思いでした。】

ラーベの日記の中国語訳 −『拉貝日記』にいたっては、 毎日のように日本軍の強姦が記録されている。 『拉貝日記』は、ラーベの『南京爆撃』を全訳したものである。 (『南京爆撃』は、ラーベがドイツ帰国後、日本軍が南京を占領する前後、 克明につけていた日記、日本大使館を含む各国大使館へあてた報告、 難民区の難民からの要望書、新聞記事、手紙、 写真など膨大な資料をまとめた原稿である)。

その中の「南京安全区における日本兵士の暴行」記録 (1937年12月13日から1938年2月5日までの 日本軍の暴行が記録424件)の75%が強姦記録である。 1938年1月の暴行の90%が強姦記録である。

3・3.被害者の証言

受難した人々の証言には注釈をつける必要がない、 聞く耳をもって心に銘記するのみである。

1984年、金お婆さん(72歳)の証言:
【1937年の冬、私は、日本軍の南京占領後、漢口路の難民区にいた。 ある夜、数人の日本兵が入ってきて、寝ている私たちは起こされ、 車で連れて行かれ、強姦された。 次の日,放されたが、その時受難したのは十数人いた。】

1984年、67才になる婦人の証言:
【1937年日本軍が南京を占領する前に、夫が国民党軍に参加した。 その時私は妊娠していた。 父親は汪貴之といって、床屋をしており、その時は50才でした。 12月13日、日本軍が南京を占領後、 父親は私を連れて上新河李家理髪店に避難した。 ある日、日本兵が我が家に侵入し、力ずくで私を引っ張っていこうとした、 父親はそれに抵抗し、私を屋内に引っ張り返そうとした。 日本兵は父親を思いっきり殴り付けた。 父親は重傷を負った上、私も強引に連れて行かれた。 父親はその後、怪我がもとで、手を使う床屋を続けることができず、 乞食になり、2ヶ月後に傷の悪化で亡くなった。 私はその後何度も日本兵に強姦された。】

メラーヒ教授が書いたいた少女達は数十年たってお婆さんになった。 その中の馬お婆さんの証言:
【1937年の時、私は14才で草橋清真寺に住んでいた。 12月13日、日本軍が南京を占領した一日目、 5,6人の日本兵が一人の男を刺し殺しているところを見て、 驚いて急いで隠れた。 暫くして、戸を叩く音で、父親が戸を開けると、数人の日本兵が入ってきて、 父親に向って「姑娘?」と問いただしているのを聞き、 川縁にある穴へ逃げていった。 声を聞きつけて日本兵は追っかけてきて、穴をめがけて煉瓦を投げ入れた。 しかたなく出てきた。 私は小礼拝堂寺8号へ引っ張り込まれ、刀を持って服を脱ぐよう強迫され、 数人の日本兵に輪姦された。 私が捕まえられた後、私を探していた母親は、 私を見つけることができなかっただけではなく、 清真寺で一人の日本兵に捕まえられて、その場で強姦された。】

当時12才の少女だった陳お婆さんの証言:
【1937年、私は12才でした。当時私は親がなく、祖母しか居なかった。 ある日、数人の日本兵が私の家に現れ、私を連れ去ろうとした。 恐ろしかったので、彼らについていこうとしなかったら、彼らは私を殴った。 隙を縫って逃げ出して、草むらににげこんだが、見つかり、 鬼子は銃剣で私を捜し出し、その後私は強姦された。】
【・・・・】

このような証言は枚挙にいとまがない。
最後に、極東裁判における目撃者の証言の一つを再録する:
【12月13日から17日の間、 父母同伴で南京から逃れようとした18,9才の娘の話である。 父母は苦心の末娘を男の子のようにメーキャップし、 中華門の日本軍の検査の関門を通ろうとした。 日本軍の規定によれば、まず礼をし、難民証を出し、 日本軍の検査を受けることになっていた。 三人が中華門を通ろうとしたら、一人の日本兵が"男の子"を見て聞いた: 「いくつだ?」、女の子は声を低く押えるように「18才」と答えた。 しかし口をひらいた途端にばれてしまった。 男女の声の違いは日本兵にすぐ見破られた。 有無を言わせず、その少女を衛兵室に連れて行き、大勢で輪姦した。 門の外に居る父母は少女の悲痛な叫びを聞くと、悲嘆にくれ、苦しんだ。 父母は蹂躙しつくされている娘が釈放され、せめて命だけでもと祈る思いでいた。 ところが、日本兵は自分の'獣慾'を満足した後、 なんとさらに面白がって自分たちがしたことを中国の男性にさせようとして、 男を捕まえようとして外にでてきた。 男性が捕まえられてきた、しかも4人もの男性が連行されてきた。
この4人とも田舎から来た中国の同胞で、頑丈で立派な体格をしていた。 日本兵が彼らを捕らえた理由を知るや否や、びっくりして跪き、 どうしても命令に従おうとしなかった。 教育を受けたことのない田舎者と言えども、 日本人のように"禽獣と変わらない"ことはしたくない。 衛兵室の室内で男性たちが強迫されている間、 室外では父母は泣き崩れ自殺を図ろうとした。 その時、一人の和尚が中華門内から歩いてくるのが見えた。 日本兵は仏門を冒涜しようと思い立ち、男達を釈放し、和尚を捕まえた。 4人は大赦を得たように、急いでその場を離れたが、和尚にとっては災難だった。 日本兵は和尚に袈裟を脱ぐように命令した。 裸のまま床に横たわって、泣きじゃくっている娘に対して色戒を犯しすよう迫った。 びっくりした和尚は顔色を変え、蹂躙し尽くされた裸体の少女の前で、 両手を合せ、目を閉じ、「ナミアミダブツ、ナミアミダブツ」を唱え続けた。 日本兵は諦めずに、和尚を強迫しつづけたが、 それに動じない和尚を見ているうちに、 日本兵はかっとなってきて、和尚のなかばきを脱ぎ、 銃剣で和尚を脅かし「そのもつをもって役に立たないならば、 ない方がいい」と警告した。 和尚は依然として目を閉じ、お経を読みつづけた、 しかもますます早口になっていった。 日本兵は大声を張り上げ、和尚を宮刑に処した。 和尚は暫くして死亡してしまったが、 恥知らずの日本兵は大声をあげて笑い飛ばした。】

3・4.暴行を受けた女性達のその後

「The Rape of Nanking」の作者、アイリスチャンは、 女性が受けた屈辱について書いている:
「年配の婦人たちが遭遇した災難を、恐るべき、と形容するならば、 幼い少女たちを襲った暴虐を何と形容すればよいのか。 その後数週間にわたって歩くことも出来なかったり、 精神に異常をきたしたりするケースが多く、その場で死に到った少女もいた」。

暴行を受けて亡くなった女性を埋葬した崇善堂には、 つぎのような埋葬記録が付録として記されている:
【婦人死体の中には髪を振り乱したもの、乳を切り取られたもの、 胸を刺されたもの、服をはぎとられたもの、生前に辱めを受けた人たちである。 怒りの表情をそのまま残した婦人死体もある; 頭を上げ、目を開き、口をあけたまま、手足をぐっと張り、下着を破かれ・・・ 生前に強姦を拒否した人たちである。むごい!むごい!】

半年死体運びのトラックの運転手をしていた人の記憶による証言によれば:
【朝天宮の前は秦淮河である。河の中にも沢山の死体があった。 最も哀れなのは一人の女性の死体である。 見た所また非常に若い、裸のまま川に浮かんでいた。 片腕が切り取られ、おしっこをする所に一本の刀が刺さってあった。 さまざまなものを見てきたが、これ程悲惨な光景はなかった。 婦人の死体は概して髪の毛を振り乱し、 衣服をちゃんと身につけていた人はいなかった】

幸いにも死亡しなかった女性もいた。 しかし日本軍の暴行は彼女達のその後の人生に長く尾を引いた。 当時南京にいた婦人科のドイツ人医者によると、 「多くの女性が憎い日本兵の子を身ごもったのである」。

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