南京大虐殺
− 記録と証言に見る1937南京 −

2.阿鼻叫喚の南京城

劉 彩品

                                         最終更新:1998年12月03日

12月13日、南京に入城するにあたって司令官の松井石根、師団長の谷寿夫は、 「南京は中国の首都であり、南京の占領は国際的一事件である。 それ故周到な準備をおこなって日本の武威を発揚し、 中国を畏服せしめねばならない」、
「城内に対して掃蕩を実施せよ」と命令した。 上海からの4ヶ月間、思いもよらなかった中国兵の勇猛果敢な戦いが、 恐怖に転化していたので、武威発揚のために、掃蕩が必要だったのである。 それに報復の心理も日本軍にあった。 「報復のため」の虐殺であることを、元陸軍省兵務局長の田中隆吉は、 裁かれる歴史(長崎出版社)で回想している。 南京攻略戦の時、朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀の長勇が、 上海戦闘で捕らえた捕虜について、語った言葉である:

【自分は事変当初通州において行われた 日本人虐殺に対する報復の時機が来たと喜んだ。 ただちに何人にも無断で隷下の各部隊に対し、 これらの捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。 自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話依り伝達した。 命令の原文はただちに焼却した。 命令の結果、大量の虐殺が行われた。 しかし中には逃亡するものもあって、みな殺しと言うわけには行かなかった。 自分は之に依って通州の残虐に報復したのみならず、 犠牲となった無辜の霊を慰め得たと信ずる。】

すでに、略奪、強姦、殺人が日常化し、サディスト的集団になったいた日本兵は、 上官の命令を忠実に実行し、南京で残虐の限りをつくした。 当時の兵士の日記、従軍記者の回想から、 南京に滞在していた外国人の日記から南京市民の苦難を綴ってみる。

2・1.日本の兵隊は何をしたか

第13師団の兵士の日記には、入城直捕虜の銃殺が毎日淡々と記されている。

【S兵士(12月15日):捕虜総計弐万トナル。
    (12月16日):夕方ヨリ捕虜ノ一部ヲ揚子江岸ニ引出銃殺ニ附ス。
    (12月17日):捕虜残部一万数千ヲ銃殺ニ附ス。】

機関銃、銃剣で一人一人殺すのは面倒と集団殺戮の新しい方法も工夫された (『隠された聯隊史』):

【揚子江の、南京波止場から、ちょっと先へいくとね。 揚子江の水が、こう三重になって渦巻いてまんね。 河が広い境、大きな渦や。 針金みたいなもんで手首しぼって、じゅずつなぎにした捕虜を、 船にのせていって。 はてからに、あんた・・・皆船から突き落としよるんや。 一人落ちると、(重みで針金を引張るもので)次々に引きずりこまれまっしゃろ、 しばられとるさけ、泳げへん。(溺死して)ながれていきよる・・・。 おい、見たんや。】

S兵士の日記は、その後2日間簡単に数字しか書いていない、 いずれも‘敵兵の片づけ’である。 兵士の日記の中には、捕虜と称して銃殺した中には老人が居たし、 子供もいたことを書いている、その中のK兵士の日記をそのまま書き移す:

【K兵士の12月16日の日記: 2、3日前捕虜セシ支那兵ノ一部5000名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ 機関銃ヲモッテ射殺ス、その後、銃剣ニテ思う存分ニ突き刺す、 自分モコノ時バカリト、憎キ支那兵ヲ30人モ突キ刺シタコトデアロウ。 山トナッテイル死人ノ上ヲ上ガッテ突キ刺ス気持チハ 鬼モヒシガン勇気ガ出テ力イッパイニ突キ刺シタリ、 ウーン、ウーントウメク支那兵ノ声、年寄リモ居レバ子供モ居ル、 一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ッテミタ、 コンナ事ハ、今マデ中ニナイ珍シイ出来事デアッタ。・・・ 帰リシ時ハ午後8時トナリ腕ハ相当ニ疲レテ居タ。】

2・2.日本の従軍記者が見た大虐殺

中央公論社の特派員資格で、 南京攻略戦に従軍したときの見聞を基にした書かれた石川達三の小説 「生きている兵隊」(中央公論1938年3月号)には、 長江における大量殺戮が書かれている:

【邑江門は最後まで日本軍の攻撃を受けなかった。 城内の敗残兵はなだれをうってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた。 前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。 彼らはテーブルや丸太や板戸や、 あらゆる浮く物にすがって洋々たる長江の流れを横切り、 対岸浦口に渡ろうとするのであった。 その人数凡そ5万、まことにに江の水をまっくろに掩うて渡って行くのであった。 そして対岸について見た時、そこには既に日本軍が先回りして待っていた! 機関銃が火蓋を切って鳴る。 水面は雨にうたれたようにささくれたってくる。 帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機関陣である。 こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった。】

日本軍の暴虐を詳細にわたって見ていた従軍記者もいた。 大虐殺の痕を追いかけながら、 「書きたいなあ」、「いつの日にかね」 と同僚と話しあった彼らはそのことを記事にすることは出来なかった。 虚偽の報道しかできない守山義雄記者は、その苦悩を当時、 友人に「僕はね、篠原君、日本軍のこんな残虐非道な行為を目のあたりに見ながら、 それでもなお'皇軍'とか'聖戦'とかいう、 まやかしの表現によって虚偽の報道をしなければならない新聞記者の職業に絶望して、 いっそのことペンを折って日本にかえろうかと何日も思い悩んだことがありましたよ」 と語っている。 中には、あまりの残虐にショックを受けて発狂したものもいたが、 それから20年後、守山記者が友人に語った内容がようやく文字で、 『南京大虐殺の証明』に載った:

【日本軍が南京に入城したとき、城内に残っていたのは非戦闘員ばかり、それも、 大部分が老人と女子と子供であった。 日本軍は、彼らを一ヶ所に集めておいて、城門をしめると、 城壁の上から軽機関銃と手榴弾の猛射をあびせて、 みなごろしにしてしまったそうである。 その数は3万数千人だったということだが、 折り重なって倒れている死体から流れ出る血は、川のように道路にあふれ、 履いていた革の長靴がつかるほどだったそうである。】

「書きたいなあ」と言っていた朝日新聞の今井正剛記者は、 1956年12月号の『文芸春秋』に、「南京城内の大量殺人」を書いた。 1937年12月15日の夕日がさす中、 朝日新聞支局附近、大方巷で見た大量殺人の光景を次のように書いている:

〔支局近くの夕陽の丘だった。空き地を埋めてくろぐろと、 4、5百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。 空き地の一方は崩れ残った黒煉瓦の塀だ。 その塀にむかって6人ずつの中国人が立つ。 2、30歩離れたうしろから、日本兵が小銃の一斉射撃、 バッタリと倒れるのを飛びかかっては、 背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。 ウーンと断末魔のうめき声が夕陽の丘いっぱいにひびき渡る。 次、また6人である。 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、 空き地にしゃがみこんだ4、5百人の群れが、 うつろな眼付きでながめている。・・・。 親や、夫や、兄弟や子供たちが、 目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。 悲鳴や号泣もあげていただろう。 しかし、私の耳には何もきこえなかった。 パパーンという銃声と、ぎゃあつ、という叫び声が耳いっぱいにひろがり、 カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだった。】

夕方、中国人大量射殺を目撃した記者は、夜になって、再び虐殺の現場に立った:

【夕方のあの事件を、私たちはボソボソと語り合っていた。 ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、 ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。 しかもそれが、いつまでも、いつまでも続いている。 数百人、数千人の足音。 その間にまじって、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。 外套をひっかぶって、霜凍る街路へ飛び出した。 ながいながい列だ。 どこから集めて来たのだろうか、果てしない中国人の列である。 屠所へひかれてゆく、葬送の列であることは一目でわかった。】

今井記者たちは隊列のあとを追い、長江の埠頭、下関にでた。 そこで彼らは機関銃で集団射殺しているのを目撃した:

【もうすぐ朝がくる。 とみれば、碼頭一面は真っ黒く折り重なった屍体の山だ。 その間をうろうろとうごめく人影が、50人、百人ばかり、 ずるずるとその屍体をひきずっては河の中へ投げ込んでいる。 うめき声、流れる血、けいれんする手足。 しかも、パントマイムのような静寂。 対岸がかすかに見えてきた。 月夜の泥濘のように碼頭一面がにぶく光っている。 血だ。やがて、作業をおえた"苦力たち"が河岸へ一列に並ばされた。 ダダダッと機関銃の音、のけぞり、ひっくり返り、 踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行った。 終わりだ。 下流寄りにゆらゆらと揺れていたポンポン船の上から、 水面めがけて機銃弾が走った。「約2万名ぐらい」とある将校は言った。】

「何万人かしらない。 おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、 その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった」 と今井記者は書いている。 その時、南京市のいたるところ(例えば、下関石炭港、魚雷営、漢中門外、 下関・上元門、下関・草靴峽、漢西門、三河河岸、燕子磯浜辺など) で市民が次から次へと殺されていた。 その状況を見た日本の兵士の日記には、 「死体が重なり山となっていた」と記されている。 その死体処理の埋葬記録は、翌年の4月末まで続いていた。 いかに多くの中国人が日本軍によって殺されたかを物語るものである。

2・3.南京在住の外国人が目撃したこと

1937年の南京は、中国の首都である。 中国の政治、文化の中心になりつつのこの都会には、大勢の外国人がいた。 数多くの記録が残されている。 以下はラーベ日記の中国語訳から数日抜粋して日本語に訳したものである。 (ラーベの日記は「南京の真実」という名での日本語訳があるが、 以下部分は入っていない。):

【 12月14日:車を運転して市街地を通り抜けると、 我々はやっと破壊の大きさの程度が分かってきた。 車は1〜200メートル行くごとに人の死体にのりあげた。 私が調べた結果、弾は背中のほうから撃たれてできたもので、 おそらく一般市民が逃げる時に後ろから銃で撃たれて殺されたものであろう。 日本兵の10数人から20人の一群が全市民の商店から略奪をおこなっていた。 もし私自身が目撃しなかったら、とても信じられない光景だった。
12月16日:車を運転して下関に行き発電所の現地調査をおこなった。 中山路の路上は全て死体だ。・・・至る所で殺人が行われていた。 国防部の前面の兵舎のなかでも虐殺が行われており、銃声のやむことはなかった。
12月22日:安全区を清掃していた時、 私は多くの一般民衆が池の中で射殺されているのを発見した。 その中のある池では30の死体があり、ほとんどが両手を縛られ、 あるものは首に石塊がくくられていた。
12月24日:私は死体が放置されている地下室に行った・・・。 一人の市民は焼かれて、眼球が飛び出ていた。・・・ 日本兵が彼の頭からガソリンをかけたのだ。
12月25日:それぞれの難民はすべて必ず自分で登録しなければならない、 しかも10日以内に完了しなければならないと日本人が命令した。・・・ 20万人!全ての若くて力がある壮健な男性は、すでにひっぱられていった。 彼らの運命は奴隷のように酷使されるのではなく、死であった。】

2・4.日本軍にとって禽獣にも及ばない中国人

中国でも直後から見聞記などが(日本軍の)非占領区で発表された (『侵華日軍南京大虐殺史料』(8))。 大量虐殺はもとより、中国人を特に悲しませ、憤慨させ、 許し難い思いにさせたのは、多くの犠牲者が禽獣にも及ばない、 虫ケラのようになぶられ、 恥ずかしめられて日本軍に殺されて行ったことである。 元陸軍歩兵軍曹の日記である『わが南京プラトーン』(9)には、 女性を辱める日本軍、辱めて殺していくことが生々しく記録され、 「奇異ではあるが、戦線いたる所で見る風景である」と書いてある。 その中で兵士たちが中国人を弄んで殺していく様子が詳しく記されている:

【どこからか、一人の支那人が引っ張られてきた。 戦友たちは、子犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、 西本は残酷な一つの提案を出した。
つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。 泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。 彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。 袋はフットボールのように蹴られ、野菜のように小便をかけられた。 ぐしゃりとつぶれた自動車の中から、ガソリンを出した西本は、 袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり廻せるようにした。
心ある者は眉をひそめて、この残酷な処置を見守っている。 心なき者は面白がって声援する。
西本は火をつけた。ガソリンは一度に炎えあがった。 と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、 渾身の力で袋が飛び上がり、自ら転げた。
戦友のある者達は、この惨虐な火遊びに打ち興じて面白がった。 袋は地獄の悲鳴を上げ火玉のように転げまわった。
袋の紐をもっていた西本は 、 「 オイ、そんなにあつければ冷たくしてやろうか」と言うと、 手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。 火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。 水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。】

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