南京大虐殺の真実を語る東史郎さんを支援してください

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                                        最終更新:1999年9月14日

昨年12月の不当な判決

1998年12月22日、東京高裁は怒りの声に包まれました。 東史郎さん(87歳)が二審でも敗れたからです。 敗訴の理由は、南京攻略戦をつづった東さんの日記の一部記述は 事実とは認められないということでした。 当時の日本軍兵士の犯した無数の虐殺行為のひとこまを当事者として記したのに、 いつわりだというのです。実はこの裁判は、日記が事実かどうかだけでなく、 南京大虐殺そのものが虚構であるか否かが問われている重大な裁判であります。

今も「心に軍服を着た」戦友からの提訴

京都の丹後半島に住む東さんは、1937年に25歳で召集され、 京都第16師団第20連隊に入隊しました。 出征してまもなく、当時の中国の首都南京を陥落させる戦いを体験しました。  帰国後は、秘かに隠し持って帰った細かな戦地メモをもとに日記を清書し、 長い間しまいこんでいました。
南京戦から50年後の1987年に、 頼まれて京都の「平和のための戦争展」に日記を公開し、 南京戦の真実を伝えようと記者会見しました。 そして青木書店より『わが南京プラト−ン −−− 一召集兵の体験した南京大虐殺』 が出版されました。 加害証言後、 東さんは戦友会を除名され猛烈な脅迫と攻撃にさらされることになりました。
出版から5年以上たった1993年4月、 日記の一部記述はうそだとして戦友の橋本光治氏から訴えられました。
日記の12月21日のところに、南京の最高法院前で戦友が郵便袋に中国人を押し込み、 ガソリンをかけて燃やし、手榴弾をくくりつけ池へ放り込んで殺したとあります。 それはうそで、名誉毀損だというのです。
橋本氏の弁護士事務所には「南京大虐殺の虚構をただす会」が置かれています。 これは今でも「心に軍服を着た」元将校の集団「偕行社」の人達が中心となっています。
つまり、この訴訟は一個人の名誉毀損というよりは、 これを突破口にして「南京大虐殺は中国のでっちあげだ」 ということをねらったものでした。
1996年4月東京地裁は、郵便袋事件は事実とは認められないとして、 東さんは敗訴しました。

二審では

東さんは弁護団を再結成して、東京高裁に控訴しました。
焦点の一つである日記のもととなった戦地メモについては、 郵便袋事件の前後八ヶ月分が紛失していましたが、 「自らの残虐行為まで綴った日記にうそを書く理由は一つもない」ので、 残りの戦地メモを証拠として提出しました。
もう一つの焦点である郵便袋での虐殺は物理的に可能であることを証明するために、 東さんと弁護団は南京市におもむき、最高法院前で現場検証しました。 沼は埋められていましたが、当時の地図には記載されていました。 日記に記されたとおりに、郵便袋にガソリンで火をつけ、 手榴弾をくくりつけて池に投げ込みました。 実行者は危険にさらされることなく実験を遂行し、 最後に炸裂音がして水がごぼっと盛りあがりました。 すべて記述のとおりで、その実験ビデオを東京高裁にも提出しました。
ところが、二審の判決は「陣中メモがないからには、 日記は事実とはいいがたい」と一蹴しました。 50年もしまいこんでいた日記に虚偽を書く必要がどこにあったでしょう。
さらに「戦闘行為でもないのに、遊びで兵士がそんな危ない真似をするはずがない」 と断定しました。 これはビデオ等の証拠を軽んずる裁判官の非科学的、 非論理的な思いこみであるとともに、当時の日本軍兵士の追いつめられ、 荒廃した意識状況を想像できない歴史認識の浅さでもあります。

東さんの証言

以下は、東さんの証言のほんの一部です。 (1996年12月9〜14日『「南京1937」東京絵画展』における証言より一部抜粋)

1.虐殺

 出征してわずか26日目に、河北省の村で我々は農民37人を虐殺しました。 部落の広場に集められたのは老人、女、子供ばかりでした。 それを第三中隊の者がを次々と突き殺していきました。 とりわけ私が胸を打たれたのは老爺とその孫の死です。 銃剣でつかれた少年の傷口におじいさんが口を当て、 流れ出る真っ赤な血潮をぬぐうように吸っていました。 その姿は言いようもなく哀れでありました。 この老人もまた突かれ、二人は芋刺しになって死にました。

12月4日、5人の青年と1人の姑娘を見つけ、 無線機があったのでスパイしてたに違いないということで5人を殺すことにしました。 最後に残った青年に放免したはずの姑娘が抱きついて離れない。 青年は「ありがとう」という日本語だけ知っていて、 おまえを殺すぞと言っても「ありがとう」と言うので、 我々は馬鹿にされたように感じました。 娘を引き離した瞬間、戦友が青年を突き刺した。 走り寄って慟哭していた娘はくるりと我々の方を向き、 憎悪の目で私も突け!と言わんばかりでした。 戦友が彼女の乳房を突き、姑娘は青年をかばうように崩れ落ち、死にました。
我々は南京攻撃中に一度も食糧を与えられませんでした。 だから占領すると食糧を探しに行き、隠れている女を見たら必ず犯した。 しかも5,6人で輪姦して必ず殺す。 こういう野蛮な事をくり返し、南京へ攻めていきました。
12月12日、南京中山門の手前の四方城という所へ、私は夜襲突撃しました。 我々第3小隊60名は死亡や負傷で27名に減っていたが、突撃して四方城を占領し、 翌13日午前7時に南京中山門に入場しました(南京陥落)。
三日後には捕虜を収容しに馬群鎮という所に行かされた。 畑に二本の白旗を立て七千名あまりの捕虜が座っていました。 彼らから「私は殺されるのか?」と聞かれ、 まさか捕虜は殺さないだろうと思い首を横に振ったが、翌日馬群鎮で警備中に、 全員殺されたという噂を聞きました。、

2.決してくり返してはならぬ道

家にいる時は善良な父、兄、弟、恋人であった者が、 ひとたび軍服を着て戦場に立てば、かくのごとく平然と人を殺せるのはなぜか。 日本軍は「汝らの命は鴻毛より軽い、生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」と教育した。 「自分の命が鴻毛より軽いなら、日清戦争で負けた支那人はもっと軽い、 チャンコロ、犬コロ、石コロけっとばせ!」と軽蔑してきた。 この傲慢な心が無差別虐殺につながったものと思います。
1945年8月15日の敗戦を、私は浙江省で迎えた。 そこで中国軍の将校が「俺は南京戦の時、下関波止場で日本軍の虐殺にあった。 戦友の下敷きになって助かり、今日まで憎い日本軍と戦ってきた。 東軍曹よ、今はお前が捕虜だ。 あの時の無念を思うと殺してやりたいが 『怨みに報ゆるに徳を以てせよ』という命令が出たから助けてやる」と言いました。 日本軍なら必ず復讐したであろうに、助けてくれた。 今日の私があるのは中国人の寛大な心のたまものであります。
良心のある者はあの侵略戦争を後悔します。 同じあやまちをくり返さないために、我々は反省せねばなりません。

日本人にとって東さんとは

現在、中国では、東さんは大変慕われています。 それは東さんが日本人として初めて南京大虐殺を現地で謝罪したからです。 かつての「日本鬼子」は初めて「鬼から人間」になり、 今は「友人」として敬愛されています。
では私たち日本人にとっては、東さんはどういう存在なのでしょうか。
大正デモクラシ−の影響を受け人道的な面もあったのでしょうが、 東さんも天皇に命をささげようとした兵士で、 戦後は我が子に戦争の自慢話ばかりした普通の父親でした。 南京攻略戦で金鵄勲章をもらい、 天皇のために勇敢に戦ったことを長い間誇りにしてきたのです。
ところが、南京戦の事実を伝えようと日記を公表して以来、 東さんは戦友会を除名され猛烈な攻撃をうけました。 さらに意識の深層に眠っていた中国人の顔が鮮明によみがえり、 殺されていった者の苦しみ、悲しみに思いが到るようになったのです。
1989年1月の天皇の死後、『昭和天皇独白録』(文芸春秋社  1991年)が出版されると、 天皇は状況のすべてを把握し好戦的で利己的あったことがわかり、 東さんは強い憤りを感じました。 「わしらは天皇のために戦い、友は天皇のために死んだ。 それなのに天皇は一度として謝ろうとしなかった」と。 
こうして東さんは、あの戦争が何であったか、 ますます真実を見つめるようになったのです。
東さんの心の軌跡は、日本中の元兵士たちに共通していたのではないでしょうか。 元兵士たちには決して忘れ去ることのできない情景が脳裏に焼き付いており、 事にふれ悔悟の念と開き直りとが葛藤しあったのではないでしょうか。 きっかけさえあれば、 彼らのエネルギ−は「歴史の反省と教訓」にむけてほとばしり出るでしょう。
ところが、日本国内には戦後50年をすぎても、 加害の残虐性に向き合う勇気のない人たちがおり、 向き合って謝罪しようとする人のことを「自虐史観」などと非難しています。 さらには侵略戦争を美化し、「南京大虐殺はまぼろしだった」等々言い立てています。 中国やアジアの人々から見ればとんでもないことで、 いつまでたっても真の和解はできないでしょう。
つらくはあっても、加害の事実を知り、過去にきちんと向き合って初めて、 私たち日本人は人間としての誇りを取り戻せるのではないでしょうか。
どうか東史郎さんのこの裁判を一人でも多くの方が支援して下さるよう、 あなたのお力を貸してください。

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