池明観先生を迎えて

特別講演会−「北東アジアと日韓のキリスト教」

<NewsLetter OIKUMENE第35号から>

NCCの使命である「キリスト教界の一致と協力」は、イエス・キリストの賜物であり、約束であり、共に歩む目標です。この使命が生かされた好例として、’70年代の韓国民主化運動の支援が挙げられると思います。NCC関係者を中心とした具体的な支援活動とは、戒厳令下にある韓国の厳しい民衆弾圧の状況を伝える様々な資料を、当時自由に往来できた日本に住む宣教師や、牧師、観光客を装ったキリスト者が国外に持ち出し、日本を通して全世界に発信したことです。日本では『世界』に連載されたT.K生の「韓国からの通信」はあまりにも有名です。T.K生の存在を可能ならしめたのは、まさに、キリスト教の世界的なネットワークでした。今回特別講演者として韓国よりお招きした池明観先生は、まさにそのT.K生であられました。去る11月13日に行われた表題の集会でなされた先生の特別講演の概要を掲載します。

当日は、東海林勤先生(1978年4月〜1985年3月までNCC総幹事)と李仁夏先生(1968年4月〜‘69年3月までNCC総幹事代行/1982年4月〜1985年3月までNCC議長)が応答者としてご発言くださいました。

池明観先生略歴

1924年平安北道(朝鮮民主主義人民共和国)に生まれる。

ソウル大学卒後徳成大学で教鞭をとる。

韓国において雑誌『思想界』を主幹。

1972年来日。元東京女子大教授。

1993年韓国に帰国。日韓共同歴史研究韓国代表。

現在、韓国翰林大学日本語学研究所所長。


1.今日をどう見るか

今日をどう見るべきか、個人的になるかと思いますが、整理したいと思います。

北東アジアの情勢に対する象徴は、北朝鮮問題である事は間違いないと思います。朝鮮半島の南北分断は、冷戦の開始がもたらしたものであることは歴史的事実です。

1989年11月9日にヨーロッパにおける冷戦が終わり、ドイツが統一されました。にもかかわらず、朝鮮半島の状況は現在においても変わっていません。これを解決しようとして前大統領の金大中氏は、2000年6月15日に北朝鮮を訪問し、「南北共同宣言」を出しました。まずは交流を始め、ゆくゆくは統一していきましょうというものです。実際に、ルートが開け、南北の交流は盛んに行われるようにはなっていますが、統一はそれほど簡単な問題ではありません。2000年12月、金大中大統領が、ノーベル平和賞の授賞式の晩餐会の挨拶でブッシュ氏が米国大統領となったニュースを聞いたとき、彼はだいぶ慎みながらではありましたが、皮肉にもブッシュさんが大統領に当選したことによって、将来はなんと言ってよいかわからなくなったと告白されました。それを聞いて私は、これからの東アジア全体の問題が、また、世界全体の問題が大変な状況に入っていくだろうと想像しました。豈図らんや、一年足らずして、2001年「9.11事件」がおこりました。ご存知のようにその後、イラク戦争が始まったわけです。

アメリカの軍事費は、3287億ドルと公式に発表されていますが、これは、2位以下の国の10カ国の軍事費を合わせたよりも多いものとされています。これは、圧倒的なアメリカによる一極支配の世界になってしまったということを表しています。朝鮮半島における冷戦の問題が南北間で解決したとしても、21世紀になって新しく台頭してきたイスラムとの問題は、どのような解決策があるのかわからない状態で、その混迷は、あえてこの問題は考えないで行こうという所まできています。「9.11」前においては北東アジアの問題は、かなり明るい状況を展望していましたが、このごろは、9.11事件の影響が重くのしかかり、平和への意欲を喪失させています。

ここにおいて、過去の東アジアの歴史の中で類比(アナロジー)をしてみたいと思います。

北東アジアは漢字文化圏としていわれて来ました。7世紀には、中国、日本、朝鮮に仏教が流行っていたころです。この頃に類比を求め、おぼろげながら、未来を想像してみようと思います。

東大出版会から1987年に出された鎌田茂雄先生の『朝鮮仏教史』に大変興味深いことが書いてあります。高句麗の僧侶であった曇徴(ドンチョウ)は広辞苑によると「610年3月に高句麗から来朝し、五経に通じ、彩色画をよくし、碾き臼等の製法を日本に伝えた。」と紹介されています。鎌田先生の本には、「日本には従来絵画が無かったので、人々は彼に師事し、これを学んだ。曇徴は僧であると共に優れた工芸者であり、これらの芸術を日本にもたらすのに、仏教僧が大きな役割りをはたしたのである。」と書かれてあります。鎌田先生の行基についての記述と広辞苑の記述には若干の違いがあります。広辞苑には「行基は百済王の後裔である」という記述がありません。しかし、鎌田先生の『朝鮮仏教史』では、「行基は百済王の後裔として、交通、水利に献身的であったし、福祉事業を興し、文殊の化身として広く尊崇された」と書かれています。また「新羅の浄土教は、中国浄土教をそのまま受容したものではなく、独自の展開を遂げたものであり、この新羅の浄土教が日本の奈良、平安の浄土教に大きな影響を与えたのは十分に注意されなければならない。」と書かれています。このほかに多くの事例がありますが、今日の教訓として今日われわれが回顧してみたい二つの事柄を挙げたいと思います。

一つは、われわれの間に非常に長い平和の時代があったということです。ヨーロッパにおいても神聖ローマ帝国などかなり長いのでありますけれど、朝鮮王朝は500年も続きましたし、日本の徳川幕府も300年も続きました。

もう一つの事柄は、仏教が平和な時代に伝えられたこともありましたけれども、戦争、戦乱が起こるときにその危険を顧みずに、戦乱を縫うがごとくにして伝えられたという事実です。朝鮮ではこの時代の仏教を「通仏教」と呼んでいます。同じ頃日本では、「和(和らぎ)の仏教」といっていますね。「通仏教」で三国を統一したとすれば、日本は和らぎの仏教で平安時代を一つにまとめていったといえます。

私が『韓国文化史』の中で書いていることですが、このような背景の下に一種「PAXROMANA」(ローマの平和)に類似した「唐による平和」−唐が力の中心であるけれども、そこに東アジアの平和の秩序が出来上がったのだと見ています。

その時代をなぞってみると、朝鮮半島では統一新羅(668-935)時代が、日本では古代天皇制が衰退していく大化改新から平将門の乱までの奈良、平安に都が置かれたの時代(645-939)、唐(618-907)は10世紀の初頭に滅びますので、7世紀から10世紀の初頭にかけての、200年ないし250年の間東アジアは平和な時代を迎えたということができると思います。宗教が戦争の合間を縫って伝えられそして、次の平和の時代を準備したということに注目したいと思います。そしてそれは政治とは異なる状況において、それとは異なる次元の対話を交わしたということにわれわれは注目しなければならないと思います。今宗教はだいぶ元気がなくなってきていますが、このような歴史的事実を鑑みて、再び、宗教のあるべき姿を捜し求めていかなくてはならないというように思います。

2.民主化運動の回想

民主化運動における日韓両国教会の連帯の詳細は資料によって確認してください。

先ほど述べましたように、仏教がどのように伝来してきたかを考えるならば、私たちは、もう少し、韓国民主化闘争における日本の教会の役割を回顧しなければならないと感じています。それは一言でいうと、NCC中心の運動でありました。これは、戦後教会史においてどのような意味を持ったのか、日韓教会のこの前と後の歴史を比較しながらみていきたいと思います。教会史的な意味付けをしていくことが重要な事柄だと思っています。

なぜ、その時韓国においては民主化闘争がおこり、日本は教会を中心としながら民主化運動を支援できたか、詳細に研究するならば、歴史の中でそのような機会を与えられたということと、人間関係が成立していて、その時適切な人が適切なポジションにおいて適切な役割りを果たしたからであると私は今考えています。

新教出版社が1980年に出している土肥昭夫先生の『日本プロテスタントキリスト教史』には、残念ながらこの日韓教会の協働の事実までは至っておりません。もう一冊、海老澤有道先生と大内三郎先生が出された『日本キリスト教史』がありますが、これも1954年で終わっています。これをみていきますと、日韓がものすごい闘いを展開した時期がまだ教会史的に十分に整理されていないという事実を課題として持っています。

信濃町教会75周年史(1999)を読むと、日本基督教団第14回総会において、総会議長の鈴木正久先生が1967年3月26日の復活節の日付けで「第二次世界大戦下の日本基督教団の戦争責任に関する告白(戦責告白)」を出したということが記述されています。皆さんご存知のことだと思いますので繰り返しませんが、この中で「教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外に声明いたしました」と、過去の罪責告白をなしているわけです。これは、日本教会内ではいろいろと論議があったとは思いますけれど、これが日本の教会のアジアとの連帯を可能ならしめたことは間違いありません。韓国教会との連帯の可能性がここに生まれました。

韓国の教会も同じように戦後における教会のあり方、戦後の社会における教会の社会的責任ついて、無自覚的でした。韓国の教会は軍事政権が1972年に維新憲法を出して、半永久的な政権を握るということに対して抵抗をし始めました。1973年8月には金大中氏が東京のグランドパレスホテルから拉致されることにより、1973年11月から国内の民主化闘争が展開されるに至りました。

民主化闘争が終わる頃の1987年10月号の『世界』に「韓国民主革命」という特集が組まれまして、「−日本はどう応えるか、韓国の民衆革命と日本の朝鮮観−」という表題の下で、隅谷三喜男先生、坂本義和先生、そして和田春樹先生が司会の座談が載りました。和田春樹さんが、「クーデターの繰り返しの中で、多くの犠牲を払いつつ、民衆自身や学生たちが運動を継続し、その運動に対してついに国民が支持を与えて立ち上がったことは実に偉大なことであったと思います。」という感想を述べています。

日本の教会は、韓国の民主化闘争の中で大変すばらしい働きをなしましたが、これが日本のキリスト教教会史の中でこれからどう記録されるのか、私はこの働きが戦後初めての日本の教会史的出来事であったと思います。韓国の民主化運動、そしてそれに連帯しようとしてあらゆる苦難を共にしながら耐えてきた。これは初めての教会史的事件であると思いますが、今後教会史の中にどのように位置づけるのか、両国の教会にとって重要な課題であると思います。

1987年に民主化宣言がなされて以降、教会の交流が続き、共同の信仰の確認をしあってきました。平和の時代が来てからの両国の教会の関係はどのように推移してきたでしょうか。民主化闘争一辺倒の交流に変わって、交流の多様性を追及しなくてはならない時期にあると思います。私たちは、闘っている間にややもすれば忘れていた、あるいは意識しながらもそれに十分にコミットできないとうことで、なおざりにしてきた問題が多々台頭してきたはずです。これらの問題に対して両国教会はどのように対応してきたでしょうか。たとえば女性差別の問題等に関して、両国の教会はそれらを宣教的課題として設置し、対話をそれに集中していかなければならないでしょう。

日本と韓国の国家の間で、どちらかが優位に立って支配するというのではなくて、協力していく時代が来ています。そして東アジア交流の時代、東アジア文化の時代が到来していると思います。これは東アジアで民主主義をはっきりと打ち出すことのできた韓国と日本、(多分韓国の自由は日本を越えているのではないかと思っています)が、かつてのように「助ける」というのではなく、互いにパートナーシップにおいて協力しなければならない時にあります。

同時にわれわれは、中国をどのように参加させていくのかという課題を持っています。日本の政府も以前に比べてこの問題に対して大変協力的です。どう説明してよいのかわかりませんが、先日も日本の対韓関係の高官と夕食を共にした時、日韓の間で宅配便がスタートし、これによって売り上げが10倍にもなったという朝日新聞の記事を見ながら、日韓の間では、電話料金や、飛行機運賃など、国内扱いにしたらどうだろうかというようなことを話してみました。これは、中国が台頭するのに先立って、小国である両国がアジアの共同へ向かうために重要なことではないかと思うのです。政治的に複雑な問題があるところは後にして、民間を活性化するために、今できることは率先して行っていく事が必要ではないでしょうか。

ここで、韓国の教会にあるものとして申し上げたい事は、日本の教会はイラク戦争に対して非常に強い反対の意識を持っておりますが、これに比較して、韓国の教会は、どうしてだかほとんど沈黙を守っています。韓国も過去に比較してかなり批判的であるのにもかかわらず、沈黙を守っています。こういう事柄に関して日韓の教会がもっと語り合いながら共同の闘いを開始すべき時が来ているのではないかと思います。

このようにだんだん新しい状況になって、非常に判断の難しい状況もあるのですが、はっきりとした方向が見える問題もあり、このような問題に関して両国の間に協力体制をつくっていかなければならないのではないでしょうか。

3.北朝鮮を巡る課題

両国においてかつての民主化闘争の時代のリーダーたちが相次いで交代しています。これは、日本語のできる世代がいなくなってきているということです。そのことにより、日韓の間に現代に生きている問題を互いに語り合えなくなったことは重要な問題であると考えています。

イラクの後に、アメリカは北朝鮮の問題を大々的に持ち出してきました。このことにより、東アジアの交流が非常に下火になったように感じております。金大中政権の頃、韓国政府は中国、日本に大変積極的に関わろうとしていましたが、彼自身の家族のスキャンダルがおきて、あまり活発にいろいろとできなくなってしまいました。ついでに申し上げれば、これからは政治的リーダーシップの問題は非常に重要になってくると思います。韓国もこの大統領でこの難局を切り開いていけるか疑問です。日本はいかがでしょうか。政治的リーダーシップにビジョンを期待できないときに落胆するのではなく、にもかかわらず進んでいくような国民運動を考えなければならないときが来るのではないかと思っています。東アジアは非常にダイナミックな地域でありました。現在は、時が来たにもかかわらず、人がいないという時代です。そのような状況を目前にしているのが「いま」です。

『韓国文化』は、韓国の文化広報部の出版物です。今年の3月に北朝鮮を訪問したときのことをここに書いています。韓国の新聞社には、北朝鮮と交流するために余り無理なことは書いてはならないというタブーが出来上がっています。そこで、韓国のメディアであって日本語で出したいということで、この広報誌に書かせていただきました。KBSの理事長をしておりましたので、その関係で南北問題と統一問題についての話し合いのために北を訪問し、偶然にもある体験をしました。それは香山(妙香山)に行くときの事です。一流のハイウェイを使ってそこまでいくのですが、偉い人が通るためであったか、ハイウェイで足止めをくい、1時間ぐらい交渉して、別の道を通っていくことが許可されました。私はもともと北の出身ですので、故郷に行ってみたかったのですがかないませんでした。一緒の会議に出席している北の人とは話してもいいのですが、そのほかの人とはしゃべることもできないような制限された訪問でした。本来なら通るはずのない道を偶然にも通ったことにより、わたしは、見ることがなかったはずの情景を見ました。私の通った町は、悲惨な飢餓に満ち満ちていました。

私は、この訪問を設定してくれた北の方々と別れるとき握手をしながらこう言いました。「これからはあなたたちに対して敵として語るのではなく、同胞として語りたい。出来ることは何かを考えていきたい」と。

北の状況をひとことでいえば、1945年以前日本の統治下にいた時よりももっとひどい状況にあります。私は北に行って来て、北に対して何をどうすればいいのかわからなくなってしまった。帰国してKBSの様々なことがありまして、とうとう声が出なくなり、日本に来て1週間ぐらい入院していました。

北朝鮮は革命といった。資本主義体制のすべてが破戒されなければならないというのが北の出発点です。ソ連軍が入ってきたとき、私は小学校の先生としてソ連軍に会いました。そのとき、ソ連軍の兵士に革命であるから、もっともっと日本軍を憎めと強要されました。北の彼らは、我々と違ったメンタリティーの中で生きてきたのだということをわからなければなりません。拉致、そのほかの事柄の後遺症は考えていません。韓国の人たちは、南北問題を解決するために、様々な問題は大本の南北問題解決の支障になるから黙っているというようになってしまっている。沈黙を強要されている状況があります。なぜならば、対話がしたい。北に行っても自由ではないけれどもさしあたり、交流を継続したい。そうしながら歴史の変化を待つ以外方法がないではないかと考えているからです。

北はどうなるのかということについて私はわかりません。北の金正日政権を民衆の犠牲がなければ、直ちに無くしてしまいたい。これはわたしが北に行って確認したことです。帰国してから、私はわからなくなって、北の問題に対して何も語っておりません。ただ、この問題に対しての韓国政府のあり方について私は不満を持っています。こういう現実を認識しながらそれをどうするかということを持たず、ただ漫然と対話を継続していけばよいという浅はかな態度に関して私は不満です。あらゆる方策を模索していかなければならないと思っています。漠然と南北が対話してうまくいくことではないと考えています。先ほども申し上げましたが、北に行ってから私は、戦後初めて朝鮮の問題に対するものすごい悲観論に陥りました。戦後始めて韓国の政治に対して悲観的に考えるようになりました。楽天的に変えるために、何ができるかというと、アメリカのこともありますので、私がなにを言ってもアメリカがそのようにしてくれるわけでもなく、一種の行き詰まりを感じております。ここで聖書的言葉を挙げて話を締めくくりたいと思います。

私は1945年以降、非常に楽観論を持って生きてきたと思います。韓国の将来に対して希望を持って生きてきたわけですが、年をとったせいか、今は非常に悲観的です。今までの楽観論とは違ってイエスは非常な悲観論を持っていたのではないかと思うようになりました。それはその頃のイスラエルの状況がローマの支配下あり、イスラエルの将来が見えなかったのではないかと思ったからです。悲観論的イエスに自分を同一化しています。ですから、マタイ22章20節以下のこの言葉を思うわけです。「イエスは『これは、誰の肖像と銘か』といわれた。彼らは『「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。』これは、その通りだと思うのです。イエスがここで言われたのはアンガージュマン(関与)ではなくデガージュマン(無関心)の非参加論ですね。しかし、聖書の中にはアンガージュマンを叫ぶ強い言葉が方々にあります。たとえば、マルコの13章の8節には、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう」これをどう解釈するのかということを自分自身の体験からこのように理解するようになりました。聖書は包括的であり、われわれはある時代においては、自分たちの信仰と信仰による人格を立派に守るにはあえてデガージュマンを選ぶ。しかし、そうではないわれわれの働きに可能性が見えるときは、「そうだ、やろう!」というのが聖書ではないかと思います。ですからデガージュマンだけと考えるのも、アンガージュマンだけと考えるのも間違いであるのではないかと思います。聖書はすべてをわれわれに教えている。だから、聖書のみ言葉と状況とをわれわれは主体的に関与しながら、そのときのみ言葉を選ぶのであると思ったのです。

テオドル・アドルノの言葉を思い出します。「なぜに人類は人間的状態に踏み入っていく代わりに新しい野蛮状態に陥っていくのか。人間は石斧を使っていた時代から水素爆弾にいっているにすぎないではないか。さらに悲惨なるものだ。」これは1966年彼が63歳の時の文章ですが、韓国の現代史に対して悲観論的になってどうすべきか模索している私がこの文章を読んで、ドイツの少なくとも批判理論の思想家たちは1945年前後に悲観的であったということに驚きを持つのです。私は日本の植民地下にいて解放されたという希望に燃えていたせいか、かなり長いこと楽観的に未来を考えてきました。ホルクハイマーやアドルノはなぜ、1945年時代、すなわち現代そのものを半野蛮として否定的に見ていたのか、この疑問がわき上がっています。案外私が今韓国と東アジアの状況に対して悲観的に考えるのは、当然そうあるべきだっただけのことではないかという気もしないではないのです。『啓蒙弁証法』というホルクハイマーとアドルノの共著の中でこう語っています。「今日、語りかけることのできる誰かがいるとすれば、それはいわゆる大衆でも無力な個人でもなくて、むしろ架空の証人であり、彼に我々は言い残していく、今の自分たちの信条、自分たちがドイツについて語っていることを。われわれと共にすべてが無に帰してしまわないように。」実に憂鬱な言葉ですけれど、このような言葉を書き残しているのです。北がなしたことを南が耐えなければならない。そのとき革命の狂熱に駆られて、それが通じると思ってやったことではあるが、われわれはそれを南で今日耐えなければならない悲しい状態である。同時に日本も北がなしたことを今問題にせざるを得ない。耐えられない問題として回想せざるを得ない位置に立っている。だからこういう意味において戦後史において革命という狂熱によって起こされた幾多の事件の中に我々は立っているのである。そしてどのようにヒューマニスティックな時代を共につくっていくのかという共同の場に立っているのであると私は申し上げざるを得ないと思います。人間悪というか、根元悪のような気がしてならないのですが、単なる政治家が求めることではなく、今我々が東アジアにおいて本当に求めるべきことは、「人間復帰」ではないかと考えます。人間悪との相克は、政治がなし得ることではなくて、やはりキリスト教的発想の中から我々がアジア的問題を考えていかなくてはならないと思います。その後に人間の救いの問題を考えていかなければならない。それによってなすべきことを信仰によって強められ、そしてお互いのキリスト者のコイノニアによって励まされざるを得ない。世間的問題によってではなく、我々自身の信仰の共同体において求めるべきを求めざるを得ないと思っております。これが最近の私の思うところであります。
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東海林勤先生(1978年4月〜1985年3月までNCC総幹事)の応答

李仁夏先生(1968年4月〜‘69年3月までNCC総幹事代行/1982年4月〜1985年3月までNCC議長)の応答

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